リーマスがクリスマス休暇はホグワーツに残ると言ったので、の選択肢は必然的に決まった。クリスマス前後がちょうど満月に重なるため彼はスネイプの脱狼薬を飲んで部屋で大人しくしているという。
「がどうしてもノースウェストに帰りたいと言うのなら一緒に帰るけれど?」
そう言って笑うリーマスに彼女は頬を膨らませてかぶりを振った。家で待ってくれている家族でもいれば別だが、そうでもないのに取り立てて帰りたいとも思わない。ハッフルパフ生の中で城に残るのはひとりだった。
「あー、限りなく寂しい」
ぽつりと呟いて彼女は談話室のソファに倒れ込んだ。暖炉の中でパチパチと爆ぜる炎を眺め溜め息をつく。
「……あ。そういえば」
彼女は身を起こして自分の座るソファを見下ろした。
休暇が始まる前日の晩、彼はここに座って転寝していたっけ。いつもは穏やかな大人びた顔付きなのに、寝顔はとても子供らしくて笑ってしまった。は愛おしげにそっとソファの表面を撫でた。そして突然、再びそこにパタンと身を横たえる。
「あーもうダメ……・ルーピン、お前の恋など終わったぁー!」
投げやりに怒鳴ったところで誰も聞いてはいないし答えてくれることもない。虚ろな目で濁った天井を見上げると、談話室の扉の向こうから彼女を呼ぶ声がした。
「、いるかい?」
彼女は首を巡らせて呻いた。
「いるよー、リーマス」
staring BLACK DOG
運命の金曜日が訪れた。
彼女は一日、授業どころではなかった。『呪文学』でフランシスのローブには火をつけてしまうし(「蛙チョコ一ダースで手を打ってあげるわ」)、『箒飛行術』では手を滑らせて危うく落下しそうになるわ、『魔法薬学』の授業では大鍋から大量の怪しい煙と異臭を立ち昇らせて二十点も減点されてしまった。もっとも、ミスをしなかった日でもスネイプはハッフルパフではにだけ難癖をつけてちまちまと減点するのだが。やはりどう足掻いても、彼は彼女のことが嫌いらしい。「ただでさえ少ない寮の点数がお前のせいで余計に減っちまうな? そのうちマイナスにでもなるんじゃないのか」と合同だったスリザリン生に馬鹿にされ、言い返そうとしたところを見られただけで更に十点減点された。
そんなこんなで、遂に放課後の時間がやって来た。
フランシスと談話室へと戻ったは、既にそこにセドリックがいるのを見て慌てて声をあげた。
「あ、ごめんセド! 遅くなって……」
「おかえり。僕もさっき戻ってきたばかりだから。僕はここで待ってるから、準備が出来たら下りておいで」
微笑むセドリックを見るだけで頬に熱がこもる。フランシスの意地の悪そうな笑みを思い切り睨み付けながら彼女は寝室へと戻った。空っぽの部屋に飛び込んだフランシスが黄色い声をあげる。
「つ・い・に! この時が来たわね! でかしたわ!!」
「あー! フランシー!! 声が大きい!!」
拳で殴りつける真似をするとフランシスはけらけらと笑った。コートとマフラー、手袋でがしっかり防寒している間にも彼女は上機嫌に鼻歌など歌っている。
「せっかくのふたりきりの時間よ……これはまたとないチャンスだわ! ここで一気にセドリックの気を惹きつける!! あなたには難しいかもしれないけど、ここはやっぱり色仕掛け? あーいえ、あなたなら怪我でもしてセドリックに医務室に運んでもらうとかの方が効果的かもね? ええ、そうよ!! いっそ箒から落ちちゃいなさい!!」
「縁起でもないこと言うんじゃないの!!」
唾を散らしながらフランシスを怒鳴りつけては自室を飛び出した。談話室へと下りる途中危うく階段を踏み外しそうになった。
談話室では、穏やかな顔をした彼が待っていてくれる。
「準備はいいか? 行くよ?」
彼女は頷いてゆっくりと顔を上げた。いざという時になると、人間案外落ち着いていられるものだなどと感慨深く考える。周囲は休暇やホグズミードの話題で盛り上がっており、ふたりのことなど気にも留めていない。
はセドリックに続いてハッフルパフ寮を出た。何気なく振り返ると、扉の聖女は悪戯っぽい笑みをこちらに向けて手を振っている。はその聖女にどこか親友に通じるところがあると感じ、僅かに顔を顰めてみせた。
ふたりの間に会話はほとんどなかった。時折思い出したように彼はクィディッチや飛行のことで少し口を開いたが、それ以外はただ黙って進んでいた。友人たちと楽しそうに笑い合う普段の姿からはあまり想像がつかないが、実は彼は不器用な人なのかもしれない。彼女はそんな彼から一歩距離を置いて歩いた。
