『ハリー・ポッター』とは、多くの魔法使いにとって大きな意味を持つ名前だ。そう、闇の魔法使いにとっても、もちろんそうでない者にとっても。私とて例外ではない。
けれど。

私にとってその少年は、『名前を言ってはいけないあの人』を失脚させた幼き英雄というだけではなかった。

TURNING POINT

満月明けの彼を、彼女はあの屈託のない笑顔で迎えてくれる。

「おかえりリーマス。わたし今日ね、ベーコンエッグ焼いたんだよ! 見て見て、初めて綺麗にできた!」

自慢げにそう言った彼女がこちらにかざしてみせる平皿を覗き込むと、そこには適度な焦げ目のついた目玉焼きが載っていた。彼は傷だらけの頬を緩ませて少女の黒髪をそっと撫でてやる。

「ずいぶん上達したじゃないか、
「えへへ。そうでしょう? 早く座って! いま救急箱持ってくるからね」

皿をテーブルに置きボロボロの彼の身体をぎゅっと抱き締めてから、彼女は小走りでダイニングを出て行った。微笑を漏らし、ゆっくりと席に着く。彼はフォークを手に取り先ほど彼女に見せ付けられたベーコンエッグの端を口に運んだ。
彼女がまだ幼い頃は、満月前後にはやはりマダム・ポンフリーがの面倒を看にきていた。しかしここ数年、彼女は独り家で大人しく翌朝の彼の帰りを待っていてくれる。毎月決まってどこかに出掛けていく彼の行動を不審に思い10歳になった彼女はそのことを問い詰めてきたのだが、その時彼は素直に自分の正体を打ち明けた。本当の子供だと思い育ててきた彼女とは正面から向き合うべきだと考えたからだ。こんな重大なことを隠し通して父親ではいられないと思った。
彼女は人狼をよく知らなかった。もう十分な年齢だと判断した彼は、自分が人ではなくなる瞬間の様子を魔法で彼女に見せた。これが父の姿だと。けれど彼には使命感と自信があった。それは何年も昔、仲間たちにもらった勇気。
私はこの子の親であらねばならない。私は月に一度、人間ではなくなる。しかし    その日以外は、たとえ何があったとしても、私は君を守り抜く父親だと。

彼女はやはり多大なショックを受けていた。数日はほとんど何も口にせず部屋でじっとしていて、そして六日が経ったある朝。
真っ赤になった目をこすりながら、彼女は震える声で口を開いた。

「……びっくりした、怖かった。リーマスが……でも、でも……」

彼女は彼の胸に飛び込んで、確かに。

「でもね、リーマスは……リーマスは私のお父さんだよ。厳しくて優しい、お父さんだよ。私、リーマスが大好きだ。だから、だから……リーマスが狼人間でも、でも……リーマスは、私のお父さんだよ」

彼女はそう言った。彼はずっとずっと、彼女のその小さな身体を抱き締め「ありがとう」を繰り返した。
彼は何年も悩んだ末、物心ついた彼女に自分が父親だと告げることにした。彼女の母親は既に亡くなり、父親は俗世に戻ってくるかどうかも分からない。そうでなくとも、彼はその男を彼女の父親と認めるつもりなど微塵もなかったのだ。
彼女が大きくなった時、自分には父も母もいないのだと知ったら。彼女はどれだけ傷つくだろうか。そう考えた彼は、彼女を自分の実の娘として育てることを決めた。娘にはルーピンと名乗らせた。

「リーマス、何でお母さんの苗字は『ブラック』なの?」

の小さな墓は家のすぐ裏にあった。その石にはしっかりと『・ブラック』と刻まれている。彼は不自然に目線を泳がせていることを悟られないように空を仰ぎながら言った。

「どんな女性でも結婚相手と同じ苗字を名乗るわけじゃないんだ。お母さんは自分のファミリー・ネームを使い続けることを選んだんだよ」

彼女にそんな嘘をつくことは当然心苦しかった。けれど真実は、絶対に伝えたくはなかった。
あんな男を、この子の父親だと認めることだけは。
それでも彼女の墓石に『』と彫ることは出来なかった。
溜め息雑じりに独りごちる。
はあの男を選んだ。彼女は死ぬまでずっと、ブラックで居続けたんだ。
彼女は生涯ブラックと名乗ることを決め、そして『・ブラック』として死んでいった。
そんな彼女の気持ちを無視し、彼女を『』に戻してしまうことも彼には出来なかった。

