胸に濃い霧でもかかったかのように気分の優れないは、シリウス・ブラックの二度目の襲撃があった週の土曜日、ひとりでリーマスの研究室を訪れた。彼は彼女を部屋に迎え入れながらも、「城内と言えどもこんな時間に寮を出て歩き回るのは感心しないな? 」と視線を鋭くした。壁の時計は夕方を示している。
「どうして?」
すると彼は少しだけ目を丸くして肩をすくめてみせた。
「どうして? 賢明な答えとは言えないな。シリウス・ブラックがいつまた校内に現れるか分からない」
「でもリーマス。フィルチやミセス・ノリスが城中を駆けずり回ってるし、ねずみの出入り口だってしっかり塞いだって聞くよ? グリフィンドール塔はトロールが警護してるし、ブラックはもう二度と」
「そんなものが通用する相手なら、とっくに捕まっているだろう」
リーマスは眉をひそめ、静かに
だが強く言った。は息を呑みしばし口ごもっていたが、父のローブの内側からはみ出た何かに気付き声をあげた。
「リーマス、その羊皮紙は?」
彼は慌ててその紙をローブの奥へと押し込んだ。
「何でもないよ。それより、、どうしたんだい?」
はリーマスのデスクへと歩み寄りながら口を開いた。
「特に用事は……ないんだけど。ただ、会いたくなって」
だがリーマスは喜ぶどころかことさら顔をしかめた。
「それなら早く談話室に戻りなさい。送っていこう」
デスクを回り、傍らまでやって来たリーマスを見上げ、は怪訝そうに問うた。
「リーマス……ほんとにどうかしたの?」
明らかに平生と様子の異なる彼は、娘から視線を外し小さく言った。
「いや……ただわたしは少し、神経質になっているようだ」
リーマスが彼女の背にそっと手を添えて歩き出す。は自分の足元を見つめ、部屋の入り口まで来たところでようやくその喉から声を絞り出した。
「ひょっとして
シリウス・ブラックのせい?」
ぴたりとリーマスの足が止まる。急いで顔を上げると、彼は青ざめて口を閉ざしたまま、ただただ何かに耐えているようだった。
彼は何も、答えなかった。
THE EMPTY OFFICE
初めてのイースター休暇は地獄だった。
「何なのよ、これじゃデートも出来やしないわ!」
談話室で憎々しげに真っ白の羊皮紙を眺めていたフランシスが吼えた。
この休暇は期末試験前最後の長期休暇とあってか、先生たちはここぞとばかりに大量の宿題を出した。特にスネイプのそれは数十年来の恨みを一気に吐き出したかと思われるほど凄まじかった。「愛しのベータに教えてもらえばいいじゃないの」と冷たく言い放つと、彼女は「自分の宿題で手一杯だからわたしとは会う気もしないですって!」とヒステリー気味に叫んだ。
宿題に追われているのは言わずもがな一年生ばかりではなく、セドリックもよく談話室でひどく嫌そうな顔をして教科書と睨めっこしていた。だがひとりで図書館に行った日、彼はときどき嬉しそうな顔をして戻ってくることがある。その理由を友人たちに問われても、セドリックはただ「何でもない」と楽しそうに笑っていた。そのとき彼の頬が若干色づいていることに、彼女が気付かないはずもない。は泣きそうになりながら慌てて羊皮紙に視線を落とした。
そして休暇も終わり、とうとうクィディッチの優勝戦当日を迎えた。グリフィンドールの選手たちが大広間に入ってくると、を含め学校中の多くの生徒たちが彼らに拍手喝采を送った。ただスリザリンだけが嫌味な野次を飛ばしていたが、そんなことを気にする者など誰もいない。ウィーズリーの双子がこちらに向けて手を振っていることに気付き、は大きく両手を振り返し笑った。
獅子寮のキャプテンは朝食の間ずっと選手たちに「食え、食え!」とやたらと勧め、自分は何も口にしていないようだった。それから多くの生徒たちが食べ終わらないうちに、「早いとこフィールドに行って状態を掴むんだ! さっさと行くぞ、急げ!」とメンバーたちと急かした。彼らが広間を去る時にもまた大きな拍手が湧き上がる。「ハリー! 頑張ってね!」とチャンがハリーに声をかけているのを見て、は目を伏せた。
グリフィンドール対スリザリン戦は熾烈を極めた。正確に言えば、スリザリンのあまりに卑怯な数々の手口によって。グリフィンドールの解説者リー・ジョーダンは試合開始当初からとても中立とは言えない実況を繰り返しマクゴナガル先生に幾度となく怒鳴りつけられていたが、スニッチを追うハリーの箒の尾をスリザリンのシーカーがむんずと掴んだときには、マクゴナガル先生までもが怒り狂ってスリザリンのシーカーに向け叫んでいるのが見えた。グリフィンドールのチェイサー、スピネット選手も怒りのせいかペナルティ・ゴールを外してしまった。
