次の日は、『夜の騎士バス』に乗ってホグワーツに帰ることになっていた。護衛はトンクスとリーマスだ。玄関でウィーズリーおじさん、ビルと握手を交わした後、おばさんにはギュッと抱き締められた。
彼らの後ろにシリウスが何か言いたげな顔をして突っ立っている。だが彼女はフンと鼻を鳴らして、彼に何も言わせないままさっさと玄関扉を開けて表に出た。
外は凍るような冬の冷気が籠もっていた。ハリーを最後に、十二番地の扉が背後でバタンと音を立てて閉じた。
振り返ると、両側の建物が横に張り出し、ブラック家の屋敷はその間に押し潰されるようにどんどん縮んで見えなくなっていった。前方に向き直り、リーマスに続いて急いで階段を下りる。
リーマスが右腕を上げると、ど派手な紫色の三階建てバスがどこからともなく一行の前に現れた。ホグワーツからここに来るときに一度乗ったが、できることならもう二度と乗車したくなかった。
は双子、ジニー、リーマスと、そばの空いている座席に腰掛けた。ハリーとハーマイオニー、ロン、トンクスは階段を上がっていく。
双子、ジニーがそれぞれ自分の運賃を、そしてリーマスがふたり分の一ガリオンと五シックルを車掌に手渡すと、バスはぐらぐら危なっかしげに揺れながら再び動き出した。その拍子に床に落とした鳥かごの中で、森ふくろうが喧しく鳴き喚いた。
PAINFUL
激しく揺れる『夜の騎士バス』の中、リーマスは重苦しい顔をして口を開いた。
「、君にニンバスを贈ったのは、わたしの知っている人だった」
「えっ、誰!?」
転ばないようにそばの手すりを握り締めて、訊ねる。フレッドとジョージ、ジニーは初めての『夜の騎士バス』にひどく興奮している様子で、こちらの会話など聞こえないようだ。
リーマスは彼女の肩を抱き寄せ、耳元で何とか聞こえる程度の声量で言った。
「、君におばあさんはいないと言ったね。でも本当はね、おばあさんがひとりいるんだよ」
彼女は顔を上げて目を見開いた。
「リーマス、また嘘ついて……?」
「、これはおばあさんの頼みでもあったんだよ」
あくまで落ち着いた口調でリーマスは続けた。
「おばあさんと言っても血の繋がりがあるわけじゃない。君のお母さんのご両親は彼女が日本にいた頃にすでに他界されている。のおばあさんがダンブルドアの教え子でね、ダンブルドアはをイギリスに連れてきて自分の教え子に面倒を看てもらったんだ。つまり、育ての親というわけだ。の養母は本当に彼女を大切にしていてね。もちろんのこと、を放り出して出て行ったシリウスを憎んでいる」
そこで彼の瞳の色が僅かに翳るのが分かった。
「彼女は、祖母が父親を憎んでいる姿など誰も見たくないだろうからと言って、わたしはいないものとして孫に話してくれと言ったんだ。わたしもそれがいいと思った。、実は君の学費のほとんどは彼女に出してもらっているんだよ。わたしには稼ぎがないからね」
びっくりした。学費を、今まで存在も知らなかった人に払ってもらっていたなんて。どうしてグリンゴッツに、学費を払えてその上ホグズミードで少し買い物が出来る程度のお金があるのかはずっと謎だったが、まさかそんな。
「シリウスが少し落ち着いてからは、彼の貯金からもある程度は出しているんだがそれではじゅうぶんでなくてね。何しろ彼も職を望めるような立場じゃない」
それはそうだろう。脱獄囚に仕事を与えるような奇特な職場があるとは思えない。ファイアボルトを買えるような貯金がどこにあったのか大いに疑問だ。
「でも、孫のことが気になるのは当然だろう。わたしは年に数回は彼女に君の写真や、近況を伝える手紙を送っていたんだ。そして先月には、君がハッフルパフのチェイサーになったことも教えた」
あぁ、まただ、この感じ。わたしが知らないところで知らない人に自分のことが語られている。何とも居心地が悪い。
「わたしに箒を買う余裕がないことは彼女も知っていた。だが選手になったからには箒を買ってやりたいと思ったようで……最初は、わたしからの贈り物ということにしようかとも考えたらしいが、わたしにニンバスなんて買えるはずもないからね。名乗らずに贈ったということだ。だがどうしても君が望むのなら、自分のことを話してもいいと仰った。ブラックさえ現れなければ、『父親を憎む祖母』にならなくて済むと言って……」
そうか。おばあちゃんは、わたしやリーマスのそばにシリウスがいることを知らない。
おばあちゃんがシリウスを憎むのは当然だ。リーマスが思ったように、わたしが感じたように。お母さんを孤独の中で死なせたシリウスを、許せずはずがない。
