娘に杖を向けたリーマスを見てハーマイオニーは驚愕の声をあげた。は彼女の腕の中でぱたりと気を失う。

「ルーピン先生!?」

彼は落ち着いた様子で小さくかぶりを振った。

「少し眠ってもらっただけだ。心配は要らない」

そう言ってリーマスは再びロンに顔を向ける。

にはすべてを話さなければならない。しかし今は、時間がないんだ」

ロンがねずみを抱き締めたまま泣きそうな顔で「ひっ」と小さく悲鳴をあげる。ハリーとハーマイオニーもぎこちない動きで赤毛の親友を見つめた。

nowhere

意識を取り戻したときにはすべてが終わっていたらしかった。医務室のベッドに横たわり寝息を立てていた彼女は、けたたましい怒声で目を覚ました。

「ヤツは断じて『姿くらまし』をしたのではない!」

スネイプが吼えているのが扉の向こうから聞こえてきた。

「この城の中では『姿くらまし』も『姿現し』もできないのだ! これは断じて何かポッターが絡んでいる!」
「セブルス、落ち着くのじゃ。ハリーは閉じ込められておる」

バーンという音がして、病室のドアが猛烈な勢いで開いた。スネイプとダンブルドア、そしての知らない初老の男がひとり。ダンブルドアはどこか涼しげな顔をしており、初老の男は怒り、スネイプはひどく逆上していた。

「白状しろ、ポッター! 一体何をした!」

通路を挟んでの向かいに寝ていたハリーのもとへツカツカと歩み寄ってスネイプが怒鳴った。マダム・ポンフリーが真っ赤になって金切り声をあげている。

「スネイプ先生! 場所をわきまえてください!」
「スネイプ、無茶を言うな。ドアには鍵がかかっていた、今我々が見た通り」
「こいつらが奴の逃亡に手を貸した! 分かっているぞ!」

スネイプは布団に入ったままのハリーとハーマイオニーを指差して喚いた。初老の男が大声をあげる。

「いい加減に静まらんかスネイプ! つじつまの合わんことを!」
「閣下はポッターをご存じない! こいつがやったんだ、分かっている。こいつがやったんだ」

ひとり興奮しきった状態でまくし立てるスネイプを見て、ダンブルドアが静かに言った。

「もう充分じゃろう、セブルス。自分が何を言っているのか考えてみるがよい。わしが十分前にこの部屋を出たときから、このドアにはずっと鍵がかかっていたのじゃ。マダム・ポンフリー、この子たちはベッドを離れたかね?」
「もちろん離れませんわ! 校長先生が出てらしてから、わたくし、ずっとこの子たちと一緒におりました!」

眉をつり上げてポンフリー先生は怒鳴った。

「ほーれ、セブルス、聞いての通りじゃ。ハリーもハーマイオニーも同時に二ヶ所に存在できるというなら別じゃが。これ以上ふたりを煩わすのは、なーんの意味もないことじゃと思うがの」

煮えたぎらんばかりのスネイプはその場に棒立ちになり、まず初老の男を、そしてダンブルドアを睨み付けてバタバタと医務室を出て行った。なぜか初老の男はショックを受けた顔をしていた。

「あの男、どうも精神不安定じゃないかね? わたしが君の立場なら、ダンブルドア、目を離さないようにするが」
「いや、不安定というわけではないのじゃよ。ただ、ひどく失望して、打ちのめされておるだけじゃ」
「それはあの男だけではないわ!」

男は声を荒げて言った。

「『日刊予言者新聞』はお祭り騒ぎだろうよ! 我が省はブラックを追い詰めたが、奴はまたしても我が指の間からこぼれ落ちていきおった! あとはヒッポグリフの逃亡の話が漏れればネタは充分だ! わたしは物笑いの種になる……さてと、もう行かねば。省の方に知らせないと……」

は思わず身を起こそうと首をひねった。全身に鈍い痛みが走りたまらず布団に倒れ込んでしまったが。誰もそのことに気付いた様子はなかった。
シリウス・ブラックが。また逃亡したのか。
言いようのない感情がぐるぐると目まぐるしく脳裏を駆け巡る。やがて男とダンブルドアは、吸魂鬼がホグワーツから引き揚げ、校門をドラゴンに護らせてはどうかと話しながら出て行った。

