あれからもう、何年が経ったのだろう。
この子の年を考えれば、そんなことは自ずと明らかなのだけれど。
彼女が消えてからの年月を数えることほど、私にとって辛いことはなかった。
この子の綺麗な黒髪を撫でながら、私は胸がひどく締め付けられるのを感じる。

MY FATEFUL BIRTH

彼がアズカバンへ送られてから、半年が過ぎた。
マダム・ポンフリーによると、彼女はいつ出産してもおかしくない状態だという。

「陣痛が始まったらすぐに学校まで私を呼びに来て下さい」

数日前に暖炉から出てきたマダムはそう言って去っていった。彼は毎日食事を作り、彼女の身体を魔法で清潔に保ち、彼女の様子を見守っていた。当然のことだが、彼女のお腹は目に見えて膨らんでいく。彼は今までに人の身体がこんな風に変わっていく様を見たことがなかったのでとても不思議な感覚に襲われた。
彼女は相変わらず青白い顔をして咳き込む毎日だった。彼女の代わりに彼がお腹の赤ん坊に子守唄を歌うほどだ。彼は幼い日に聞いたような気がする微かな記憶の中のメロディーを小さく口ずさんだ。

「……いつもありがとう、リーマス」

ベッドの縁に座って彼女の腹を優しく撫でていた彼は、予想外の声に驚いて一瞬その身を強張らせた。横たわる彼女の顔を見返して声をあげる。

、起きてたの?」

彼女は力なく笑んでみせた。彼女のあの屈託のない明るい笑顔を最後に見たのはいつだったろう。そんな考えが頭を掠めるだけで嫌になる。
彼が小さく微笑み返すと、彼女はその顔を少しだけ歪め、喉の奥から細い声を絞り出した。

「本当はこんなの、父親がすることなのにね」

目を見開いて顔を上げると、彼女はしまったという風に眉を顰めてかぶりを振った。

「あー……ううん、何でもないの。何でも……」

そして鼻の上まで布団を被って再び目を閉じる彼女を見やり、彼は息をついた。

「……

答えはないが、彼は続けた。

「無理は身体に良くないよ。言いたいことがあるなら、吐き出して」

彼女は布団の中で身じろぎ一つしなかった。目を伏せ、溜め息雑じりに子守唄を再開する。

「ゆっくり、お休み、母さん、そして    

まさかその先なんて。口にできるはずもない。
ゆっくりお休み。母さん、そして、父さんの胸で。
鼻歌で軽くごまかしながら、彼は静かに歌い続けた。

彼女の、このお腹の中で今も生きているこの子は。
いつの日か、父親の腕に抱かれて眠ることがあるのだろうか。

どうして、こんなことになってしまったんだろうね。
「ブラック! ゆっくり、ゆっくりですよ!」

それは突然のことだった。
いつものように彼女の隣の部屋で床に就いた彼は、布団をかぶってからもしばらくは寝付けずにいた。じきに夏だ。近いうちにもう少し薄手の布団を出してもいいかもしれない。壁のカレンダーは六月二十一日を示していた。
今日はちょうど半月だ。またあの忌まわしい月が満ちる日が近付いてくる。毎月、その前後数日だけはマダム・ポンフリーが彼女の世話に来てくれた。に彼が人狼だとばれるのは厄介だったため、他に頼れる誰かもいなかったのだ。
カーテンを通してわずかに滲んでくる月明かりに顔を顰めながら、彼はぼんやりといくつもの顔を思い出していた。ここ数ヶ月、いつもこの調子だ。うんざりする。
真っ先に浮かんでくるのは、幸せそうに笑む一組の夫婦の姿だった。

「やぁやぁやぁやぁ、みなさん、本日は僕と愛しのリリーの美しき門出を見届けていただいて本当にありがとうございます!!」

あれは四年前の冬か。
彼はいつもおちゃらけめいた顔で笑っていたけれど、あの時ばかりは心底楽しそうで、満ち足りた表情をしていて。学生時代は迷惑そうに顔を顰めていた彼女も、あの日は彼に不意打ちでキスされても照れ臭そうに微笑んでいたように思う。
式の最後に彼女が高々と投げたブーケが落ちるのを選んだのは、の腕の中だった。

、おめでとう!!」

新婦の手をとった黒髪の新郎はブーケを抱えた彼女に祝福の言葉を述べた。そしてブーケは間違っていなかった。彼女は半年後に結婚した。

、僕は君がシリウスと結婚してくれると聞いて本当に嬉しいよ! こんな優柔不断で頼りない子供、一時の男にはしたって誰が一生を添い遂げるパートナーに選ぶっていうんだい?! あぁ、本当だよ、君がこんなシリウスを選んでくれたことに僕は一生感謝するよ!!」

