またいつものように平坦な1年が過ぎ、夏がやって来た。左腕が疼くこともない。平和ボケという言葉はまさにこんな私のためにあるのではと思えるほど、穏やかな日々。
もう10年も経つんだ。闇の帝王が消えてから。ひょっとして、もうこのまま。普通の∴齔カを終えられるかもしれない、なんて。
帝王は本当にいなくなってしまったのではないか。
帝王はひどく感情的だ。もしも再び立ち上がるつもりがあるのなら、10年も待てるはずが。
楽観的すぎるということは分かっている。帝王はそう簡単にはくたばらない。
けれど。
「お、おお、お久し振り…先生…」
大理石の階段を恐る恐る下りてくる男を見上げ、玄関ホールで立ち止まったは大きく目を見開いた。
「…『賢者の石』、ですか?」
校長室に呼び出されたとセブルスは、ダンブルドアの言葉を繰り返して眉を顰めた。小さく頷いて、ダンブルドアは続ける。
「そうじゃ。わしの古い友人がグリンゴッツに保管しておったんじゃが…今年はホグワーツで預かることになってのう。それを確実に護る手段として、先生方に一つずつ trap を用意していただくことに決めたのじゃ。君たちも一つ、知恵を絞って協力して欲しい」
「私たちでお役に立てるのなら、それはもちろん。ですが…」
そこで一旦言葉を切り、は首を傾げてみせた。
「なぜホグワーツに移す必要が?グリンゴッツの護りは万全のはずですが」
セブルスは何も言わないが、と同様に不可解な顔でダンブルドアを見つめている。うむ、と唸ったダンブルドアは、取り出した杖を軽く振った。部屋を覆った防音の魔法をより強固なものに変えたのだ。
杖を懐に戻したダンブルドアは椅子の背もたれから僅かに身を浮かしてようやく口を開いた。
「…少し気になることがあってのう。より確実な方法で石を護る方が良いと考えたのじゃ」
「気になること、とは?」
セブルスの問い掛けに、ダンブルドアは机の上で両手を組み合わせ、唸るように囁いた。
「…2人とも、クィリナスをどう思う?」
は思わずセブルスと顔を見合わせて目を瞬いた。
「どう思う、と仰いますと?」
「…研修から戻ってきて以来、クィリナスの様子がおかしいと…そう思わぬか?」
は先日城内で遭遇した同僚のことを思い返した。この世の全て怯えているかのようにどもりながら喋り、以前の落ち着きは微塵も残っていない。は軽く頭を振りながら答えた。
「それは確かに…そう思いますが、彼は Black Forest で吸血鬼に会ったんでしょう?今まで書籍でしか闇の魔術を知らなかったクィリナスです。それで衝撃を受けて…ああなってしまっても、不自然では。非常に残念ですが…そういった意味では、今回の研修には意味があったと思います。いい勉強になったのではないでしょうか」
学生時代からクィリナスのあの穏やかな優しさが大好きだった。彼がホグワーツに戻ってきてからの週に一度のミッディ・ティーブレイクが大好きだった。彼の話は人を退屈させないし、あの笑顔を見るだけで少なからず癒される。
そう、昔私にも向けてくれた リーマスの、あの笑顔のように。
「クィレル教授が何か」
セブルスが落ち着き払った声で訊ねると、ダンブルドアはより一層厳しい顔付きになった。
「…君たちが何も感じないということは、わしの思い過ごしかもしれんが…クィリナスの背後に少し、あやつ≠フ影を感じるのじゃ」
はギョッとして目を丸くした。思わず左腕を押さえつける。セブルスは身動き一つとらなかったが、それでも眉が微かに上下することだけは隠せなかった。
はダンブルドアの方に一歩踏み出して僅かに声を荒げた。
「まさか…そんなはずがありません!彼は学生時代からずっと闇の魔術に対する防衛術の教授になりたがっていました!優しくて勤勉で…それは研修に出る前だって少しも変わっていませんでした!それなのに…どうして今更…。帝王がどこにいるのかも分からない状況なのに、どうしてクィリナスが…」
セブルスが無言のままの腕を掴んで後ろに引き戻す。はセブルスに向けて怒声を放ちかけたが、ダンブルドアが口を開いたのであっさりとそれを断念した。
「あやつが身を隠すとすれば、それはこの国の外じゃろうと考えておった。わしは外国にもいくつか情報源を持っておってのう。最後にあやつが目撃されたのは…バルカン半島のアルバニアじゃ。そこはクィリナスの予定ルートにも入っておった。そのこと自体は、わしはそこまで案じてはいなかったのじゃが…」
「それじゃあ先生はクィリナスがそこで帝王と遭遇したとでも?」
「可能性はゼロではあるまい。わしの記憶しておる限り、クィリナスは学生時代から防衛術のみならず闇の魔術そのものにも関心を抱いておったように思う」
は次の言葉を飲み込んでグッと口を噤んだ。確かに彼は闇の魔術に対する防衛術の話をする時、いささか恍惚的な表情をしていたかもしれない。でも、まさか。
「そこまで推察が進んでおられるのに、奴を野放しにしておくのですか」
セブルスが冷ややかな声音で告げる。ダンブルドアは疲れたように首を振った。
