クィリナスは相変わらずあのターバンを頭に巻いたままびくびくと怯え、それ以外は取り立てて不審な行動も見られなかった。だが用心のためにとセブルスは手分けして不定期に城内を夜間巡回したし、どうもフィルチのお気に入りらしいセブルスは彼に怪しいものを見かけたらすぐに連絡するようにと言い付けてあった。

「お前さん、一体どんな授業をしとるんだ」

 玄関ホールで鉢合わせし、はそのままハグリッドの小屋に来ていた。淹れてもらった紅茶を口に含み、眉を顰めて顔を上げる。

「何、今更。私もセブルスも教育姿勢はこの10年変わってないはずだけど?」

「そりゃあまぁそうだろうが…何つーか…なぁ」

 もじゃもじゃの顎鬚を弄りながら、ハグリッドが言葉を濁す。はティーカップをテーブルに置いてから大きく一つ咳払いした。

「何よ。言いたいことがあるならはっきり言ってよね。あなたは昔からそういうところが良くないわよ」

 するとハグリッドはきまり悪そうに顔を歪め、やがてもごもごと口を開いた。

「いやぁ…ハリーがな。どうも…お前さんに嫌われとるんじゃないかって心配しててな。お前さんは生徒にはみんな厳しいって言ってやったが…自分を見る目は明らかに違うと言い張るんだ。お前さんがハリーを見て辛い思いをするんは分かるが…お前さんは先生だ。そこは何とか耐えてやってくれねえか?」

     分かってるわ」

 はさり気なくハグリッドから視線を外し、すぐ傍らで尻尾を振りながらウロウロしているファングの頭を掻いた。

「あなたの言う通り、私は教師よ。公私混合はしないわ」

「そうか。いや、それならいいんだ」

 納得したようにうんうんと頷き、立ち上がったハグリッドが流し台から持ってきたティーポットでのカップに新たに紅茶を注ぐ。ありがとう、と言ってそれに砂糖とミルクを加えながらはそっと瞼を伏せた。

 グリフィンドールの1年生の授業を行う際には、いつも決まって閉心術をフルに活用した。最愛の親友の息子への熱い感情も、彼らを死に追いやってしまった罪悪感も何もかも覆い隠して。だがハリーが視界に入るとどうしてもそちらに意識が集中してしまい、その度に冷ややかな眼差しで彼を見つめてしまう自分には気付いていた。

 仕方ないのよ。私には、そうするしか。

 向き合うことができないのなら、突き放すしか。憎まれることでしか自分を。

     そこで何をしているの」

 スプラウトに頼まれていた薬草の資料を渡しに行く途中、は念のため4階の例の廊下の様子を見に行こうとそちらに爪先を向けた。だがその廊下のすぐ側でウロウロしている小さな少年を見つけ、目を細めてその後ろ姿に声をかける。びくりと身を強張らせて振り向いたのはネビルだった。途端に、きつく胸が締め付けられるのを感じる。

 ふうと小さく深呼吸して、は一歩ずつそちらに近付いた。ネビルの丸顔が青ざめて震えている。

「あ、あの…僕…」

「ここがどこだかあなた、分かってるの?」

 冷ややかに問い掛けると、ネビルはポカンと口を開けてきょろきょろ辺りを見回した。

「ここは4階、立ち入り禁止の廊下よ。校長先生のお話を聞いていなかったのかしら。死にたくなければ二度と近付かないことね」

 他の教員たちがどんな trap を置いたのかは分からないが、ハグリッドのものだけは本人から話を聞いている。入り口を護っているのは彼がダンブルドアに貸した三頭犬で、それを宥められるのはハグリッドとダンブルドアだけだ。間違いに生徒が潜り込みでもすれば確実に死ぬだろう。

 ひっ、と悲鳴をあげて、ネビルが慌てて首を横に振る。

「ぼ、僕、道に迷っちゃって…それで…そんなつもりじゃ…!」

 まだ1年生の授業は数回しか行っていないが、彼がどれだけ不器用なうっかり者かということは嫌というほど分かった。ミセス・ロングボトムがあれだけ不安がっていたのも頷ける。恐らく城内の道を覚えるのも人一倍遅いのだろう。は深く溜め息をつきながら告げた。

