この薄暗い屋敷の中に閉じ込められて、もう半年になろうとしている。あの忌々しい牢獄に放り込まれていたときよりも、苛立たしさともどかしさでいっぱいだった。
鎖で繋がれているわけでも、檻の中に入れられているわけでもない。それなのに、この暗く湿った屋敷から外には出るなと。
自分には手も足も、そして感じる心もあるというのに。
何度もここを飛び出してやろうかと考えた。だがその度に、駅のホームで吐き捨てるように告げられたあの言葉が胸に突き刺さる。
「あなたって、どこまで身勝手なの」
まっすぐにこの瞳を見据えて放たれた、娘の言葉が。
「あなたってほんとに勝手よ。後先なんて何にも考えずに感情だけで動くのね。それで周りがどれだけ迷惑被ったって学習しないんでしょう? もしバレたらどうしようとか考えなかったわけ? あなたがそんなんだからお母さんは
」
何度も何度も、考えた。もしもあの夜、あの家を飛び出さなければ。彼女は孤独の中でひとり、死なずに済んだのだろうか。
「
シリウス!!」
夜空に飛び立つ俺の背に浴びせられたのは、彼女の悲痛な叫び声。だが、ジェームズのことを、リリーのことを。そしてハリーのことを思うと、家でジッとしてなどいられなかった。
「あなたって、どこまで身勝手なの」
「自分の頭で考えろ、『ルースター』」
ふたつの顔と、声とが重なり合い。そのふたりの瞳が、表情が、あまりにも似ていたから。
彼が目尻ににじむ涙を拳で拭ったそのとき、部屋の扉が軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
「シリウス。少し、いいかい?」
BEWILDEREDLY
『魔法薬学』の教科書と羊皮紙、羽根ペンとインクとを抱えたは、動きを止めた階段を駆け足で下りながら深呼吸を繰り返した。心臓がドキドキと脈打っているのはきっと、塔を飛び出しずっと走ってきたから
だけでは、なくて。
玄関ホールを横切り地下へと繋がる階段の前に立った彼女は、そこでピタリと足を止め、改めて深く、長く息を吸って、吐き出した。落ち着け、落ち着くんだ。わたしは『魔法薬学』の質問に行くだけなのだから。
(今日の縮み薬で使用した雛菊の根の効用に関して、もう少し詳しく知りたいのですが
)
幾度となく練習したその下りを、もう一度、声には出さずに繰り返す。うんとひとりで頷いて、は地下牢研究室への冷たい階段を、一歩一歩確かめるように下りていった。
扉の前で立ち止まり、彼女は乾いた喉にごくりと唾を飲み込んだ。心臓が喧しいくらいに鳴り響いている。この音は果たして、自分にしか聞こえていないのだろうか。
震える拳で研究室のドアを二度叩くと、程なくして中から低い声が聞こえてきた。
「誰かね」
開きかけた口を一旦閉じ、唇を舐めてから、は「ルーピンです。少し……質問があって、来ました」と答えた。
「入りたまえ」
……どうしよう。今になって逃げ出したくなってきた。全身に、恐怖や嫌悪とはまったく異なる震えが走る。彼女は躊躇いがちに触れた重いドアノブを、ゆっくり奥へと押しやった。
中は以前と同じように、暖炉の炎だけが照らし出す薄暗い空間だった。デスクに着いたスネイプは、手元の書類のようなものに視線を落としたままだ。が部屋に入りそっと扉を閉めると、研究室はより一層湿っぽさを増したかのようだった。
入り口で立ち尽くす彼女に、スネイプは顔も上げずに冷たく言い放った。
「用があるのならすぐに済ませたまえ。我輩はどこかの誰かとは違って際限なく暇というわけではない」
はポカンと口を開けたが、それが誰のことなのかを悟ってばつの悪さに目を伏せた。
デスクの前まで歩み出て、教科書を抱えたまま恐る恐る声をあげる。
「……あの。二月前にあの篩に落とした『憂い』を、返してもらいに、来ました」
スネイプは羊皮紙に走らせていた羽根ペンをぴたりと止め、視線だけを上に上げた。その黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。どくん、と心臓が高鳴る。背筋に異常なほどの緊張が走った。
彼は羽根ペンを置き、羊皮紙を二つに畳むと、音も立てずに立ち上がった。そしてデスクの縁を回り、彼女の傍らまで滑るように移動してきた。
厳しい顔をしたスネイプが、わずかに腰を折ってこちらの目を覗き込む。あまりにもストレートに。一瞬で身体中が熱くなった。
部屋が薄暗くて、良かった。こんな顔、スネイプには絶対に見られたくない。
「癇癪を抑えられるようになったと、そういうことかね?」
「はい」
は彼を見返してはっきりと答えた。
「もう大丈夫です。だから、あの『憂い』を返して下さい」
スネイプは目を細め、口角を少しだけ上げてほくそ笑んだ。
「根拠をお聞かせ願おうか? 確かに近頃は以前のような噂を聞かなくなったが、あの『憂い』を返した途端に暴れられては敵わんのでな」
