ニースもアイビスも無事に上級生のパートナーをゲットし、クリスマス・ダンスパーティに参加することが決まった。フランシスは甘いものと辛いものを同時に口に入れたような複雑な顔をしてはいたが、パーティに行きたくないなどとはまさか言わなかった。アイビスの相手はグリフィンドールの四年生ディーン・トーマス、ニースは以前から交際していたという(今までそんな素振りはかけらも見せなかった!)レイブンクローの五年生エーベル・ブラント。
クリスマスの朝、が目を覚ますと、寝室には四人分のプレゼントが雑然と置かれていた。去年のクリスマス休暇をハッフルパフ塔で過ごした生徒は彼女ひとりだけだったので、今年はそれだけで何だか嬉しい。リーマス、フランシス、ニース、アイビス、そして今年は同室のケイトとエラからの包みもあった。
「わーすごい、きれい!」
アイビスからもらった『アイスランドのクリスマス』という写真集をパラパラと捲りながら、感嘆の声をあげる。てっぺんに先が尖った飾りを頂いた光るツリーのページを開いたとき、の視界の隅に他のプレゼントに埋もれていて今まで気付かなかった包みが飛び込んできた。眉をひそめ、そこに手を伸ばす。カードはついていなかった。
「誰から?」
ベッドの上で家族からの菓子箱を漁っているフランシスが訊ねてくる。首を横に振って肩をすくめながら、はそっと包みを開いた。中には上等の鷲の羽根ペンがひとつ入っているばかりだった。
「何それ。たったの羽根ペン一本? 誰なの?」
こちらのベッドに移ってきたフランシスはの手から羽根ペンを取り上げて、少しだけ驚いた顔をした。
「あ、でもこれかなりのブランドものよ! 誰から?」
「分かんない。カードがないもの」
フランシスはふーん、とつまらなさそうに呟いて、再び自分のプレゼントのもとへと戻っていった。新品の羽根ペンをぼんやりと眺め、目を細める。
彼女はそれが誰からのプレゼントなのか、薄々と勘付いていた。
at Xmas night
その日の夕方の女子寮は大騒ぎだった。やれ髪を結ってくれだのリップを貸してくれだの。普段は無色のリップクリームしか塗らないだったが(しかも薬用)、今日ばかりは口喧しいフランシスが放ってはおかない。背中まで伸びた黒髪をすべてアップにし、後頭部で結われてしまったし、無理やりメイクまでさせられた。
「ねえ、この口紅ちょっと派手じゃない?」
鏡を覗き込んでそう言うと、フランシスは眉根を寄せて首を振った。
「そんなことないわよ、似合ってるわ。わたしの言うことを信じなさい」
「………そう?」
反論は諦めて、鏡の前から立ち上がる。すーすーと風の通るいつもとは違う首筋に、は少しだけ顔をしかめた。パーティーローブはウィーズリー夫人に選んでもらったもので、悪くはない。明るい紫色のローブ。フランシスやケイトたちも褒めてくれた。
「まぁ! 見違えたわね!」
フランシスの手による化粧を終えたが振り返ると、ケイトとエラがぱっと顔を輝かせて近付いてきた。ふたりもいつもより丁寧に髪を結ったり、メイクに気合を入れたりしていてとてもきれいだ。彼女らは共にハッフルパフの上級生をパートナーに得ていた。
「それにしても、他校の人から誘われるなんてすごいわよ!」
エラが興奮しきって言った。ケイトもうんうんと頷く。
「しかもその人、スタニスラフ、だっけ? けっこう顔もいいしね、お似合いだと思うよ。いいなぁ、羨ましい」
の笑いが幾分も引きつっていたことに、ふたりは気が付かなかったようだった。エラが頬を膨らませてケイトを見やる。
「あら、あなたはいいわよ。だってアレフでしょう? わたしが思うに、彼、ずっとあなたに気があったんじゃないかしら。ええ、きっとそうだわ。それに比べてわたしは……バッカスよ? 断られまくって仕方なく後輩にしたってバレバレじゃない!」
「文句言わないのよ。相手がいなくて行けない二年生なんていっぱいいるんだから」
「それは言えてるわね。うちの寝室は優秀だと言わざるを得ないわ、四人全員相手がいるんだから」
