第二の課題も無事に終わり、三月も半ばに差しかかっていた。リータ・スキーターは相変わらずハリーの周囲を引っ掻き回しているようで、先日も『週間魔女』に彼の記事が掲載されていた。タイトルは『ハリー・ポッターの密やかな胸の痛み』。ハリー、ハーマイオニー、そしてビクトール・クラムの三角関係についてだ。記事は、ハーマイオニーが『愛の妙薬』を使用しなかったかどうかをダンブルドアは調査すべきだなどという下らない文章で締め括られていた。
多くの記事読者というものは、真実性よりも面白みを重視するらしい。ハーマイオニーは馬鹿げた三文記事を真に受けた愚かな読者たちから、今朝も嫌がらせの手紙(中には呪いの詰まったもの、吼えメールもあった)を大量に受け取っていた。「すごいわね、たったふたりの男子生徒に愛されただけでグレンジャー、あれだけの有名人よ」とヒソヒソ声で言ってくるフランシスに、「あんたバカ?」と吐息混じりに告げ、はカボチャジュースをごくごくと飲み干した。
「あんたもあんな記事信じてるわけじゃないでしょうね? ハーマイオニーにしたらいい迷惑よ」
「でも有名人になったことに変わりはないじゃないの」
はこれ見よがしに顔をしかめた。
「じゃあいっそほんとに『愛の妙薬』でも使ってクラムを落としてみれば? スキーターに言わせればこうね。『顔だけ
しかも大した顔ではないが
で『愛の妙薬』を作るしか能のないバカのハッフルパフ寮二年生ミス・アップルガース、あの三角関係に堂々参入(ただの阿呆である)』」
フランシスが真っ赤になって目尻をつり上げた直後、またグリフィンドール席で吼えメールが爆発した。
IN MY HEART
イースター休暇が終わると夏学期が始まる。いつもならシーズン最後のクィディッチ試合に備えて選手たちが猛練習をしている時期だが、今年のグラウンドはひっそりと静まり返っていた。
「なんか、変な感じね」
クィディッチ競技場が見える廊下で足を止めたフランシスがふと呟いた。も立ち止まって顔を上げる。
「何が?」
フランシスは窓の外を眺めながら小さく笑った。
「去年の今頃は、いつ見たってどっかのチームがわーわー練習してたのに」
「……あー」
気のない返事を返しつつ、親友の隣に並ぶ。曇り空の足元に広がるグラウンドにはひとっこひとりいなかった。そういえば去年の今頃は、優勝戦を控えたグリフィンドールとスリザリンが毎日のように練習していた。去年のグリフィンドールのキャプテンとは面識がなかったけれど、彼の熱意にはひどく感心したのを覚えている。彼の卒業はにとっても少しだけ残念だった。同じ学校で過ごせたのはたったの一年だったが、彼のいないグリフィンドールチームというのはまったく想像できない。
セドリックがスプラウト先生に呼ばれて夜中の八時過ぎに談話室を出て行ったのは、五月の最終週に入った頃だった。
「セド! 最後の課題、何だって?」
聖女の肖像画を通り抜けて談話室によじ登ってきたセドリックは、アレフの大声に顔を上げて寮生たちを見た。誰もが目を輝かせて彼を見つめている。セドリックは少し複雑な顔をして笑った。
「迷路だ。迷路の中に優勝杯が置かれる。それに一番最初に触れた選手が優勝だ」
「迷路を抜けるだけか?」
「いや、呪いや色んな生き物を障害物として置くらしい。これまでの合計得点でリードしている選手からスタートだ」
「じゃあセドとハリーからね!?」
四年生のハンナが嬉しそうに言った。みんなざわざわと最終課題について口々に話し出す。セドリックはアレフたちの輪に加わり、何やら楽しそうに笑っていた。はフランシスやケイトたちの傍らで、会話には参加せず黙々とクィディッチのルール集を読んでいる。彼女はセドリックが第三の課題について説明している間も、顔すら上げなかった。
そんな彼女をセドリック・ディゴリーがちらりと一瞥したことなど、ページに視線の先を貼り付けたままの彼女には知る由もなかった。
六月に入ると、ホグワーツ中にまたしても興奮と緊張がみなぎった。学期が終わる一週間前に行われる第三の課題を誰もが心待ちにしていたのだ。セドリックも空き教室を使ってアレフとよく呪いなどの練習をしているようだった。
