どうしよう、と頭を抱える。彼女は退屈なことこの上ない『魔法史』の授業中に、ピンズ先生の催眠術を右から左へと聞き流しながら、ポケットから取り出した金色のコインを見つめた。
縁に彫ってある数字は、今日の午後八時を示している。クリスマス休暇前の、最後のDA集会の日取りだ。だがまったく同じ時間に、彼女には別の予定があった。

その朝の授業で、絶対に成功したと思った魔法薬からほんの一瞬目を離した間に、どういうわけかきれいな赤紫だった液体が黄土色に変わっており、スネイプに補習を言い渡されたのだ。しかもよりによってスリザリンとの合同授業で。
DA集会はできれば休みたくないし、かといってスネイプの補習をサボれるはずもない。
それに。

(もうあの研究室なんか行きたくない……)

授業中に顔を合わせるのは仕方ないと言え、もうあんな狭い空間でスネイプと一対一だなんて考えられない。拷問だ。どんなにひどい生徒にだって補習なんて一度もやったことなかったじゃないか!
それとも、とうとう『憂い』に異常が出たのだろうか。いっそこのまま頭がおかしくなってしまえばいいとまで彼女は思った。

肩を落としながら、夕食時にハリーたちのもとへ今夜の補習の件を伝えに行くと、ロンが素っ頓狂な声をあげた。

スネイプとマンツーマンで補習!? 僕なら後でどれだけ書き取り罰則を食らったって逃げるよ!」
「ロン、声が大きいわよ」

教職員テーブルをちらりと見てハーマイオニーがたしなめた。
ハリーは小声で言った。

「分かった。どうせ今日は復習だけだからならきっと来なくても大丈夫だと思うよ。補習頑張って」
「ありがとう」

力なく笑って顔を上げると、上座のテーブルが視界に入った。静かに、ただ黙々と食事を口に運んでいるスネイプをちらりと見やり、は小さく息をつく。

知らず知らずのうちに彼女はまた、リップクリームを塗ったばかりの唇をそっと指先でなぞった。

PHANTOM

「入りたまえ」

彼の低い声を聞いてから、彼女はゆっくりと研究室の扉を押しやった。彼は前回と違い、彼女に背を向ける形でデスクのこちら側に立っていた。
その手元からは、仄かな銀色の光が漏れている。
ゆっくりと振り向いたスネイプは、こちらに来たまえと言って懐から徐に杖を取り出してみせた。デスクには優しく輝く『憂いの篩』が置かれている。
恐る恐るスネイプのもとへと近付くと、彼は冷ややかな眼差しで少しだけ首を傾けた。彼に見つめられているというだけで、心臓は落ち着かないくらい激しく揺れ動いた。

「お望み通り、君の『憂い』を返そう」

は目を丸くした。こんなにあっさりとそんなことを言われるとは思っていなかった。だって前は、根拠を示せと。
だがスネイプは口を開き、勘違いするなと言った。

「君を信用してのことではない。近頃『憂い』が少しざわついているようなのでな。休暇中に取り返しのつかないことになっても我輩にはどうすることもできん。故に君の中に戻す、それだけのことだ」

彼女は少なからず肩を落とした。そうだ、スネイプがわたしを信用してくれるはずがない。そんなことは、分かり切っている。
これで良かったんだ。わたしは元通り、そしてもう二度とこの部屋に来ることもない。
忘れるしかないんだ、この気持ちは。想っていたって、仕方ないもの。苦しいだけ。忘れるんだ。もうそれしか、ない。

「もう少しこちらに近付きたまえ」

身じろぎしては俯き、少しずつスネイプに近付いていった。ローブを介して触れ合いそうになるくらいまで近寄ると、ようやくスネイプは杖先を水盆の中に沈ませた。
彼がゆっくりと水面から杖を抜くと、そこに銀色の糸状になった『憂い』が絡み付いていた。ビクッと身を強張らせる。
自分が望んだことなのに。怖い。
自分の感情をひどく揺さぶっていた『憂い』がわたしの中に戻ってくる。怖い。これが本来わたしのあるべき姿だ、それなのに。もしもスネイプの言う通り、この糸がわたしに返された途端、自分が抑えられなくなったら。彼の言い分が正しかったのだとすれば。

