夏休みが始まって一週間が過ぎ去ったある朝、彼女のもとに二通のふくろう便が届いた。窓枠でふくろうフーズをつついていたは突然居間に飛び込んできた見慣れぬ二羽のふくろうに向かって威嚇でもするかのような鳴き声をあげる。
「、もっと他のみんなと仲良くしなさい」
目の前に落とされた封筒をうまく受け取って、が自分の森ふくろうをたしなめる。手紙を運んできたふくろうはとは反対側の窓枠に止まって満足げにホーと鳴いた。彼女の隣と斜め前に腰掛けた男ふたりは気まずそうに瞼を伏せる。は知らないフリをして封を切った。
手紙はホグワーツの親友たちからだった。アイビスもニースも、来週中に出かけないかと言ってきている。は席を立つと、傍らの棚の中から羽根ペンと羊皮紙を取り出してすぐに同じ返事を二通書いた。
『本当にごめん。明日から行かなきゃいけないところがあって、休暇中は動けなくなりそう。だから本当に悪いんだけど、遊びに行けそうにない。ごめん! また新学期に会おう!』
そして窓枠でおとなしく待っているふくろうの脚に括りつける。が手紙をつけ終わると、二羽はさっさと飛び立っていった。がなぜか威厳たっぷりに鳴いてみせた。
「ごちそうさま」
棚に余った羊皮紙と羽根ペンを返しながら呟く。はそのまま素早く自分が食べ終えた皿を片付けて、脇目もふらずに階段を上っていった。
食卓に残されたリーマスとシリウスがほぼ同時に息をついたことなど、彼女が知る由もない。
GOOD-BYE, MOM
騎士団の本部が決定したと夕食の席でリーマスが言ったのは一日前のことだった。ついにきたか、と彼女はおくびにも出さないようにカボチャのスープを口に運びながら思った。ブラックは顔も上げずに静かに二本の短い棒のようなものを動かしている。が見慣れないその道具をジッと見つめていると、それに気付いたリーマスが口を開いた。
「、あれは『お箸』って言うんだよ。東洋で食事をするときに使うんだ」
ブラックは驚いた様子で顔を上げたが、「……あ、ああ」と生返事ですぐにまた俯き、皿の上の豆をそのオハシとやらで突き始めた。あまりうまく使えているようには見えない。も何も言わずに小さく千切ったパンを口に放り込んだ。母が東洋人だという話は以前からリーマスに聞いていたからだ。
不死鳥の騎士団の本部は、シリウス・ブラックの両親の家だった屋敷だという。ブラック家の生き残りは彼ひとりらしいので、今は事実上彼のものだ。そこを本部として彼がダンブルドアに提供したらしい。
「今夜出発するよ。準備はいいかい?」
昼食のオートミールを半分ほど食べた頃、リーマスが問うてきた。ちらりとブラックがこちらを一瞥する。はイエスの代わりに訊き返した。
「どうやってそこまで行くの?」
「箒だよ」
あっさりとそう返してきたリーマスに、彼女は素っ頓狂な声をあげた。
「なに言ってるの? わたし箒なんか持ってないよ! 煙突飛行とか『移動キー』とか、他に手段はあるでしょう?」
「いや、それは危険だ」
瞼を伏せたままブラックが慎重な声音で告げた。彼が彼女の前で口を開くのは珍しい。は睨むような視線でブラックに顔を向けた。
「『煙突ネットワーク』は魔法省に見張られているし、未承認の『移動キー』を作れば命がいくつあっても足りない」
「……でも、わたし」
リーマスに向けて怒鳴ると、彼は平然と言った。
「君はシリウスの後ろに乗ってくれ。荷物はわたしがまとめて運ぶから」
目を白黒させ、はしばらく養父とブラックとを交互に見つめていた。ブラックもリーマスの発言には度肝を抜かれたようで、硬直したまま正面のリーマスを凝視している。やっと沈黙を破った彼女の声もひどく動揺していた。
「な、何でわたしがこの人の後ろなの!?」
彼女の言葉に、ブラックの表情に若干影が差す。だが気付かない振りをしてリーマスを睨み続けると、彼はさも当然のように言い放った。
「わたしはあまり箒が得意ではないから、君を乗せて飛ぶ自信がない。シリウスはわたしよりよっぽど飛行術を心得ているから、その方が安心だ。シリウス、頼むよ」
ブラックは何か言いたげに彼女をちらちらを見ていたが、とうとう何も言わずに「分かった」と小さく頷いた。リーマスはニコリともせずに静かにスプーンを動かしている。はその落ち着き払った態度にカッとなり、残りのサラダを急いで掻き込むと、台所に食器を運ぶだけ運んで二階へと駆け上がった。部屋では止まり木のがコクコクと眠り込んでいた。