「…どこからどこに行くつもりだったの」

「え、えっと…談話室から、呪文学の教室です…」

 まだ蒼白のままびくびくと震えているネビルから視線を外し、は背後の廊下に向き直る。

「それなら      いいかしら、ロングボトム。グリフィンドールの談話室を出たら、すぐに左に曲がりなさい。突き当たりの廊下を右。そこに錆びついた甲冑があるわ。その甲冑の胴を杖で3回叩くと壁に穴があくから、その中の階段を真っ直ぐに下りなさい。呪文学の教室の隣の部屋に出るから。そうすれば二度と迷ってこんなところに出たりはしないでしょう。呪文学の教室は向こう」

 はネビルの目的の部屋がある方向を指差し、淡々と言った。ネビルは口を開けてぼんやりとの顔を見つめている。

「もちろん、友人と一緒ならばそれに越したことはないけれど?私が抜け道を教えたということは誰にも言わないように。分かったなら早くここから消えなさい」

 幾分も厳しい口調でがそう締め括ると、ネビルはまた小さく悲鳴をあげてバタバタとの示す方向へと小走りで歩き出した。

 だが彼女の脇を通り過ぎしばらく進んだところで、ネビルはふと足を止めて恐る恐る振り向いた。は眉を顰めてそれを見返す。

「あ、あの…先生…」

「何かしら。もう授業が始まるわよ?」

 早く行ってくれ。はうんざりと息をついた。心を閉じているとどうしても。ずしりと胸が重い。

 口にすべてきかどうか彼は随分と悩んでいるようだった。だがようやく顔を上げたネビルの瞳は決然としたフランクのものにとてもよく似ていて、は思わず胸元を押さえつけた。僅かに乱れた呼吸を慌てて整える。

「あ、あの…僕、どこかで先生に…会いませんでしたか…?」

 ぎくりと背筋が凍った。聖マンゴで遭遇した幼年のネビルを思い出す。は深呼吸で動揺した心を覆い隠しながら小さく鼻を鳴らした。

「いいえ。他の誰かと勘違いしているんじゃないかしら。さあ、急ぎなさい。フリットウィック先生に失礼のないように」

 ネビルは不可解な顔をしながらもバタバタとその場を走り去っていった。

 背後の壁に寄りかかりながら、全身で呼吸を繰り返す。資料を握る手が汗ばんでいた。

 ネビルは病院で私と会ったことを覚えていたのだろうか。もう随分と昔の話になるのに。嫌だ、もう。忘れて。何もかも。

 図書館からの帰りに偶然マクゴナガルに遭遇したのはその日の午後で、いつも厳格な顔をしたマクゴナガルがどこか浮き足立っているのを見ては驚いた。

「先生、どうかされましたか?」

「あら、先生」

 振り向いたマクゴナガルの目元がニッコリと緩んだ。

「ご機嫌ですね。何かあったんですか?」

「ああ…あなたもきっと喜ぶことでしょう。先生、こちらへ…」

 ヒソヒソと囁いて、マクゴナガルがを廊下の隅へと誘う。神経質に周囲を確認してから、マクゴナガルは声を落としての耳元で言った。

「たった今ダンブルドアから許可が出ました。先生、ポッターがグリフィンドールのシーカーになりましたよ。あのチャーリー・ウィーズリーよりも箒さばきが見事です…今年こそは、スリザリンからクィディッチ杯を取り戻してみせますよ!」

