三年目のホグワーツで彼女の中の歯車が狂い始めるのは、授業開始わずか二日目のことだった。

PARTING

「あーもう、やってらんないわよ」

地下牢教室からのらりくらりと出てきたケイトがため息混じりにぼやいた。

「たかがコウモリの爪とニガヨモギ入れる順番を間違えただけじゃないの」
「……あれだけ派手に爆発させておいてよくそういうことが言えるわね」

振り向きざまにきっぱり告げると、彼女はつまらなさそうに口を尖らせた。

は今日はうまくいってたみたいね。スネイプも減点できなかった」

が口を開くより先に、先頭で地上への階段を上がっていたフランシスが振り返った。

は去年の期末も良かったのよね? わたしより二点上だったのよ」
「え! が?」

飛び上がらんばかりに後ずさるケイトとエラを睨み付け、は眉根を寄せた。

「わたしだってやればできる子なのよ」

二年生の学期末、彼とチャンの姿を思い出したくないがために夢中で試験勉強に没頭した。すると今までさっぱりだった魔法薬学のコツが飲み込めてきたような気がしたのだ。
『闇の魔術に対する防衛術』の教室に入っていくと、アンブリッジはすでに教壇に座っていた。一昨日のふわふわしたピンクのカーディガンを着て、頭の天辺に黒いビロードのリボンを結んでいる。今日はグリフィンドールと合同で、はフランシス、ニースと前の方の席に着いた。

「さあ、こんにちは!」

クラス全員が座ると、アンブリッジが挨拶した。何人かは、こんにちは、とぼそぼそ返した。

「チッチッ」

アンブリッジが舌を鳴らした。

「それではいけませんね。みなさん、こうですよ。『こんにちは、アンブリッジ先生』。さあ、もう一度。こんにちは、みなさん!」
「こんにちは、アンブリッジ先生」

みんな一斉に声を揃えたが、は顔をしかめて口を閉ざしていた。教室を見渡したアンブリッジは優しい声音で言った。

「そう、そう。難しくないでしょう? さあ、杖を仕舞って羽根ペンを出して下さいね」

は両隣のフランシスとニースと交互に顔を見合わせた。杖を仕舞った後の授業(『魔法史』だとか、『魔法薬学』だとか)が面白かった例はない。は怪訝な顔をしつつも杖を鞄に押し込んで、羽根ペンとインク、羊皮紙を取り出した。
アンブリッジが異様に短い杖をハンドバックから取り出し、その先で黒板を強く叩く。たちまち黒板の中央に文字が浮き上がった。

『闇の魔術に対する防衛術
 基本に返れ』

アンブリッジはそれを見て満足そうに微笑むと、生徒たちに向き直った。

「さて、みなさん。この学科のこれまでの授業はかなり乱れてバラバラでしたね。先生が毎年変わって、しかもその先生方の多くが魔法省指導要領に従っていなかったようです。その不幸な結果として、みなさんは学年に相応しいと思われるレベルを遥かに下回っています。この状態が続けば二年後のみなさんのO・W・L試験の結果も目に見えています」

この先生の話し方にはひどく嫌悪感を覚えるが、言っていることにも不快感を隠せない。リーマスはいろいろなことを教えてくれたし、ムーディは本物の闇の魔術を見せてくれた。レベルがそこまで低いとは思えない。

「しかし、ご安心なさい。こうした問題がこれからは是正されます。今年は、慎重に構築された理論中心の魔法省指導要領通りの防衛術を学んでまいります。これを書き写して下さい」

アンブリッジはまた黒板を叩いた。最初の文字があっという間に消え、『授業の目的』という文章が現れた。

『一、防衛術の基礎となる原理を理解すること
 二、防衛術が合法的に行使される状況認識を学習すること
 三、防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめること』

数分間、教室中が羊皮紙に羽根ペンを走らせる音に包まれた。全員が三つの目的を写し終えると、アンブリッジが「みなさん、ウィルバート・スリンクハードの『防衛術の理論』を持っていますか?」と訊ねた。
持っています、という声がまたぼそぼそと教室中から聞こえた。アンブリッジがニッコリ微笑んで甘ったるい声で告げる。

「もう一度やりましょうね。わたくしが質問したら、お答えはこうですよ。『はい、アンブリッジ先生』または、『いいえ、アンブリッジ先生』。ではみなさん、ウィルバート・スリンクハードの『防衛術の理論』を持っていますか?」
「はい、アンブリッジ先生」

