ハリー・ポッターとアンブリッジの怒鳴り合い試合のニュースと同じくらい、というと誇張しすぎだが、・ルーピンとアンブリッジのいがみ合いニュースも例外的な速さで城中に伝わった。・ルーピンは人狼であり、『あの人』復活という馬鹿げた噂を信じている狂人である。満月の夜は気を付けよ、逆鱗に触れると噛まれるぞ。
彼女が人狼ではないということは同室の同級生たちが一番良く分かっているだろうに、誰も彼女を擁護し、噂を否定しようとはしなかった。

(ハリーは去年だってこういう目に遭って、ひとりでそれに耐えてきたんだ……)

彼はヴォルデモートに襲われたその瞬間から魔法界の有名人だ。マグルの世界から魔法使いの世界にやって来て以来、ずっと噂話のネタにされ続けたに違いない。おまけに去年は二人目のホグワーツ代表としてひどい陰口も叩かれた。はそのとき、そんな噂を黙認していた自分が恥ずかしくなった。
テーブルの隅でひとり夕食を摂った彼女は早々に寝室に戻った。ハリーほどではないが廊下を歩くだけでいつもヒソヒソ声が追いかけてくる。ハッフルパフ塔の入り口の聖女の前まで来ると、は不意に後ろから声をかけられた。



少しだけ、懐かしい声。それが今は若干心配そうに澱んでいる。
そこにはレイブンクローの親友、アイビスがひとりで立っていた。彼女とは最近合同授業があっても無意識のうちに距離を置くようにしていた。

「……アイビス」
「入るの? 入らないの?」

肖像画の聖女に問われ、は少し待って、と短く答えた。

「どうしたの? こんな所に」

アイビスは悲しそうに目を細めながら、小さく笑った。

「少し、どこかで話さない?」

は扉にかけていた手をそっと外し、瞼を伏せてしばらく考え込んでから。

「……うん」

頷いた。

PAIN IN PUBLIC

ハッフルパフ塔の中でに向けられる視線は、これまでの彼女からは考えられないほど凄まじく冷え切ったものだった。四年生のキティなどは物凄い形相で、初日に稼いだ自分の十点を彼女がふいにしたと何日も吹聴して回った。ただでさえ獲得する寮の得点が四寮の中で最も少ないハッフルパフにとって、たったひとりによってもたらされた百五点の減点はあまりに痛かった。
選択科目の『数占い』からそのまま夕食の席へと向かう途中(一年生のとき、「ルーピン先生は長くない」などとふざけた予言をしたあの教授に教わると思うと虫唾が走った)、はハッフルパフの七年生、ハースに呼び止められた。彼もまたひとりだった。

、一緒に飯食わねえか?」

え、と目を瞬かせながら彼女は顔を上げた。彼は長身なのでどうしたって首を曲げなければ相手の顔は見られない。

「何で? ジムとかイヴァンとかは?」
「いやいや、そんなことはどうだっていいから。今日はお前に話があるんだって」

ニコニコ笑ってそう告げたハースは有無を言わさず彼女の腕を引いて大広間へと急いだ。まだあまり生徒は来ておらず、彼は玄関ホールから入ってテーブルの一番奥に腰かけた。その向かいに座りながら、怪訝そうに声をあげる。

「ハース、話って何?」
「まあまあ、まずは食うぞ。腹減って死にそうだ」

彼は鞄を肩から下ろし、すぐさま目の前に現れたチキンをがっつき始めた。腹が減っては戦はできぬ、とか何とか言いながらひたすら貪り食っている。仕方なくも黙ってフォークを手に取った。
他のハッフルパフ生たちもその後どっと大広間にやって来たが、たちの周りの数席分はずっと空いたままだった。