しばらくして病室の向こう端から低い呻き声が聞こえた。目を覚ましたロンはベッドの上で起き上がり、頭を掻きながらきょろきょろと周囲を見回している。

「ど、どうしちゃったんだろ、ハリー? 僕たちどうしてここにいるの? シリウスは? ルーピンは? 何があったの?」

ハリーとハーマイオニーが顔を見合わせるのが布団の上から辛うじて見えた。は布団の下で両方の耳を塞ぎ、ぎゅっと固く目を閉じた。
何が起こったのか。彼女は何も知らない。
塞いだ耳と手の間から時折ハーマイオニーがロンに施している説明が聞こえてきたが、それでもには彼女が一体何を言っているのかさっぱり理解できなかった。ただスネイプの推察通り、シリウス・ブラックの逃亡に手を貸したのがハリーとハーマイオニーだということだけはぼんやりと分かった。
なぜ、どうして。何も知りたくないし、何も聞きたくない。どうか三人とも、わたしが起きていることに、気が付かないままでいて。

そうこうしているうちに再び疲れが出てきたのだろう、は知らぬ間に布団の中で寝息を立てていた。
はハリーたちと共に翌日の昼には退院した。四人揃って医務室を出たとき、言いにくそうな顔をしてハーマイオニーが「、あの……その、昨日……」と口を開いたので、は力なくかぶりを振ってみせた。

「いいんです、ハーマイオニーさん。何も言わないで下さい」
「……でも」
「必要があるなら、父から何か言ってくるはずですから」

そう言って目を伏せ、歩き出そうとしたの腕をハーマイオニーが掴んだ。振り向くと、眉根を寄せた彼女が真剣な面持ちで告げてくる。

「じゃあ、これだけ聞いて。シリウスは……シリウス・ブラックは無実よ。これだけ、信じて」

何も感じなかった。
はそっとハーマイオニーの手を自分の腕から外すと、三人に背を向け俯いたまま歩き出す。それ以上は誰も何も言ってはこなかった。昼食も食べずに校庭に出る。
そのままふくろう小屋へと向かったは、すぐさま彼女の肩へと飛んできた小さな森ふくろうの頭を撫でた。

「……よしよし。いい子だね」

このふくろうの主人になってからまだ一日余りしか経っていない割にはよく懐いてくれている。は小屋の中ほどまで進み、入り口に背を向ける形で手近な石に腰を下ろした。

「昨日はね、誕生日だったはずなのに……なんか、疲れちゃったよ」

たまたまだろうか、ふくろうが彼女の耳元で優しくホーと鳴いた。小さく微笑んで顔を上げると、透き通った天井を通し、眩しいほどの青空が輝いているのが見える。昨夜彼女の身に起こったことなどすべて夢だと嘲笑うかのように。
夢だったのかもしれない。もしもそうであるならば、どれほど救われるか。
当惑に満ちたシリウス・ブラックの顔が脳裏を過ぎる。
すべてが夢なのだとしたら。