「…ポッターが?」

 が上擦った声で繰り返すと、マクゴナガルは慌てて口元に人差し指を当て「静かに」と囁いた。咳払いを漏らし、は声量を落として続ける。

「でもどうして…1年生の箒持参は禁止のはずですが?あのウィーズリーもチームに入ったのは2年生の時ですよ」

「特別措置が為されます。とにかくポッターの動きは見事ですから…天性の才能だと思います。是が非でも去年よりは強いチームにしなければいけませんからね」

 そう言ったマクゴナガルは、哀しそうに笑った。

「…これを聞いたらきっと、ジェームズも喜ぶでしょう。彼も素晴らしいシーカーでしたからね」

 喉の奥から熱いものが込み上げてきて、はそれを隠すようにそっと瞼を伏せた。箒に乗っている時の彼が、一番輝いていたかもしれない…。

 マクゴナガルの手が軽く肩に触れた時、はようやく自分の身体がひどく震えていることに気付いた。ハッとして目を開け、慌てて視線を足元に落とす。

「ええ、そうでしょうね…」

「…、大丈夫ですか?」

 は無理やり微笑んでみせた。今でも。かつての親友たちの名を他の人間の口から聞かされると。うまく心を閉じられない。

 学生時代の私たちを知る人間からなら、尚更。

 借りた本を小脇に抱え直し、は小さく頭を下げた。

「それじゃあ、私はこれで…」

「あぁ、先生」

 踵を返し歩き始めたを呼び止め、マクゴナガルがあたふたと口を開く。

「このことは内密に。もちろんスネイプ先生にも。お願いしますよ」

「ああ…はい、分かりました」

 はスリザリン贔屓というわけではなかったが、かといってグリフィンドールを応援しているわけでもない。けれどマクゴナガルが意外と負けず嫌いなことはよく知っている。かつての恩師があれほど興奮しているのにそれに水をさすつもりはなかった。

 地下に戻ると、図書館で借りてきた書籍を基に、セブルスと開発中の薬品の実験資料を作成する。実習の準備や課題の採点の合間に、2人は薬品倉庫に保管してある薬の古くなったものを調合し直したり、新しい魔法薬の開発を進めていた。上級生の課題は複雑なものが多い上にとセブルスの採点は非常に細かいので、開発にかけられる時間などほとんど無いに等しいのだが。

 5年生のグリフィンドール生の、本を丸写しにしたようなレポートに目を通しながらはすっかり温くなったカフェオレを喉に通した。

「今日は私が巡回に行くわ。あなたは先に休んでて」

「頼む。じゃあお前が片付けられなかった分の採点は俺が全部済ませておく」

「ありがとう」

 結局、は夜中までに5年生の採点を全て終わらせることは出来なかった。机の上に羽根ペンを投げ出し、椅子の上で思い切り伸びをする。時計の針が11時半を示しているのを眺め、は欠伸を噛み殺して立ち上がった。

「じゃあそろそろ…見回り行ってくるね」

「寝ながら歩くなよ」

「うるさいなぁ…分かってるわよ」

 失礼な、と言わんばかりには顔を顰めてみせる。眉間にしわを寄せるセブルスを見て小さく失笑してから、は薄手のコートを羽織って研究室を出た。ポケットの中で杖を軽く握り、足音を潜めて階段を上がる。

 腹立たしいことに、ピーブズの言う通り、夜中に廊下を歩くことには慣れていた。ジェームズが透明マントを手に入れる前も、得た後も。フィルチやミセス・ノリス、ピーブズに見つからないようにと注意を払いながら。それが今では、自分が教師になって城内を歩き回っているなんて。

 何だかおかしい。そう思っても、少しも笑えなかった。

 そういえばあの透明マントは。どうなったんだろう。ゴドリック谷にそのままなのだろうか。それとも、誰かが。

 1階から大雑把に廊下を回り、ゆっくり階段を上がる。クィリナスのオフィスは3階だ。その周辺を念入りに確認して異常がないことを確認してから、は4階に続く階段に足をかけた。

