「先生、今年はあのハリー・ポッターがホグワーツに来るってのは本当ですか?」
「…ええ、そう。早耳ね」
「そうですか!そりゃあ楽しみなことですね!」
満面の笑みでビアズリーが擦り切れた古書を差し出してくる。はそれを片手で受け取りながら小さく咳払いしてみせた。
「ありがとう。それじゃあ、また」
足早に店を出て、ホグズミードのハイストリートをホグワーツに向けて歩く。購入したばかりの専門書を小脇に抱えながら、はふうと溜め息をついた。
楽しみなものか。苦しくてたまらない。
彼の両親を死なせたのは。私の愚かな思い込みだ。
あの時私に、ダンブルドアを問い質す勇気さえあれば。闇の帝王は今でもこの国を脅かしていたかもしれないけれど、少なくともジェームズとリリーは。ピーターは。あんな形で命を落とすことなんてなかった。
シリウスが2人を裏切るなんてことも、なかったに違いないのに。
ずっと みんなと一緒にいたかった…。
私がどうしようもないほどの臆病者だったから。ハリーは独りになってしまったんだ。
『またおいでよ、』
ジェームズの温かい笑顔が。リリーの柔らかな微笑みが。今でも視界の裏に焼きついて離れない。でも。
…シリウスの顔が、思い出せない。
は研究室の机に突っ伏してギュッときつく目を閉じた。他の親友たちの表情は鮮明に思い出せるのに、彼のことだけが。
学生時代の写真は隠れ家の棚の奥に仕舞い込んである。捨てはしなかったが、目のつくところに置いてあるのも耐えられなかった。卒業以来、一度も取り出してはいない。
「そろそろ時間だ。行くぞ」
セブルスが徐に立ち上がり、椅子に掛けてあったマントを手に取った。ハッとして顔を上げ、壁の時計を見上げる。7時半。ホグワーツ特急が到着した頃か。
食事前だというのに胃がずっしりと重い気がした。こんなに緊張した宴会なんて自分の入学以来かもしれない。はよろよろとセブルスに凭れ掛かりながらようやく腰を上げた。
「しっかりしないか」
「…分かってる」
苛々と答えた彼女の頬を冷えたセブルスの手が撫でつけ、は気持ちを入れ替えようと軽く頭を振った。いけない。私は一教師だ。一人の生徒を特別な目で見てはいけない。
セブルスはいつものように無表情に地上への石段を静かに上がっていった。玄関ホールには既に到着していた上級生たちが溢れ、大広間に雪崩れ込もうと押し合いへし合いしている。もセブルスの後ろについて素直にその流れに従った。
「スネイプ先生、先生、お久し振りです」
背後からかけられた声に振り向くと、スリザリンのフリントが人の良さそうな作り笑いを浮かべて頭を下げてきた。合わせたように僅かに口角を上げ、は右手だけを軽く挙げて言葉を返す。
「久し振りね。元気にしてた?」
「はい、お陰さまで。ありがとうございます」
セブルスは振り返りフリントに向けて少し顎を引いただけですぐさま広間へと入っていった。も彼に続いて生徒に紛れ、上座の長テーブルに沿って奥へと足を進める。魔法薬学の担当の席は昔から闇の魔術に対する防衛術の教授席の隣と決まっており、はクィリナスの隣にどさりと腰掛けたセブルスの向こうの椅子に座った。クィリナスはが初めて見る紫のターバンをやけに仰々しく頭に巻きつけている。
「ご機嫌よう、クィレル教授」
セブルスが冷ややかに声をかけると、クィリナスはびくりと身を強張らせて驚いたようにこちらに顔を向けた。
「ご、ごご、ご機嫌よう…すす、スネイプ先生、先生…」
「こんばんは、クィレル先生」
研修から戻ってきて以来クィリナスと顔を合わせる度に。胸がずきずきと痛む。本当に彼は、もう以前の彼には戻れないのか。本当に彼の背後には闇の帝王が潜んでいるのか。
だとすれば私は。クィリナスに杖を向けなければいけない。
「そのターバンはどうしたんですか?」
「あ、あ、ああこれですか?こ、こここれは、け、研修でああアフリカに行った時にす、すす少し厄介なぞ、ゾンビをやっつけましてね。そ、そそ…その時に現地のおお王子さまが私に下さったも、もものですよ。せっかくのおお贈り物ですから、身に着けようと思いまして」
は唖然としてしばらくぼんやりとセブルスの呆れた横顔越しにクィリナスを見つめていたが、やがて苦笑いとともに「素敵ですね」とだけ答えて椅子の背もたれに身体を戻した。
教職員、上級生がすっかりそれぞれの席に着いてしまいゴーストたちも壁を通り抜けて揃うと、やっと大広間の二重扉からマクゴナガルが引き連れた新入生たちがぞろぞろと落ち着きなく入ってきた。どきりと跳ね上がった心臓をローブの上から押さえつける。セブルスは眉一つ動かさずに平然とその光景を見ていた。
あの中に。ジェームズとリリーの息子がいる。ロングボトム夫妻の息子が。目を閉じ、小さく深呼吸してからはそっと瞼を押し上げた。
教職員テーブルの前でマクゴナガルが1年生を一列に並ばせ、そこに置いたスツールに組み分け帽子を載せる。は肘掛けに右腕をついて新入生の列に視線を走らせた。心臓が口から飛び出しそうだ。ハリー。ジェームズとリリーの最愛の息子。