一方のは期末試験の準備をしながら、何とかセドリックと対抗試合のことを頭から締め出そうとした。彼のことを考えるとどうしてもチャンの姿も一緒に脳裏に浮かび上がってくる。その度に何も手につかなくなるほど胸が苦しくなることが彼女には耐えられなかった。談話室で彼を見かけても、は故意にそこを避けるようになった。
今年の彼女の誕生日は期末試験初日だった。さすがに去年のことがあったせいか、親友たち三人は朝一番にお祝いの言葉を言いに来てくれ(フランシスは彼女を叩き起こして「おめでとう!」と叫んだので、寝起きの悪いは思い切り「うっさい寝かせろ!!」と怒鳴り返して布団を被ってしまったのだが)、また夏休みにみんなでダイアゴンに出かけることが決まった。リーマスはカードとお菓子の詰め合わせを贈ってくれた(プレゼントを持ってきたのはだった。は彼女の誕生日を知っていて、ノースウェストまでプレゼントを請求しに行ってくれたのだろうとは思った)。そして彼女はその日いつも以上にセドリックの集団を避けて行動し、とうとう彼と顔を合わせずに一日を終えることに成功した。
早いうちから試験勉強に没頭したことで、彼女は順調に(少なくとも自分ではそう思えた。あの『魔法薬学』でさえ薬の出来は上々だった!)試験をこなし、セドリックのことを考える時間もかなり減らすことができた。放課後はずっと図書館で机に噛り付き、就寝ギリギリまで粘ったのだ。試験最終日の前日には、図書館を出るときあのマダム・ピンスに「過度の努力は逆に毒ですよ」と言われたほどだ。ひとりで戻った談話室は、やはりセドリックに激励の言葉をかける寮生たちでいっぱいだった。
「セド、ついに明日が最後だな!」
「優勝は絶対にセドよ! みんな分かってるわ!」
友人たちの声を聞き流しながら、はそちらに目もくれず女子寮への階段を駆け上がった。自室に飛び込み、そのままの勢いでベッドに倒れ込む。寝室の扉はすぐにまた開いた。
「、いつまでも意地張ってんじゃないわよ」
不機嫌そうな声でフランシスが言ってくる。は布団に顔を埋めたまま手元の羊皮紙の束を握り締めた。
「大事な人が大事な試合を控えてるときにあんたがとる態度はそれなの? つらいのは分かるわ、でも泣くなら対抗試合が終わってからでも」
「わたしが応援したってしなくったって何にも変わらないじゃない!!」
はぴしゃりとフランシスの言葉を遮った。目尻に涙がにじませながら、歯を食い縛る。
「わたしひとりが応援しなくたってセドにはみんなの声援があるじゃない。わたし、セドの前に出たら笑ってられる自信なんかないよ……セドに会いに行ってみんなの前で泣きそうな顔してくるのと、ハッフルパフの生徒がたったひとり部屋に閉じこもってるのと、どっちがマシかなんて考えるまでもないでしょう?」
フランシスは何も答えない。大袈裟なため息のあと、彼女はバタンと大きな音を立てて部屋を出て行ったようだった。は着替えもせずに布団に潜り込むと、ぎゅっと固く目を閉じた。明日の試験のことだけ考えよう。『闇の魔術に対する防衛術』と、『薬草学』。この一年で『服従の呪文』に数秒は耐えられるまでになったし、マンドレイクの植え替えは完璧だった。あとは……。
やがて夢の世界に引きずり込まれていったは、そこで確かに漆黒の闇を見た。どこかで見たことがある……空に浮かぶ、髑髏の印。
そして
それを映した彼の横顔。
闇の中で懸命にもがいていると、耳元でそっと声がした。
「十時、談話室でセドリックが待ってるわ。あんたがもし本当に彼のこと大切だと思ってるなら、行きなさいよ?」
そして目を覚ましたときには寝室の明かりはすっかり消えていた。手を伸ばし、感覚を頼りに枕元の時計を取り上げる。その足元をくすぐると文字盤が仄かな光を発した。時刻は、十時十分。は慌てて布団を抜け出した。
足音を立てないようにそっと部屋を出る。彼女はゆっくりと階段を下りていった。談話室にはひとりしか残っていない。彼は階段と部屋の境に立ち尽くす彼女に気付くと、顔を上げて穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「来てくれないかと思ったよ」
彼の一言だけで、こんなにも動揺する自分がいる。はこみ上げてくる涙を瞳から零さないようにと瞬きを懸命に我慢した。少しずつ、少しずつ彼に歩み寄りながら小さく口を開く。