そのとき、ふくろう小屋の扉がゆっくりと開いた。だが彼女は振り返らなかった。

「具合はもういいのかい? 
「それ以上入ってこないで」

答えの代わりにそう告げると、ガサ、と芝を踏む音がして彼が入り口で立ち止まったのが分かった。肩のふくろうが扉に顔を向け不安げに鳴いた。

「ここにいると思ったんだ」

リーマスの声からは何も読み取れない。

「昨日は……誕生日おめでとう、。その子に名前は付けたのかい?」

彼女は顔を上げ、もう一度ふくろうを撫でた。小さく息をつき、物憂げに言葉を吐き出す。

「つけたよ」

ふくろうの頬ずりがくすぐったい。

「『』って言うの」

彼が息を呑むのが気配で知れた。そこでやっと、は身体ごと振り返った。真っ青になった父が    父親だと信じてきた男が、ひとりでそこに立っている。

「いつでもお母さんと一緒にいられるように……決めたの」

リーマスは今にも泣き出しそうな顔をした。父のそんな顔は、今まで見たことなどなかった。

……すまなかった」
「何に謝ってるの?」

彼女の声音はあくまで平淡だった。熱も力も何ひとつこもらない。どうして。わたしはもう何もかも諦めたのだろうか。
彼は目を閉じ、唱えるように言った。

「君の本当の父親のこと……わたしはずっと、隠し通すつもりだった。すまなかった」
「やっぱりシリウス・ブラックがわたしの本当のお父さんなんだね?」

リーマスは答えなかったが、彼女にはそれだけで充分だった。父の沈黙は肯定に等しい。知っている。
はふくろうのの方に首を傾けて呟いた。

「何でずっと、嘘ついてたの」

彼は言葉に詰まり不自然に視線を泳がせている。彼女は溜め息雑じりに言った。

「わたし、リーマスが本当のお父さんじゃなかったとしても……わたしにとって大事なお父さんだってことは変わらないんだよ。シリウス・ブラックが本当のお父さんだったってことよりも    この十二年、リーマスがずっとわたしに嘘ついてたっていうことの方がもっとずっと悲しい」

くたびれた鳶色の髪をかき上げる父はこれまで以上にやつれて見えた。それはもしかしたら、あのアズカバン出のシリウス・ブラックよりもひどいかもしれないなどとふと考える。はぼんやりした目で虚空を見上げた。

「わたし、小さい頃は平気で嘘つく子だったよね。でも、でも五つのときにどうしても欲しい玩具があって、どうしてもどうしても欲しくて……リーマスの財布からお金盗って、買いに行ったことがあった。リーマスにお金のこと訊かれても知らないって平気な顔して言って、リーマスもそれ信じてくれた……その玩具が見つかったときだって、最初は『もともとあった』なんてすぐバレる嘘ついて、それでもわたしは平気だった。リーマス、あのとき本気で本気で怒った……すっごく怖かった。わたし、嘘をつくのが悪いことだって気付くよりも先に、嘘つくとリーマスがすっごい怖いくらい怒るって分かって……それで、それで嘘つくのやめたんだよ? あれ以来ずっと、わたしは嘘つくのが怖くて、全然嘘がつけなくなった。わたしが『誠実』なハッフルパフに入れたのだって、リーマスが嘘つくのは悪いことだって教えてくれたからなんだよ、絶対。わたし、この一年ハッフルパフで過ごしてすごく楽しかった。わたし、ハッフルパフが大好きだよ。正直でいることを教えてくれたリーマスが、十二年もずっとわたしに嘘ついてた……ショックだったよ、すごく。ショックだった……信じたくなかった。わたし、リーマスを許せない」

そこで突然。
堰を切ったように涙が溢れ出てきた。
こちらに駆け出そうとした父を彼女は再び威嚇した。

「来ないでってば!」

もう顔は上げられない。抱えた膝に額を押し付けては地面に疎らなしずくを落とした。ふくろうのが何度も彼女の後頭部を優しく突いた。

「それに、リーマスは脱獄囚のシリウス・ブラックをホグワーツに入れた」
「それは違う! 、それは違うんだ。話を聞いてくれ、頼むから」

涙でぶれる視界の中心にリーマスを捉える。彼は拳を握ってその瞳で懸命に何かを訴えかけていた。
は下唇を軽く噛み、リーマスに向き直る形でゆっくりと立ち上がった。両手で濡れた頬を拭い、顔を上げる。
リーマスは少しずつ彼女の方へと歩み寄り、そしてその手を伸ばそうとしてきたが。

「触らないで」

彼の目を真っ直ぐ見据え言い放つと、リーマスは一瞬瞼を伏せすぐにその手を引っ込めた。彼は擦り切れたローブのポケットに両手を突っ込みから視線を外す。そんな父の横顔を眺め、彼女は目を閉じた。
リーマスは小屋の中、の周りをしばらくぶらぶらと歩き回ってから、そしてぽつぽつと話し始めた。
(05.12.25)