箒置き場に着く頃には、雪はすっかりやんでいた。
「は日頃の行いがいいのかな? やんで良かった」
セドリックが目を細めて一面の銀世界を見渡す。彼女は「そうかもね」と言って笑った。彼は何十本も並んだ箒の中から彼女に一本選んで手渡してくれた。
「学校の箒には残念ながら大したのはないんだ。癖のあるやつが多いし、中には飛びたがらないのまでいる。僕が思うに一番まともに飛ぶのがこいつだ。試してみるといいよ」
「ありがとう」
は相手の顔を見上げて微笑んだ。彼が自分のために選んでくれたと思うと箒一本でもこんなにも愛しく思える。
セドリックは自分用の箒もその中から選んで(自分の箒にはあまり無理をさせたくないと言って彼は持ってこなかった)、彼女の格好を見やった。
「あー……、僕は今日は監督者みたいなものだから構わないんだけど、君はもう少し軽い服の方がいいかもしれないね」
自分の服装を見下ろしは唸った。確かにこのコートは若干重いかもしれない。
「大丈夫、、コートを脱いでごらん」
「え!? 寒いよセド……」
素っ頓狂な声をあげるとセドリックは笑った。
「大丈夫、大丈夫。僕を信じて取り敢えず脱いでみて」
ドキ、と、落ち着いていた脈が急激に速まった。目線を泳がせ俯き加減におずおずと上着を脱ぐ。すぐさま寒風が彼女のローブに強く吹きつけは身震いした。と。
彼が杖を取り出し何やら呪文を唱えた途端、ポッと突然身体を心地よい熱が包み込んだ。
「……何これ、あったかい」
「ローブが熱を発するようにしたんだ。これで飛びやすいはずだよ、さぁ、コートを渡して」
彼は彼女のコートを受け取ると、それを自分のコートの上から羽織り箒に跨って軽く地面を蹴った。セドリックはあっという間に空へと舞い上がった。
「、今日は軽く飛ぶだけにしよう。すぐに暗くなるし、放課後の練習は初めてだしね。今日はの好きに飛んでいいよ、僕がちゃんと見てるから」
見てるから。
彼の言葉に若干目眩を覚えながらは箒に跨った。地面を蹴って宙へと飛び上がる。セドリックの場所にはすぐ追いつけた。
そうだ。今、この時は。彼が私のためだけに空けてくれた時間。
彼は今、私だけを見ていてくれる。
どれだけの時間、どうやって飛んでいたのかはよく覚えていない。ただ、彼の魔法でぽかぽかと温かいローブの中で、彼の視線の先、自由気ままに旋回していた。時々セドリックが「いい動きだ、はチェイサー向きかもね」と叫ぶのが聞こえてきた。
そしてやがて、雪山の向こうにまさに陽が落ちようとしていた、その頃。
ふと目線を真下に下ろすと、彼女は森の側の湖畔に佇む黒い影を見た。
(あ、あの犬……)
昨日の晩、談話室で見たような気がしていた黒い犬。
その犬が
確かに、こちらを『見上げていた』!
ゾッとして、彼女は思わずその手を滑らせてしまった。
「!?」
セドリックの絶叫が遠くに聞こえる。
手放した箒に振り落とされたはそのまま物凄いスピードで真っ逆さまに落下していった。
その後のことは、何も覚えていない。
「……すみません、僕の監督不行届きです」
「まったく、だから一年生の授業外飛行は許可したくなかったのです」
「……本当に、すみませんでした。ルーピン先生も、その……大切な娘さんをお預かりしたのに」
「いやいや、セドリック。学校でその話はなしにしよう。君は何も悪くないよ。練習を見てくれるように頼んだのはだ。がもっと注意して飛ぶべきだった」
「いえ、僕がもっと気を付けていれば……」
数人の話し声がぼんやりと聞こえてくる。
ゆっくりと瞼を上げると、くすんだ白が視界に広がっていた。消毒薬のにおいがつんと鼻をつく。じんじんと痛む首を巡らせて辺りを確認すると、彼女の横たわるベッドの脇には見知った人々が数人立ち尽くしていた。
「!!」
枕元に立つセドリックがこちらの顔を心配そうに覗き込んで叫んだ。
「セド……?」
「、本当に……本当に悪かった。僕がもっと君の側を飛んでいたら」
「え? 何のこと……」
目を瞬かせて身を起こそうとすると、全身に鋭い痛みが走りは思わず顔をしかめた。マダム・フーチが物憂げにぼやく。
「ミス・ルーピン。その身体ではしばらく動かない方がいいと思いますよ?」
眉根を寄せる彼女に、今度は人差し指を立てたリーマスが告げた。
