クリスマスを終えたホグワーツはどこか間延びした空気だった。あんなに泣いたり笑ったりと大忙しだったフランシスも、最近は落ち着いたのか何なのか、寝室でゴロゴロしていることが多い。
珍しく部屋の中で一番に目覚めたは、ぼんやりした頭を掻きながらゆっくりと身を起こした。若干頭が痛いが、昨日は早目に布団に入ってしまったのでもう眠れそうにない。顔を洗って歯を磨き、無造作に着替えて談話室へと下りる。ソファにひとりでゆったりと腰かけた青年を見てはぎくりと身体を強張らせた。
こちらに気付いた彼は手元の杖から顔を上げ、ニッコリと微笑む。

「やあ、おはよう。早いね」

は引きつった笑みを浮かべながら、彼から少し離れたソファに座った。彼は杖磨きを再開する。セドリックがこうして談話室で杖の手入れをしていることは度々あった。

、ずっと言おうと思ってたんだけど」

セドリックは杖を磨く手を見つめたままそう口火を切った。ピクリと一瞬固まってしまう。彼は平生の穏やかな顔をふっとこちらに向けて言った。

「第二の課題の、卵の謎。のお陰で解けたんだ。ありがとう。ずっと、お礼を言わなきゃと思ってたけど、なかなか顔合わせられなかったから」

は驚いて何度も目を瞬かせた。意味が分からない。

「お、おめでとう。けど……どういう、こと? わたし何にもしてないよ?」

するとセドリックは小さく失笑した。テーブルに杖と杖磨きセットを置きながら口を開く。

「いや、のあの言葉がなければ無理だった。ほら、この前、廊下で会って話してたとき、君の実家の話になっただろう? すぐ近くに海があって、夕陽がとてもきれいなんだって」

ドキリとした。それは確かに少し前、廊下で彼と交わした短時間の会話だったのだが、覚えていてくれた。けれど、それが課題と何の関係があるのだろうか。
彼はニコリと笑って続けた。

「冬でも海の水があったかければ良かったのに。そうすればいつだって泳げる。水の中でしか見られない生き物の声が、水の中に入ればわたしの耳にも聞こえてくる。だからわたしは、海が好き。、君はそう言ったよね」

思わず緩んでしまう頬を片手で懸命に押さえつけ、は小さく頷いた。ああ、嫌になる。チャンと手を繋いで嬉しそうに笑んでいた彼を見たとき、もう二度と彼の前では笑ってやるものかと心に決めたのに。彼が自分の他愛のない話を覚えていてくれた。たったそれだけのことで、こんなにも。

「それが重要な鍵だった。あの卵は水中でしかヒントをくれないんだ。君とあの話をしなければ、僕にはきっと思いつかなかった」

は目を丸くして彼のグレイの瞳を見返した。頬がジワリと熱くなる。

「……あれは、たまたまムーディ先生と会ったときに実家の話になったから、成り行きで……だから別にわたしは、その……」

だがセドリックは落ち着いた顔で笑った。

「ありがとう、。次の課題も頑張るよ」

そう言って杖を手に立ち上がる彼を見上げ、彼女は微かに目を細めた。彼は「じゃあ」と言い残し、男子寮への階段をゆっくりと上がっていく。・ルーピンは彼の背中を、一月前よりずっと複雑な気持ちで眺めなければいけなかった。

after Second Task

マッド−アイ・ムーディの瞳を(普通の目も『魔法の目』も)直視するのは恐ろしかった。もちろん『魔法の目』が不気味だという理由もあるが、目が合うと彼にすべてを見透かされるようでぞっとする。彼の前で嘘でもつこうものなら、次の瞬間にはイタチにされていたって文句は言えまい。
だがクリスマス休暇が始まった二日目、彼女は廊下でばったりとそのふたつの目に遭遇してしまった。ピクッと口元を引きつらせる。ムーディはこちらにコツコツと義足を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ってきた。

「ルーピンか、ちょうど良かった。今から部屋に戻って茶でもと思っていたのだ。お前も来い」
「え? あ、いえ、先生……」

があたふたしているうちにムーディはさっさと歩みを再開した。選択の自由すら与えない強引な『お茶のお誘い』に辟易しつつも、仕方なくついていく。去年リーマスが使っていた『闇の魔術に対する防衛術』の部屋は飛びっきり奇妙なものでいっぱいだった。どう考えても怪しい道具だらけだ。ムーディは机の傍らの大きなトランクを示し、ぶっきらぼうに座れと言った。
彼が杖を軽く振ると、棚の中からカップがふたつ出てきて温かい紅茶が彼女の手の中に下りてきたが、はそれに口をつける気にならなかった。カップの側面に変な模様が入っていて気味が悪かったからだ。

