「、聞いたぜ、お前チェイサーになったんだってな?」
「おいおい勘弁してくれよ。お前を箒から叩き落さなきゃなんねーと思うと気が重いぜ」
朝食の席でグリフィンドールテーブルからやって来たウィーズリーの双子が両脇からこちらを覗き込んできて大袈裟にため息をついても、今の彼女にはまったく聞こえてはいなかった。
「?」
「おーい、?」
目の前で大きな手のひらを上下に振られて、ようやく我に返る。
「……フレッド、ジョージ? 何してるの?」
目を瞬かせながら傍らの双子を交互に見やると、フレッドとジョージは顔を見合わせて肩をすくめてみせた。
「何してるの、じゃねえよ。朝から何ボーっとしてるんだ?」
「え、何? わたし、ボーっとしてた?」
「気付いてもいねーのかよ」
呆れ顔で息をつくフレッド。耳元に顔を近づけてきたジョージがからかうような口調で訊いてきた。
「何か悩みでもあるのか? まさか、
恋煩いでも?」
は口にしたばかりのコーンスープをテーブルの上に噴き出した。幸い、近くには誰も座っていなかったので、害を被った生徒はいなかったけれど。
「、汚ねえ!」
顔をしかめた双子が喚き散らす。辺りの寮生たちも嫌そうな顔をしてこちらを遠巻きに眺めていた。
「ったくしょうがねえなぁ……スコージファイ!」
フレッドが杖を振ると、テーブルに飛び散ったスープの残骸がきれいさっぱり消え去る。その途端、広間の上座から甲高い声があがった。
「ミスター・ウィーズリー! 授業以外で魔法を使うことはフィルチさんが禁止して
」
「お言葉ですが、アンブリッジ先生」
教職員テーブルでにたにた笑いながら立ち上がったアンブリッジを見て、フレッドとジョージはニヤリと笑った。
「ミスター・フィルチが禁止しているのは、
授業と授業の間に
廊下で魔法を使うことですよ」
そう吐き捨てると、ふたりは嵐のように大広間を飛び出していった。アンブリッジは不機嫌そうに顔を歪め、またがつがつと肉をがっつき始める。他の先生たちは涼しい顔をして静かに口を動かしていた。
はいつの間にやら耳まで上がってきた熱を両手で押さえ込んで俯いた。ジョージの言葉が耳に残っている。
彼女は慌てて残りのスープを掻き込むと、上座の方を見ないようにして足早に大広間を後にした。
PENSIEVE and SNAPE
「待ちたまえ、ルーピン」
放課後の地下牢研究室。予想外の事態に、彼女は目を見開き、ゆっくりと振り返った。
スネイプは椅子に座ったまま、冷ややかな目でジッとこちらを見つめている。
「……何ですか?」
慎重に訊ねると、スネイプは物憂げに立ち上がり、後ろの棚から仄かに銀色の光を放つ浅い石の水盆を取り出してデスクの上に載せた。その縁にはルーン文字とよく分からない記号とが彫られていて、銀の光はその中から射している。
また椅子に腰を下ろしながら、上目遣いにスネイプが口を開いた。
「これが何か分かるかね?」
「分かりません」
正直に首を横に振る。スネイプはフンと鼻を鳴らし、そうだろうなと呟いた。
「さて、今学期が始まってまだ三週間だが、我輩も様々な噂を耳にした」
はピクリと眉を上げ、相手の言葉を待つ。
「君は……我々にとってあまり嬉しくない人間から、非常に、注意されている」
「……それは、アンブリッジ先
」
「そういった状況下にあって、君のその感情的な性格というものは非常に危険だ」
告げられた言葉に、は思わず眉間にしわを寄せた。スネイプはそれを見てニヤリを笑う。
「君が
あー……学期末の事件で心に深い傷を負ったことを、校長はひどく心配している。だが、我輩はそれ以上に」
