隠し通そうと思った。たとえ彼が再び現れても。そうすることが彼女のためにもなると思った。
いや、やはりそれは、自分の身勝手な決めつけか。
だが、今頃彼が戻ってきたからと言って、それが彼女の何になる?

けれども。

    ああ、とうとう彼女は知ってしまった。

IN DESPAIR

「……まさか?」

初めに口を開いたのはシリウス・ブラックだった。彼は信じられないといった面持ちで穴のあくほどの顔を凝視している。彼女もまた薄汚れた彼の顔をじっと見つめ返していた。

「まさか……」

ねずみを懸命に押さえつけたロンが真っ青になって顔を上げた。

、君、まさか……本当は、ブラックの?」

そこにいる誰もの視線がとブラックに釘付けだった。否、スネイプだけは余裕すら感じさせる笑みをただその口元に浮かべ、リーマスは愕然と床に倒れ込んでいる。は身動きが取れなかった。
今日という日までずっとリーマスが父親だということに何の疑いも持っていなかった。自分の顔が父に似ていないのも、完全な母親似だという父の言葉を信じていた。けれども    
この黒い瞳以外は自分とまったくそっくりと言っても構わないほどの男が今こうして目の前に立っている。
そして母の名は    ・ブラック』。

誰も一言も発さないのを見て取り、スネイプが不気味に笑った。

「残念なことだが、ミス・『ルーピン』? 今夜また二人、アズカバン行きが出る……君の、その二人のお父上だよ」

そしてその狂気じみた目をジロリとリーマスに向ける。

「ダンブルドアがどう思うか、見物ですな。ダンブルドアは貴様が無害だと信じきっていた……分かるだろうね、ルーピン? 飼いならされた、人狼」
「……馬鹿な。学生時代の恨みで無実の者をアズカバンに送り返すというのか?」

リーマスがゆらゆらと立ち上がりそう呻くと同時、バーンと音がしスネイプの杖から細い紐が蛇のように噴き出てリーマスの口、手首、足首に巻きついた。リーマスはそのままバランスを崩して転倒する。怒りの唸り声をあげブラックがスネイプを襲おうとしたが、スネイプがブラックの眉間に真っ直ぐ杖を突き上げた。

「やれるものならやるがいい。我輩にきっかけさえくれれば、確実に仕留めてやる」

ブラックがぴたりと止まった。スネイプはニヤリとその目を細めてみせる。

「貴様が存在すら知らなかったであろうこの小娘を……貴様が魂を抜かれる前に、せめて顔だけでも見せてやろうと思い連れてきた我輩に感謝するんだな? そう……吐き気がするほど貴様に瓜二つの、この小娘を」

ブラックの目が再びに向いた。そのグレイの瞳は当惑に満ちていた。
その時突然、ハーマイオニーが恐る恐る言った。

「スネイプ先生……あの、いきなり色々なことがありすぎて……その……この人たちの言い分をもう少し聞いてあげても、害はないのでは、あ、ありませんか?」
「ミス・グレンジャー。君は停学を待つ身ですぞ」

スネイプが吐き捨てた。

「君もポッターもウィーズリーも、許容されている境界線を越えた。しかもお尋ね者の殺人鬼や人狼と一緒とは。君も一生に一度くらい、黙っていたまえ」
「でも、もし誤解だったら……それには、今とても混乱しています」
「黙れ、バカ娘!!」

心配そうにこちらを一瞥したハーマイオニーにスネイプは突然狂ったように喚き立てた。

「分かりもしないことに口を出すな!!」

ブラックの眉間に突きつけたままのスネイプの杖先からパチパチと火花が散った。ハーマイオニーは黙り込んだ。
スネイプがその顔をまたブラックに向け囁く。

「復讐は蜜より甘い……お前を捕まえるのが我輩であればと、どんなに願ったことか」
「お生憎だな。しかし、その子がねずみを城まで連れて行くなら」

憎々しげな顔をしてブラックがロンを顎で示した。

「私は大人しく、ついていくがね」

は眉を顰めた。ねずみ? そういえばあのねずみは、確かハーマイオニーの猫に食べられたという疑惑のあったねずみではなかったのか。しかもなぜそれにシリウス・ブラックが固執する?