は眉根を寄せて腕の中の教科書をギュッと握り締めた。根拠……そんなものは、ただ。
顔を上げた彼女は、相手の黒い瞳を見つめながら叫んだ。
「お願いします、あの『憂い』を返して下さい! もう感情に任せて
あの人の前で怒鳴ったりはしません、誓いますから、だから『憂い』を返して下さい!」
声を荒げる彼女を見てスネイプは鼻を鳴らしたが、それでも。
どうしてこんな人を好きになってしまったのか。悔しい。とてつもなく悔しい。けれど。もう。どうしようもなくて。
「あの篩に落とした『憂い』もすべて自分の中に戻して……その上で確認したいんです。自分の、本当の気持ちを」
スネイプは口元から笑みを消し、糸のように細めた目で冷ややかに彼女を見下ろした。
「本当の気持ち?」
「わたし、今ならあの憂いも全部受け入れられると思うんです。だって……好きに、なった、から……」
スネイプが眉をひそめる。
は今にも逃げ出したい衝動を抑え込み、それでもまっすぐに相手の目を見つめた。
わたしが好きなのは。
「わたし……先生のこと、好きになったから……先生を好きになれたことで、たくさんのことを乗り越えられた気がしたんです! それを自分で確かめたいんです、だから……お願いです! あの『憂い』を全部わたしに返して下さい!」
彼はしばらくの間、ただ黙って彼女を見返していた。その瞳の色からは侮蔑も驚愕も嘲りも
わたしには何も、読み取ることができない。
どうしようもないくらいに
身体が、身体中が、悲鳴をあげている。愛の告白に比べれば、クィディッチの試合なんてどれほど容易いものなんだろうと彼女は思った。
ようやく口を開いたスネイプは、顔色ひとつ変えず、吐き捨てるように言い放った。
「下らん」
声をあげる間もなく、彼はこちらから視線を外し、大げさに溜め息をつく。
「そのような下らない冗談は相手を選んで口にしたまえ。いいかね、君が不可解なことを言っている間はあの『憂い』は返さん」
「じょ、冗談なんかじゃ……」
こんなものなのか。
あれだけの覚悟を決めた告白を。つまらない冗談と受け取られ。
スネイプはくるりと踵を返してデスクの縁を回り、先ほどまで座っていた椅子にまた腰掛けた。
どうして。
答えて欲しいなんて言わない。端から期待なんてしていない
と言えば、やはり嘘になるかもしれないが、立場は弁えているつもりだ。自分は生徒だし、彼は教師。
ただこの気持ちを冗談と取られることだけはどうしても耐えられなかった。
「出て行きたまえ。我輩は君の冗談に付き合っているほど暇ではない」
彼はさらりとそう言って、デスクの上の羊皮紙を開く。たまらなくなってはデスクの縁を回り、スネイプの真横に立った。彼は羽根ペンを手に取りしばし何か考え込んだようだったが、再びそれを羊皮紙の上で動かし始めた。
特別なインクなのか彼が書き付けてもそこには文字が浮かび上がらなかった。だがそんなことは、どうだっていい。
「先生! わたし、本気です……わたし、先生が好きなんです! お願いします……目を見て、わたしの話を聞いて下さい!」
スネイプは何も聞こえないかのように、完全に彼女を無視した。だめだ、耐えられない。
教材を掴んだままの両手で彼の肩を掴み、こちらに身体を向けさせると、スネイプは顔をしかめ、忌々しげにを睨み付けた。
あの夜、彼がブラックに向けていたものと、とてもよく似たその黒い瞳。
そのときはハッとして動きを止めた。
そうだ……わたしはこの人にとって、憎き敵……しかも、ふたりの……娘、なんだ。
彼は、リーマスを。そしてブラックを。心から憎んでいる。
わたしは、そんなふたりの娘なんだ
。
……迷惑に、決まってるじゃないか。
わたしは、何でそんな大切なことを忘れていたんだろう。
は急いでスネイプから手を離した。視線を泳がせながら、しどろもどろに呟く。
「……ごめんなさい」
何で
なんで、こんなことに。
だが次の瞬間には、目の前から伸びてきた手が後頭部に回されてはグイッと前面に引き寄せられた。
そして。眼前に迫るスネイプの瞳。それが今や、瞼に覆い隠されている。
以前に何度か嗅いだことのある、独特の薬品のようなにおい。
唇には
今までに一度も感じたことのない、重み。
全身に、ゾクッと奇妙な興奮が駆け巡った。
唇を割ってスネイプの舌が入り込んできたとき、はギョッとして思わず固く目を閉じた。
頭の後ろに回された手が外されると同時、唇の重みもフッと消え去る。ぼんやりした頭で目を開けると、スネイプはすでにデスクに向き直り、羊皮紙を覗き込むようにして見ていた。彼の表情は、頬にかかった黒髪に隠れて窺えない。
信じられない気持ちで恐る恐る自分の唇に触れると、そこはまだ湿っていた。改めて驚き、真っ赤になって俯く。スネイプとキスなんて、一体この世の誰に想像できよう?