セドリックの死に顔が、目の前に浮かぶ。彼の冷え切った手が。何で。何を。一体スネイプは何を言おうとしているのだろう。
は身震いして軽く頭を振った。スネイプは顔色ひとつ変えずに続ける。
「我輩はそれ以上に、そのことによって君が感情に任せて我々の内情を外部に漏らしてしまうことを危惧している」
顔を上げ、彼女は信じられない思いで相手の顔を睨み付けた。
「何ですかそれ! わたし、、そんなこと!」
「そうやってすぐに声を荒げる」
スネイプが軽蔑しきった顔で小さく息をつく。はハッとして口を噤んだ。本当だ。わたしはすぐにカッとなって、怒鳴ってしまう。スネイプの言っていることは間違ってはいない。そのことが無性に悔しかった。
「ただでさえ
人狼の娘として目を引いているというのに、君は授業中に闇の帝王が戻ってきたなどと口走ったそうだな。ポッターと同じように」
は答えなかった。『闇の帝王』という呼称を実際に耳にしたことはなかったが、考えるまでもなくヴォルデモートのことだろう。
「このままでは君が易々と挑発に乗ってこちら側の情報を与え兼ねない。何しろ君は、
あの男の娘だからな」
眉をひそめてスネイプの顔を見返すと、彼はこれまで以上にはっきりと嘲りの色を浮かべ、笑った。
「君はあの男の娘だ。あの男は昔からひどく短気で感情的だった。君は顔ばかりでなく、性格までもあの男にとてもよく似ているのでね。残念ながら、君はポッターよりも我を忘れて暴走する危険性が極めて高い」
「
違う! あの人と一緒にしないで下さい!!」
拳を握って怒鳴り上げたは、鼻を鳴らして冷たく笑うスネイプを見てがくりと項垂れた。分かっていて、抑えられなかった。スネイプはわたしを挑発して試そうとしている。そんなことは分かり切っているのに、どうしてわたしは。スネイプの言い分は、少しも外れちゃいない。
目頭を押さえて、顔を伏せる。スネイプは平然とした顔で懐から杖を取り出した。そしてその先を軽くデスクの上の水盆に当てる。
「そこで、これを使う」
スネイプが立ち上がり、もう一度盆の縁を軽く叩いた。中には水のようなものが張ってあり、風が渡ったかのように柔らかな波紋が広がっていく。
「『憂いの篩』だ。通常は頭の中が混乱したときなどに、その溢れ出た想いをこの中に移してゆっくりと吟味するために使う。だが何年何十年という長期間でなければ、この中に『憂い』を
ただ入れておくことも可能だ」
「……『憂い』を、
入れておく?」
相手の言葉を繰り返し、はまさかと顔を強張らせた。
「まさかわたしの『憂い』をわたしの頭の中から取り出して、その中に移すっていうことですか!?」
「そうすれば感情だけで余計なことをペラペラと喋ることも減るだろう」
「
嫌です!」
一、二歩と後ろに下がりながら、彼女は必死に首を横に振った。彼の虚ろに見開かれた瞳を、彼のあの指先を。
怒りもせずにただ冷たく彼女を見つめているスネイプを思い切り睨み付けて、怒鳴る。
「嫌です! わたしは忘れたくない……あの日の彼の顔を、わたしは忘れたくなんかありません!!」
「忘れるのではない」
スネイプは静かに言った。
「記憶は消えはしない。ただ憂いの感情をこの中に落とすのだ。君はあの日のことを思っても感情的にならずに済む」
は瞼を伏せて俯いた。記憶は変わらず、ただ憂いの気持ちだけが消える。それはつまり、もう彼の死に顔を思い出しても、胸が痛まないということか。それはそれでとてつもなくつらいことだと思った。あの日を思っても、もう泣けないだなんて……。
「ディゴリーを思って涙を流せば讃えられるとでも言うのかね?」
彼女は驚いてパッと顔を上げた。心を読まれている……?