「ちょうどいいや」

その様子を見渡しながら、ハースが満足そうに笑む。

「さて」

食事を終えた彼はゴブレットをテーブルに置き、もったいぶった様子で口を開いた。

「お前、明日が何の日か知ってるか?」

はサラダを突いていた手をピタリと止めて目をパチクリさせた。明日? 九月十二日の火曜日?
首を横に振ると、途端にハースは呆れ顔で大きく息をついた。

「……そうだろうと思った。お前、掲示板見たか?」
「掲示板?」

談話室の掲示を思い出そうと顔をしかめて考え込んでいると、じれったいと言いたげな顔でハースが少しだけ声を荒げた。

「あのな! 俺がクィディッチ・チームのキャプテンになったってことはさすがに知ってるだろうな?」

そこではアッと声をあげた。

「クィディッチ選手の選抜の日だ!」
「そうだよ、やっと思い出したか」

やれやれと彼はこめかみに手を当ててみせた。何だか、嫌な予感がする。

「……それで、わたしに一体何の用で……」
「は? お前、本物のバカかよ!」

ハースは大袈裟に眉根を寄せ、さも不機嫌そうに言った。

「キャプテン直々の選抜に決まってんだろうが! いいか、お前にノーなんて言う権利はないぞ」
「えっ!」

素っ頓狂な声をあげるに、彼はことさら表情を歪める。同じテーブルの寮生たちが興味深げにちらちらこちらを見ているのが分かった。

「何でわたしが!」
「バっカやろ。アイツが……」

ハースは一瞬そこで顔を曇らせたが、すぐさま真剣な面持ちで続けた。

「……アイツがお前の箒さばきを見込んでたことは、お前だって分かってんだろ」

は目を見開いて相手の顔を見返した。右手が無意識のうちに震える。皿と擦れ合ってカチャカチャと音を立てるフォークを彼女は慌てて放した。

「ああ、そうだよ。俺の選抜なんかじゃねえ。アイツがもし、今年もまたキャプテンだったら……絶対にお前を選抜するって思うから。お前が、アイツに選抜されてもそれを断るって言うんなら話は別だがな」

そこで彼は一旦言葉を切り、声を落として教職員テーブルを盗み見ながら小さく言った。

「でもお前は、先週のことだってある。馬鹿な態度に出てみんなに失わせた百五点を取り戻すチャンスだ」

ピクリと眉を上げる。彼はニヤリと笑んだ。

「もしも明日競技場に来たら、俺はお前を無条件でチェイサーに採用する。もしもお前が来なければ希望者の中から選抜する」
「無条件?」

は顔をしかめた。ただでさえ寮生たちから反感を買っているというのに、無条件で選手になど採用されたらどんな誹謗が待っているか分からない。彼は一瞬眉根を寄せてから、そうだな、と呟いた。

「よし、それじゃあ取り敢えず他の希望者たちと同じようにレベルを見させてもらおう。それでいいか?」
「あ……わたし、箒持ってないんだけど?」
「ああ、今はいい、学校のを借りれば。でもそうだな……正式に選手になれば買え。うん、それでいい」

そう言うとハースはの答えを待たずに立ち上がった。

「俺は寮に戻るけど、、お前はどうする?」

わたしはもう少し食べてから、と告げると彼は「じゃあな」と言い残しさっさと大広間を出て行った。まだ、手が震えている。手だけではない、全身が、だ。
はその手をそっと胸元のしおりと笛に運んだ。軽くローブの上から握り、瞼を伏せて深呼吸する。

、やっぱり君はチェイサー向きだね。来年の入団試験、是非受けてくれよ?)

彼の言葉が耳の奥で優しく響く。けれど。
不安でたまらなくて。

(もしチームに入れば箒は買って欲しいね、。試合で流れ星には乗って欲しくない……ああ、いや、気が早かったね、ごめんごめん)

わたしは。彼がいたから。だから。
少しでも近付きたくて。だからチームに入りたかったんだ。
彼のいないハッフルパフ。彼のいないクィディッチ・チーム。
わたしに何ができるんだろう。それに箒なんて買える余裕があるはずない。父は無職なのだから。

(馬鹿な態度に出てみんなに失わせた百五点を取り戻すチャンスだ)