「……あの、先生……?」
だがスネイプは、顔も上げずに冷たく言い放った。
「『憂い』は返さん。帰りたまえ」
何も、言わないつもりなんだろうか。ただの、一言も。
でもそれを非難できるような立場では、ない。
開こうとした口を諦めて閉じ、は胸元の教科書を抱き直して研究室の扉へと向かった。
ドアノブに手を掛けて振り返るが、彼は黙って羽根ペンを動かしている。寂しさと共に瞼を伏せ、は静かに地下牢研究室を出て行った。
ハッフルパフ塔への階段を上がりながら、確かめるように何度も唇を撫でる。そこには今でもずっと、彼の唇の感触が残っていて。それは少しざらついていたけれども、温かく。
舌を入れられたときには、さすがに気が動転してしまったが
同時に、快感を覚えてしまったことも否めない。思い出しただけで顔から火が出そうになるのを何とか抑え、は肖像画の聖女の前までたどり着いた。
「あら、どうしたの? もしかしてファーストキス? おめでとう」
好奇心に満ち溢れた目で訊ねてきた聖女に、は素っ頓狂な声をあげた。周囲を見回して誰もいないことを確認してから、慌てて小声でまくし立てる。
「な、な、何で分かるの!?」
「あら、やっぱりそうなの? だってあなた、さっきからずっと唇ばっかり気にして、顔真っ赤だから、一目瞭然」
「わ! わ! 恥ずかしいからそれ以上言わないで!!」
どうしよう、帰りに何人かとすれ違ったのだが、そんなに分かりやすかったかな。本当にもう、どうしよう。恥ずかしくて死にたい。もう一度、地下牢研究室の前の階段からやり直したいくらいだった。
合言葉を告げて談話室へと上がったは、唇には触れないよう意識して、まっすぐ寝室へと戻った。幸い部屋には誰もおらず、ベッドに飛び込んで周りのカーテンを引く。教科書や羊皮紙を頭の上に放り投げ、彼女は顔面を両手で覆った。
何を思って、キスなんてしたんだろう。
ああでもしなければ、わたしがおとなしく帰らないとでも思ったんだろうか。でも、仮にそうだとしても。
有り得ない。分かっている。わたしはリーマス・ルーピンの、そして、そう
あの、シリウス・ブラックの娘なんだ。
彼があのふたりや、ハリーのお父さんを学生時代から憎んでいるのは知っている。
敵の娘なんて、たとえお遊びでも御免だろう。傷つけて捨ててやろうと言うのなら話は別だが。
いや、話が飛躍しすぎだ。
は軽く頭を振ったが、それでも無意識のうちに唇に触れてしまう自分に気が付いた。
「あーもう……いやだ」
どうすればいいのか分からない。もう『憂い』を返してくれなどと言っても二度と研究室には行けそうもない。もしもこのままあの『憂い』を篩に入れっ放しにしたら、どうなるんだろう。精神に異常が出たりするんだろうか。
『憂い』に変化が現れたら彼からお呼びがかかるはずではあるが。だがスネイプなら、わたしをおかしくさせようとして異常が出た『憂い』をわざと放置しておくかもしれない。そんなことをふと考える。
何で、そんなこと。彼は『不死鳥の騎士団』の一員なのに。『騎士団』の秘密を守るために、わたしの癇癪を抑えようとまでする律儀な人間なのに。
わけが、分からない。
好きなのに。好きだと伝えたのに。いきなりキスされて、それ以外は何もなく。好きだとも嫌いだとも、何ひとつ教えてくれなかった。
ただ一言、我輩は君が嫌いだと、ただそれだけ言ってくれたら。諦める努力も、できるかもしれない。けれど。
こんな宙ぶらりんの状態では。
もう、彼のあの匂いを忘れることはできない。
わたしはあなたが好きで。
あなたはなんと思っているのですか。
わたしの唇を奪った今もまだ、下らない冗談だと感じているのですか。
「いつ、戻ってきたんだ」
「ついさっきだよ」
厨房から出してきたバタービールの瓶を開けながら、リーマスは静かに言った。
「また今夜には出なければいけないんだけどね」
「それは、ご苦労なこったな」
素っ気無く告げるシリウスを見て、彼はわずかに目を細めた。
「つらいのは分かるよ。君の性格だもの、こんなところにずっと缶詰では」