夕食まではずっとベッドで横になって過ごした。餌をねだって何度もが軽くつついてきたが、完全に無視する。食事だよ、と階下からリーマスの声が聞こえてきたとき、彼女はようやく物憂げに身体を起こした。
沈黙が支配する夕食が終わると、魔法で皿洗いを済ませたリーマスが言った。
「じゃあ準備が出来次第出発しよう。、トランクの準備はいいかい?」
は立ち上がりながらぶっきらぼうに「うん」と答えた。そのあとすぐにホグワーツのトランクとの入った鳥かごを一階まで下ろし、いつの間にやら出してきたらしい箒を右手に持っているリーマスに手渡す。居間の出入り口に立ったブラックも、箒を手にしたまま感慨深げに部屋の中をぼんやり眺めていた。
そのとき初めて気が付いた。そうだ、この家はシリウス・ブラックと母さんが一緒に過ごした家なんだ。
そう思った瞬間、住み慣れた我が家が彼女には違った光景に見えてきた。ここはわたしの知らない一組の夫婦が、共に暮らすために建てた家だ。彼はどんな思いでここに戻ってきたんだろう。どんな思いで、裏手の母の墓を見たんだろう。
考えを巡らせているうちに、リーマスが部屋の至る所に魔法をかけていることに気付いた。いつもより入念にきれいにしているのだ。はハッとした。リーマスは
シリウス・ブラックは。もう二度と、ここには戻ってこられないかもしれないと思っている。
彼女は食器棚に杖を向けた養父のもとまで駆け寄り、その痩躯に勢いよくしがみついた。彼は突然のことに少なからずよろめいた。
「?」
間の抜けた声をあげるリーマスを抱き締める腕に殊更力をこめて、彼女は溢れ出てくる涙を堪えようと努めた。
「……また、ここに……この家に、一緒に帰ってこられるよね……?」
次に彼が口を開くまでは、しばしの時間を要した。リーマスは彼女の髪をそっと撫でながら、優しい声音で呟く。
「きっと、ね」
は顔を上げて、小さく微笑む彼を睨み付けた。瞳から零れ落ちる涙は止められそうもない。
「……もし、もし今度また嘘ついたら……そのときはもう一生……わたし、リーマスを許さないから」
彼は僅かに目を細め、少しだけ冷えた手で彼女の頬を伝う涙を拭った。
「
分かった。約束だ、」
ヤクソク。
その響きに、彼女は顔を歪めて泣いた。約束するよ。僕は優勝杯を持って、ここに戻ってくる。彼はそう言って
二度と、ハッフルパフ寮に戻ってはこなかった。
ヤクソク。それは下らない言葉遊びなのかもしれない。
けれど。
はリーマスの腕の中でギュッと固く目を閉じた。
人はそんな役にも立たない遊びに縋りつきたくなるくらい、弱い生き物なのだ。
お母さん、行って、きます。
「曇っていて良かった」
玄関から外に出たリーマスが、濁った夜空を見上げて言った。厚い雲に覆われて空には星ひとつ見えない。彼はのものと自分のトランクを箒にくくりつけてこちらを振り返った。
「シリウス、君が前を飛んでくれ」
ブラックはをちらりと気まずそうな顔で一瞥してから「分かった」と呟いた。彼がの入った鳥かごをぶら下げた古惚けた箒に跨って、こちらにゆっくりと顔を向ける。
「後ろに乗ってくれ」
思い切れずに彼女はしばしその場でグズグズしていたが、やがて覚悟を決めてブラックの後ろに跨り、彼のローブの端をほんの少しだけ握った。彼はすぐに強く地面を蹴った。途端に足が地面を離れ、冷たい夜風が髪をなびかせる。気付いたときにはついさっきまで真後ろにあった我が家が足元に広がる闇の中に吸い込まれていた。そのスピードに思わず箒の上でよろめきそうになる。ブラックが風の音に掻き消されないような声で叫んだ。
「しっかりつかまってくれ! 振り落とさないとも限らない!」
は一瞬躊躇したが、仕方なく彼の身体にしがみついた。どきりとした
彼の、あまりに痩せ細ったその胸に。リーマスよりもひどい。こんなにやつれた身体でどうしてこんなに力強く箒を飛ばせるのか、彼女にはさっぱり分からなかった。
(十二年のアズカバン生活で……こんなになっちゃったのかな)
突然胸に熱いものがこみ上げてきて、は彼の背中に顔を押し付けた。やがてふたつの箒は切れ間をうまく通り抜け、雲の上まで上がった。聞こえてくるのは風が彼女らの身体を切る音だけ。