もしもふたりが顔を合わせれば。おばあちゃんはどうするんだろう。怒るのか、泣くのか、嘲るのか、罵るのか、呪うのか。果ては。
たとえどうあっても。
は顔を上げてリーマスを見据えた。
「リーマス、わたし、おばあちゃんに会いたい」
彼は少しだけ困ったように微笑んだ。
「そう言うだろうと思ったよ」
バーンと音を立ててバスが高速道路を飛び下りた。揺れ動く車内で、は思わず養父にしがみついた。
椅子からずり落ちそうになった身体をゆっくりと起こしながら、リーマスがポツリと呟く。
「夏休みになったら、一緒に会いに行こう」
彼女はロンドンに住んでいるから、と彼は言った。
バスは雪深いホグズミードに入った。
「シリウスのことを話すかどうかは君次第だ。でも、そのことに関しては、よく考えるんだよ?」
リーマスがわずかに目を細めたその直後、『夜の騎士バス』がホグワーツの校門前で停車した。
リーマスとトンクスがバスからみんなの荷物を降ろすのを手伝い、それから別れを告げるために下車した。ふと振り返ると、乗客全員が三階全部の窓に鼻をぺったり押し付けてハリーをジッと見下ろしていた。
「校庭に入ってしまえばもう安全よ」
ひとけのない道に油断なく目を走らせながらトンクスが言った。
「いい新学期をね、みんな。オッケー?」
「身体に気を付けて」
リーマスはみんなと握手し、のところまで来ると、彼女の身体をギュッと抱き締めて耳元で囁いた。
「、ひとつだけ言っておきたいことがある」
「何?」
つられて声を落とし、訊ねる。彼は慎重な声音で続けた。
「セブルスは確かに悪い男ではない。あぁ、それはわたしも保証する。でも、分かっているとは思うが節度のあるお付き合いをしなさい。
君はあくまで彼の生徒だ」
リーマスの背中に回した手がビクッと強張った。だが彼女は何とか明るい笑い声を漏らして呆れた風を装った。
「余計な心配しないでよ。分かってるよ」
彼女の身体を離したリーマスは、その頬をそっと撫で「そうか、それならいいんだ」と言って微かに笑むと、最後にハリーのもとに歩み寄った。
みんなに別れの挨拶をしていたトンクスが、名残惜しそうにのニンバスを見た。
「あー、いいなぁ。せっかくのニンバスなんだからクィディッチではしっかり暴れなさいよ? あーでもってハッフルパフなのよね? 残念だわ、心から応援できない」
「トンクスはどこの寮だったの?」
「わたし? わたしはグリフィンドールよ。わたしも選手、チェイサーだったの」
「そうなんだ!?」
知らなかった。目を丸くするたちに、トンクスは失礼ねと頬を膨らませる。そのときハリーとの会話を終えたリーマスが、帰るよ、とトンクスを呼んだ。
七人はトランクを引きずりながら、つるつる滑る馬車道を城に向かって懸命に歩いた。振り向くと、バスに乗り込もうとしていたリーマスもちょうど振り返ったところで、ふたりはお互いに微笑んで軽く手を振り合った。
扉を閉めた『夜の騎士バス』は瞬く間に通りの向こうに消えていった。
ハッフルパフ塔に戻って真っ先に出会ったハース・ビクスビーは、彼女の手に握られた新品の箒を見て歓喜の悲鳴をあげた。
「おいみんな見ろ! がニンバス二〇〇三を持って帰ってきたぞ!!」
すでに談話室に腰を据えていた寮生たちはざわめきながらの周りに集まったが、ハースの喜びようときたら半径五メートルに近付くのも嫌になるくらい大きかった。
「なんて流れ星でもあれだけのプレーだぞ!? コイツがニンバスを持てばもうグリフィンドールだろうがスリザリンだろうが一網打尽だ!! 、
お前って最高だ!!」
「やめてよハース、恥ずかしいから……」
顔をしかめてハースを押し退け、はよろよろと女子寮への階段を上がった。あまり期待されたら重荷になる。箒が変わっても目覚しい技術向上が伴わなければ身の置き所がなくなりそうだ。
部屋にはすでにケイト、エラ、フランシスが戻ってきていてトランクの整理をしていた。フランシスは相変わらず顔も上げなかった。
「、久し振り! プレゼントありがとう!」
ケイトとエラが笑って声をあげた。こちらこそありがとう、と告げて自分のベッドへ向かう。布団の上に下ろしたニンバスを逸早く発見してふたりはすぐさまこちらに飛んできて、すごいすごいと喚き始めた。
フランシスは黙って明日の授業の準備をしているようだった。
クリスマスにはいつものように彼女にもプレゼントを贈った。大したものではなかったが。それが送り返されてきたのは初めてのことで。