「怖いのかね?」

震える彼女を見て、スネイプは静かに言った。驚いて顔を上げるが、彼は色のない目をしていた。嘲りも侮蔑も何も、ない。
はがむしゃらに首を横に振った。

「誰しも憂いを抱えて生きている。君だけが特別なのではない」

彼の顔を見返そうとしたとき、その杖先が彼女のこめかみに触れた。脳裏にフランシスの顔がパッと閃く。彼女はギュッと固く目を閉じて、無意識のうちにその場にうずくまった。

「立ちたまえ」

は目尻にうっすらと涙を浮かべながら、よろよろと立ち上がった。ごめんね、フランシー。わたしはあなたを、どうしようもないくらい傷つけた。
スネイプは水盆から慎重に二つ目の『憂い』を取り出し、俯く彼女の頭へ戻した。瞬時にシリウス・ブラックの顔が脳裏を過ぎる。お母さんを裏切って    わたしとも向き合おうとしない。
溢れ出そうになった涙を抑えようと、は目頭に右手を添えて下唇を噛んだ。
泣いちゃいけない。スネイプの言ったことが正しかったと、証明しちゃいけないんだ。

(本当に好きな人ができたなら、その人に、ぶつかるべきだわ)

ハーマイオニーが背中を押してくれたんだ。わたしは、スネイプのことが好き。スネイプを好きになれたことでたくさんの憂いを乗り越えられたんだって、見せ付けてやらないと。
そばにいて欲しいとか、好きでいて欲しいとか、そんなこと望んじゃいない。ただ、わたしの気持ちを認めてもらいたくて。
だからここで、涙を流してはいけない。

スネイプが最後の『憂い』を水面から掬い上げる。銀色にキラキラ輝くその物質は、彼の杖先についたままどんどん彼女の方に近付いてくる。
セドを失ったことへの、あの『憂い』。
セド、あなたはわたしにとって、とても。

彼女は固く目を閉じた。そして、こめかみに軽い衝撃が走る。
瞼の裏側に、彼の死に顔がパッと閃いた。全身が震えたが、彼女は両手を握り何とか落ち着こうと深呼吸した。
ゆっくりと目を開けると、スネイプはただ冷たい瞳でこちらを見下ろしていた。すると彼はふっと彼女から視線を外し、空になった水盆をデスクの後ろの棚に仕舞い込んだ。

「それで?」

彼女に背を向けたまま、スネイプはポツリと言った。え、と間の抜けた声をあげる。

「それで……って?」

何を問われているのか分からない。戸惑いを隠せずに眉根を寄せる。彼はくるりとこちらを向き、デスクを挟んで少しだけ身を乗り出してきた。

「君は先日何か、我輩に言っていなかったかね?」

どきりとする。先日、とは間違いなく彼女が告白したあの日のことだろう。だがそれでも、彼がどの言葉のことを訊いているのか見当がつかない。

「……な、なんのことか、分かりません……」

俯き加減に、しどろもどろにそれだけを口にする。ほう、と彼は面白がるように少しだけ声の調子を上げた。

「自分の言葉を覚えていないということですかな。君は他の寮生に比べれば少しは記憶力がいいものと思っていたが、我輩の思い過ごしだったようだ」

どうしてこんな。優しい言葉のひとつもかけられないような、こんな人を好きになってしまったんだろう。こんな、意地悪ばかりの、こんな。
それでも好きになってしまうなんて、恋愛って本当にわけが分からない。
スネイプは大袈裟に息をついてみせた。

「確か君は先日ここにやって来た際、『憂い』を返して欲しい、あの『憂い』を全て自分の中に戻して、その上で何かを確認したいと、そのようなことを言っていたように思うが」