「賢明だ、ルーピン」

ムーディが少し満足げに言った。

「敵がいつ襲ってくるか分からん。ものを口に入れるときにはいつだって細心の注意を払わねばならん、油断大敵だ」
「はぁ……」

曖昧に返して、はカップをそっと机に置く。ムーディは懐から携帯用酒瓶を取り出し、紅茶ではなくそれをグビグビと飲んだ。

「ルーピン」

酒瓶を仕舞いこみながら、ムーディはその『魔法の目』をぐるりと巡らせてを見やった。

「去年の授業の進行状況を、夏にルーピン先生が手紙で教えてくれた」

足元に落としていた視線を少しだけ上げては瞬きした。

「そうですか」
「お前のことを頼むと言われた」

ハッとして顔を上げると、ムーディはいつものむっつりした顔で机の怪しげな時計を眺めていた。

「お前は本当の父親に会ったことがあるのか?」

ドキッと心臓が跳ねる。彼はこちらを見もしなかった。やっぱり、この人は全部分かってるんだ。
視線をまた下ろしながら僅かに口を開く。

「はい」
「そうか。それでもお前は、ルーピン先生を父親と慕っているわけだな?」

彼女は答えなかったが、ムーディはそれを肯定と受け取ったらしい。天井を仰ぎながら、

「孝行したい時分に親はなしと言う。親父さんを大事にすることだな」

は目を丸くしてムーディを見た。彼がそんなことを口にするとは思いもしなかった。この人が、あのアイビスと同じことを言うなんて。

(……案外、普通の人なのかも)

そんなことを考えていると、ムーディの『魔法の目』がちらりと一瞬こちらを向いた。

「お前は北の生まれだそうだな」
「あ、はい」

気付いたときにはカップからゆらゆらと立ち昇る湯気が消えていた。

「ずっと北の、ノースウェストで育ちました」
「いい所か?」
「はい。わたしの家からは透き通るくらい青い海が見えて、夕陽が反射してオレンジ色に光る海はとてもきれいです」
「そうか」

まるでその光景を瞼の裏に映しているかのようにそっと目を閉じて(その『魔法の目』はジッとどこか虚空を見つめている) ムーディが感慨深げに呟く。訊かれてもいないのにの口からはなぜかその先がスラスラと出てきた。

「夏になると魔法使いの子供たちがいっぱい海に出て泳ぐんですよ。わたしも夏が大好きでした。海が近いから水の中でも息ができるようになるお菓子もたくさん開発されてて……あ、この辺じゃ珍しいみたいですね。それで海の深いところまで潜るのが楽しくて。海にしかいない生き物ってたくさんいるでしょう? みんなの声がいろいろ聞けてとっても面白かったです。ノースウェストは……父はわたしに、たくさんのことを教えてくれました」

久しぶりに故郷を思い出すと、ツンと鼻先に痛みが走る。ムーディはただ「そうか」とだけ呟いて、また酒瓶に口をつけた。
それからが部屋を出るまで、ふたりの間に会話はほとんどなかった。ムーディはすっかり冷めてしまった紅茶をさっさと片付けて「また来い」と言ったが、彼女はできることならもう少なくともお茶を飲みには来たくないと思った。

セドリックに出会ったのはその帰りだった。彼は図書館で調べ物をしていたようで、片手に五冊も本を抱えていた。なぜだろう。問われてもいないのに故郷の話をしたくなった。寮に向かって並んでゆっくりと歩きながら、彼は黙ってわたしの話に耳を傾けてくれていた。
あの日のことが。もう遠い昔のようで。色褪せて。霞んでいく。

フランシスが談話室に下りてきてから(「、どうしたの? 今日はずいぶんと早起きね!」)は朝食を摂りに行った。しばらくしてアレフたちと大広間にやって来たセドリックは彼女からやや離れた席に座り、こちらには顔も向けずに大笑いしながらオートミールをつついていた。
蜜の乗った林檎がこんなにも酸っぱいなんて、知らなかった。
校庭がまだ深々と雪に覆われているうちに新学期は始まった。数日前の『日刊予言者新聞』の影響で、ホグワーツの森番ハグリッドが半巨人であるという噂が飛び交うようになり(リータ・スキーターにしては珍しく、それ自体は事実だろうと思われる。彼のあの大きさから考えると。)彼のことを陰でいろいろと言う生徒が増えたが、セドリックは「生まれのことでとやかく言うものじゃないよ」とそんな生徒たちを時折たしなめているようだった。はハグリッドと別段親しい間柄でもなかったが、本人にはどうしようもないことで疎外されてきた人間があまりに近くにいたので、そのつらさは充分に分かっているつもりだ。そしてセドリックのそんな誠実なところがまたとても好きだった。