「分かりゃしねえよ。俺は騎士団のためにどうせ何もできやしない。俺にできることといえば精々この屋敷の
」
「シリウス」
先ほどと比べ、少し強い口調でリーマスは相手の名を呼んだ。シリウスが次の言葉を飲み込んで口を閉じる。
リーマスは静かに続けた。
「あまりわたしたちに当たらないでくれないか。ここには休憩を取りに戻ってきているんだ」
するとシリウスはテーブルに拳を叩きつけて立ち上がった。その目は苛立たしげに細められている。
「それじゃあわざわざ俺を呼んでくることなんかねえだろ。勝手にひとりで休んで勝手にひとりで出て行けばいい」
「
シリウス」
厨房の出入り口に向けて大股で歩き出したシリウスの背に、リーマスは落ち着いた声音で、しかし強く呼びかけた。
「またしばらく戻ってこられないと思うから
君に、話しておきたいことがあるんだよ。シリウス、座ってくれないか」
彼は振り返り黙ってこちらを睨み付けていたが、やがて観念したように、苛立ちながらもテーブルに戻り、リーマスの向かいに腰掛けた。
バタービールで喉を潤してから、ゆっくりと口を開く。
「のことなんだけどね」
シリウスの眉がピクリと上下した。
「君は彼女とこの先どうしたいんだい?」
彼は俯いたまましばらく考え込んでいたようだったが、ようやく力ない声で呟いた。
「……分からない」
リーマスは隠しもせずに大きく息をついた。
「戸惑うのも分かる。は君がアズカバンに入ったあと生まれた子だ。ほんの二年前まで存在すら知らなかったんだ、いきなりのことで戸惑うのは仕方ない、でも」
そこで彼は語気を強めた。
「でもね、シリウス、あれからもう二年も経つんだ。いい加減にと向き合ってみるべきじゃないか?」
「……だが」
シリウスは苦しげに顔をしかめ、それきり黙り込んでしまった。ああ、どうして彼は、いつも。昔から。
リーマスは力強く握り締めた瓶を放し、その手をそっとこめかみに運んでまた吐息を漏らした。俯いたままのシリウスを眺め、呟く。
「君はそうやって、いつも肝心なところでは逃げ出すんだ」
彼の身体が一瞬のうちに固まるのが分かった。構わず続ける。
「君は肝心なことになるとジェームズがいないと何もできないんだ」
「
何だって!?」
途端に彼は椅子を蹴散らして立ち上がった。そのグレイの瞳は壮絶な色を灯しているが、リーマスは身じろぎひとつしなかった。テーブルの上で組んだ腕に重心を傾けながら、冷たく言い放つ。
「否定するのかい? 君に否定できるのかい? の時だってそうだったじゃないか」
シリウスの顔に、初めて戸惑いと恐怖に似た表情が浮かんだ。
「ジェームズに聞いたよ。あのときだって彼が動かなければ君は何もしなかっただろう、違うかい?
シリウス、
頼むから座ってくれないか」
下唇を噛み締めたシリウスは、倒した椅子を起こしてまたそこに腰を下ろした。
「君はと向き合うべきだ。これは君だけの問題じゃない。君の問題であり、わたしの問題であり、そしての問題でもあるんだ。シリウス、君だけじゃない。だって戸惑っているんだよ」
シリウスがテーブルを見つめたまま目を見開く。
「向き合う勇気がないのなら、の前に姿を現すべきじゃなかったんだ」
パッと顔を上げて非難めいた目をしたシリウスに覆い被せるようにリーマスは続けた。
「知らなかったなんて言い訳にはならない。事実、は君を知ってしまったし、君はを知ってしまった」
シリウスはまた瞼を伏せて唇を引き結んだ。
リーマスはそこでようやく身を乗り出して、向かいのシリウスの腕を掴んだ。シリウスが驚いた顔で顔を上げる。
「頼むからあの子と向き合ってくれ、シリウス。わたしはこのままあの子を放ってはおけない。かといって、わたしひとりの力でどうなることでもないんだ……これはわたしたち三人の問題なんだよ、シリウス」
彼の灰色の瞳はただまっすぐにこちらの目を見つめている。そこに今まで窺えなかった色が浮かんでいるのを見て取り、リーマスは小さく頷いてみせた。