は顔を上げて、正面のスネイプを見つめた。今、彼の瞳は少しだけ挑戦的な笑みを浮かべている。ここで負けたら、わたしはきっと一生。

「はい」

彼女ははっきりと言い切った。スネイプの目が若干細められる。

「わたし、スネイプ先生が好きです」

彼はすぐさま彼女から視線を外してまたため息をつき、傍らの椅子にどさりと腰を落とした。

「まだそのようなことを言っているのかね」
「先生、ひとつだけ、ひとつだけお願いがあります」

デスクに両手をついて必死の思いで懇願する。彼は怪訝そうな顔で物憂げにこめかみを掻いた。

「迷惑だって、分かってます。先生がわたしのこと嫌ってるのも知ってます。でも、でもお願いです。わたしは……本気なんです。だから……冗談だとか、本物じゃないとか……そんな風に思うのは、それだけは止めていただけませんか?」

彼は顔色ひとつ変えずに、だが今までよりはまっすぐにこちらの瞳を見返していた。

セドリックに恋していたことで、ひとつだけとても悔いていることがある。それはこの気持ちを、本人に伝えられなかったことだ。同じ過ちを繰り返したくない、ただそれだけ。
ただわたしの気持ちを、知ってほしい。本気だということを知ってほしい。見せかけのキスが欲しいわけじゃない。

スネイプはデスクの上で軽く腕を組み、そこに重心を傾けながらゆっくりと口を開いた。

「本気とは、どういうことかね?」
「え?」

彼女は目を見開き、僅かに唇を開いて固まってしまった。そんなもの、この気持ちだけで十分じゃないか。そんなの、説明するようなものじゃない。
スネイプは椅子の背もたれに体重をかけながら腕を組み直した。

「百歩譲って、君が我輩に好意を抱いているとしよう。だが、本気とは一体何かね? 君がディゴリーを見て浮かれ喚くような感情のことだと考えているのなら    

その瞬間、は握り締めた拳をデスクに思い切り叩きつけた。彼は少しだけ目を見開き、そこでピタリと言葉を切った。
彼女は自分の行動に驚いたが、今はそれどころではなかった。スネイプ自身への感情を冗談だと受け取られるのもつらいが、セドリックへの気持ちをアイドルへの憧れのようなものだと思われるほど屈辱的なことはない。だって彼は、わたしが生まれて初めて好きになった相手だ。
彼への気持ちが恋でないのなら、わたしは一生男性を好きになることなんて有り得ないだろう。

「馬鹿にしないでください」

彼女は震える声で呟いた。こんなに腹立たしい気持ちになったのは久しぶりだ。

「わたし、本気って言うのがどんな気持ちなのか、言葉じゃうまく説明できません。でもこの自分の気持ちだけで十分です、わたしはセドのこと本気で好きだったし、今はあなたのことが本当に好きなんです。先生は    

は少し躊躇ったが、頭の中に浮かんだ言葉を続けて口にした。

    先生は、人を好きになったことが……ないんですか?」

スネイプの黒い瞳が、確かに大きく見開かれた。まずいことを言ってしまったのかもしれない。急に冷静さを取り戻したは慌てて瞼を伏せた。

「……す、すみませ……」
「それでは」

彼女の言葉に覆い被せるようにしてスネイプが徐に口を開いた。顔を上げ、目を丸くする。
彼はゆっくりと立ち上がり、デスクに左手をついてこちらに身を乗り出した。そしてその右手を、あの日と同じように彼女の顎に伸ばす。微かに顎の下を撫でられただけで、はピクリと身を強張らせた。奇妙な興奮が背筋を走る。

「君が教えてくれるとでも言うのかね? その、本気とやらを?」

彼女は信じられない思いでスネイプの黒い瞳を見つめ返した。冗談を言っているようには見えない。
彼は彼女の顎から、頬、耳、首筋、そして最後には唇をその指先でそっと撫でていった。あまりのことに、身動きがとれない。彼女はただ視線だけを動かして自分の肌の上を滑るように移動するスネイプの手を見つめていた。

「君が我輩にその本気とやらを教えてくれると言うのなら、ご教授願おうか?」

……何を、言っているのだろう。
思考が、追いつかない。彼に触れられているところが次第に熱を帯びてくる。頭がのぼせ上がった。
ただ、スネイプの手が好き勝手に顔中を這い回り、そこからあの、彼に独特のにおいが広がっていって。

