「、オートミール作ったよ」
「……いい、要らない」
彼はこちらに背を向けて動かない黒髪の女性を見つめ、小さく息をついた。
GUILTY
十一月も終わろうとしている。
窓の外に目をやると、一面の銀世界だ。
彼は一ヶ月ほど前にノースウェストに移ってきた。それも、親友夫婦の家にだ。彼はどこか別に宿を取ると言い張ったのだが、ホグワーツの副校長に押し切られて結局そこに落ち着くこととなってしまった。
それもこれも、全てはあのハロウィンから始まったんだ。
彼の親友であるジェームズ・ポッターは、天才肌の魔法使いとして学生時代から広く知られていた。歯に衣着せぬ性格と少し傲慢なところもあったため、同様に敵も多かったわけだが。けれど彼が友人思いで、僕たちにとってかけがえのない仲間であったという事実は変わらない。
そんな彼に、『例のあの人』が目をつけないはずもなかった。
『名前を言ってはいけないあの人』は、優れた魔法使いを次々と闇の道へと引きずり込んでいった。俗に暗黒時代と呼ばれた。その間にホグワーツの卒業生たちも多くデス・イーターの仲間入りを果たしたと聞く。
ジェームズが闇の世界に足を踏み入れるなんてことは、あるはずもない。けれど彼の力は、やはり『あの人』にとっても魅力的だったのだろう。それほどジェームズは素晴らしい魔法使いだった。変身術に長けており、マクゴナガルも舌を巻いていた。
『例のあの人』がどうやってポッター家の居場所を知ったのか。人々は口々に噂した。だがその噂というものは、ほぼこの一つに絞られていた。
ブラックが裏切った。
そんなことがあるはずもない、などと口にしたところで、それは何の役にも立たなかった。秘密の魔法というものは、絶対だ。この世のどんな魔法よりも強力であり、守り人が口を割らない限りは破られることなど有り得ない。
卒業してしばらく経ったあの日、彼らは四人で食事を摂った後叫びの屋敷へと向かった。ジェームズは確かに守り人にシリウスを指名し、彼はその場で引き受けた。その瞬間を、僕は確実に見届けた。
(シリウスが守り人に間違いないという証人が……僕なんだ)
行くんじゃなかった。三本の箒を出てすぐに、帰れば良かったのに。
いや、そんなものは責任逃れでしかない。僕があの場に立ち会わなかったとしても、彼が守り人になったのならばそんなことは関係がない。
どうして
一体、何があったんだ、シリウス。
僕たち四人は親友だった。中でも、ジェームズとシリウスが取分け固い絆で結ばれているということは彼らを知る者ならば誰でも知っていた。それほど二人は心の奥の底まで繋がり合っていたのだ。僕にはそれが、時折羨ましく思えることがあった。僕はジェームズではないし、シリウスでもない、と割り切ることが出来るようになったのはいつ頃だったろうか。
帰ってきてくれ、シリウス。そして、全てを
本当のことを話してくれ。
彼は冷えきったオートミールをつつきながら、寝室で一日中横になって塞ぎ込んでいる女性のことを思った。
(僕だってこんなに参ってるんだ……彼女が寝たきりになるのも無理はない)
僕がしっかりしなければ。彼女を支えられるのは、もう僕しかいないんだ。
自分にそう言い聞かせると、彼は急いで器の中身を掻き込んで乱暴に立ち上がった。
その知らせが届いたのは、ほんの数日前のことだ。
ノースウェストのブラック家で生活するようになってから、彼は新聞を取るようになった。何か重大なことが起こればダンブルドアは手紙をよこすと言ったが、自分で魔法界の情勢を把握したかったのだ。その日の朝も彼はダイニングの窓を開け、梟に銅貨5枚を与えるとテーブルの上に落とされた新聞を手に取った。
そこで彼は、一面にとんでもない記事を見つけた。
まさか
まさか、そんな。
トップにはでかでかと大きな見出しと、中で多くの人々が爆発に吹き飛ばされる様子を映した写真が載せられていた。
まさか……そんなこと、あるわけがないだろう?