数人の友人と教師たちだけのささやかな挙式だった。そう言って涙ながらにの手をとるジェームズを思い切り睨み付けていたシリウス。困ったように笑うとリリー、そしてやや首を傾げながらも微笑むピーター。幸せだった頃の記憶ばかり。戻るわけがないのに。もう、思い出したくもないのに。

彼はかぶりを振って布団を頭から被りなおした。明日は久々に町に買い出しに行こう。彼女が好きなビターチョコでも食べさせてあげよう。
彼が眠りにつくよりも先に、壁の向こうから唸り声が聞こえてきた。

眉を顰め、ゆっくりと布団から顔を出す。掠れた呻きだ。彼は手探りで慌てて枕元の杖を握ると、「ルーモス、光よ」呟いた。閉じかけていた意識を呼び起こし、目尻をこすりながら飛び起きる。彼女の部屋へと飛び込んだ時には、彼は膨張した腹部を押さえ顔を歪めて悲鳴をあげる彼女の姿を捉えた。
マダム・ポンフリーの処置は迅速だった。
彼女の他にもホグワーツの女性教員が二人暖炉の中から現れ、内一人はマクゴナガルだった。一般の助産婦を呼ぼうにも、あのシリウス・ブラックの妻とあっては誰もいい顔をしない。マダムは何とかホグワーツの教員での子供を取り上げようと必死だった。
彼は部屋の外に追い出されたが、中から聞こえてくるマダムたちのやり取りや彼女の苦しげな声を聞いているだけで、どれほど想像を絶することが行われているのかを推測した。
冷えた廊下に腰を下ろしてから、かなりの時間が経過したろうと思う。突然部屋の扉が内側から開き、血相を変えたマクゴナガルが顔を出した。

「ルーピン! あなたが、ブラックの代わりをしてください!」

彼は飛び上がるような勢いで身を強張らせた。だが彼が口を開く前に彼女は彼の手をぐいと引き有無を言わさず部屋の中へと連れ込んだ。
寝室はルーモス呪文で薄明かりに照らし出されていた。はベッドにうつ伏せに横たわり、彼女の下半身にはタオルのようなものが被せられている。その脇にはマダム・ポンフリーともう一人の天文学の女教授が屈んで立っていた。
おろおろと一人狼狽する彼に、マクゴナガルは彼の耳元で穏やかに、しかししっかりと言い放った。

「ブラックは痛みで気が滅入ってしまっています。彼女に声を掛けてあげて下さい。『君が、この世で一番偉いんだ』と、優越感を持たせてあげて下さい」

彼が顔を上げると、彼女はわずかに目を伏せた。

「本来ならばこれは夫の仕事ですが……致し方ありません。こういう時は同性より男性に励まされる方が効果的なのだそうです。頼みますよ」

彼はやがて小さく頷くと、ベッドの傍らに座り込み汗ばむ彼女の手をそっと握り締めた。彼女はマクゴナガルに教えられた呼吸法とやらを実践してシーツを渾身の力でつかんでいる。

    

彼女は答えず、ただただ苦しげに呻いている。不謹慎にも、その掠れた声がとても艶やかだと思ってしまった。
マダム・ポンフリーがの下半身にかけたタオルの下に手を入れて声をあげた。

「ブラック! 溜め込んでいたことがあるなら全て吐き出してしまいなさい! 全て出してしまえば、楽になりますからね!」

するとはシーツを握っていた手を放して無造作に彼の手をむんずとつかんだ。あまりの握力に一瞬驚いてしまうが、その手を握り返して口を開く。

、全部出してしまおう。ずっと溜め込んで……言えなかったことが、あるんだろう?」

彼女は眉間にしわを寄せて呻いたままだったが、やがてその瞳から突然嘘のように涙が噴き出した。ぎょっとして目を丸くする。彼女は堰を切ったかのように話し始めた。

「……何で。何で、あの人がここにいないの?」
「………」

目を細める。彼女は顔を歪めた。

「ずっと、初めて会った時からずっと……ずっと好きだった。やっと一緒にいられるようになったと思ったのに……どうして? 何で今ここにあの人がいないの? 何ヶ月も何年も待たされてようやく掴めたと思ったのに、一緒に過ごせたのはたったの四年? このてのひらから……砂みたいにすり抜けて、零れ落ちていって……。約束したんだよ、一緒に幸せになるんだって……約束したのに! ジェームズを裏切った? ジェームズとリリーを例のあの人に売って、ピーターを殺した? そんなことあるわけないのに……あるわけないけど……でも、冤罪ならどうして……? どうしてアズカバンなんかに。無実なのに、あんな所に放り込まれるわけないのに……何で? ずっと一緒にいるって……私がいてくれたらそれでいいって言ったのに……嘘つき……」