あぁ、まただ。

スネイプの瞼が、すぐ目の前に見える    
地上へと上がる階段を一歩一歩、重々しく踏みながら、彼女はぼんやりした頭で先ほど自分の身に起こったことを思い返そうとした。
でもそれは、微かな残像しか浮かばなくて。
ただとても、身体中が熱かった。部屋は蝋燭の灯りだけで薄暗く、そして    

途端に、自分が何をしたのか理解して、はよろめき傍らの壁に頭を強打した。悲鳴をあげ、頭を抱えてその場にうずくまる。
呆然として視線を上げると、彼女は赤いのか青いのか判別しがたい顔でうめいた。

「……あぁ……わたし、何やって……」

完全に、意識も理性も何もかもが飛んでいたように思う。いや、思い出せるのだから意識は何とか保っていただろうが。
し、信じられない……。
わたし自身も、そしてもちろん、スネイプも。

まっすぐハッフルパフ塔に戻る気にもならず、彼女はふらふらと適当に、ひとけのない廊下に座り込んで膝を抱えた。腰がひどく痛む。数分経った頃、太った修道士が現れてご丁寧にも「まもなくこの辺りをミセス・ノリスが通りますよ。早く寮にお戻りなさいな」と伝えてくれたので、は重い腰を上げて、のらくらと寮への階段を上がった。
ようやく聖女の前までたどり着くと、肖像画は目をパチクリさせた。

「もう就寝時間過ぎてるわよ、どうしたの?」
「あ、いや……ちょっと、その、補習があって……」

その口実で寮を出たのだ。不自然ではないはず。
だが聖女は胡散くさそうな顔をして、本当に?と眉をひそめた。

「それにしては随分と息があがっているようだけど?」

どきりとする。ごまかすようには無駄に元気よく「ポーション・バレステロス!」と叫んだ。まだ怪しげな目をしていた聖女だったが、はいはいと言って扉を開けてくれた。
談話室に戻ると、DA集会から先に帰ってきていたアレフが、ソファに座り込んだまま怪訝そうな顔でこちらを見上げてきた。

、お前『魔法薬学』の補習なんじゃなかったのか? 就寝時間過ぎるなんて何やってたんだよ」

彼女は狼狽しているのを何とか隠そうと満面の笑みで口を開いた。口元が引きつってしまっていることには自分で気付いていた。

「あー、補習がね、すごく長引いちゃて……何度やっても太らせ薬が赤紫にならなくて、スネイプもお冠だよ、あは、は……」

こんなこと、笑ってするような話じゃない。
アレフは明らかに不審に思ったようだった。身体ごとこちらに顔を向け、声を落として訊いてくる。

「スネイプに何か嫌がらせでもされたのか?」

は途端に真っ赤になって勢いよくかぶりを振った。

「ち、違うよ! そんなんじゃない!」
「……おい、、おまえ少しおかし    
「いや、ちっとも、うん、ちっともおかしくなんてないよ、うん、そう言うアレフがおかしいんじゃないの? あははは!」

乾いた笑い声をあげ、は逃げるように談話室を飛び出した。女子寮への階段を駆け上がっているとき後ろからアレフに名前を叫ばれたが、無視する。寝室にはルームメートが揃っていて、ケイトとエラはいつものようにおかえりと微笑んだ。

、遅かったのね。補習、大丈夫だった?」
「うん、時間はかかっちゃったけどね。あはははは」

相変わらず不自然な笑いしか出てこない。『憂い』を頭の中に戻したことでフランシスに対する申し訳ない気持ちが胸を過ぎったが、今はとてもそれどころではなかった。トランクからバタバタと着替えとタオルを取り出し、あっという間に部屋を飛び出して女子寮の簡易シャワー室へと向かう。
個室であたふたと制服を脱いだは、熱いシャワーをかけてそっと自分の肌に触れた。ビクッと身体が強張る。わたしの、記憶違いなんかじゃなかったんだ    
自分を映し出す目の前の鏡が湯気に包まれ白くなっていくのを眺め、彼女は頭から湯を浴び続けながらその場に立ち尽くした。

間違いない。

わたしは、セブルス・スネイプと、教師と生徒の境界線を越えてしまったのだ。
(06.01.30)