「ねえ、お祖母ちゃん。ほら、見て。可愛いでしょう?お祖母ちゃんの名前、貰ったんだよ。って。お祖母ちゃん、この子の名前、呼んであげて?」
病床でうわ言を漏らす祖母は曾孫の名を呼ぶこともなく息絶えたが、それでも最期の瞬間は実に穏やかなものだった。
死ぬということ。生きるということ。
「……大丈夫か?」
「うん、平気」
聖マンゴ病院の廊下にあるベンチに腰掛けて、は腕の中の小さな小さな娘を優しく揺らしながら頷いた。傍らにぴったりと寄り添うように座ったセブルスが、そっと肩を抱き寄せてくれる。
二人は癒者と話し合って祖母の遺体を引き取る手筈を整えているリーマスとニンファドーラを待っていた。は数ヶ月前から身体の不調を訴えて入院していたが、既に病状が進行していてつい先刻息を引き取った。だが祖母の死に顔は穏やかで、はいつになく落ち着いた心地でセブルスの温もりを感じていた。
「私ね、思うの。お祖母ちゃんは、幸せだったんだろうなって」
だから、寂しくはない。最期に、曾孫の顔を見せることもできた。
「天国にはダンブルドア先生も、お母さんもいるから。きっと、お祖母ちゃんも寂しくなんかないと思う」
ね、と呼びかけて懐の娘の顔を覗き込む。はすやすやと楽しそうに眠っていた。赤ん坊を包み込んだ柔らかな白いタオルは出産祝にアレフとケイトから贈られたものだ。セブルスがそっと指先で頬に触れると、は寝息を立てながらもぎゅっと父親の指を握って嬉しそうに笑った。
小さく微笑んで腰を屈め、セブルスが娘の額に軽く口付けを落とす。
「ねえ、セブルス」
呼びかけると彼は、いつだって応えてくれる。大丈夫、この先も。彼と、そして愛する娘と。大切に思う家族がいれば、これからもずっと歩いていける。
「この後、お祖父ちゃんのところに寄って帰ってもいい?」
彼はすぐさま眉間にしわを寄せて難しい顔をしたが、渋々といった調子で「……いいだろう」と頷いた。
「ありがと。お祖父ちゃんもやっぱり、孫の顔が見たいと思うから」
一度家系図を辿ってが祖父の何代下の孫に当たるのかを考えようとしたことがあるのだが、気が遠くなるのですぐにやめた。
EPILOGUE
個人経営の店を始めるには、さらに四年の歳月がかかった。ノースウェストの実家から少し離れたところに小さな家を建て、庭には小さな温室を造った。自給できない材料に関しては業者と直接取り引きし、なんとか品物を入れてもらえることになった。
「、おいで。お父さんの邪魔しちゃダメ」
「やだ! 、お父さんのお手伝いするの!」
温室の隣の畑を耕そうと鋤を持ち出したセブルスの周りをちょこちょこと走り回りながらが盛大に舌を出してくる。は袖を捲り上げながらそちらに近付き、嘆息とともに呻いた。
「危ないでしょう? それじゃあ一緒にお祖父ちゃんのところ遊びに行こうか。ウォルターくんが来てるかもしれないよ」
「本当? だったら行く!」
ころりと機嫌を直してが笑う。あっという間に自分の側を離れてに飛びついた娘を見て、セブルスは肩を竦めて苦笑した。
「フラれちゃったね、お父さん」
意地悪く告げ、の手を握ってセブルスに背を向けて歩き出す。数歩前進してから上半身だけで振り返り、は大きく手を振って叫んだ。
「行ってきまーす」
「いってきまーす」
母親の声音を真似てが繰り返す。は彼女の頬を軽く小突きながら、実家への道のりを娘の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
「ねえねえ、お母さん。今度の夏はウォルターくんと一緒に海行きたい! それからね、こないだお祖父ちゃんが船作ってくれるって言ったんだよ! それ、海に浮かべて泳ぐの! 早く夏にならないかな」
「そっかぁ。楽しみだねー」
ここからはノースウェストの海がよく見える。幼い頃から自分もよく養父に連れられて泳いだ、馴染みの故郷。この土地で彼との子供を育てることができて、本当に嬉しい。
彼は生まれ育った故郷を忌んでいると言った。身内も、誰一人としていない。そうして故郷をも棄てた。そして一緒に、ここに来てくれた。かつて愛した女性が憎き男と過ごした、この土地へ。