 その時。

 階上からピーブズの悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。

「生徒がベッドから抜け出したー!呪文学の教室の廊下にいるぞー!!」

 何もないのにこんな真夜中に大声を張り上げるほどピーブズは愚かではない。厄介な存在には違いないがそれだけは言える。はうんざりしながら足早に階段を駆け上がった。

 だがが到着した頃には、呪文学の教室前には既に誰の姿もなかった。

「ねえ、遅くにごめんなさい。今ここにピーブズが来なかった?」

 一番近くにあった絵画の中に住む魔法使いに声をかける。彼は不機嫌な顔で大袈裟に舌打ちした。

「ええ、ええ、来ましたよ。熟睡していたのに本当に迷惑な…」

「それじゃあこの辺にいた生徒も見たのかしら?」

「ああ、何人か小さいのがいましたね。あんまりはっきり見たわけじゃありませんが」

「そう、ありがとう。どんな生徒だったか覚えてる?」

「…さあ、そこまでは。何せこれだけ暗いのでね」

 は小さく肩を落としながら、曖昧に笑った。

「ありがとう。良い夢を」

 やれやれと言いながら瞼を閉じた魔法使いを一瞥し、はさっさとその場を離れた。こんな時間に寮を離れる生徒などろくなことを考えていないであろうことは安易に推測できる。帝王がバックにいるかもしれない人間がいるこの城で、しかも三頭犬が居座る部屋まであるというのに…危ないことは誰にもさせられない。

 それにもしも、歩き回っているのがハリーだとしたら。絵画の住人は目撃した生徒を『小さいの』と言った。下級生であることは間違いない。もしもクィリナスが本当に帝王の手足となっているのだとしたら、それは狙ってくれと言わんばかりの行動じゃないか。

 彼はジェームズの血を色濃く引いている。理由もなく夜中にグリフィンドール塔を抜け出しても不思議はない。

 は例の廊下に向けて突き進んでいった。取り敢えずはそちらに異常がないかを確認することが先決だ。だが廊下の突き当りが近付くにつれ何かが聞こえてくる気がして、は思わずぞくりとした。

 まさか。

 そのドアに耳を押し付けて、は愕然となった。中から雷のような唸り声が聞こえてくる。何もなければ静かにしているはずの三頭犬がこんなに興奮しているなんて。中で何か異常があったに違いない。ドアの取っ手に手を掛けて、また目眩がしてきた      鍵が開いている。

 はほんの少しだけ扉を押し開けて部屋の中を覗き込んだ。仕掛け扉の上にどさりと腰を据えた三頭犬がグルグルと唸りながら落ち着きなくあらゆる方向に首を捻っている。中に誰もいないことを確認してから、はそっとドアを閉めた。しっかりと鍵をかける。

 あの犬が扉の上から動いていないことを考えると、あそこに近付こうとした何者かはそれに失敗して逃げ出したということだ。ホッとするのと同時に、は大きく肩を落とした。賢者の石を狙う人間が      この城には確実に存在するのだ。

 本当にクィリナスなのだろうか。早く、セブルスとダンブルドアに報告しなければ。

 だがはその前に8階へと急いだ。慌てた様子でやって来たかつての寮生を驚いた顔で見つめ、太った婦人が首を傾げる。

「あら、久し振りねえ。そんなに急いでどうかしたの?」

「訊きたいことがあるの。今夜、就寝時間を過ぎてから生徒が誰か外に出なかった?」

 婦人は目をパチクリさせて声をあげた。

「ええ、出たわよ。ついさっき戻ってきたところ」

「誰なの?1年生?その中にハリー・ポッターはいた?」

「ああ、あの子ね。ええ、いたわ」

 ずしりと心臓が押し潰されそうになった。やっぱり。ピーブズが遭遇した生徒というのはグリフィンドールの1年生で間違いないようだ。

 は乱れた息を落ち着かせながら、喘ぐように言った。

「婦人、頼みがあるの。これからはハリー・ポッターが夜中に寮を抜け出すようなことがあれば私に知らせて。地下の研究室には私かセブ…スネイプ教授が必ずいるから。ああ、そうだ…夜間に外出すれば私が50点減点してやると脅してくれてもいいわ。とにかく彼を夜中に外に出さないか、もしくはすぐに私に伝えて欲しいの。お願いできる?」

「いいけど、あなたも人のことをとやかくは言えないわよね?」

 悪戯っぽくクスリと笑う婦人に苦笑いを返し、は足早に地下へと戻った。の話を聞いたセブルスはグレイの寝巻き姿のまま神妙な顔付きでソファから腰を上げる。急いでその上にマントを羽織ったセブルスと共に、はダンブルドアのもとへと向かった。