新入生だけで何十人もいるし、彼らはこちらに背を向ける形で立っているので目的の少年を探し出すのはかなり困難だった。帽子がいつもの歌を終え、マクゴナガルが羊皮紙の巻紙を広げて生徒たちの名を呼び始める。
ハリー・ポッター。どこの寮になるんだろう。やっぱりグリフィンドールか。いや、もしもリリーの聡明さを受け継いでいるとすればレイブンクローも有り得る。スリザリンのことを考えると少し目眩がした。まさか。
「ボーンズ・スーザン!」
赤茶色の髪をお下げにした少女が呼ばれると、はハリーを探すのを止め、慌ててそちらに顔を向けた。ボーンズ。エドガー・ボーンズ…私が持ち帰った情報のせいで死喰い人に殺された。彼の身内だろう。髪の色合いが彼によく似ている。は眉間に手を当てて小さく息をついた。
「ロングボトム・ネビル!」
列の中から前へ進み出た丸顔の少年は椅子まで行く途中で転んでしまい、緊張で固まった新入生たちを僅かながら笑わせていた。ああ、ますます母親に似てきて。は組み分け帽子を被ったネビルから視線を逸らした。彼を見ているのはひどく辛かった。
「グリフィンドール!」
決定に時間がかかったものの、ネビルはグリフィンドールに組み分けされた。聞くところによるとフランクもアリスもグリフィンドールだったという。は次の少年に帽子を渡してトボトボとグリフィンドールのテーブルに歩いていくネビルをぼんやりと見つめた。
ドラコ・マルフォイは一目見ただけですぐに分かった。あのホワイトブロンドに冷たいグレイの瞳…ルシウスにそっくりだ。ドラコは名前を呼ばれると踏ん反り返って前に進み出た。父親と違うのは紳士的な物腰はまだ全く身につけていないという点か。組み分け帽子はドラコの頭に触れるか触れないかのうちにスリザリンと叫んだ。
クラッブやゴイル、ノット…父親が私の知る死喰い人であろうという新入生が何人かいたが、全てスリザリンに組み分けされた。そして、ついに。
「ポッター・ハリー!」
覚悟はしていたが、決定的に心臓が飛び上がった。肘掛けの上で両の拳を握り締め、その後ろ姿を見つめる。
息が止まるかと思った。 ジェームズ!
スツールに腰掛けた少年はすぐに帽子を被ってしまったが、そのくしゃくしゃの黒髪はジェームズそのものだった。20年が過ぎても。彼の少年時代の姿を忘れるはずなんてない。
初めての、友達だったから。
耐えられなかった。それ以上、ハリーの姿を見ていることが。
広間は水を打ったように静まり返り、誰もが首を伸ばしてハリーをよく見ようとしていたが、は唇を引き結んですぐに俯いてしまった。
決定にはネビルの時よりも時間がかかった。やがて帽子は広間全体に向かって「グリフィンドール!」と叫んだ。ハッとして顔を上げると、目尻から涙が一粒だけ零れ落ちた。慌てて下を向き、頬にかかった髪に覆い隠して素早く涙を拭う。
ジェームズ、リリー。ハリーが私たちのグリフィンドールになったよ。
楽しいことばかりじゃなかった。でも、私は確かにあの塔で、一生忘れられない思い出を掴むことが出来た。ハリーにも。充実した7年を授けてくれるであろうことを祈って。
ハリーは割れんばかりの拍手と歓声に迎えられてグリフィンドールのテーブルに着いた。ああ、確か1年生の新入生歓迎会で…ジェームズとシリウスも、あの辺りに座っていたような気がする。私はそれを、スリザリンのテーブルから見ていた。
全ての組み分けが終わると、マクゴナガルはクルクルと巻紙を仕舞い、帽子をさっさと片付けた。彼女が教職員テーブルに座り、ようやくダンブルドアが立ち上がる。彼は腕を大きく広げて生徒たちにニッコリと笑いかけた。
「おめでとう!ホグワーツの新入生、おめでとう!古株の諸君は、おかえり!歓迎会を始める前に、二言三言。ではいきますぞ。そーれ!わっしょい!こらしょい!どっこらしょい!以上!」
心なしか、ダンブルドアの挨拶はいつも以上に砕けているような気がする。上級生はそのほとんどが拍手と歓声を返したが、呆気にとられた様子の新入生たちはポカンと口を開けてダンブルドアを見ていた。
は静かにご馳走に手を伸ばしたが、ちらりと傍らのセブルスに視線を走らせた。彼は平然とした顔で黙々と口を動かし、時折探るようにクィリナスに話しかけている。は小さく息をついてから隣のシニストラと明日の天気について軽く言葉を交わした。
一通り食べ終え、ダンブルドアお気に入りのハッカ入りキャンディを口に含んだはぼんやりと生徒たちのテーブルに顔を向けた。ドラコは相変わらず踏ん反り返っているし、クラッブ・ジュニア、ゴイル・ジュニアは彼にへつらうように馬鹿馬鹿しく笑っている。ルシウスはドラコを使ってハリーに近付こうとするだろう。だとしたらドラコの動向にも注意しなければ。
デザートを少し食べてからようやく、はもう一度グリフィンドールのテーブルを確認する気になった。驚いたことに、ちょうどその時ハリーもまたこちらの教職員テーブルをジッと凝視していた。
一瞬間違いなく目が合い、どきりと心臓が跳ね上がる。何ということだ ジェームズの生き写しで、そのグリーンの瞳はリリーそのもの!