なあ、シリウス
頼むから、何とか言ってくれ。
『ブラック、ついにアズカバンへ。
親友をその手にかけた残忍さ!』
彼は四年ぶりにホグワーツを訪れた。嬉しくも何ともない。こんなことが有り得るのだろうか。
ダンブルドアは彼を優しく出迎えてくれた。けれど彼のその穏やかさが何の役に立つというのか。親友が親友を裏切って殺し、もう一人の親友を粉々に吹き飛ばしたなどという事実を前にすれば、どんな素晴らしいことだって全く無意味だろう。
ダンブルドアは、予言者新聞の記事に偽りはないと言った。ピーター・ペティグリューは親友を裏切ったシリウス・ブラックを追い詰め、もう少しというところで返り討ちに遭いその命を落とした。ピーターは指を一本残し、あとは肉片すら探せないほどバラバラに飛ばされていたらしい。シリウスはその場でディメンターに捕らえられ、アズカバンへ送られた。
そんなことが、あってもいいのだろうか。
涙も出なかった。
「は、どうしとるかのう?」
彼は顔を上げて、正面に座る白髪の老人を見据えた。
「……一日中部屋から出てきませんし、食事もろくに摂ろうとしないままです」
彼が俯きながらポツリと漏らすと、ダンブルドアは小さく息をついた。
「そうか……いきなり、信じられんようなことが立て続けに起こったからのう。仕方あるまい」
「………」
彼は眉根を寄せて、もう一度顔を上げた。
「先生」
ダンブルドアは首を少しだけ傾けてみせた。
「本当に、シリウスが……ジェームズたちを裏切って、ピーターまで殺したのですか? 本当に
それはシリウスなんですか」
「リーマス、落ち着きなさい」
いつの間にか前方に身を乗り出していた自分に気付き、「……すみません」と呟くと彼は慌ててソファに腰を落とした。
ダンブルドアは肩をすくめ、ゆっくりとその背もたれに身を預ける。
「わしとて信じたくはないが……状況証拠は、シリウスを示しておる」
「状況証拠だけでは、彼が犯人とは言い切れないのでは」
「……残念じゃが、リーマス、記事を読んだじゃろう? 目撃者もおるのだ」
彼は言葉を失い、ただ呆然と目の前の老人のブルーの瞳を見つめていた。
「リーマス、君には一番辛い役割を担ってもらうことになるが……を、あの子を頼んだぞ」
そこで突然、彼の瞳からぽたりと大粒の涙が一筋零れ出た。どうして。悲しくなど、ないはずなのに。シリウスが
そんなことをするはずが、ない。彼の無実が証明され、アズカバンから戻ってくるまで、彼の一番大切な人を守り抜けばいい。ただ、それだけのはずなのに。
どうして、涙なんか……。
ローブの裾で懸命に涙を拭う彼に、ダンブルドアは優しい声音で言った。
「
リーマス。我慢することはない。君はいつだって、自分の感情を押し殺してきたのじゃ……ここで好きなだけ泣いて帰るといい」
彼は顔面を両手で覆い、声を潜めて、泣いた。
「涙が涸れるまで泣いて……そしてあの子を、支えてやっておくれ」
「……はい」
どうして涙が出てくるのか、分からなかった。けれど、僕は理由のないまま、そうしてずっと、泣き続けた。
本当に辛い思いをすることになったのは、ノースウェストに戻った時だった。
玄関を抜けてダイニングへ入った彼は、部屋の中を見やると同時に固まった。
「……」
この十数日、トイレとシャワー以外に起き上がることのなかった彼女が、テーブルに着いて呆然と虚空を見つめていた。彼女の手元には、今朝配達されてきた新聞がしっかりと握られている。
しまった……仕舞っておくのを忘れた。
今の彼女には刺激が強過ぎる。もうしばらく経って少しでも彼女が落ち着いた頃に話そうと思っていたのに。彼は不注意に朝刊を放置して出掛けた自分に腹が立った。
「……起き上がって、大丈夫なのかい? 早く部屋に戻った方が」
ぎこちない笑みを浮かべてようやくそう口を開くと、彼女はこちらに顔も向けないままポツリと呟いた。
「あの人が
こんなこと」
歩み寄ろうとしていた足が、無意識のうちに止まる。彼は顔を歪めながら声をあげた。
「、今は何も考えない方がいい。きっと何か事情があるんだよ。いつかきっとシリウスの口から、ちゃんとそれが聞けるはずだ」
「事情?」
彼女は熱のない声でそう漏らすと、ふらりと力なくこちらを振り返ってきた。その黒い瞳には、生気が全く感じられない。ズキンと胸が痛んだ。
「……どんな事情があったって、あの人はジェームズを裏切って……ピーターを、殺したんでしょう?」
全身に衝撃が走った。駄目だ、危ない。
彼は彼女のもとまで駆け寄ると、その細い両肩をつかんで口を開いた。
「、君が信じてあげなくて、誰がシリウスを信じてあげられるんだ」
「どうして?」
は彼の手を振り払おうと勢いよくかぶりを振ってみせた。彼はその行為に驚いたが、彼女をつかむ手の力を弱めない。彼女はヒステリックに叫んだ。
「どうして私なの! 何で私が……あの人のこと信じられるって? 無理に決まってるじゃない……何も言わずにいきなり飛び出して
犯人があの人じゃないなら、どうして私に何も言ってこなかったの! 守り人はあの人だったんでしょう? ピーターを殺した現場は、何人も目撃者がいるのよ! 信じられるわけないじゃない……私がどれだけ不安だったか
分からないわけないじゃない。それなのに、フクロウひとつよこさないなんて、そんな人、信じられるわけ……」
途端に、彼女の瞳から涙が溢れ出た。嗚咽を漏らしながらも後を続けようとする彼女を自分の胸元に抱き寄せて、彼はその頭を優しく撫でてやった。は弱々しい拳で彼の胸を何度も叩きながら、やっと声を張り上げた。
「一緒にいて欲しいって言ったのはあっちなのに……何にも言わずにいなくなって……私がどれだけ辛かったかなんて何にも考えずに、一人で勝手なことばっかりして。信じたいよ、信じたいのに……信じられなくしてるのはシリウスの方よ! 私、もうどうしていいか……何を信じたらいいのか……」
彼は学生時代の黒髪の少年を思い出し、苦笑を漏らしながら口を開いた。
「確かに……あいつは、自分勝手なやつだよ」
ポンポンと軽く彼女の背を叩く。彼女のしゃくり上げる声が聞こえた。
「でも、あいつがどれだけ君のこと、ずっと好きだったか……僕も隣で、見ていたから」
目を細める。
「あいつは本当に、心の底から君のことが好きで、大切に思ってた。それは僕が、保証する。だから」
彼は肩をつかんで彼女を自分の身体から少し離すと、潤んだその黒目を見つめて優しく微笑んだ。
「だから
すごく自分勝手なやつだけど、でも、、君だけは……あいつを、信じてやって欲しい」
は辛そうに眉根を寄せた。しかし、やがて。
大きく頷くと、彼女は勢いよく彼にしがみついてきて、もう一度声をあげて泣いた。
好きなだけ泣いて、そして。
一緒に彼の帰りを、待っていよう。