「行け、行け、行けーーー!!」
あんなにファイアボルトのことを憎々しげに語っていたフランシスも、紅に染まる観客席から身を乗り出し絶叫した。
すると突然、スリザリンのシーカー、マルフォイが勝ち誇ったような顔で急降下していった。ハリーが慌てて箒を滑らせるが、マルフォイの方が明らかにリードしている。は拳を握って声を張り上げた。
「行けーーポッターーー!!!」
スリザリンのビーターがハリーめがけて勢いよくブラッジャーを打ち込む。だがハリーは箒の柄にぴったり身を伏せると、そのままマルフォイに追いつき
そして。
箒から放した両手を突き出し、ハリーがマルフォイの手を払い退けた。次の瞬間には彼は急降下から反転し、空中高くその手を掲げてみせた。競技場が途端に爆発した。
「やった! スニッチを取った!!」
涙を流しはニース、フランシス、アイビスと共に飛び跳ねながら抱き合った。そしてそのまま紅の応援団は柵を乗り越えてフィールドになだれ込む。生徒たちは選手たちのもとまで押し寄せて彼らに勢いよく飛びついた。はフレッドとジョージの双方を抱き締めて大声で泣き続ける。
「勝ったぁーー!! 優勝だ、優勝だぁぁーーー!!!」
「!! 僕たちが優勝さ!!!」
「見ててくれただろう? 僕らが勝ったんだ!!」
双子も顔中を涙で濡らし奇声をあげた。やがてふたりはスニッチをかざしたハリーを肩車し、優勝杯を持つダンブルドアのもとへと颯爽と歩いていく。はフランシスたちと目を合わせ、選手たちの後に続いた。
獅子寮のキャプテンが泣きじゃくって一際大きな咆哮をあげるのを傍らで見ながら、彼女はまた笑った。歓声はいつまで経っても止みそうになかった。
シリウス・ブラックの事件などすっかり忘れ去ってしまったかのように城中はずっと沸き立っていた。もう何年も鼻持ちならないスリザリンがクィディッチ杯を手にしてきたのだ。グリフィンドールが再び王者の座に輝いたとあって、グリフィンドールばかりでなくスリザリン以外の生徒たちはみな爽快な気分だった。いつまでもこうして酔っていたいものだと、は獅子寮の双子と校庭で菓子の山をつつきながら思った。
ところがそうはいかなかった。六月に入り、期末試験が刻一刻と迫っている。フランシスはまたデートがお預けになったとひどく苛々していた。O・W・L試験を控えたセドリックもが見たことのないほどぴりぴりしている。それでもやはりひとりで図書館に行った彼は、どこか綻んだ顔をして戻ってくるのだった。だが自分たちも大切な試験を目前にした五年生たちは、そのことについてとやかく詮索をしなくなっていた。
期末試験は四日に渡って行われた。は『箒飛行術』と『闇の魔術に対する防衛術』以外、とんでもない結果に終わってしまったことを自覚していた。特に『魔法薬学』は……ああ、二度とスネイプの顔など見たくないと思う。けれど「やっとこれでベータに会えるわ!」と心底嬉しそうに歓声をあげるフランシスを見て、は終わったことは忘れようと心に決めた。
O・W・L試験を終えた五年生も、他学年の生徒たちと同じように元気よく談話室へと帰ってきた。「『狼人間の特徴を三つ挙げよ』、セド、お前のヤマ勘が見事にドンぴしゃりだな!」とそのうちのひとりが嬉しそうに言うのを聞いては心臓が口から飛び出すかと思ったが、何とかそれだけは食い止めた。何事もなかったかのようにフランシスとの間に置いたチェス盤に視線を戻す。
数十分後、敗北を喫したは顔をしかめて盤を叩いた。「負けたからって八つ当たりかルーピン! 見苦しいぞ!」と相手側の駒が怒鳴った。フランシスは自慢げに鼻を鳴らす。
「はーい、またわたしの勝ちね。今度は……そうね、七月中にでもダイアゴン横丁に付き合ってちょうだい。新しい服買いたいの」
「もう……何であんたって純粋にゲームを楽しめないわけ? たまには『はい勝った』で終わりにしたっていいんじゃないの? いつもいつも勝ったからアレして、コレして、って……わたしを何だと思ってるの?」
「だって、ただ普通にゲームするだけじゃつまらないでしょう? それに、弱いんだもの」
「うわ、すっごい嫌な感じ。ていうかあんた、今日が何の日か気付いてないでしょう?」
半眼で眉根を寄せると、フランシスは間の抜けた声をあげた。
「今日? 六月二十一日? 何かあったかしら?」
「……うーわ、それこそ最低。あなたの誕生日にフリットウィック先生のレポートやってあげたのはどこの誰だったかしら?」
途端にフランシスは素っ頓狂な声をあげた。
「の誕生日って今日だったっけ!?」
「……歌う手帳に書き込んでくれたんじゃなかったのかしら?」