「……ごめん、寝てて」
「ほんと? 起こさせちゃってごめん」
セドリックは申し訳なさそうに眉をひそめた。ううん、と首を横に振る。彼は「座って」と自分のソファの傍らを軽く叩いた。一瞬躊躇するも、おとなしくそこに腰掛ける。彼女は太ももの上で両方の拳を握りそれをじっと見ていた。
彼が苦笑とともに、言う。
「どうしても訊きたいことがあったから、フランシスに頼んで、就寝後にここに来るようにって伝えてもらったんだ。眠くない? 大丈夫?」
ぼんやりする頭を軽く振って、は「大丈夫だよ」と嘘をついた。
「まず、言っておきたいことがあるんだ。遅くなったけど、十三歳の誕生日、おめでとう」
俯いたまま、ありがとうと呟く。言葉に熱がこもらないのは、きっと寝起きのせいだけではなくて。
セドリックは少し、寂しそうに声を落とした。
「? 僕には分からないんだ、教えてくれないかな。僕は君に、その……何かした?」
そこではやっと顔を上げてセドリックを見た。驚きのあまり、目を丸くして見つめる。彼はとても悲しそうな顔をしていた。
「な、何それ? どういうこと?」
「だって、ここのところずっと僕のこと避けてただろう? 思い過ごしかとも思ったんだけど、一昨日おめでとうって言おうと思ってもすっと僕の近くからいなくなって……さすがにちょっと、おかしいなって思ったんだ。もちろん、勘違いならいいんだけど、でも」
チャンの顔が脳裏を過ぎり、一瞬、目を伏せる。だがはかぶりを振って相手のグレイの瞳を見返した。
ダメだ。わたしはこの気持ちを、秘めなければいけない。
「……気のせいだよ」
彼は少しだけ目を細めた。
「わたし、試験勉強でしばらくずっとバタバタしてたから」
セドリックは納得のいかないような顔をしたが、それ以上の追及は避けたらしい。半ば諦めたように「そっか」と呟くと、傍らに置いていた小さな水色の袋を手に取った。よく見ると、リボンや質素なシールで丁寧に飾り付けられている。彼はいつもの落ち着いた目で微笑んで、それをこちらに差し出した。の黒い瞳はまずその袋に釘付けになり、やがて目の前の青年へと移った。
「のほど心のこもったものじゃないかもしれないけど、僕からの気持ちだよ。受け取ってもらえるかな。十三歳、おめでとう」
彼女はしばらく声すら出せなかった。ただ呆然とセドリックを見つめる。だが突然抑えきれなくなった涙が堰を切ったように溢れ出てきた。セドリックが途端にオドオドと狼狽える。
「え、え? 、どうしたんだ?」
何で。何で、どうして。どうしてあなたは、こんなに優しいの。
抱き締めてくれた彼の腕の中で、静かに嗚咽を漏らす。涙が止まらなかった。
自分があまりに幼すぎて。彼を避けることでしか、自分を保てなかったことがとても恥ずかしくて。
ひとりで卑屈になって、こんなにも優しくて誠実な人に応援の言葉をひとつもかけられなかったなんて。そしてまったく同時に、彼のこの優しさがとてつもなく憎らしかった。あなたはこうしてまた、わたしを虜にしていくの? 応えられないくせに、またわたしの心を根こそぎ奪っていく。
愛しい。憎い。
こんなにも、愛しい。
「……ごめんなさい、ありがとう……ごめんなさい……」
「……」
彼は怪訝そうな声をあげたが、それ以上は何も訊ねてこなかった。ただ泣き続ける彼女の背を優しく撫でていてくれた。
セド、好きなの。愛してる。
口には出せないその言葉を、何度も何度も胸中で繰り返す。彼の首にしがみついて、は小さく漏らした。
「……無事に、帰ってきてね?」
セドリックは彼女の耳元で小さく笑った。その息がくすぐったかった。
「もちろん」
「約束だよ?」
「うん、約束するよ。僕は優勝杯を持って、必ずここに戻ってくる」
優勝杯なんて要らないから。そんな栄光はここには必要ない。ハッフルパフにはみんなと、そしてあなたがいれば、それでいい。
髑髏を頂いた彼の青ざめた顔が瞼の裏に流れていく。
けれど。
でも、もう、大丈夫。
彼は戻ってくると約束してくれた。だから、大丈夫だ。
泣き疲れたは、彼の腕の中でそのまま眠りについた。翌朝自分のベッドの上でゆっくりとその瞼を開くまで、彼女は穏やかな寝息を立てて安らかな夢を見ていた。