答えながら傍らを見ると、うんざりした様子のニースと目が合った。

「よろしい。では五ページを開いて下さい。『第一章、初心者の基礎』。お喋りはしないこと」

アンブリッジが黒板を離れ、教壇の椅子に腰かけると同時、は手を挙げてガマガエルのような目を見つめた。だが確実に目が合ったと思われた直後、アンブリッジは何も見なかったと言わんばかりにふいっと目を逸らした。

「ちょ、、何やってるのよ」

隣のフランシスが机の下から腰の辺りを突いてきたが、は無視して頑なに見つめ続けた。だがアンブリッジは彼女と同じくらい頑固に別の方向を見据えている。

「先生」

しばらくして静かに口を開くと、アンブリッジはたった今こちらに気付いたかのように首を回した。

「お喋りはしないようにと言ったはずですけれど?」
「お喋りではありません、質問です、先生」
「今は読む時間よ?」

アンブリッジは尖った小さな歯を見せて微笑んだ。

「ですが先生、授業の目的に質問があります」

するとアンブリッジはにたにた笑いながら甲高い声で言った。

「あらあら……まさかあのミス・グレンジャーと同じことを言うのではないでしょうね? あなた、お名前は?」

ハーマイオニーの話題が浮上し、一瞬眉をひそめたが、はゆっくりと椅子の上に座り直しながら答えた。

・ルーピンです」
「ルーピン?」

ピクリと眉を上げしばらくの間考え込んでから、アンブリッジは突然今まで以上に満面に笑みを浮かべ不気味に優しい声音で言った。

「なるほど。となるとあなたは、二年前にこの学科を担当した教官の娘ということかしら?」
「それが何か」

素っ気無く答えると、アンブリッジの笑みはますます嫌らしくなった。

「もちろん、父親が非常に危険な半獣ということはご存知ね?」

カッとなったは机の上で両の拳を力の限り握り締めた。目尻をつり上げ、教壇の魔女を睨み付ける。アンブリッジは相変わらず笑っていたが目だけはひどく冷ややかだった。

「ルーピン先生は最高の先生だった!!」

教室の後方から獅子寮の男子生徒が叫ぶ。するとアンブリッジは少しだけ語調を強め、「意見のある者は挙手しなさい」と言い、くるりと首を巡らせてを見返してきた。

「半獣からまともな子供が生まれてくるなんて思えないわね。あなたもまさか、父親と同じ類なのかしら?」

とうとうは椅子を蹴散らして立ち上がった。フランシスとニースが両脇から何とか押さえ込もうとした。

「ほらほら、獣のように癇癪持ちのようね! こんな半獣を入学させるなんて、校長先生は何を考え……」
は人間だし、ルーピン先生だって素晴らしい先生でした!」
「意見のある生徒は挙手なさい!!」

ニースの言葉に、アンブリッジが声を荒げて叫んだ。そのとき、ははっと思い出した。魔法省の、アンブリッジ    そうだ、リーマスが苦い顔をしながら新聞を読んでいた。

「あなた……『反人狼法』を起草した魔法省の!」
「わたくしのことは『先生』とお呼びなさい!」

ぴしゃりとそう言って、アンブリッジはまた柔らかい声音に戻しニッコリと笑んだ。

「さあ、ミス・ルーピン、座りなさい。あなたの無礼な言動で、ハッフルパフからは五点減点。これ以上口を開けば次は五十点減点します」
「でも先生、はまだ質問をしていません」
「挙手! あなたのお名前は?」
「ニース・リジールです」

を椅子に座らせながらニースが答えると、アンブリッジはフンと不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ですがミス・リジール、授業の目的に質問など、まともな質問とは思えませんね」
「それは聞いてみないと分からないと思います」
「生意気なことを言わないように。グリフィンドール、五点減点」

冷たく言い放ってアンブリッジは再びに顔を向けた。

「ではミス・ルーピン。防衛呪文を使うことへの言及が何ひとつない、などというふざけた質問でなければ聞きしましょう」
「ええ、まさにそれです

噛み付くようにが告げると、アンブリッジは耳の痛くなるような高笑いをした。

「ハッフルパフは五十点減点です! そんな下らないことを考えている時間があるのなら、教科書の五ページを    
「呪文を使わないんですか!?」

教室の至る所から素っ頓狂な声があがった。「挙手なさい!」としつこくアンブリッジは叫んだ。

「いいですか、これからこの授業中に余計な言動は慎むことです。今度は減点では済みませんよ」

そう言ってアンブリッジはジロリと生徒たちを見回した。今にも獲物を捕らえようとしているガマガエルそのものだ。

「いいですか、理論を充分に勉強すれば試験には備えられます。そして外の世界で待ち受けているものは何もありません。みなさんはある闇の魔法使いが戻ってきたなどという根も葉もない噂を聞かされてきましたが、それはすべて嘘です。魔法省が保証します。ですからこの授業では安全で危険のない方法で防衛術の理論を学びます」
「ヴォルデモートは戻ってきた! それはハリーが見た!!」