ケイトとエラが箒に触って歓声をあげている横で、空っぽの鳥かごを窓際に置きながら息をつく。
ネビルの顔が脳裏にありありと思い出された。
ヴォルデモートと。死喰い人。
ひょっとしてフランシスの祖父母を殺したのは、わたしの親戚なのかもしれない。寒気がした。
けれどわたしは。このまま彼女と、離れたくない。
フランシスは自分にとって、とても大切な友達で。傷つけたのはわたし。分かっているけれど。
クリスマス休暇が明けて数日後の朝、ベラと朝食を摂っている最中、は教職員テーブルの異変に気が付いた。
彼女はいつものようにスネイプを盗み見ていたのだが、明らかに先生たちの様子がおかしい。
スネイプはいつもと何ら変わりなく静かにナイフとフォークを動かしていたが、ダンブルドアとマクゴナガル先生は深刻な表情で話し込んでいるし、スプラウト先生はケチャップの瓶に『日刊予言者新聞』を立てかけ、食い入るように読んでいる。
一方テーブルの端では、アンブリッジが食べ物を飲み込む度にしかめっ面をして、ときどきテーブルの中央を見てはダンブルドアとマクゴナガル先生が話し込んでいる様子に毒々しい視線を投げかけていた。
その原因はそれから二日後に判明した。十人もの死喰い人がアズカバンから脱獄したのだ。この話は新聞を読みつけているごく少数の生徒からついに学校中に浸透していた。
ホグズミードで脱獄囚数人の姿を目撃したという噂が飛び、『叫びの屋敷』に潜伏しているらしいとか、シリウス・ブラックがかつてやったようにその連中もホグワーツに侵入してくるという話まで流れた。
多くの生徒たちは、アズカバン要塞から死喰い人がなぜ、どのように脱走したのか新聞の記事では満足できないといって、唯一の手がかりになりそうなハリーに好奇心の的を絞っていた。
変わったのは生徒たちの雰囲気ばかりではない。先生も廊下で二、三人と集まり、低い声で切羽詰ったように囁き合い、生徒が近付くのに気付くとふっつりと話をやめるというのが今や見慣れた光景になっていた。
それも先日寮の掲示板に貼り出された、『教師は自分が給与の支払いを受けて教えている科目に厳密に関係すること以外は生徒に対し一切の情報を与えることを禁ず』という教育令何号のせいだった。
死喰い人のアズカバン脱獄のニュースが流れてから、フランシスの態度もあからさまに硬化した。それまでは以外の友人に対して以前と変わらず接していたのだが、祖父母が死喰い人に殺されたという情報が『予言者新聞』に載っていたので、彼女もスーザンと同じように(スーザンはおじ、おば、いとこを集団脱獄した死喰い人のひとりに殺された)好奇心の的にされ始めたのだ。
そしては、とうとう恐れていた事実を知ってしまった。
ハーマイオニーが持っていた、集団脱獄の記事を。頼み込んで見せてもらった。
そこには。櫛も入れず、バラバラに広がった黒髪を長く伸ばした魔女の写真があった。腫れぼったい瞼の下からこちらをジロリと睨んでいる。唇の薄い口元には、人を軽蔑したような尊大な笑いをたたえている。
『
ベラトリクス・レストレンジ フランクならびにアリス・ロングボトムを拷問し、廃人にした罪。および、バーならびにセリア・アップルガースを惨殺した罪。』
新聞を握る手が冗談みたいに震えた。
アイツが殺したんだ。ネビルの両親を拷問したあのブラック家の女が。フランシスの祖父母を殺した。
ベラトリクス・レストレンジ。ベラトリクス・ブラック。この女が。
そして自分の中には。コイツと同じ血がかよっている。
背筋が凍りついた。わたしはこの女と、近からず遠からず同じ血を分けているんだ。
殺してやりたい。生まれて初めて殺意というものを抱いた。そしてわたしの血は、汚れている。
一足早く向かった必要の部屋で、はぐしゃぐしゃに握り潰した『予言者新聞』を床に放り出した。
「!」
ハーマイオニーが震える肩に手を添えてくれた。ハリーとロンも黙ってこちらを見つめている。
「! あなたはレストレンジとは関係ないわ、シリウスだってこの女の従兄弟だなんて気にしてないもの!」
「でもこの女はブラック家の一員で、わたしだって本来ならブラックって名乗ってる血だった! この女がわたしの友達のおじいちゃんとおばあちゃんを殺した、コイツが殺したのよ!」
「! 関係ないわ、血なんて全然関係ないわよ!」
ハーマイオニーが声を荒げたとき、ちょうどアンジェリーナとケイティ、アリシアが入ってきたのでたちは口を噤んだ。
そして新しい学期が始まって、最初の週末。
は意を決して大切な友人のもとへと歩き出した。