「どういう、ことですか」
「涙を流せば死人が戻ってくると言うのならいくらでも泣くがいい。だが死んだ人間は二度と戻らん。自分はいつまでもディゴリーを思って泣いていますと主張したいがために感情を剥き出しにして騎士団のことを漏らすかもしれんと言うのならば、我輩は容赦しない」
理性的な口調でそう告げたスネイプだったが、彼の黒い瞳はいつになく深い色だった。
一瞬言葉を失って唖然とするが、目を細めて震える喉から声を絞り出す。
「……あなたには分からない」
セドリックの笑った顔、嬉しそうな顔、真面目な顔、困ったような顔。様々な表情が一気に目の前を通り過ぎていく。身体の震えが止まらない……彼が、もうこの世にいないだなんて。
「まだまだ……ずっと先の未来が待ってたはずなのに、いきなりそれを奪われてどれだけ無念だったか……わたしたちが、ずっと思っててあげないと……」
「貴様に何が分かる」
初めて苛立たしげな声をあげ、スネイプが鋭く吐き捨てる。杖を持つ彼の手は力強く握られていた。
「我輩が大切に思う者の死に顔を見たことがないなどと思うのか。小娘が分かったような口をきくな」
は目を瞬かせてデスクに着く相手を見つめた。余計なことを言ってしまったと言わんばかりの苦渋の表情を浮かべたスネイプはこちらから視線を外し、杖先でもう一度水盆の縁を叩いた。
「……先生も、大切な人を亡くされたんですか?」
「そんなことは君には関係がない」
冷たく言いやって、スネイプは続けた。
「我々の動きはまだ魔法省に知られるわけにはいかん。安全策を講じるのも我々の役目だ。君のその感情的な態度を抑えるのもそのうちのひとつだ」
瞼を伏せ、そしてまた目を開けてから、ようやくは小さく頷いた。
「分かりました」
「ここへ来たまえ」
スネイプが自分のすぐ傍らを杖で軽く示す。彼女はデスクの縁を回って彼の隣に立った。授業中、彼女の調合にケチをつけに来るときだってこんなにもスネイプと近付いたことはない。落ち着かない気持ちで視線を泳がせるは、ふと二年前のあの夜のことを思い出した。
一年生の誕生日。ブラックと初めて出会った、あの満月の晩。
父の研究室で遭遇したスネイプと一緒に、暴れ柳の抜け道を通って『叫びの屋敷』へと向かった。透明マントの中、彼に抱き締められるような形で。
途端に、頬に熱がこもってきて、は慌てて雑念を振り払おうと頭を振った。
スネイプが気だるそうに立ち上がり、手にした杖を彼女の顔へと向ける。杖先がすぐにでも鼻に触れそうで、は不安げに顔を上げた。スネイプの冷たい黒い瞳が間近で彼女を見下ろしている。薬品のような独特のにおいがほんの少しだけ鼻をついた。
「篩に落としたい『憂い』のことを考えるのだ。そのことだけを」
はスネイプから視線を外してそっと目を閉じた。三大魔法学校対抗試合最終課題……冷たくなった彼の遺体……泣き叫ぶディゴリー夫妻……強張ったスプラウト先生の顔……。また背筋に悪寒が走った。
そのとき、固い何かがフッと左のこめかみに触れた。それが頭から離れると同時、は目を開けた。スネイプの杖先に銀色の何かが糸状になってくっ付いている。彼が『憂いの篩』の上でその杖を軽く振ると、その銀色の物質はふわふわと水盆の表面に落ちた。その瞬間、水面にセドリックの固まった青白い顔が浮かび上がりはアッと息を呑んだ。その光景はすぐに消え去ったが。
「まだあるはずだ」
篩からこちらに視線を戻したスネイプが静かに言った。
「君を感情的にさせる憂いは」
は黙って目を閉じ、もうひとつの『憂い』のことを考えた。先ほどと同じようにスネイプが彼女のこめかみから『憂い』を引っ張り出すと、今度は水面にやつれた顔をしたシリウス・ブラックの姿が映し出された。
「まだ何かあるのではないのかね?」
平然とした顔でそう訊ねてくるスネイプに、は眉根を寄せた。どうして
彼は本当に人の心が読めるのだろうか。もう一度同じことを繰り返すと、水盆の表面には苛立ったフランシスの顔が浮かび上がり、霞のように消えた。