「、君は飛行中に箒から落ちてしまってね。そのまま湖にドボン、だ。セドリックが医務室まで運んできてくれた。お礼を言いなさい」
は目を丸くしてセドリックを見つめた。彼は本当に申し訳なさそうに顔を歪めている。
そうか……あの時、手を滑らせて……そのまま。
彼女は泣きそうな顔をして呻いた。
「ごめん、セド……ほんとにごめんなさい。ありがとう……ごめん……ありがとう……」
「命に別状はないけど、数日は入院になるそうだよ。大人しくしてるんだね」
そう言ってリーマスは肩をすくめた。マダム・フーチは「ミス・ルーピンはしばらく箒は禁止です」と言い残して医務室を出ていった。
と、突然、セドリックが何か思い出したかのように目を見開いた。
「セド、どうしたの?」
「……いや。が落ちた時……おかしなことがあったんだ」
「おかしなこと?」とリーマスも眉を顰める。セドリックは神妙な顔をして頷いた。
「僕はから少し離れたところを飛んでいたので……が湖の辺りに落ちたのは分かったんですが、急いで湖に行ってみると、は……」
「は?」
リーマスが穏やかに促す。
「は……湖畔に、倒れていたんです」
とほぼ同時にリーマスも顔をしかめてみせた。
「でもセドリック? 君はここへ来た時、が湖に落ちたと言わなかったかい?」
「言いました。でもそれは、が全身ずぶ濡れだったからそう言ったんです。でも、は確かに、湖畔に倒れていました
」
「……どういうこと?」
わけが分からず間の抜けた声をあげる。リーマスは自分の言葉にすらかなり疑いを持っているような口調だった。
「誰かがを湖から助けたということかい?」
「それ以外考えられません」
「でも……誰が?」
それきりセドリックも頭を抱えて黙り込んでしまった。
の脳裏を過ぎったのは、湖畔で彼女を見上げていたあの黒犬だった。
「まさか……」
彼女の呟きをリーマスは聞き逃さなかった。細めた目をきらりと輝かせてこちらの顔を覗き込んでくる。
「何か思い当たる節でもあるのかい? 」
「あーでも……まさか、そんなはず」
犬に助けられるなんて。
だがリーマスは「話してごらん」とを促した。自信なさげにぼそぼそと呟く。
「……飛んでた時に見たの。湖畔に、黒い犬がいて……私のこと、見てたの。それで、びっくりして落ちちゃって……その後のことは、全然覚えてないけど」
リーマスの顔が一瞬のうちに強張ったのを彼女は見逃さなかった。だが彼は懸命に平静を保とうとしているようだった。
「……黒い、犬?」
「うん、大型犬みたいだった昨日の夜も、見たような気がするんだけど……まさか、犬が助けてくれるわけ、ない、よね? ね、リーマス?」
リーマスはうんと言わなかった。ただ何かに絶望しているように見えた。父のこんな顔を、ここ数年は見たことがなかったのに。がまだ幼い頃、彼は時折こうして震えていたことがあった。
「リーマス? あの犬のこと、何か知ってるの?」
「私は何も知らない」
今度の答えは早かった。が頬を膨らませ声をあげようとしたその時。
「ルーピン先生、ディゴリー! まだいたのですか!? ミス・ルーピンは安静にしなければいけません、早く出て行って下さい!」
奥の部屋から肩を怒らせた女の人が出てきた。はその女性を見たことがあるような気がしたが、いつどこで出会ったのか思い出すことは出来なかった。
「マダム・ポンフリー、をお願いします」と言い残しリーマスはセドリックを連れて医務室を出て行った。
二人が去った扉を乱暴に閉めたマダム・ポンフリーは一変して穏やかな顔をしてのもとへやって来た。
「気分はどうですか? ルーピン」
「……大丈夫、です」
力なく微笑むと、マダムは小さく笑った。
「あの…私、どこかでお会いしたことが、ありますか?」
問うとマダム・ポンフリーはかなり驚いた様子だったが嬉しそうに笑んだ。
「まさかあなたが覚えているなんて驚きました。ええ、私はあなたがまだ小さかった頃、何度もあなたの家に行ったことが、あります」
「……じゃあ、満月の日にいつも私の面倒を看てくれていたのは……あなた、なんですか?」
マダムは頷いた。は胸の内が若干すっきりして彼女に小さく微笑んだ。
マダム・ポンフリーは、ニ、三日入院するようにと言った。は大人しく従うことにした。しばらくはセドリックのことも、あの犬のことも。そして。
不可解な父の反応も。全て。
このひと時は、全て忘れて。
ゆっくりと、休もう。
窓の外ではしんしんと静かに雪が降り続いていた。