少し、自分に驚いた。予想外に自制できている自分に。
アンブリッジは相変わらず嫌な女だったが、最後列に座っていれば逆上せずに済んだし、周囲の態度も幾分も軟化してきた。二、三週間前ほどひどい陰口を叩かれることもあまりない。スリザリンだけは別だったが。
それでも、やはり好んで彼女と行動を共にしようとする者がいないということもまた事実で。
ひとりで図書館へ向かおうとしていた彼女は、目の前に立ち塞がった少女を見て足を止めた。

「アイビス    

アイビスは何か言いたげな顔をして少し上目遣いにこちらを見ていたが、ぎこちない笑みで「一緒に散歩しない?」と言った。
は自分の腕の中の教材をちらりと見たが、すぐ相手に視線を戻して、いいよと短く告げた。

repair, no patch

彼女に連れてこられたのは、湖の畔だった。授業を終えた生徒たちが何人も辺りで寛いでいる。アイビスが示した先にたたずむふたつの影を見て、は眉根を寄せた。

「……アイビス、どういうつもり?」
「お願い、、怒らないで」

悲しそうに顔を歪めるアイビスを睨んでから、彼女はグリフィンドールとハッフルパフのネクタイを締めたふたりの少女を見やった。彼女たちもあからさまに顔をしかめて声をあげる。

「アイビス、連れてくるなんて聞いてないよ?」

ぶっきらぼうにそう告げるニースに、アイビスはごめんと軽く頭を下げた。

「でも、でもね、一回四人で話してみようって思って、それで……」
「わたし、帰る」

低い声音で吐き捨てて、フランシスはさっさと城への道を歩き出した。アイビスがその後ろ姿に向かって声をあげるが、彼女は速度を落とすこともなくその場を立ち去る。彼女は一度もの目を見なかった。

「話って……何か、話すことでもあるの?」

こちらに背を向けてニースがぼやく。アイビスはとニースの双方を交互に見ながら、上擦った声をあげた。

「ねえ、そろそろ仲直りしない? いつまでもいがみ合ってたって仕方ないよ?」
「別に、わたしたち喧嘩してるわけじゃないでしょう?」

ニースが素っ気無く言いやった。

「考え方が違うことが分かった。それだけのことでしょう?」
「でも……ね? 歩み寄ろうよ……わたしたちみんな友達じゃない」

おろおろと訴えるアイビスを一瞥して、ニースは冷たくを睨んだ。

「それはが『例のあの人』が戻ってきたなんて大嘘つくより前の話よ」
「……ねえ、!」

何か言ってよ、と視線だけで伝えてくるアイビスを無視してもまた目を細めた。

「信じてくれないなら、それならそれで、わたしはいい」
!」

今にも泣き出しそうな顔をしてアイビスが詰め寄ってくる。ニースは小馬鹿にするようにフンと鼻で笑ってみせた。

「それじゃあ何も話すことなんてないようね。わたしも帰るわ」
「待って、ニース!」

アイビスが声を荒げて叫ぶ。ニースは城に向けて踏み出した足をピタリと止めたが、振り返りはしなかった。

「ねえ、お願い!この前わたしに言ってくれたことを、ニースにも話して!」

目を丸くしてアイビスを見やる。ニースも少しだけ驚いた顔をして振り向き様に口を開いた。

「この前の話って……なに?」
「ねえ、お願い、もう一度話して」

懸命に懇願してくるアイビスに、は小さくかぶりを振った。

「……嫌だ」
!」

の頑なな態度に、ニースは大きく息をついた。

「あんたに何を話したのか分からないけど、がもう話す気がないって言うんなら、仕方ないわね」

そして再び城に向かって歩き出すニースに駆け寄り、アイビスは彼女の前に回って真剣な眼差しで囁いた。

「ねえ、ニース、聞いて。が『例のあの人』が戻ってきたって信じてるのには理由があるの」
「やめて、アイビス」

彼女のくぐもった声を無視してアイビスは続けた。

「ニース、思い出して……三ヶ月前、あの迷路の中で何が起こったのかを。あの日がどんな思いでいたかを    
やめてってば!!

無意識のうちに喉から絞り出した絶叫は周りにいた数人の生徒たちの目を引いてしまった。だがは耐えられなくなってその場にうずくまり、膝を抱えた。だめだ    また、あの夜の光景が目の前に蘇る。冷え切った彼の指先。虚ろに見開かれた彼の灰色の瞳。全身をゾッとするような悪寒が走り抜けていった。涙が、止まらない。
やがて彼女の背中にそっと手が添えられ、それは何度も何度もその背を優しく撫でてくれた。

「……馬鹿、!!」

苛々した様子のニースの怒声が降ってくる。顔を上げると、穏やかな表情をしつつも涙を流しているニースとアイビスが目の前に膝をついていた。

「馬鹿! わたし、あんたのそういうとこが大っ嫌いよ!!」

え、と間の抜けた声をあげた途端、勢いよくニースにギュッと抱き締められた。驚いて目を瞬かせる。ニースは半ば捨て鉢気味に吐き捨てた。

「あとになって、すぐ分かったわよ……あんたがセドリックのこと思ってあんなこと言ったんだって。でもあんた、何にも言わないんだもの! こっちだって意地になるわよ! あんたが……あんたが一度でも」