(……矛盾だらけだな、私は)

それでも、この子を『ブラック』にだけはしたくない。はあの男を選んだけれど、この子はあの男を父親に選んで生まれてきたわけではない。
墓石の名と辻褄を合わせるために、彼は娘にではなくルーピンと名乗らせることにしたのだ。

そして十一回目の彼女の誕生日を終えてあまり日が経たない頃。

「あーリーマス、郵便だよ?」

アイスティーを飲み干したが彼の背の窓を指差して言った。振り返ると見覚えのある梟が窓の外で羽をバタつかせている。

「あぁ、久しぶりだね、何かな?」

窓を開け、彼の肩に止まった梟の嘴から一通の手紙を受け取る。が「おいで」と優しく呼ぶと、梟はほーと嬉しそうに鳴いて彼女の差し出した腕でその羽を休めた。はもう片方の手で食パンを小さく砕いて梟の口元に運んでやる。彼は封を切って中の羊皮紙に目を通した。

「おや……これは、驚いた」

呟く。梟に手のひらをつつかれ若干顔を顰めたが疑問符を浮かべた。

「ホグワーツの校長先生が、何て?」

彼女の腕にいるのは至極稀にダンブルドアが手紙を送ってくるその時にいつも使う梟だった。彼は食卓に戻り、軽く手紙を掲げながら肩をすくめてみせる。

「……この私に、ホグワーツの『闇の魔術に対する防衛術』教官の誘いが」

途端に彼女は素っ頓狂な声をあげ椅子から飛び上がった。梟が驚いて、入ってきた窓枠に避難する。

「えーすごいよリーマス! ホグワーツってすごい学校なんでしょう? そんな学校に誘われるなんてリーマスすごい!」
「……いや、しかし」

自分は人狼だ。ダンブルドアは一体どういうつもりなんだろうか。
顔を歪めるも、はもう完全にその気のようだった。実はつい先日、彼女のもとに入学許可書が届いたばかりだったのだ。

「私も今年からホグワーツでしょう? 私がいなくなったら一人で家にいたってリーマス寂しいだけだろうし、それだったら一緒にホグワーツに行こうよ! ねえ、そうしよう!」
「あー、いや、しかし……私は人狼だ。教師になどなればどうしても周囲に迷惑をかけてしまうし、生徒や保護者、先生方だってそんな教師は認めないだろう」

するとは眉根を寄せ声を荒げた。

「リーマス、『狼人間だから』って言い方、やめようよ。リーマスはリーマスだよ。大体ね、校長先生がそれくらいのこと考えてないとでも思うの? きっと問題ないよ、大丈夫だよ、一緒にホグワーツに行こうよ」

偶然なのか彼女に同調してくれたのか、梟が窓際でまた小さく鳴いた。
の黒い瞳を見返して、呟く。
ああ、そうか。この子の言う通りだ。ダンブルドアが、その程度のことを考慮していないはずはない。何か考えがあるのだろう。
まただ。
人狼だからと。割り切ったつもりだったが、また諦観してしまった。久々だ。

「……そうだね。一度、ダンブルドアと話してみよう」

の表情がパッと明るくなる。

「うん、そうだよ! そうしよう!」

「リーマスと一緒に学校に行けるんだ、楽しみ!」と、彼女は嬉しそうに席を立ち空のマグカップを持ってキッチンへと向かった。彼は手近な羽根ペンを手に取りすぐに羊皮紙の裏に簡単な返事を書く。窓枠の梟に再びそれを持たせると、「頼んだよ」彼はその手に頬ずりしてから飛び去った梟をその姿が見えなくなるまで眺めていた。
やがて台所から戻ってきた彼女は、窓を閉めた彼に向け非難の声をあげる。

「あーリーマス、梟帰しちゃったの? せっかくさっき作ったマフィンあげようと思ってたのに」

彼女の手に握られたパンを見やり、彼は困ったような笑みを浮かべて「あぁ、すまなかったね、じゃあ彼の分まで私が頂くよ」、肩をすくめた。
(05.12.14)