授業以外で箒に乗るのは一年ぶりだった。最後に乗ったのは、去年の学期末だ。誕生日のプレゼントと言って彼が付き合ってくれた。は黙ってブラックの背中で涙を流した。
箒が降下を始めるまで、は口を開かなかった。ときどき針路の確認などでブラックとリーマスは互いに言葉を交わしていたが、彼らもまた彼女には何も言わなかった。
ブラックが急降下を始め、雲の下に出ると、は縦横無尽に広がる光の網を見た。その所々に真っ黒な部分が点在している。そこからまた下へ下へと飛んでいくと、箒はヘッドライトや街灯、ボロボロの家々が立ち並ぶ隅の広場に降り立った。
「着いたぞ」
ブラックがこちらに背を向けたまま呟く。だがは彼の身体に巻きつけた手を解くことができなかった。かなりの長時間の飛行で全身がガチガチに凍ってしまったのだ。何とか奮闘して彼の腹の前で組んでいた両手を放すことはできたが、そこからその手を自分の身体の前に戻すにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「……ご、ごめん……ちょっと、待って……」
ぼそぼそと漏らす。「どうかしたのかい?」と後ろからリーマスが近付いてきたそのとき、ブラックが突然の両手を取って上の方に持ち上げた。え、と彼女は上擦った声をあげる。彼の手もまた彼女のものと同じくらい冷え切っていた。
だが彼女の両手を自分の口元に運んだブラックは、そこに何度も息を吹きかけた。じわ、と指先から温かさが少しずつ戻ってくる。は慌ててその手を振り解き、箒から飛び退いた。
振り向いたブラックは幾分もショックを受けたような顔をしていたが、すぐに俯いて「すまない」と呟き、箒から降りた。リーマスは何か言いたげだったが諦めたようで、浮遊呪文をかけたトランクを引きずりながら歩き出す。
「、おいで」
はリーマスとブラックについて広場の芝生から道路を横切り、歩道へと進んだ。そこでリーマスが懐から一枚の羊皮紙を取り出す。彼はそれを彼女の手に持たせ、そこに灯りのともった杖先を軽くかざした。
「ここに書いてあることをすぐに覚えて」
羊皮紙にはこう書かれていた。不死鳥の騎士団の本部は、ロンドン、グリモールド・プレイス十二番地に存在する。
「覚えたかい?」
が羊皮紙から目を外し、暗記しようと口を開くと、リーマスが厳しい顔で「静かに!」と囁いた。
「口にしてはいけない。頭で覚えるんだ」
眉をひそめてリーマスを見やるが、彼女はおとなしく従った。不死鳥の騎士団の本部は、ロンドン、グリモールド・プレイス十二番地に存在する。不死鳥の騎士団の本部は、ロンドン、グリモールド・プレイス十二番地に存在する……。
は顔を上げて、うんと頷いた。するとリーマスは彼女の手から羊皮紙を取り上げ、すぐにそれを燃やしてしまった。辺りを見渡すと、どうやら今彼女らが立っているのが十一番地。左は十番地だし、右は十三番地だ。リーマスは静かに言った。
「今覚えたものを考えるんだ」
はロンドンのグリモールド・プレイス十二番地のことを必死に考えた。すると途端に十一番地と十三番地の間にどこからともなく古びて傷んだ扉が現れ、たちまち薄汚れた壁と煤けた窓も現れた。まるで両側の家を押し退けてもうひとつの家が膨れ上がってきたようだ。
「急いで行くんだ」
リーマスに急かされ、彼女は磨り減った石段を上がった。扉の黒いペンキはみすぼらしく剥がれている。訪問客用の銀のドア・ノッカーは一匹の蛇がとぐろを巻いた形だ。鍵穴も郵便受けもない。ブラックが杖を取り出してその扉を一回叩いた。
するとカチッカチッと大きな金属音が何度か続き、鎖がカチャカチャと鳴るような音が聞こえて扉がゆっくりと開いた。
「早く入ってくれ。ただし、あまり奥に入ったり何かに触ったりするんじゃない」
ブラックが鋭く囁く。は目を細めながら敷居を跨いでほとんど真っ暗闇の玄関ホールに入った。湿った埃っぽい臭いがする。打ち捨てられた廃屋のようだ。家の主を失ってかなりの年月が経過しているのだろう。ブラックが玄関の扉を閉めると、ホールは完全な暗闇になった。
「わたしが明かりをつけるまで動かないでくれ」
ブラックがそう言ってからすぐにジュッという柔らかい音がして、旧式のガスランプが壁に沿って灯る。長い陰気なホールの剥がれかけた壁紙と擦り切れたカーペットにガスランプがぼんやりと明かりを投げかけ、天井には蜘蛛の巣さらけのシャンデリアがひとつ輝き、黒ずんだ肖像画が壁全体に斜めに傾いで掛かっていた。シャンデリアも、そのすぐそばの華奢なテーブルに置かれた燭台も蛇の形をしている。