の絶叫に、教室中から悲鳴や椅子から転げ落ちる音が聞こえた。両脇のフランシスとニースも小さく声をあげ、椅子の上で飛び上がった。は自分で自分の言葉に驚いたが、もう引き返せない。
アンブリッジはぎくりともせずに気味の悪い満足げな表情を浮かべ、ジッとを見つめていた。

「半獣の小さな脳みそではつまらない噂を鵜呑みにしても仕方ないわね。ハッフルパフはさらに五十点減点」

そこではようやく愕然となって呆然とアンブリッジを見やった。アンブリッジはニヤリと微笑む。

「ミス・ルーピン。もしもほんの少しでも自分の寮が大切だというのなら、二度とつまらない口を開かないことね。みなさん、『防衛術の理論』の五ページ、『第一章、初心者の基礎』を静かにお読みなさい」

生徒たちが黙ってページを繰る音が聞こえ、は項垂れて手元の教科書に視線を落とした。たったの十数分で百点も減点されてしまった。こんなことは初めてだ。けれどリーマスのことで神経を逆撫でされ、一旦頭に血が昇るとどうにも止められなかった。みんなの前で、魔法省の人間の前でヴォルデモートの名前まで口にしてしまうし……最悪だ。

結局、授業は教科書を静かに読むだけで終わった。鐘が鳴り「ではみなさん、ごきげんよう」とアンブリッジが去っていくまで、教室の誰も口を開かなかった。
バラバラと生徒たちが教室を出て行き、ようやくは教科書を閉じて立ち上がった。傍らのフランシスとニースは席に着いたまま複雑な顔をしてこちらを見上げている。

「……何?」

ため息混じりにぼやくと、ニースが恐る恐るといった面持ちで口を開いた。

……まさか、その……『例のあの人』が戻ってきたなんて、信じてるわけじゃないわよね?」

答えずにいると、ニースは真剣な顔をして立ち上がった。

「正気なの? 新聞読まなかった? ポッターは狂ってるって、みんな言ってるよ!」

は衝撃に目を見開きながらも、ニースの手を振り払って怒鳴った。

「ハリーが嘘ついてるって証拠でもあるの? 彼は狂ってなんかない! ヴォルデモートは戻ってきた!」

その名が出てきた途端、またニースは悲鳴をあげて一瞬のうちに青ざめた。もう三人の他は誰もいない教室の中、ニースは震える声で言った。

「何で『あの人』の名前、平気で言えるの……『あの人』が戻ってきたなんて、あるはずないのに……何でそんなこと言うの? ねえ、お願いだから冗談だって言ってよ、ねえ、!」
「何度でも言う、ヴォルデモートは帰ってきた! だからわたしたちは自衛しなきゃいけないの!」

その一言が決定打になったらしい。ニースは蒼白のまま教科書や羊皮紙を抱え、教室を飛び出していった。
泣きそうな気持ちで振り返ると、フランシスは椅子に座ったまま呆然とこちらを見上げていた。

「……フランシー?」

フランシスはから視線を外し、疲れた顔をして呟いた。

「……分からない」
「え?」

眉をひそめ、訊き返す。フランシスは再び顔を上げて言った。

「あなたが見たわけじゃないでしょう? 見たと言ってる人から聞いただけ。なのに何でそこまで自信を持って言えるの? わたし、のこと分からなくなってきた」
「……フランシーは、信じてないの?」

は愕然として親友を見つめた。どうして。フランシーのお父さんは、騎士団の一員じゃないか。
彼女は震える手をギュッと固く握り締めた。

「でも……フランシーのお父さんは、少なくとも、信じてるわけでしょう?」

その言葉を聞いた途端、フランシスが固まった。同時、後悔の波が押し寄せてくる。だがそのときにはすでに遅く。

「……そっか」

青ざめたフランシスが、ポツリと呟く。

「ルーピン先生も、騎士団に入ってるのね」
「あ、その……フランシー?」

弱々しく声をあげるが、フランシスは勢いよく立ち上がって素早くまとめた教科書を胸に抱えた。厳しい眼差しでこちらを睨み付け、言ってくる。

「わたしは少なくとも、バーナード・アップルガースは狂ってると思ってる」

そして彼女は足早に教室を出て行った。
ひとり人残された『闇の魔術に対する防衛術』の教室の中、・ルーピンは次の鐘が鳴るまでただ呆然と立ち尽くしていた。
(06.01.19)