魔法薬の店舗を開くにあたってシリウスの遺産の一部を使うことに当初セブルスは難色を示していたものの、最終的には二人でその必要があるという結論に至った。彼は父を赦せないにはしても、認める努力はしてくれている。だがきっと、シリウスが彼を受け入れることはこの先もないだろう。それでも、父の遺産を引き出すことを決めた。
(お願い、許して。私が、彼との道を歩むことを)
父の墓石に手を合わせて祈り、彼女は家の中に入った。居間は甲高い笑い声で賑やかだ。が顔を覗かせると、ちょうど床に転がった玩具の一つに足を取られてニンファドーラが引っ繰り返るところだった。
「いったー! こら、遊んだ後はちゃんと片付けなさいって言ってあるでしょう!」
だが彼女の怒声はどこ吹く風。とウォルターは狭い居間の中でキャッキャッと笑いながら追いかけっこを続けていた。隅のソファに腰掛けたリーマスとケイトは声をあげて笑い、に気付くと片手を挙げて応じる。
「お帰り、。セブルスはまた作業かい?」
「うん。この子がちょろちょろするもんだから、なかなかはかどらなくて。ケイト、ウォルター、いらっしゃい」
「あ! のおばちゃん! こんにちは!」
と同じ年頃の茶髪の少年が足を止めて元気よく挨拶する。が笑顔で答えると、後ろから追いついたが勢いよく少年の背中に飛びついて二人一緒に床に転がり落ちた。
「ウォルターくんつかまえた!」
「こーら、! いきなり飛び掛かっちゃ危ないじゃないの!」
「まあまあ、。うちの子だってそんなにヤワじゃないわよ。遊ばせておけばいいの」
からからと笑い、ケイトが言う。
あれから数ヵ月後、アレフとケイトは正式に結婚した。式にはも呼ばれ、数年間の確執を解くには時間がかかったものの、少しずつ確実にやり取りは増えていった。家族ぐるみで交流が始まったのは、互いの家庭に子供を持ってからだ。
やはりアレフとケイトは、セブルスと顔を合わせるのを嫌った。そのため一度子供同士を引き合わせようとした時、は場所をノースウェストの実家に指定した。すると子供たち二人はあっという間に親しくなり、その上リーマスとニンファドーラのことまで気に入ったためこの家は彼らの遊び場として定着したのだった。
そして今では『セブルス・スネイプ』ではなく『の父親』として、ボールドウィン夫妻は彼のことを受け入れ始めている。
「そうだ……リーマス、例の薬、問題はない? セブルスの腕だから大丈夫だとは思うんだけど……今月分のは初めて、温室で育てた薬草を使ったからひょっとして少しでも不具合があれば
」
「いや、いつも通りだよ。君たちには本当に感謝している。ありがとう」
にこりと微笑んで、リーマスが惜しげもなく言ってくる。五日後は満月だが、彼はそんなことを微塵も感じさせないほど健康に見えた。
ほっと胸を撫で下ろし、養父の傍らに腰掛ける。
いつの間にか鬼ごっこに加わったらしいニンファドーラが椅子に足を引っ掛けて転倒し、あっさりとに捕まるのを見ながらは手のひらを打ち鳴らして笑った。
彼はレモンティーを飲みながら今年の新入生リストにざっと目を通した。生徒に差し出しても顔をしかめられない程度には美味く淹れられるようになったはずだ。うん、と満足げに頷いて次のページを捲る。
ふと、目に飛び込んできたその名前の上で。彼は紙面を滑らせていた指先をぴたりと止めた。彼の薬指には、光沢を抑えた控え目なリングが嵌っている。
一瞬沸き起こった奇妙な感覚に身震いしつつ、彼はそれを振り払うように残った紅茶を一気に飲み干した。もう一度、手元の名簿に視線を落とす。
その名を口の中で何度か繰り返し。
(……・スネイプ)
彼は小さく苦笑し、リストの次のページを繰った。
彼女の笑顔を覚えている。あの男の醜い顔を覚えている。
そして僕は
彼女の強い眼差しを、今でもはっきりと覚えている。
もう、迷うことはないだろう。
そっと閉じた新入生リストを、ハリー・ポッターは穏やかな微笑みとともに背後の暖炉に滑り落とした。
てのひらのしずく 完