「シリウス、リーマス」
突然ホールの奥から聞こえてきたその声に、はハッとして顔を上げた。そこにはこちらにゆっくりと歩み寄ってくるダンブルドアの姿がある。リーマスは軽く頭を下げて申し訳なさそうな声をあげた。
「遅くなりました」
「いやいや、君たちが一番乗りじゃよ。ノースウェストからじゃと身体が冷えたじゃろう? 早く中で温まるといい。おお、それからシリウス。こんなに素敵な場所を提供してくれて本当に感謝しておるよ」
朗らかにダンブルドアがそう告げると、ブラックは面目ないと言わんばかりに縮こまった。
「あ、いえ……こんなどうしようもない屋敷しかなくて……すみません」
「そんなことはない」
ニッコリ笑ったダンブルドアが今度はその顔をに向けた。
「、君もずいぶん疲れたじゃろう? 今日は早く休むといい。シリウス、上に寝室に使える部屋がいくつもあるじゃろう?」
「はい」
ブラックが頷くのを確認すると、ダンブルドアは満足そうに笑んで続けた。
「ではシリウス、をどこか部屋に案内してからまた下りてきてくれんかな? リーマスと君に話があるのでの」
その瞬間、ブラックの顔が引きつるのをは確かに見た。だがダンブルドアはリーマスを連れてホールの奥の部屋に向かって歩き出す。リーマスは「おやすみ、」と小さく微笑んで扉の向こうに消えた。と一緒にホールに残されたブラックはしばらくの間動かなかったが、やがて彼女のトランクと鳥かごに浮遊呪文をかけると「じゃあ……行こうか」と言って歩を進めた。
「そうだ。ホールでは、声を低くするようにしてくれ」
振り向きもせずにブラックが告げる。どうして、と問うと彼は「すぐ近くに起こしたくないものがあるからだ」と言った。はそれ以上追及せずに黙って彼の後をついていった。
寝室までの道のりでは不気味なものばかり見かけた。虫食いだらけの長い両開きのカーテン、巨大な傘立て(何に使うんだろう)、暗い階段を上ると萎びた屋敷しもべ妖精の首が掛かかった飾り板がすらりと並ぶ壁。どう見ても闇の魔法使いの家としか思えない。
「……あなたの家族は、闇の魔法使いだったの?」
ポツリと呟くと、彼はやはりこちらに背を向けたまま熱のない声で言った。
「そうとも言えるな。『高貴なる由緒正しきブラック家』だ。まったく、反吐が出る」
それきりまたブラックは黙り込んだ。
シリウス・ブラックは、あの『ブラック家』の生まれだったんだ。
魔法界で育った彼女がブラック家のことを知らないはずもない。純血主義のブラック家。自分の父親は
その、最後の生き残り。ひょっとして、わたしもブラック家ということになるんだろうか。
そんなことを考えてから、自嘲気味に小さく笑う。何を言ってるんだ。わたしは・ルーピンだ。
三つ目の踊り場まで来てから、やっとブラックが足を止めた。蛇の頭の形をした取っ手を引っ張り(その蛇に触れるとき、彼の顔に嫌悪の色が浮かんだように見えた)彼女のトランクと鳥かごを中に入れる。彼に続いて部屋に入ると、そこには埃を被ったベッドがふたつと洋箪笥がひとつ置かれていた。天井は異様に高い。ブラックが懐から取り出した杖を軽く振ると、部屋中の埃が忽然と消えた。
「もう十年以上誰も住んでなかった。だから、今日はこれで勘弁して欲しい」
は瞼を伏せたまま「充分だよ」と呟いた。
「それじゃあ……おやすみ、なさい」
彼に背を向け、トランクを部屋の奥へと引きずりながら口を開く。ブラックはしばしの沈黙を挟み、「……あ、あの、」と漏らした。
振り返り、眉をひそめる。
「何か?」
この暗がりでは彼の表情を窺うことはできない。彼はドアノブに手をかけたまま、吐き出すように「何でもない。おやすみ」と言ってすぐにパタンと扉を閉めた。ギシギシと音を立てて彼が階下へ下りていったのが分かる。
は扉のそばまで鳥かごを取りに戻り、そこに跪いて小さく吐息した。
「……何でこんなとこ、来ちゃったんだろ」
かごの中のがホーと鳴いた。途端に身体が冷えていたことを思い出し、トランクの中からシャツを取り出して羽織る。窓の外を見ても濁った空がどこまでも広がるばかりで。そのままベッドに横になると、は驚くくらいあっという間に眠りの世界へと引きずり込まれていった。