「ブラック! 頭が出ました! 頑張って下さい!」とマダムが声をあげる。彼はその言葉にぎょっと身を強張らせたが、彼女の手を握る指先にさらに力を込めた。はぎゅっと固く目を閉じて消え入りそうな声で叫んだ。

「……私、ずっと寂しかったんだから……!」

彼の胸の奥からも何やら熱いものがこみ上げてきた。目尻に浮かぶ涙を零さないように瞬きを我慢していると、背中からマクゴナガルの鋭い声が飛んでくる。

「ルーピン!」

彼はおろおろと目線を彷徨わせていたが、やがての顔をそっと覗き込んで告げた。

    ……君は本当に偉いよ。一番、大切な人を失っても……君はお腹の子を産んで育てるんだって決めた。君は本当にすごいよ。この世界の誰よりも立派な女性だよ」

の口の端が、少しだけ嬉しそうにつり上がった。驚いて眉を顰めると、彼女は小さく言った。

「リーマス……お願い、もっと言って……」

わけが分からず振り返ると、マクゴナガルは神妙な面持ちで頷いてみせた。彼はベッドに向き直り、の歪んだ表情を見つめたまま繰り返す。

    君は本当に、本当に偉いよ。君はこの世で一番立派な人だよ」
「……シリウス、シリウス……シリウス……!」

うわ言のように何度も何度も彼の名を呼ぶ彼女。彼は「君は偉いよ」と言いながら、もう片方の手で彼女の黒髪を撫でてやった。そしてやがて、幼い赤子の泣き声とともに    

「ブラック! 生まれましたよ……元気な女の子です!」

マダム・ポンフリーの歓喜の声があがった。張り詰めていて糸がぷつりと切れたかのように、は突然枕に顔を押し当ててゆっくりと大きく肩で呼吸を始める。彼は彼女の手を握り締めたまま、マダムの腕の中に抱かれる小さな小さな赤ん坊を見やった。

    よく頑張ったね……可愛い女の子だよ」

が緩慢な動きで首を巡らすのを助けてやると、マダム・ポンフリーが子供を抱き抱えたままの枕元へと移った。マクゴナガルも天文学の教授も「よくやりましたブラック!」と嬉しそうに口を開く。
はか細い指でそっと我が子の手に触れた。その時彼女の顔面に浮かんだ安堵と喜びの表情を、忘れることなどできない。
そのまま。彼女の身体はぱたりと白いベッドの上に倒れ込んだ。
赤ん坊の泣き声だけがしんとした部屋に響く。
誰もが息を呑み、僕は思わず彼女の手を放してしまった。

今考えると、あの時彼女の手を放さなければ。彼女をひょっとして。繋ぎとめていられたかもしれないのに。
なんと愚かしい後悔だろうと思う。けれど。私は。
この寒空の中、しんしんと降り積もる雪の下に埋もれかけた石を撫でながら、考える。

彼女は、死んでしまった。

雪を払い除けて、その名を繰り返す。
    ・ブラック。享年二十二歳。

「……もし、何年経っても、何十年経っても」

彼女の育ての親は、確かに。

「あの子が死ぬまでに、ブラックが戻ってこなかったら」

僕から目を逸らし。

「たとえブラックがアズカバンに入っていようが、私が死んでいようが、ゴーストになってでも、私が、あいつを殺しに行く」

そう言った。

彼女は、死んでしまった。

ノースウェストで挙げた葬儀に現れた彼女は、何も言わなかった。ただ娘の穏やかな笑顔の写真を見据え、静かに口元を引き結んでいた。
彼女は    ・ブラック』は死んでしまった。
弱った身体で無理をして出産したことが大きかったらしい。娘を産んだその床で、彼女はそのまま命を落とした。

「……私、ずっと寂しかったんだから……!」

シリウス。
私は、君を。
彼が墓石から顔を上げると、背後から甲高い声が聞こえてきた。

「リーマスー! 早くご飯にしようよー!」

振り返る。私は小さな一軒家の窓から身を乗り出してこちらに思い切り手を振ってくる黒髪の少女に微笑を返して口を開いた。

「今行くよ、
(05.12.11)