「城までかね?」

と、スネイプは滑らかに言い放った。

「そんなに遠くに行く必要はないだろう。柳の木を出たらすぐに、我輩がディメンターを呼べば済むことだ。連中は貴様を見れば、さぞかしお喜びになるだろう。そして喜びのあまり、貴様にキスを……」

途端にブラックの顔から全ての色が消し飛んだ。スネイプが満足そうに笑む。

「……聞け。私の言うことを、聞け。ねずみを……ねずみを見るんだ」

だがスネイプはもはや理性を失っているようだった。その目はが今までに見たこともないような狂気に満ちている。

「来い、全員だ」

スネイプが指を鳴らすと、リーマスを縛り付けている縄目の端が彼の手元に飛んできた。

「我輩が人狼を引きずっていく。ディメンターがこいつにもキスをしてくれるかもしれん」

そう言ってスネイプがニヤリと笑った途端、の全身に震えがほとばしった。ディメンターのキスがどういうものなのか、知識としてだが彼女は知っている。がそんなスネイプの前に飛び出そうとした時、先に動いたのはハリーだった。ハリーがドアの前に立ちふさがりスネイプを睨み付けている。

「どけ、ポッター」

スネイプは憎々しげに唸った。

「我輩がここに来てお前の命を救っていなければ……」
「ルーピン先生が僕を殺す機会はこの一年に何百回だってあったはずだ。僕は先生と二人きりで何度も吸魂鬼防衛術の訓練を受けた。もし先生がブラックの手先だったら、そういう時に僕を殺してしまわなかったのはなぜなんだ!」

リーマスが、ハリーにそんな訓練を。
は顔を上げハリーを見た。

「人狼がどんな考え方をするか、我輩に推し量れとでも言うのか。どけ、ポッター」

すると突然ハリーが絶叫した。

「恥を知れ!!」

は驚きのあまり飛び上がった。

「学生の時からかわれたというだけで、話も聞かないでアズカバン送りにしようなんて」
「黙れ!! 我輩に向かってそんな口のきき方は許さん!!」

スネイプはますます狂気じみてハリーに向け唾を撒き散らした。そうしているうちに、は傍らに立ち尽くすハーマイオニー、ロンとちらりと目を合わせ    

「どくんだ、ポッター!!!」

スネイプがもう一度そう言って一歩踏み出そうとしたところで。
は懐から杖を取り出して叫んだ。

「エクスペリアームス、武器よ去れ!!!!」

突然、ドアの蝶番ががたがた鳴るほどの衝撃が走り、スネイプが足元から吹っ飛んで壁に激突した。彼はそのままずるずると床に滑り落ち、その脂ぎった髪の下からは血がだらだらと流れている。はその時、自分だけでなくハリー、ロン、ハーマイオニーまでもが先ほどまでスネイプのいた所に杖先を向けているのを見た。
ブラックが震える声で呟いた。

「……こんなことを、君たちがすべきではなかった」
「ああ、何てこと……私、先生を攻撃してしまったわ!」

ハーマイオニーが泣きそうな顔をした。だが、はとてもそれどころではなかった。リーマスの縄を懸命に解いているブラックをぼんやりと眺め、寒気の止まらない自分の身体を抱き抱える。
身体の自由を取り戻したリーマスが、青白い顔でに目を向けた。それにつられてかハリーたちも、ブラックもこちらに身体ごと向けてくる。は俯いて口を噤んだ。