一月の半ば、フランシスと校庭を散歩しているときに船のそばでスタニスラフに出会った。気を利かせた(つもりの)フランシスは用事を思い出したなどという分かりやすい嘘をついてさっさと城に戻っていき、は湖の畔でしばらくスタニスラフとふたりでぼんやりと曇った空を眺めていた。
彼がダニーロフという修道院の庭が一番好きだと言った直後、少し離れたところで水の跳ねる音がした。大イカかと思って首を巡らせると、そこには水泳パンツ姿で全身から水を滴らせているビクトール・クラムの姿があった。呆気にとられてその姿をボーっと眺める。

「……あの人、何やってるの? 一月に水泳?」

クラムはこちらの存在に気付くと、スタニスラフに向けて軽く手を挙げ、そのまま船に戻っていった。スタニスラフは小さく笑い、首を横に振ってみせる。

「いろいろと、あるようです」
「……ふーん」

眉根を寄せつつ、湖に視線を戻す。はそこでふとセドリックの言葉を思い出した。『あの卵は水中でしかヒントをくれないんだ』。

(そっか……次の課題は、湖であるんだ)

日が沈む前にはスタニスラフに別れを告げ、城に戻った。談話室でフランシスと合流して夕食に向かう。フランシスはあの破局騒動以来、ベータとの関係は比較的落ち着いたものになっており、親友を放り出して恋愛に走るようなことはなくなっていた。
第二の課題の前夜、セドリックは第一の課題のときよりもリラックスしているようだった。寮生たちに「明日も頑張れよ!」と声をかけられると、「ありがとう」といつもの笑顔で答える。も寝室に上がる前に彼のもとへ足を運んだ。

「セド、明日だね。自信はあるの?」

彼は顔を上げてニッコリと微笑んだ。

「前回よりはね。少し不安もあるけど」
「そっか、落ち着いて頑張ってね」
「心配しなくてもセドはしっかりとお姫様を連れ帰るさ。な、セド?」

セドリックの向こう隣から身を乗り出してきたアレフがニヤリと笑う。セドリックは少し咎めるような口調でアレフに顔を向けた。

「アレフ、余計なこと言わないでくれよ」
「お、悪い悪い」

まったく悪びれた様子もなくニヤニヤと笑い続ける彼に、フランシスが訊ねた。

「お姫様を連れ帰るって、どういうこと?」

アレフは顔をしかめるセドリックの肩に腕を回し、少しだけ目を細めて笑った。

「それは、明日のお楽しみだ。ほらほら、お子ちゃまはさっさと寝ろ。はい、おやすみ」
「お子ちゃま? レディーに向かって失礼じゃない?」
「れでぃー? はい? どこにいるのか僕にはまったく見えませんが?」

白々しく遠い目をするアレフに牙を剥き、フランシスはドタドタと女子寮への階段を駆け上がっていった。苦笑いのセドリックと悪戯っぽい笑みのアレフに「おやすみ」と告げてから寝室へと戻る。『お姫様』という言葉が気になって、はなかなか寝付くことができなかった。
セドリックにとっての、お姫様。
それを連れ帰る    湖から?

(……まさか)

その晩は、ひどい悪夢にうなされた。目覚めたときにはあまり覚えてはいなかったが。とにかく、後味が悪いと言おうか、そんな不快な感覚だけが残っていた。
第二の課題。代表選手たちは、一時間以内に湖に隠された大切な何かを取り戻す。
そう    ホイッスルが鳴って一時間一分後、彼はその『大切な何か』を抱き抱えて湖面から顔を出した。
気付いていた。スタンドに、彼女の姿がないことには。
けれど。こうして目の当たりにしてしまっては。

「やった! セドが、セドが一番で戻ったわ! やったわ、セド!!」

歓声をあげて飛びついてくるケイトの背中を力なく抱き返しながら、は引きつった笑みを浮かべた。彼はこうして無事に帰ってきた。それなのに、こんなにも悲しいのは、どうして。
これは、喜びの涙なんかじゃない。