「予防策程度にはなったかね?」
冷ややかに笑うスネイプには答えずに、はゆっくりと目線を下げた。
「先ほども言ったように、『憂い』はいつまでもこの中に入れておけるわけではない」
スネイプがまた水盆の縁を軽く叩いた。
「君が自分で感情を制御できるようになった、もしくはこれらの『憂い』を受け入れられるようになったと確信すれば、そのときにまたここに取りに来るが良い。だがもちろん、充分でないと我輩が判断した場合はこの『憂い』は返さん」
「……リミットは?」
顔を上げ口を開くと、スネイプはわざとらしい仕草で小さく肩をすくめてみせた。
「先ほども言ったが通常このような使い方はしないのでどれほど保存できるのか厳密には分からん。だが本来人間の中にあるべきものをこうして外に移しているのだから、永遠にというわけにはいかんだろう。『憂い』に異常が出ればこちらから知らせよう」
途端に不安になったが、はそれをごまかすように息をつき、頷いた。
「……分かりました。それでは、わたしはこれで」
そのとき、デスクに杖を置いたスネイプの右手が突然彼女の顎を掴んだ。ぎょっとする間もなく無理やり上を向かされ、冷たいスネイプの瞳と視線がぶつかり合う。の心臓は早鐘のように喧しく鳴り響いた。
「念のために言っておくが、ここへは
課題に関する用件以外では来るな。分かっているな?」
冷え切ったスネイプの指先に神経が集中する。ようやく口を開こうとしたそのとき、研究室の扉が外からノックされた。スネイプはパッと彼女の顔から手を離した。
「スネイプ先生、いらっしゃるかしら?」
の心臓の鼓動がそれまでとは全く違う意味で高速に打った。アンブリッジだ。スネイプは素早くデスクから『憂いの篩』を後ろの棚に仕舞い、が提出したレポートを手に取って、早く行けと冷ややかに目配せした。
「ええ、どうぞ」
スネイプがいつもの調子でそう答えたとき、すでには扉の手前まで来ていた。無遠慮に勢いよくドアを開けたアンブリッジは彼女の存在に気付くと、ガマガエルの顔を歪めて訝しげに訊ねてきた。
「あら、あなたこんなところで何をしてらっしゃるのかしら?」
「特別課題の提出ですよ、教授。彼女は先日の調合で、ひとりだけ
信じられないような手酷い失敗をしてくれましたのでね」
スネイプの答えに、アンブリッジは満足げにニタニタと笑った。
「あら、そうでしたの。この子はわたくしのクラスでもあまり成績がよろしくありませんのでね。それなら納得ですわ」
今すぐ怒鳴って殴り飛ばしてやりたい衝動を何とか抑え、は急いで地下牢研究室を飛び出した。二段飛ばしで駆け上がる地上への階段は、何だかいつもよりも軽やかに上がれるような気がした。
わたしの『憂い』は、あの篩の中に入れてきた。あの晩の光景を思い出しても、確かにもう涙は出てこなかった。ブラックのことを思っても、フランシスのことを思っても。
(君が自分で感情を制御できるようになった、もしくはこれらの『憂い』を受け入れられるようになったと確信すれば)
そうなれば。あの『憂い』をこの頭の中に戻しても。
もう涙を流さずに済むのだろうか。もう我を忘れて声を荒げたりしないだろうか。
どうすれば、あの『憂い』を受け入れられるようになるだろう……。
ハッフルパフ塔の寝室に戻ったは、周囲にカーテンを引いたベッドの上に横になってそっと自分の顎に触れた。
スネイプの手はあんなにも冷たかったのに。何だかそこは、今でも熱を帯びているような気がして。
(我輩が大切に思う者の死に顔を見たことがないなどと思うのか)
苛立たしげにそう告げた、スネイプの深い瞳の色。
スネイプの、大切に思っていた人。
(どんな人なんだろう)
それから二十四時間が経っても、二日過ぎても、そして一週間が経過しても。
「……わたし、どうかしてる」
深夜にハッと目を覚ましたは、ゆっくりと身を起こして自嘲気味に呟いた。
起きている間だけじゃなく、夢の中でまでずっとあの魔法薬学教授のことを考えているなんて。