鏡と睨めっこして睫毛をいじっているフランシスが平淡な声で言った。
談話室はいつもの黒いローブの群れではなく、色とりどりの服装で溢れ返っていた。寮の階段下でケイトを待っていたアレフはスマートな濃い群青のパーティーローブで、いつもの陽気なイメージよりも落ち着いた大人の男性といった感が強い。でさえ一瞬ドキッと自分の心臓が高鳴るのを感じた。頬を朱に染めるケイトの腰に手を回しながら(「すっげーきれいだよ」)アレフがふとに顔を向け、にやりと笑う。
「お、。お前今ドキッとしただろう?」
は真っ赤になって怒鳴り上げた。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ!」
「ははは、冗談だよ」
軽く笑い飛ばして、彼は幸せそうに微笑むケイトと早々に談話室を去っていった。エラも、あまり気乗りしませんというオーラを全身から発しつつも、バッカスとふたりで部屋を出て行く。はフランシスと顔を見合わせると「わたしたちも行こうか」とエラたちの後を追った。談話室にはすでに、セドリックの姿はなかった。
玄関ホールも着飾った生徒たちでごった返していた。ダームストラングの生徒たちはまだ来ていない。気持ちとは裏腹に彼女の目は懸命にセドリックの姿を探していた。幸い、人混みに紛れているのか見つけ出すことはできなかったが。ちょうどそのとき、傍らのフランシスがはっと息を呑むのが聞こえてきた。
彼女の視線の先を追うと、そこにはレイブンクローの四年生ベータ・アクトンが質素なパーティーローブに身を包み、至極真面目な顔をして立っていた。フランシスは途端に目付きを鋭くしてそちらから顔を逸らす。ベータはゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、嫌がるフランシスの両手を力強く取った。これからどういう展開になるのだろうと思うとの方が緊張してしまったくらいだ。だがフランシスは何も言わない。ただ口を引き結んでじっと俯いている。するとベータはふっと優しく微笑んで彼女の頭を撫でた。フランシスの肩の力が抜けたのが容易に窺える。もまたほっと胸を撫で下ろした。
ちょうどそのとき、正面玄関の樫の扉が音を立てて開いた。ダームストラングの生徒がカルカロフ校長と一緒にホールに入ってくる。一行の先頭はクラムで、ブルーのローブを着た美しい女の子を連れていた。はあっと声をあげた。
ハーマイオニーだ!
少し距離があるので駆け寄る代わりに手を振ると、彼女もこちらに気付き、微笑みながら手を振り返してくれた。髪はいつものボサボサではなくて(ひょっとするとわたしも人様のことは言えないのかも。でも少なくとも彼女よりは普段からストレートだと信じたい)艶々と滑らかだし、きれいに後ろでアップにしている。立ち居振る舞いもどこかしら違う。フランシスはクラムのパートナーを見て少なからず驚いた顔をしていたが、あまりショックは受けていないようだった。「代表選手はこちらへ!」というマクゴナガル先生の声でふたりはまだ閉じられたままの大広間のドアの前へ進む。そのとき人混みを割って前へ出たセドリックとチャンの姿を捉え、は慌てて目を逸らした。彼は深みのある黒のローブを着ていて、それが彼の瞳の色にとてもよく映えていた。
やがて、ダームストラングの集団の中から彼女のパートナーであるスタニスラフが、黒いビロードのパーティーローブ姿でのところまでやって来る。彼は外の寒さのせいか、顔を少しだけ赤らめていた。
「、とても、美しいです」
どこに学校があるのか決して明かそうとしないダームストラング生だが、言語の異なる国にあるのだろうということは容易に想像がつく。けれど、うっかりいつもの調子で話すと時折通じないことがあったが、そうでなければ会話に支障はきたさない程度に彼は英語が上手だった。
「ありがとう」
大広間の扉が開くと、代表選手以外の生徒たちが次々と中に入っていく。選手たちの前を通り過ぎるとき、はハーマイオニーとハリーには笑いかけたが、セドリックとチャンの目はわざと避けた。