ニースはそこでむせ返った。咳払いしてから、続ける。

「……あんたが一度だってわたしたちの前で、泣いてくれてたら」

そこでようやくは手を伸ばして、相手の背を力なく抱き返した。

「わたし、あんたのそうやってひとりで勝手に我慢するとこが大っ嫌いよ……」

ニースの言葉に、一旦口を開くがそのまま彼女の肩に顔を埋める。はゆっくりと目を閉じ、震える声を絞り出した。

「……ごめん」

「そうだよ、

ふたりの顔を覗き込んだアイビスが、目元を拭いながら小さく笑う。

「何のためにわたしたちがいると思ってるの?」

顔を上げてアイビスを見やると、抑えていた涙がまた溢れ出してきて。

「……ごめん、ごめ……」
「ごめんなんて言って欲しくないわね」

素っ気無く告げたニースが、ほんの一瞬だけ片目を閉じてみせた。

「こういうときは、ありがとう、でしょ」
「まったくね」

アイビスとニースが顔を見合わせてクスリと笑った。
何度も頷いて、口を開く。

「……ありがとう、アイビス……ニース、ありがとう……」

城への帰り道、穏やかな顔をしたアイビスが言った。

「フランシスとも話し合ってみたらいいよ。彼女だって分かってくれるわ」

の顔には一瞬影が差したが、彼女はすぐに笑って「そうだね」と返した。
フランシスとの関係修復は、一筋縄ではいかないだろうということは容易に想像がついたけれども。
チャンスは翌日の夕方には訪れた。寝室に戻ったは、部屋でひとりトランクの中の整理をしているフランシスを発見した。彼女はいつものようにこちらの存在は完全に無視している。もまた普段は同じ態度に出るのだが、今日だけは真っ直ぐ彼女のもとへと向かった。

「フランシー、ちょっといい?」

彼女は別段驚いた様子もなく、ただ冷えた眼差しで顔を上げた。

「何か用?」
「……ちょっとどこかで話がしたいんだけど?」
「わたしは話すことなんてないけど」
「わたしがあるのよ」

再びトランクに視線を戻すフランシスの肩を掴んで上を向かせながら、は少しだけ声を荒げた。彼女は胡散臭いものでも見るかのように顔を歪めている。

「ねえ……話し合おうよ。フランシーのおじいちゃんとおばあちゃんが悲しい亡くなり方をしたのは、知ってる……けどだからって事実から目を逸らしたからってそれがどうなるわけじゃ……」
「あんたに何が分かるって言うの?」

凄まじい形相でこちらを睨み付けたフランシスは容赦なくの手を払い除けて、怒鳴った。こんなにも激しいフランシスの顔は、見たことがない。は思わず身を強張らせた。

「あんたに分かるはずもない。『あの人』がどんな冷酷で残忍な男だったか……『あの人』が戻ってきたなんて、何も知らないからそんなことが平気な顔して言えるのよ!!」

あたかもそれを見てきたかのように青ざめ、彼女は立ち上がった。フランシスの全身の震えは容易に見て取れる。

    そうよ。わたしはおじいちゃんとおばあちゃんが死ぬところを見たわ……去年ムーディが見せてくれたみたいに……ええ、緑色の光がパッと一面に広がって     一瞬よ? ほんの一瞬のことで……どれだけ恐ろしい光景だったか……あんたには絶対分からない!!」

一筋の涙を流して寝室を飛び出していくフランシスを見ても、は身動きひとつとれなかった。信じられなかった。フランシーが、おじいさんとおばあさんの死ぬところを目撃した?
だとしたらわたし……なんてことを。
数週間前の父の言葉が、頭の中で反芻される。

(だから、、お父さんが騎士団にいるからと言って無闇にフランシスの前で騎士団の話をするんじゃないよ。彼女を傷つけてしまうかもしれないからね)

……それどころじゃない。わたしは、彼女の傷口に塩を擦り込むような真似をした。
わたし、どうすれば。
その場に崩れ落ち、はただ呆然と床の上の絨毯を見つめていた。

(え……でも、ちょっと待って)

ヴォルデモートはハリーが一歳のときに力を失った。その頃わたしたちはまだ、生まれてもいないはずじゃ。
どういうことだろう。でもフランシスが嘘をついていたようには見えない。もう、わけが分からない。
とにかくひとつだけ、確かなことは。

(……わたしがどうしようもないくらい、フランシーを傷つけたってことだ)

それだけは、紛れもない事実で。
自己嫌悪に陥ったは、先週までずっと順調にこなしていた魔法薬調合も、アンブリッジの嫌がらせ攻撃に対する自己統制も、何もかもが今週になって一気に崩れ落ちていった。

「ミス・ルーピン? 今夜は満月のようですけれど、身体の調子は大丈夫なのかしら?」

ニヤニヤと笑うアンブリッジに向け、立ち上がって怒鳴ってしまい、または十点の減点を食らってしまった。十点減点で済んだだけマシだとこっそりアレフには言われたが。
おまけにその日の午前中失敗した魔法薬について、ひとりだけ羊皮紙二十センチのレポートを翌日締め切りで課され、彼女はうんざりしながら図書館に向かった。レポートが仕上がったのは窓の外が真っ暗になってからだった。

そして翌日の放課後、ひとりで課題を提出しに地下牢研究室に入ったは、胸元に抱えたレポートをスネイプの着いているデスクに置いてさっさと踵を返そうとした。
そのとき。

「待ちたまえ、ルーピン」

予想外の事態に、彼女は目を見開いて、ゆっくりと振り返った。
(06.01.23)