ギョッとして目を見開き、はすぐさま手元に視線を戻した。ゴブレットを持つ手の震えが止まらない。自棄を起こしたように、は中に残ったカボチャジュースをグイグイと一気に飲み干した。
「どうかしましたか?先生」
不思議そうな顔をしたシニストラが訊いてくる。は軽く首を振って力なく笑った。
「何でもありませんよ、何でも…」
こんなところで泣いては。
俯き、は頬にかかる髪の毛で懸命に表情を隠そうとした。震える拳をもう片方の手で覆い、こっそりと深呼吸を繰り返す。胸が締め付けられるようで、息苦しくて、彼と同じ空間にいること自体が苦痛だった。
唯一の救いだと思えるのは。彼が、シリウスの息子ではなかったということ。
もしも彼がシリウスの生き写しだったら、私は既に泣き出していたかもしれない。
セブルスは平気な顔をしていたけれど。私は知っている。ハリーの入学が近付くにつれ、彼もまた落ち着かない様子で生活してきたということ。今もきっと、苦しくて仕方ないのだと思う。
彼のあの瞳を見たら。平心でいられるはずがない。
デザートがすっかりと消えてしまうと、ダンブルドアが再び立ち上がり幾つかの注意事項を述べた。
「 最後に一つ。とっても痛い死に方をしたくない人は、今年いっぱい4階の右側の廊下に入らぬように」
地下に戻るや否や、脱ぎ捨てた上着を私室のベッドに苛々と叩きつける。はそのまま背中から布団の上に倒れ込んだ。胸の中がモヤモヤと燻り、喉の奥が気持ち悪い。
目の前にジェームズと、リリーがいた。嬉しさというよりは罪悪感の方が何倍も強かった。私が殺したのだと。突きつけられているような気がして。
左腕が奇妙に疼いたように感じてはローブの袖を捲し上げた。覆われた印は、何の兆しも見せてはいない。
逃げられない。自分の犯した罪からは、一生。
薄暗いランプの明かりだけが照らし出すの寝室に、物憂げに扉を押し開けたセブルスが姿を現した。彼には寮監の仕事があったので彼女が一足先に帰ってきていたのだ。
は彼に背を向ける形で身体を捻り、布団の上で丸くなった。
セブルスがベッドの縁に腰を下ろし、そんな彼女を後ろから抱き寄せる。はセブルスの唇が首筋を這うのを拒むように身を縮め、溜め息雑じりに呟いた。
「…ねえ、やっぱり…良くないと思う、こういうの」
「何がだ」
吐息のようなセブルスの囁きはぞくりとするくらい色がある。ギュッときつく目を閉じて、は何とか自身を奮い立たせた。
「何がって…だから、こういうの。私たち…こういうことするような仲じゃ、ないでしょう?」
耳元でセブルスの息が微かに笑う。
「今更何を。それとも、何か不満でも?」
言いながら、セブルスの細い指が彼女の顎をそっと撫でた。
「…そういう問題じゃ、なくて」
「それなら何を今更躊躇う」
本気で分からないんだろうか。まさか、そんな。
首筋を伝う温かい舌の感触に、は思わず息を漏らした。
「だから…私はあなたを愛してないし、あなたも私を愛してない!」
やっとのことで怒鳴りつけると、セブルスは喉の奥で低く、クツクツと笑った。彼の大きな手が、の身体の前で戯れるように絡む。
「何で笑うのよ」
「…そんなことが、重要か?俺はお前を必要としている。お前も俺を必要としている。それ以外に、何か必要か?」
「でも…だって、あなたは今でもまだ…!」
そこまで口にしたところでぐいと肩を掴まれ上を向かされたは、セブルスのキスに阻まれてその先を言えなくなってしまった。伸ばした左手は、空を切って彼に捕らわれる。
いつもと違って噛み付くような口付けに、思わず顔を顰めた。
私が愛しているのは今でもシリウスだけだし、ねえ、セブルス。あなたも今でも、彼女のことを想っているんでしょう?
それなのにこんなこと。哀しいだけだよ。
でも結局こうして彼に身体を預けてしまう私は、今でもやっぱり。
どうしようもない、臆病者なのです。