大広間に入り、席を選ぶときも、代表選手たちには背を向ける形で腰かける。審査員テーブルのクラウチ氏の席にパーシーが座っているのは気になったが。宴会の間中、は一度も選手たちに顔を向けなかった。
スタニスラフは寡黙な人だったが、それはダームストラングの秘密主義が影響しているのかもしれないと後になって分かった。クラムが学校のことを話している途中、それをカルカロフが「城の場所がばれてしまう」と止めたとハーマイオニーが話してくれたからだ。
食事を食べ尽くしてしまうとダンブルドアがテーブルを壁際に寄せてダンススペースを作った。それから右手の壁に沿って、ステージを立ち上げる。そこへWWN魔法ラジオネットワーク常連の『妖女シスターズ』が熱狂的な拍手に迎えられてドヤドヤと上がった。もスタニスラフを促して懸命に拍手を送る。
そのとき、テーブルのランタンが一斉に消えた。中央のダンスフロアだけが煌々と照らし出されている。その灯りの下へと歩み出た代表選手たちを見て、は息が詰まりそうになった。チャンの腰に手を回したセドリックが、嬉しそうに微笑んでスローなターンを披露する。チャンもまた穏やかに笑い、彼の瞳を真っすぐに見つめ返していた。は下唇を噛み締めて、自分の足元を頑なに睨み付けていた。
「? どうした、のですか?」
心配そうに顔を覗き込んでくる(彼はわたしの顔が胸元にくるほど背が高いので、彼は腰を折らねばならなかった)スタニスラフにぎこちない笑みを返して、は「何でもないよ」と言った。
顔を上げると、大勢の観客の中からフレッドとグリフィンドールのジョンソンが手を取り合ってダンスフロアに飛び出したところだった。フレッドはちらりとを見てウィンクしてみせる。それを契機にどっとみんながフロアに進み出て踊り始めた。
「ヴぉくたちも、踊りませんか?」
スタニスラフがこちらの手を取る。は小さく笑って「うん」と頷いた。
彼の踊りはとても優雅だった。彼のリードに合わせてターンすれば良いだけだったので、ダンスなど一度もしたことがないはほっと胸を撫で下ろす。慣れているのかと訊ねると、スタニスラフは照れくさそうに「家で教育の一環として習ったので、難しくはありませんと思います」と言ったので、ひょっとすると彼は名家の出なのかもしれない。少なくともの家庭では『教育の一環』としてダンスをしたりすることは決してなかった。曲が先ほどよりずっとテンポの速いものになると、彼は今までとは打って変わって陽気に踊り始め、は思わず笑ってしまった。
三曲ほどの演奏が終わり、僅かに息の上がったを見て、スタニスラフは「少し、休みますか?」と言った。
「何か飲み物を、取ってきます」
ダンスフロアから少し離れたテーブルにを座らせたスタニスラフは、そう言い残して人混みの中に消えていった。は首を巡らせてぼんやりとフロアを見つめる。フレッドとジョンソンがあまりに激しいので、みんなふたりを遠巻きに踊っているようだった。
「」
そのとき背中からかけられた声に、はぴくりと身を強張らせた。嫌だ。振り向きたくない。けれど、今ここでわたしが彼を無視したら、どうなるのだろう。
はゆっくりと振り返った。
「、来たんだね。すごくきれいだよ」
バタービールを右手に持ったセドリックが笑いながら彼女の隣に腰かけた。さらにその向こうの席に、同じようにジョッキを手にしたチャンが座る。は何もかも捨てていっそここから永遠に逃げ出せたらどんなにいいだろうと思った。
チャンの隣で幸せそうにしているあなたに、きれいだなんて言葉をかけて欲しいわけじゃない。
は目線を下ろして、ようやく「ありがとう」と小さく笑んだ。
ねえ。あなたは少しも気付いてくれないの?
平気な顔してわたしの前にいるけれど。何も感じないの?
「相手の人、ダームストラングなんだね。うまくいってる?」
彼がジョッキの縁に口をつけながら軽く言った。うまくいってる? 何それ。あなたは一体何を訊きたいの? どうでもいいじゃない。あなたはチャンと楽しく踊ってればそれでいいじゃない。それで、いいんでしょう?
