先日、彼女の育ての親だという女性がダンブルドアの知らせを受けてノースウェストに現れた。
彼女は眠っているをしばらく呆然と見下ろしたまま、こちらを振り返りもせずに呟いた。

「……こんなことに、なるくらいなら」

きっとそれは独り言だったのだろう。だがその一語一語は、ずっしりと重く彼の鼓膜に響いてきた。

FOSTER MOTHER

彼女はと名乗った。孤児となりダンブルドアにイギリスへと連れてこられたの面倒を看るよう頼まれ、十年以上彼女と一緒に住んでいたという。しかし彼女は、ブラック夫妻の結婚式に来ていなかった。

「私は反対したの」

ダイニングのテーブルに着いたは平然とそう言った。

「ブラック家を知らない魔法使いなんて少なくともイギリスにはいないでしょう? おまけに私たちはブラック家の側の町に住んでたから、あの一家がどんな奴らかなんて当然知ってた」

彼が淹れたコーヒーを少しずつ飲みながら彼女は鼻を鳴らしてみせる。彼はその向かいに座りわずかに目を伏せた。

「ブラック家の長男と結婚するなんて言い出した時にはあの子おかしくなったのかと思ったわ。狂ったみたいに純血純血ってうるさい輩よ? あの子だって純血主義には嫌悪感を持ってたはずなのに」

彼は眉根を寄せて彼女の青い瞳を見返した。

「シリウスは……他のブラック家の人たちとは違います」

彼女はマグカップの縁に唇を当てたまま嘲るように目を細めた。

「あの子も同じことを言ったわ」

はカップをテーブルに置くとそこに肘をついて両手の上に顔を乗せる。彼は椅子に座り直した。

「信じられなかった。あんな一族からまともな息子が生まれるなんて。だからこの結婚には反対したし、今だってそれは変わってない。私はあの子をブラックなんて一生呼ばないわ」

彼は唇を噛み締めて黙り込んでいたが、やがて我慢できなくなって声をあげた。

「あなたは彼を知らなさ過ぎるんです。ほんの一週間でいい、彼と過ごしてみるべきだったんですよ。彼がどれだけ純血主義の家庭に生まれて苦しんできたか、そんなことはすぐに分かったはずです」

彼女は上目遣いにこちらを睨んできた。しばしの間そのまま彼を見つめ、ようやくその口を開く。

「ええ、そうかもしれないわ。でも」

の目尻がキッとつり上がった。

「ブラックはあの子を裏切った」

胸が締め付けられるようだった。否定できるはずもない。彼は、彼女を裏切ったんだ。

は鼻から大きく息を吐き出すと、瞼を半分ほど伏せて言った。

「私の言うことを聞いていれば、あんなに苦しまなくて済んだかもしれないのに。こんなことになるくらいなら、どれだけ嫌われても、憎まれても……結婚なんてさせなければ良かった」

閉じられた瞳から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。彼は彼女から目を外して俯いた。

「……たとえそんなことをしても、あの二人は離れなかったと思いますよ」

ポツリと漏らす。が息を呑むのが聞こえる。彼は顔を上げなかった。

とシリウスの二人と同時に顔を合わせるようになったのは卒業してからだった。彼はそれまでと顔見知りですらなかったし、シリウスがと一緒にいるところも見たことがなかった。しかし、七年生の夏以来、彼に想い人ができたということはすぐに分かった。シリウスは、それまでの女遊び    彼はその言葉を強く否定していた    「俺は来る者は拒まないだけだ!」    をぴたりと止めてしまったし、レイブンクローのとある二人組の女の子を見かけると慌てて陰に隠れたり逃げるように彼女たちとは逆方向にさっさと行ってしまった。あれで自分に好きな女の子がいるとバレていないと思っていたのだから、彼の鈍さは天下一品だ。彼がそのどちらに想いを寄せているのかは僕にはよく分からなかったが。
卒業後、シリウスがあのレイブンクローの黒髪の方の女の子と付き合うことになったとジェームズから聞いた時には少し驚いた。学生時代の    七年生になるまで話だが    彼を考えると、やはり特定の誰かと真面目に交際しているシリウス・ブラックなどあまり想像がつかなかったし、がそこまで彼を強く惹きつける何かを持った女性だとは、初めは思えなかった。確かに彼女はホグワーツでは珍しい東洋人で成績も良かった(ジェームズやシリウスには敵わなかったけれど)。顔は童顔で可愛らしい。しかしそれが何だというのか。正直、あまり長続きしないだろうと踏んでいたくらいだ。でも僕のその読みは見事に外れたし、何度か会ううちに僕自身すっかり彼女の虜になっていた。無論、シリウスの彼女への想いとは性質が異なるし、その強さも深さも全く比ではないのだろうけれど。とにかく僕は彼らの結婚を心から祝福することができた。ジェームズとリリーの時にそうであったように。

「確かに、彼は……を置いて、遠い所へ行ってしまいました」

今を生きる人間にとって、きっと死の次に遠い場所    アズカバン。彼は自分の膝を見つめたままだった。だがやがて、思い切って顔を上げ相手の目を真っ直ぐに見据える。

「でも、僕は……いえ、僕たちは、    信じて彼を待つんだって、決めたんです。シリウスはあんなことができるやつではないんです、それは、彼女が……自身が、一番よく分かっています。だから、一緒に待つって決めたんです」

は目を細め、小さく咳払いをした。そして鼻を鳴らすと彼の瞳を見返してゆっくりとその口を開く。

「本当に、帰ってくるのね?」

彼は息を呑んだ。思わず目を逸らしそうになるが、何とかとどまる。しばしの沈黙を挟んだ後、彼は小さく呟いた。

    シリウスは、帰ってきます」

あいつのためではない。彼女の    の、ために。彼はそう言うしかなかった。彼女は小さく息をつき、緩慢な動きで立ち上がった。テーブルに片手をつき、首を巡らせてこちらを見下ろしてくる。その青い目は険しい色を浮かべていた。

「……もし、何年経っても、何十年経っても」

彼は口元を歪めた。

「あの子が死ぬまでに、ブラックが戻ってこなかったら」

彼女は瞼を伏せた。

「たとえブラックがアズカバンに入っていようが、私が死んでいようが、ゴーストになってでも、私が、あいつを殺しに行く」

はくるりと彼に背を向けて歩き出した。部屋の扉に手を掛け、そしてそれを手前に引きながら。彼女は振り返り。

「あの子を、よろしく頼むわね」

目の端で少しだけ笑んでそう言い残すと、彼女はさっと扉を開けて出て行った。パタンと小さな音を立てて閉まったドアをぼんやりと見つめ、冷え切ったマグカップから手が離せない。
彼はガタンとテーブルの上に倒れ込むと、傾いたカップからこぼれ出たコーヒーが指先に触れるのも構わず固く目を閉じた。

シリウスは。シリウス・ブラックは。きっと帰ってくる。
口で言うのは簡単だ。でも僕は、本当は。
親友三人もの命を奪った容疑をかけられた、親友    であった、男。
    ああ、僕は。

リーマス・ルーピンは机に突っ伏したまま、声を潜めて、泣いた。
(05.11.23)