そうかもしれない。でもそんな点、わたしに取り返せるだろうか。
彼がいなければ、わたしは、何も。

ハースが去ってから、結局何も口に運ばないままは席を立った。ハッフルパフとグリフィンドールのテーブルに沿って玄関ホールへ向かっている途中にも、ヒソヒソ声がいくつも聞こえてくる。フランシスやケイトたちの姿が視界の隅に入る。彼女は何もかも振り切ってホールへ出た。一瞬だけ振り返り、大広間を眺める。パーティローブに身を包みチョウ・チャンの手を取る彼の姿が目の前に蘇ってきた。

(……ダメだな、わたしは)

彼の思い出に縛られて前に進めやしない。
明日は二回目のアンブリッジの授業だ。気が重い。
つらいことがあっても何とか前に進もうとしていた一年生の頃が、あまりに遠い記憶の底にあって。

・ルーピンは小さく頭を振ってハッフルパフ塔への道を歩き始めた。
「わたし、分からないのよ」

暗がりの空き教室に足を踏み入れた彼女はポツリと呟いた。

「何を信じればいいのか、もう分からなくなってる。ダンブルドアは素晴らしい魔法使いだと思うし、あなたを信用してないわけじゃない。でも魔法省は『例のあの人』が復活したっていう噂を真っ向から否定してる。どっちを信じればいいのか分からないの。もちろん、あなたが人狼で徹底的に狂ってるなんて馬鹿な噂は信じてないわ」

は何も言わずに傍らの机に腰かけた。

「でも『例のあの人』が戻ってきたなんて信じたくない人が多いのは事実よ。だからフランシスやニースの言い分も分かる。みんな、信じたくないの。だからわたし、あなたが『あの人』が復活したって信じる根拠を知りたい」

窓際に立つ彼女の姿は逆光になっていてその表情は窺えない。は瞼を伏せて小さく息をついた。

「わたしがダンブルドアを、信じてるから」

それに、と続ける。

「魔法省がなぜヴォルデモート(彼女の影がビクッと震えた)が戻ってきたっていう事実を強く否定してるのかも、知ってるから」
……『あの人』の名前を口にするのは……あまり、良くないと思うわ」

は顔を上げ、ごめん、と呟いた。

「魔法省が『あの人』が戻ってきたって否定するのはなぜなの?」
「……ごめん」

頭を限界まで下げ、は何度もその言葉を繰り返した。

「詳しいことは、話せないの」

彼女はしばし黙り込んでいたが、やがてそっか、と小さく頷いた。

「でもね、どうしても根拠が欲しいって言うなら」

は無意識のうちに胸元の笛を握り締めた。

「三ヶ月前のことを、思い出して欲しい」

彼女が息を呑むのが暗闇でも分かった。

「どうして彼が死んでしまったのかを、考えて欲しい」

目頭が熱くなる。ダメだ。今泣いたら、すべて崩れ落ちてしまいそうで。

「ヴォルデモートが復活して彼を殺したのでなければ、迷路の中で彼が死んでしまったことへの説明が……つかない」
……」
「セドが、自分で勝手に死んだなんて……事故なんて……そんな馬鹿な話、ない」

涙が溢れ出た。は顔を両手で覆い、声を押し殺して泣いた。

「……ごめん、先に戻って。わたし、あとで寮に帰るから」

やっとのことでそれだけを絞り出すと、彼女がゆっくりと近付いてくる。
そしてそっと優しく抱き締めてくれた。

「どうせのことだから、この夏も泣かなかったんでしょう?」

は彼女の腕の中で力なくかぶりを振った。

「……泣いたよ」
「ひとりででしょう?」

くすりと笑う彼女に、も少しだけ笑んだ。

「つらいときはね、誰かの胸を借りなきゃなかなか立ち直れないもんだよ」

は彼女に抱かれて涙を流したが、それでも留められるものは自分の中に残した。彼への想いが、流れ落ちてしまわぬように。
忘れて楽になりたい気持ちと、永遠にこの想いを背負って生きていきたいという気持ちと。
今はどちらも、飲み込んでおこう。

彼をわたしたちから奪い取ったあの闇の魔法使いが、本当にこの世から消え果るまでは。
(06.01.20)