が口を開こうとすると、バタービールを両手に持ったスタニスラフがちょうど戻ってきたところだった。「失礼。じゃあ僕らはお暇するよ」と言って、セドリックはチャンを連れどこかに行ってしまった。その後ろ姿を睨み付けて、唇を噛む。どうでもいいじゃん。放っといてよ。
「?」
呼びかけられて、ようやくは目の前にスタニスラフが立っていることを思い出した。慌てて作り笑いを浮かべ、ジョッキを受け取る。
「ごめんごめん、ありがとう」
彼女はそれをぐいぐいと一気飲みした。かっと喉に熱がこもり、身体中を爽快感が駆け巡っていく。空になったジョッキを掲げ、目を丸くするスタニスラフを前にしては声をあげた。
「美味しい! わたしまだバタービール飲んだことなかったの。ホグワーツではね、ホグズミードっていうところに三年生になるまで行けないの。この辺でバタービール飲めるのって多分ホグズミードしかないから。だから来年からは嫌になるくらい飲めるんだけど」
「
?」
眉をひそめた彼が、身を屈めてこちらの顔を覗き込んでくる。はそのとき初めて、自分の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていることに気付いた。やだな……せっかくフランシーにメイクしてもらったのに。みんなダンスに夢中でこちらに背を向けているのがせめてもの救いだった。
スタニスラフがそっと彼女の背中に手を添えて、その耳元で囁いた。
「少し、外に出ますか?」
片手で鼻の頭を押さえつけ、小さく頷く。は彼に促されるままに広間を横切り、玄関ホールを抜けて城の外に出た。正面の階段を下り、小道をしばらく歩き続ける。ようやく見つけた石のベンチに腰を下ろしたときにも、彼女の涙はまだ流れ続けていた。スタニスラフは傍らにふたつのジョッキを置き、彼女の肩に手を回す。は自分から彼に寄り添うことも、拒むこともしなかった。ただ頭の中には先ほどの映像が嫌というほど渦巻いている。彼は何も、言わなかった。
本当は、城に残るべきじゃなかったんだ。
は顎に手を添えられ、優しく彼の方へ顔を向けさせられた。スタニスラフの真剣な眼差しがすぐそこに迫っている。ほんのりとバタービールの香りが乗った吐息がふっと彼女の唇にかかった。彼がそっと目を閉じる。
は固く目を閉じて相手の両肩をむんずと掴んだ。驚く彼の身体を遠ざける。乾いた涙が少し頬に張り付いていた。
「……ごめんなさい」
震える声で、呟く。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
すると彼は、今度は少しだけ強引にを引き寄せてその頬に軽く唇を落とした。ぱっと顔を紅潮させて、キスされたところにそっと触れる。スタニスラフは小さく笑った。
「突然すぎました、謝るのは、ヴぉくの方です」
彼の大きな手は、この歳の青年にしては皮が厚く。とても温かくて。
「この学校に来て、皆さんの出迎えを受けたとき、あなたを初めて見ました。とても、美しい人ですと思いました。ヴぉくはそれから、いつもあなたのことを考えるようになりました。いつも、どこにいてもあなたを探すようになりました」
両手を握られたままはどんどん真っ赤になっていった。これはひょっとして……人生で初めて、告白されている!?
だが嬉しい気持ちと同時に、ひどい不快感も確かに彼女は感じていた。この顔
この顔は、自分の嫌いな顔だ。気付けばの口はつっけんどんに言葉を吐いていた。
「わたしの顔だけ、好きになったってこと?」
彼は少しだけ驚いた顔をした。彼女は顔をしかめながら、続ける。
「わたし、この顔が嫌いなの」
彼の手を払い除け、俯く。
「わたし、ずっとお父さんだと思ってきた人がいたの。お母さんはわたしを生んですぐ死んじゃって、生まれてからずっとその人に育てられてきた。でもね、ほんとはその人、赤の他人だったんだ。本当のお父さんは他にいて、無実の罪で十二年も牢獄に入れられてた」
わたしは何を言っているのだろう。こんなこと、この人に言うようなことじゃないのに。誰にも、親友にだって言ってないのに? わたし、何をしてるんだろう。
「わたしの本当のお父さんは、お母さんを放り出して親友を取ったんだよ。親友のために家族を……お母さんを放り出して、自分が牢屋に入ってる間にお母さんは死んじゃった。なのにお母さんのことは何ひとつ言わないの。親友の子供には父親面するくせにね。それにわたしにも何にも言ってこないし……プレゼントだって、名乗りもせずに一方的に送りつけてくるだけ。卑怯だよね」
スタニスラフはただただ、黙って聞いていた。
「わたしの顔ね、そんな父親にそっくりなの。だからわたし、この顔が嫌い。この顔だけ好きになられたって……素直に、喜べないよ」