わけが分からない。何もかも。
シリウス・ブラックのことも。そして    十二年も信じてきた、父のことも。

……」

彼女の方に一歩足を踏み出したリーマスを、は怒鳴り声で遠ざけた。

「近付かないで!!!」

リーマスの足がぴたりと止まった。ロンが息を呑むのが聞こえた。
はゆっくりと顔を上げ、目の前の父を   リーマス・ルーピンを睨み付けた。自分の瞳が涙で潤んでいることに気付くが構わない。

「どういうこと? リーマス、あなたはずっと……小さい時からずっと、ずっとずっと、私に嘘つき通してたの? リーマスは、昔から色んなことをたくさん教えてくれた。でも肝心なことは、何一つ話してくれなかった! 何で? 私は本当に……シリウス・ブラックの子供なの?」

リーマスは固く目を閉じて口元を引き結んだ。ブラックはただ驚愕と困惑の色を浮かべたまま口を開かない。
ようやく瞼を上げたリーマスは、ひどく疲れた顔をしていた。

……すまないが、その話は後にしよう。私は今から、シリウスと一緒にしなければならないことがある。これはとても、大事なことなんだ」

大事なこと? 私よりももっとずっと    大事なことっていうこと? リーマスは顔を伏せ、いつもより幾分も低い声でブラックに言った。

「先にピーターを片付けよう……いいかい、シリウス?」

ブラックは何か言いたげにの方をちらりと見たが、やがてリーマスに向き直り「分かった」、呟いた。

はそのままへなへなと床に倒れ込んでしまった。ハーマイオニーが慌てて駆け寄って傍らにしゃがみ込みそっと背中を撫でてくれる。それでもの全身の震えは止まらなかった。
父は    リーマスは。ただでさえ彼女の出生の重大な秘密を隠していたというのに。もっと大切なことがあると、面と向かって言われてしまった。今まで何の疑問もなく信じてきた全てのものが、根底から覆されたようで。自分という存在にとてつもない不安と不信を抱き、はこの世の何もかもが恐ろしくなった。
私はずっと、リーマスを信じてきたのに。スネイプがどんな卑屈な攻撃を仕掛けてきたって耐えられたのは、すぐ傍にリーマスがいてくれたからで。それなのに。

リーマスと並んだブラックがロンを見下ろして言った。

「君、ピーターを渡してくれ」

ロンはスキャバーズをますますしっかり胸に抱き締めて悲鳴をあげた。

「冗談はやめてくれ! スキャバーズなんかに手を下すために、わざわざアズカバンを脱獄したって言うのか? それこそ狂ってる」

そしてロンは助けを求めるようにハリーとハーマイオニーを見やった。

「ねえ。ペティグリューがねずみに変身できたとしても、ねずみなんて何百万といるじゃないか! アズカバンに閉じ込められてたこの人が、一体どうやって自分の探してるねずみを見つけられるって言うんだい?」
「そうだとも、シリウス、まともな疑問だよ」

リーマスが眉を顰める。するとブラックは骨が浮き出るような手を片方ローブに突っ込みクシャクシャになった紙の切れ端を取り出した。しわを伸ばし、彼はそれを突き出してみんなに見えるようにしてみせる。は敢えて顔を逸らした。
何もかも、分からない。リーマスもブラックも、一体何を話しているのか。
私は    どうすればいいの。

抱き抱えた膝に額を押し付けると、突然堰を切ったかのように涙が溢れてきた。嗚咽を隠し切ることが出来ず、ハーマイオニーが「? 大丈夫? ?」と何度も抱き締めてくれた。けれど。
もう、どうすればいいのか……分からない。
脳裏に浮かんだのは、大好きなあの人のことだった。

ねえ、セド。私は一体、どうしたらいいの?
あなたが私の誕生日を祝ってくれたのは    そう、ついさっきの、ことだったよね?

ねえ、セド。
助けて。

彼女が意識を手放したのは、それから数十秒も経たないうちのことだった。
(05.12.22)