本当は、本来は、諸手を挙げて喜ぶべきなんだろうと思う。けれど。
どうすればいいのか、僕にはまったく分からなかった。
HER WILL
彼女の
正確に言えば、彼女と、そしてその夫との部屋の暖炉に薪をくべながらぼんやりと考える。一体どこで歯車が狂ってしまったんだろう。彼はぱちぱちと音を立てて爆ぜる炎を眺め、ただそうして立ち尽くしていた。
彼女は今は布団の中で静かに眠っているが、起きている時のその苦しみようは見ていられない。自分が目を逸らしては誰が彼女を支えてやれるのだという、半ば使命感に押され、彼は毎日彼女の面倒を看ていた。
彼女の夫、つまり彼の親友は今監獄にいる。アズカバンに送られた人間が再び俗世に戻った例などないと分かってはいるが、だがそれを祈るよりほかにない。日に日にどんどんやつれていく、彼女を目の当たりにしていれば。
それだけではない。
彼女は毎日嘔吐を繰り返し、食べ物はほとんど喉を通らない日が続いていた。頬の肉がみるみる削げ落ちていく感じで、彼はたまらなくなってダンブルドアにふくろうを飛ばした。その日のうちには煙突飛行で校長は校医のマダムポンフリーと共にやって来てくれ、マダムは床に伏せる彼女を診察した。
神妙な面持ちで寝室から出てきたマダムポンフリーは、ダイニングまで彼を導いてゆっくりと椅子に座った。マダムとダンブルドアは隣同士に座り、リーマスはその正面に腰を下ろした。
「ミスター・ルーピン。よく、聞いて下さい」
そう言うと彼女は、少しだけ眉間にしわを寄せて続けた。
「ミス・
あ、いえ……ブラックは
妊娠している、ようです」
心臓が跳ね上がった。ダンブルドアは顔色を変えない。リーマスは瞬きを繰り返しながら視線を泳がせた。頭が混乱してしまって、何も言えない。マダムは目を細めながら言った。
「もちろん、喜ばしいことです。もしも、あんなことがなければ……お祝いでもしたいところです。ですが」
そこで彼女は一瞬だけ顔を顰めた。
「ですがブラックは、つわりの他にも過度の心身ストレスが重なっていて……あまり、好ましい状態ではありません。彼女さえ良ければ……子供は、諦めたほうが」
一人で子供を育てるのも、大変でしょうし……と、マダムはポツリと付け加えた。に、子供が。シリウスとの子供が。
シリウス……君は本当に、何をやってるんだ。あんなに大切にしていた妻と
まだ見ぬ子供を、顧みずに。
君は底抜けの馬鹿だよ、本当に。
リーマスは顔を上げ、向かいのマダムポンフリーを見やった。
「には……そのことを?」
彼女は力なくかぶりを振る。
「……まだです。妊娠のことも」
ダンブルドアは何も言わず、ただその目を閉じてじっとしている。リーマスは顔を上げ、姿勢を正すと、ゆっくりと口を開いた。
「僕から、彼女に話します」
の口にスプーンを運んだ手を戻し、リーマスはスツールの上で小さく息をついた。
「、少しは気分良くなった?」
「
あんまり」
咳き込みながら答える彼女は今にも消えてしまいそうで。それほど今の彼女は弱々しかった。
彼はそんなの綺麗な黒髪をそっと撫でてやった。彼女は目を閉じて、少しだけ荒い呼吸を繰り返す。は今日だけでもう四度も嘔吐した。毎日がこんな状態だ。
リーマスが顔を上げると、彼女の枕元に転がる写真立てが目に入った。その写真の中では湖畔に佇む一組のカップルの姿がある。黒髪の青年は少女を後ろから抱き締め、照れ臭そうに笑む彼女の黒髪に嬉しそうに唇を落としていた。
そこが二人の思い出の場所であることは聞いていた。入学式の日に最低の出会いを果たした二人だったが、この湖の畔で再会し、そして二人はそこから始まったのだとジェームズは饒舌に語ってくれた。不器用なシリウスは、決して自分からその話題は出さなかったが。
「
はね」
彼女の頭から手を引っ込める。リーマスは窓の外の白んだ世界を仰いだ。
「シリウスとの子供、欲しかった?」
こんな言い方をしていいのか分からなかった。けれど何を言えば一番彼女の心を苦しめないで済むのか。そんなことは、いくら考えたところで答えの出るものではない。彼は自分なりの言葉を慎重に選び、躊躇わないことに決めた。
彼女がどんな顔をしているのかは分からないが、は訊いてきた。
「……何で、そんなこと?」
空は白い。その中を黒い鳥が一羽通り過ぎていった。
「……今、君のお腹の中にはね
赤ちゃんがいるんだ」
彼は窓の向こうを見つめたまま、そう言った。あぁ、僕はなんて、卑怯なんだ。
彼女はポツリと口を開いた。
「……知ってた」
驚いてベッドに視線を戻す。リーマスはただ平然と天井を眺めているの瞳を見つめ、やっとのことで喉から声を絞り出した。
「何で……話してたの、聞こえた?」
軽く失笑し、彼女はかぶりを振ってみせた。
「何となく、よ。そうじゃないかって、思ってたの」
僕は少し椅子から身を乗り出し、彼女の左手をそっと握ると声をあげた。
「
。よく、聞いてくれ。今、君の身体は……良くない、状態なんだ。だから、君が元気になるためには……子供は、諦めた方がいい」
彼女は悲しそうな、怒ったような顔をするどころか、ここ数日ではほとんどと言っていいほど見られなかった柔らかい笑顔を見せた。僕は正直、驚いた。
「?」
は弱々しく彼の手を握り返すと、小さく頭を振った。
「私、絶対に、おろさない」
決然とした面持ちでそう告げる彼女に息を呑む。リーマスは慌てて言った。
「だけど、君の身体は本当に
」
「それでも、いいの」
僕は顔を歪めた。お願いだから
今を生きている自分を、大切にしてくれ。
「私の……私だけじゃない、この子は」
そう言って自分の腹部を布団の上から愛おしげに撫でる彼女の姿は、本当に健気だった。
「私と、シリウスの子供なんだよ? 絶対に、この子、生んで……」
そしては笑う。
「いつシリウスが帰ってきても、ちゃんと、迎えてあげられるように
自慢できるように……しっかり、育ててあげたい」
僕には無理だった。そんな彼女に、おろせなどと繰り返すことは。
急に咳き込んで口元を押さえる彼女の側にバケツを運びながら、彼は笑顔を作り、口を開いた。偽りの顔を見せることは、小さい頃から得意だ。
「……じゃあ、その子を生んでしっかり育てられるように……が元気にならなきゃね。僕も出来る限りのことは、するから」
青白い顔をして懸命に笑む彼女を見て、僕は思った。
お願いだから。君は僕と違って、無理して笑ったり、しないで。