沈黙はしばらく続いたが、やがて彼に力強く抱き締められては上擦った声をあげた。
「なっ、な……!」
「確かに最初は、顔だけでした」
耳のすぐそばで、彼の低い声が聞こえてくる。彼女はぞくっと身を強張らせた。
「でも、それは、ただのきっかけに過ぎません。今日あなたと一緒に食事をしたり、踊ったり、そうしてるうちに、ヴぉくはやっぱりあなたが好きですと思いました。本当です。きっかけは、あまり重要なことではないです」
目を瞬かせる。はそっと少しだけ彼のローブを握った。
「それに父親が誰でも、あなたはあなたです」
治まっていた発作が、突然また出てきた。涙が止まらない。は思い切りスタニスラフの身体にしがみ付きながら、嗚咽混じりに何度も頷いた。
「……ありがとう」
同じだ。この人とわたしは。同じなんだ。
わたしがセドを好きになったきっかけだって、ただ顔だけだった。一目惚れだった。一年前の新入生歓迎会で、同じテーブルだったかっこいい先輩。スタートなんて所詮、そんなところで。でも今は違う。ドラゴンの炎で大火傷を負った彼の顔だって愛してると言える。彼のすべてが愛しいと思える。きっかけなんて、重要じゃない。
彼は彼女の背を優しく撫でながら言った。
「分かっていました。あなたに、他に好きな人がいるということは、分かっていました。ずっとあなたを見ていたので、すぐに分かりました。でもヴぉくのパーティの誘いを受けてくれて、本当に、とても嬉しかったです」
……何で。
何でここまで、わたしとあなたは似ているの。たったひとつの差異は、わたしの好きな人は想い人をパートナーにすることができ、あなたが好きでいてくれているわたしは好きな人をパートナーにできなかった。たったそれだけのこと。
「ごめんなさい……わたし、あなたの言う通り、他に好きな人が……」
「仕方ないですと思います。でも、これだけは忘れないで欲しいです」
そう言って彼は彼女の身体を自分から少し離し、こちらの顔を覗き込んできた。
「対抗試合に来た北の国の学生に、あなたを好きな男がいたということ。そしてほんの数時間でも、一緒にいたのだということ。ヴぉくの人生の中でもほんの一瞬のように短い時間ですが、一生大切な思い出にしたいと思える時間でした」
目を見開く彼女の鼻先にもう一度唇を落としてから、スタニスラフは立ち上がった。その大きな手をすっとこちらに差し出してくる。
「戻って、もう一度ヴぉくと踊りませんか?」
は頬の涙の跡を慌てて拭った。あまり化粧が落ちていなければいいが。
彼女は顔を上げて、ゆっくりと目尻を緩めた。
「うん!」
『妖女シスターズ』が演奏を終えたのは真夜中だった。大広間に戻ってからスタニスラフとふたり、狂ったように踊り続けていたはようやくその足を止めて、汗で額にへばりついた前髪をかき上げた。
「あ……もう、終わり?」
息切れがする。酸素を求めてしばらく喘いでいると、スタニスラフは声をあげて笑った。彼がこんなに大笑いするのをは初めて見た。
「、少し張り切りすぎていました。疲れたでしょう? でもとても、良かったです」
は自分も笑い声をあげながら彼の手を取った。
「あなたもとっても良かったわよ! 楽しかった、ありがとう!」
セドリックとチャンの方は絶対に見るものかと、彼女は意固地にそちらに背中を向けていた。玄関ホールに出て、スタニスラフに「おやすみなさい」と告げる。彼は頬を染めて不器用に微笑んだ後、彼女の耳元でそっと口を開いた。
「最後にひとつ、お願いがあります」
「何?」
目を瞬かせると、彼は目線を泳がせながら尻すぼみに言った。
「あの……一度、ヴぉくの名前を、呼んでくれませんか?」
一瞬理解できずにぼーっとしてしまったが、はすぐさま真っ赤になってあたふたとうろたえた。「嫌なら構いませんが……」と悲しそうに呟く彼の耳元に、背伸びして唇を運ぶ。は耳まで朱に染めて「……スタニスラフ、おやすみ」と告げ、急いで踵を返し、大理石の階段を駆け上がった。あー……すごく、恥ずかしい! 何だか付き合い始めの恋人みたいじゃないか。赤面化したスタニスラフがようやく船に爪先を向けたのはそれから数分後だったが、彼女にそんなことを知る由もない。
女子寮の簡易シャワーで軽く汗だけ流すと、はほとんど落ちかけていた化粧をさっさと洗い流して布団に入った。セドリックとチャンのことはときどき脳裏を掠めたが、スタニスラフのお陰で今はそれほど考えなくてすんだ。疲れ切ったのは彼女ばかりでなく、フランシス、ケイト、エラも同じで、四人が四人とも、ベッドに横になってから眠りに落ちるまでは一分もかからなかった。翌朝の談話室はまた、宴会の翌日のように静かだった。