彼女にとって、ダイアゴン横丁は初めて訪れる世界だった。彼女は生まれた町を一度も出たことがない。

「わ、すごい! あーんなに最新の箒がいっぱい!」

顔を輝かせた彼女は箒専門店のショーウィンドウにしばらく見入っていたが、やがてばつの悪そうな顔をして彼を見上げ「……何でもない、行こう」と彼の手を引いた。
彼女が何を思ったか、彼にはよく分かっていた。

shiver

やはり孫が気にかかるのは当然のことだろう。ホグワーツ入学を控えた彼女と過ごす彼のもとに一通のふくろう便が届いた。

『何かと物入りでしょう。グリンゴッツに用の金庫を作ったから、そこから引き出して必要な物を買いなさい。

封筒の中には羊皮紙の切れ端と小さな鍵が一つ入っていた。

(……ありがたい)

彼は心底彼女の養母に感謝した。正直なところ、定職のない彼には一人の娘を満足に養う余裕もあまりなかった。もう何年もぎりぎりの生活をしてきたのだ。可能な限りに不自由はさせまいと自分のことに関しては削れるだけ削ってきた。しかしホグワーツに入学するにあたって揃えなければならない学用品は決して安価ではなく、どうしたものかと頭を抱えていた矢先のことだった。
の存在は伏せていた。もまたそのことを望んでいたからだ。

「あの子の娘に私が会ってしまったら……ブラックへの憎しみはきっと    今まで以上にずっと強くなるだろうから。祖母が父親を憎んでるなんて、孫が知ったらショックでしょう。自分の父親がどういう人間なのかもが知らずに済むのなら、その方がいいわ。だから私は、孫には会わない」

それがいいと思った。の写真だけは今でも彼女に時折送っているが。には、君の祖父母はもういないとだけ告げた。

七月も後半に差し掛かっていた。
まさかこんなことになろうとは、夢にも思っていなかった。
教師としてホグワーツに赴くことが決まり、彼は何年かぶりに日刊予言者新聞を取り始めた。『非常識な先生』では情けない。ダンブルドアと話し合った結果、学校にいる間は魔法薬学の教師としてホグワーツにいる同期のセブルスに毎月脱狼薬を調合してもらうこととなった。非常に難しい薬で一筋縄では手に入らない代物だ。セブルスは学生時代から薬学は飛び抜けて秀でており、さすがだと感服してしまう。当の本人は、好意の欠片も抱いていない相手に厄介な薬を、しかも毎月調合せねばならぬと聞いてひどく不快感を示していたようだ。彼自身は決してセブルスを嫌ってはいなかったのだが。そして満月の日には、代講までセブルスが引き受けてくれることに決まった。
買い出しから戻ってきた彼がダイニングの扉を開けると、椅子に座り新聞を眺めていたは目線を紙面に下ろしたまま口を開いた。

「ねーねーリーマス、アズカバンから殺人犯が脱獄したらしいよ!」

ぴくりと身が強張る。一瞬かつての旧友の顔が頭を掠めるが、まさかそんなことがあるはずがない。かぶりを振って彼はテーブルまで歩み寄り買い物袋をその上に載せた。娘の手元を覗き込むと、一瞬のうちに背筋が凍る。

『アズカバンから脱獄!』

その大きな見出しと、その下の写真の中で醜く喚き散らしているのは。

    シリウス・ブラック……!)

髪はぼさぼさに伸び、汚れきった顔に散り散りの顎ひげ。一目見ただけで囚人としか思えない醜態。けれども。
十二年の歳月が流れたとはいえ、そのグレイの瞳を見間違うはずもない。

「シリウス・ブラック、十二年前、親友を殺した罪で投獄。てことは、私が生まれるよりも前? そんな人が今頃脱獄なんて……しかもお母さんと同じ苗字だよ? なんか気味悪いなぁ。ねえ、リーマス?」

呼び掛けられてようやく我に返る。彼の平生とは異なる空気に気付いたのか、彼女は顔を顰めてこちらを覗き込んできた。

「リーマス、どうかしたの?」
「あー……いや、何でもないよ。何でも、ない」

軽く笑い返してかぶりを振る。その口元が引きつっていることは自分で十分に分かっていた。まだ、全身の震えが止まらない。襲いくる悪寒に彼はそっと自分の両腕を抱えた。あの男が脱獄を    突然の事態に頭の中が混乱をきたす。
なぜ。どうやって。何のために。そして奴は、どこへ向かった? 目的は?

「ねえリーマス、ほんとにどうしたの?」

は明らかに様子がおかしいのに何も言わない彼に怒ったような顔を向ける。彼は彼女の向かいの椅子に腰を下ろしながら早口にまくし立てた。

「あー、、その男が……十二年前に起こした事件のことを、覚えてるんだ。ああ、凶悪な事件だった……恐ろしい男だよ。だから……そう、、外に出る時は十分に気を付けるんだよ?」

わざと視線を外したままだったのだが、彼女はそれで納得したようだった。しかめっ面で一面記事としばらく睨めっこし、やがて感慨深げに漏らす。

「……ふーん。そんなにこわい人なんだ。でも、なんか……よーく見ると、目はすっごく優しそうなんだけどなぁ。きっと何か、特別な事情があったんだろうね」

ちゃんと綺麗にすれば多分すごいかっこいいんだろうしね、とは付け加えた。
彼女にすれば、それは何の気なしに呟いた言葉だったのだろう。だが思わず彼は握り締めた拳をテーブルの上に渾身の力で叩きつけ怒鳴った。

    どんな事情があったとしても、奴は親友をその手で殺したんだ!!」

気付いた時には、新聞を手にしたままこちらを呆然と見つめ硬直したの姿があった。途端に全身から汗が噴き出す。彼は目線を至る所に泳がせながら誤魔化すように小さく言った。

「……あ、いや……そうなんだ、そのシリウス・ブラックとかいう男は……親友を、殺したんだそうだ。とんでもない奴だ、ただの殺人者だよ……簡単に、そんなことを口にするんじゃない」
「リーマス……」

今度は不安げな顔をしたから目を逸らし、彼は椅子を蹴散らして立ち上がった。俯いたまま大股に歩き出す。うろたえた声をあげる娘の横を通り過ぎ、彼は音を立てて階段を駆け上がった。彼女は追ってはこなかった。
寝室へと戻った彼は、その古惚けたベッドの上に勢いよく腰を下ろして頭を抱える。自分の頬はいつもより籠もった熱を帯びていた。

「……大人気ないな、私も」

自嘲気味にぼやく。彼女の口からあの男への無責任な発言が飛び出した時    もちろん彼女に、あの男への責任など皆無だが    頭に血が上り、言い知れぬ感情が全身を駆け巡った。娘の前だというのに、それらを抑えることがどうしても出来なかった。

(つくづく、情けない男親だな)

には謝らねばならない。彼女は何も悪くない。彼女は子供なりの、凶悪犯の心象を口にしたまでだ。あの男は自分のかつての友人ではあるが、彼女にとっては、何者でもないのだから。
けれど。

(……少し、頭を冷やしてからだな)

彼はぱたりと背中から布団の上に倒れ込むと、大きく息を吸い込んでからゆっくりとその目を閉じた。瞼の裏には、かつての親友たちの姿。
忌まわしいことに    どうせ一生逃れることなど出来やしまいが    そこではあの男の整った顔立ちも、子供らしい笑いに満ちていた。
(05.12.14)