嫌味たらしく告げると、フランシスは心底驚いたようだった。チェス盤を引っくり返しこちらに身を乗り出してきて悲鳴をあげる。
「ごめんなさい! 試験のことばっかりでうっかりしてたわ!」
「それからベータのことでね」
フランシスは小さく舌を出してみせたがそれをすぐに引っ込めた。は試験が終わるや否や親友が彼女を放り出してレイブンクロー塔へ向かったこともひどく根に持っている。いつ思い出してくれるかと思い、敢えて自分からは言わないつもりだったが
はとうとうこのままでは無理そうだと判断した。
「じゃあさっきのダイアゴンの話は帳消しにしましょう! それでいい!?」
「はぁ!? それが誕生日プレゼントってわけ!? 大層な贈り物ね!?」
完全に腹を立てたは唾を散らして喚き立てた。喧騒を聞きつけた寮生たちが次第に周りに集まってくる。その中にいたセドリックが困ったように笑った。
「フランシス……さっきのはさすがにひどいんじゃないか?」
フランシスは途端に小さくなりソファの上で縮こまってしまった。も真っ赤になって俯く。だがセドリックは彼女に優しく言ってくれた。
「今日が誕生日だったんだね、おめでとう、」
周りのハッフルパフ生たちも口々に「おめでとう!」と叫ぶ。それに紛れてフランシスも一度だけ「おめでとう!」と言った。予想外の祝福に、先ほどまでとは別の意味で顔に熱がこもる。は辺りを見回して「ありがとう」と繰り返した。
周囲が談話室中にそれぞれ散っていく中で、最後の方まで残ったセドリックがを見やり口を開いた。
「ああ……ごめん、知らなかったからプレゼントは何も用意できてないんだけど」
「そ、そんなのいいよセド! プレゼントが欲しくて言ったわけじゃ……」
慌ててかぶりを振ると、彼は「違うんだ」と笑った。
「ああ、でも知っちゃったからね。何かできないかなって思って。それでひとつ提案なんだけど、夏休みに入る前にもう一度、飛行練習をしてみないか?」
「え?」
目を丸くする。セドリックは肩をすくめてみせた。
「もちろん、僕と一緒が嫌なら構わないんだけど。でも、あれから一度も授業以外で箒に乗ってないだろう? だから、もしが望むんであれば……今度は僕も、もっと気を付けるから」
あまりに想定外の贈り物にはしばらくポカンとしてしまったが、ようやく首を振ると上擦った声で答えた。
「セ、セドがいいならもちろん喜んで!」
「良かった。それじゃあ決まりだ。日はまた明日にでも決めよう」
にこやかにそう告げるセドリックから僅かに外した視線を下に向けると、ソファの上で膝を抱えたフランシスが意地の悪そうな笑みでこちらを見上げていた。彼が友人たちのもとへと去っていった後に歯を剥いて親友を睨み付けると、フランシスはの耳元で「わたしのお陰でこれ以上ないほど幸せなプレゼントをゲットできたでしょう? やっぱりさっきのダイアゴン行きは取り消さないわ」と囁いた。その言葉に再び憤慨したはとうとう足元のチェス盤を蹴り飛ばして談話室を飛び出した。
リーマスは朝一番に彼女にふくろう便を送ってくれた。そしてそのふくろうが、まさにプレゼントそのものだったのだ。彼女は箒の次にふくろうが好きだった。そのことは何度かリーマスの前で口にしたことがあったのだが、まさか買ってくれるとは夢にも思ってもいなかった。
今日は満月だ。満月の日、は彼の部屋を訪れないようにはしていたが
どうしても、会いたい。親友にあのような態度をとられては、たとえセドリックに素敵なプレゼントを貰ったとしてもやはり寂しいものがある。脱狼薬を飲んだ人狼は無害だ。そばにいるだけならば構わないだろう。
は『闇の魔術に対する防衛術』の研究室の前で立ち止まった。二度ノックをするが、返事はない。もう変身してしまったのだろうか。彼女は杖を取り出してドアノブにかざした。「アロホモラ」、カチャリと音を立てて鍵はいとも簡単に開いた。
部屋は真っ暗だった。ルーモス呪文を唱えると研究室中が明るく照らし出される。父の姿はどこにもなかった。
「リーマス?」
は声をあげ部屋の中を駆けずり回った。なぜ。今夜は満月だ
いないはずが、ない。狼の姿で城内を歩き回れるはずがないではないか。
「リーマス? ねえ、リーマス!」
だがどこを探してもリーマスは見つからなかった。それにデスクの上には、あのゴブレットすらもない。
スネイプは今日、薬を持ってこなかったのか。が歯軋りを漏らし、『魔法薬学』教授の研究室へと向かおうと踵を返すと。
「こんな時間に何をしているのかね? ミス・ルーピン」
もくもくと煙のあがるゴブレットを手にしたセブルス・スネイプが立っていた。