「ミスター・ディゴリー! 無事人質を連れて一番に戻りました!!」

バグマンが興奮して叫んだ。ハッフルパフ生たちは総立ちになって声援を送っている。だがはとてもそんな気持ちにはなれなかった。青ざめたチャンを抱いたまま岸辺に上がったセドリックが、咳き込みながらその場に崩れ落ちる。

「ディゴリー、大丈夫ですか! こちらへ!」

マダム・ポンフリーがふたりを促して、水面からもう少し離れた場所まで歩いた。そして準備してあった厚い毛布を被せ、彼らに『元気爆発薬』を飲ませている。意識を取り戻したらしいチャンが顔を上げてセドリックにニッコリと笑いかけるのを見て、は胃が捩れる思いがした。

続いてハーマイオニーを連れたクラム(頭だけがサメだった)、最後にロンと銀髪の少女を抱いたハリーが湖面に姿を現した。水中人の報告によると、人質に最初にたどり着いたのはハリーだったが、彼は人質全員を助けようとしたために遅れ、道徳的観点から考え、得点は四十五点。『泡頭呪文』で最初に人質を連れ帰ったセドリックは一分オーバーで四十七点。デラクールは人質までたどり着けず、二十五点、クラムは四十点だった。これでセドリックとハリーの合計点は並び、ホグワーツの代表ふたりが共にトップだ。セドリックの得点が発表されたとき、ハッフルパフ生たちの間からはまた歓声があがったが、は涙を流すばかりで声も出せなかった。

嬉しい。とても嬉しい。そう、言うべきなのに。
本当はこんなにも、悲しい……。
セドリックとチャンが見つめ合い、幸せそうに微笑む。やめて    やめて。

「第三の課題、最終課題は六月二十四日の夕暮れ時に行われます」

バグマンが叫んだ。

「代表選手は、そのきっかり一ヶ月前に課題の内容を知らされることになります。諸君、代表選手の応援をありがとう!」

マダム・ポンフリーが代表選手と人質だった生徒たちを引き連れて城へと歩き出した。スタンドの生徒たちもゾロゾロと階段を下り始める。観客席に座り込んだまま、は微かに波立つ湖面を呆然と眺めていた。友人たちも次第に周りから消えていく。「先に戻るわよ?」ケイトたちが帰っても、彼女はフランシスとふたり、そこにジッとたたずんでいた。
フランシスは何も言わずに隣にいてくれた。涙は頬ですっかり乾いてしまった。魂が身体から抜け出すことがあるのだとすれば、まさにこんな具合なんだろうなと他人事のように考える。そのとき、耳の奥に数時間前のバグマンの声が響いてきた。

「代表選手は一時間以内に湖に隠された一番大切なものを取り戻さねばなりません!」

一番大切なもの。まさか、こんな形で思い知らされることになろうとは。
対抗試合は、セドリック・ディゴリーにとって一番大切なものはレイブンクローの五年生、チョウ・チャンなのだと全校生徒たちの前で思い切り見せ付けてくれた。

(……もう、どうすることもできないの?)

割り込むことも、壊すことも。
もうふたりの間には、触れられない糸でもあるの?
ねえ、どうして。

「何で……」

途切れていた涙のしずくが、再び頬を伝ってこぼれ落ちた。ああ。こんなにも、苦しい。

「何で……わたしじゃだめなの」

こんなこと、言うべきじゃない。
彼が無事にハッフルパフに戻ってくればいい。ねえ、そう願ったでしょう?
嗚咽混じりに泣き続ける彼女を、フランシスはそっと抱き締めて宥めた。

「もう……触れられない、ふたりになっちゃったよ」
「そうね」

フランシスが静かに告げる。は勢いよく相手の背中にしがみつき、声をあげて泣いた。
ねえ。みんなの前で、彼女を愛してると示すことがどれだけ残酷なことか分かってる?
ねえ、セド。
愛しているのに    もう、愛してるとは言えない。決して。
聞いたことがある。初恋は、実らないって?
格言なんて、大抵は適当な言葉だ。けれど。

「セドのバカ……バカ」

どうしてあなたは、優しい人なの。
どうして、あんなにも真っ直ぐなの。
    忘れられないじゃない。
親友の腕の中で呟いた言葉など、彼に届くはずもなくて。

「……愛してる、セド」

その晩、ハッフルパフ塔の談話室で深夜まで続いた宴会に、・ルーピンの姿はなかった。
(06.01.05)