「あくまでわしの推察に過ぎぬ。じゃが、もしもあやつがホグワーツの内部に自らの手足を見出したとなれば、こちらも手を打たねばなるまい。賢者の石をグリンゴッツから城に移すのもそのうちの一つじゃ。いくら厳重といえどあやつが関わるともなればグリンゴッツの警備は破られる可能性もある。 trap を何重にも張り我々の目の届く範囲に置いた方がより安全だと思うのじゃ。それに、もしも本当にあやつがクィリナスと手を組んだとすれば…いずれ尻尾を出すことになろう」
「賢者の石を囮に帝王を炙り出そうということですか」
セブルスの言葉に、ダンブルドアは静かに頷いた。
「じゃが、それでみすみす賢者の石を奪われては元も子もない。 trap の内容は2人でよく考えて欲しい。分かっておろうが、クィリナスには…こちらの思惑は、内密に」
「分かりました」
セブルスがすぐに一礼する。はどうしても素直にダンブルドアの推察≠受け入れる気にはなれなかったが、セブルスに促されるままに軽く頭を下げた。
「それから、君たちにはもう一つ頼みがある」
ダンブルドアが右手の人差し指をそっと立てて続ける。
「 気付いておろうが…今年は、ハリー・ポッターがホグワーツにやって来る」
はピクリと片方の眉を上げた。
「あの子がマグルの親戚の家にいる間は護りは万全じゃが、外に出れば話は別じゃ。クィリナスの背後にあやつがおるとすれば…あやつはハリーの命を狙うじゃろう。君たちにはあの子を護ってやって欲しい。…頼めるかね?」
最後の言葉はセブルスに向けられたものだと分かった。セブルスは唇を引き結びしばらく無言のまま足元を見つめていたが、やがて小さく息をつき、「分かりました」と囁くように言った。
「私もです。全力で…あの子を護ります」
が答えると、ダンブルドアは安堵したように微笑んだ。
「 trap の内容が決まればすぐに伝えて欲しい。できれば、1週間ほどのうちに。その後のことは、また追って話をする」
「ねえ、どう思う?」
地下牢研究室に戻るや否やはソファにどさりと腰を下ろして思い切り顔を顰めてみせた。セブルスは溜め息をつき、取り出した杖先で部屋の扉を軽く叩く。先ほどのダンブルドアと同じく、部屋に巡らせた防音の魔法をよりしっかりしたものに変えたのだ。
「どう、というのは」
「分かるでしょう?クィリナスのことよ。彼の後ろに帝王がいるなんて…そんなこと、考えられる?」
「有り得ない話などない」
素っ気無いセブルスの答えに、は頬を膨らませて彼を睨み付けた。
「ホグワーツの教員がたまたま弱った闇の帝王に会って、そして手を組んだ?そんな…帝王にとってはこの上なく都合のいいことよね、今年からはあのハリー・ポッターもホグワーツ生だっていうのに。まさか…そんなうまい話が」
「有り得ない話など有り得ない。あれも全てふざけた演技だとすれば尚更奴は怪しいな」
「演技?」
傍らに座ったセブルスを見つめ、は素っ頓狂な声をあげた。
「演技?あの怖がりようもどもりも、全部演技ですって?そんな馬鹿な 」
「」
うんざりした様子で息をつき、セブルスが瞼を半分ほど伏せる。
「お前の感情論など聞きたくはないな。そんなものが役に立ったことがあるか?」
感情論。ずきんと胸が痛んだ。新聞で読んだシリウスの事件を笑い飛ばしたに、セブルスは冷たくそう言ったのだ。お前の下らない感情論を聞くつもりはないと。そうだ、どれだけ私が信じても。シリウスはアズカバンに行ってしまった。彼がジェームズとリリーを裏切ったのだと。ピーターを殺したのだと。
彼はまだ、生きているのだろうか。アズカバンで命を落とした囚人のことなど記事にすらならない。私は彼の生死すら分からないままにこうしてずっと生きてきた。
たくさんの人たちを苦しめた私はこうして広い世界で生きているのに。彼は暗く冷たい監獄に独り。
ローブの上からそっと左腕を撫でるに、セブルスは静かに言った。
「これからは下手にクィレルに近付くな。奴の背後に帝王がいるとすれば、ポッターだけではない、奴がお前にも何らかの形で接触しようとすることも十分に考えられる。少なくとも一人では 奴に会うな」
「でも…私、クィリナスが研修に行く前はずっと一緒にお茶してたのよ?それをいきなり止めるなんて、その方が怪しいんじゃない?」
セブルスは軽く鼻で笑ってみせた。
「まともに会話もできんような男と話をして楽しいか?」
は大袈裟に息をつき、小さく首を振った。
「分かったわよ。二人きりで会わなきゃいいんでしょう?言うことを聞きますよ…あなたは私の保護者ですから?」
「分かればいい」
偉そうに。小さく呟いて、はソファの背もたれに後頭部を押し付けてぼんやりと天井を見上げた。
何だか唐突で、突飛な話で。まさか、という思いの方が強い。
そう、あの時と同じだ。シリウスが死喰い人だなんて、『まさか』。
けれど所詮は。他人なのだ。どれだけ分かったつもりでいても、どれだけ信じていたって。自分でない人間の胸の内なんて、口に出さない限りは分かるはずもない。
ジェームズたちは私が裏切るつもりだなんて気付かなかった。私はセブルスが心から騎士団に忠誠を誓っているなんて知らなかった。
どれだけ分かっているつもりでも。所詮は。
私がどれだけ信じていても、クィリナスがどんな人生を送ってきたかなんて知らない。研修の間に何が起こったかなんて分かるはずもない。帝王を古くから知るダンブルドアが彼の影を感じるというのなら、その可能性はあるのだ。
…嫌な世の中だなぁ。
自分がこんなことを考えているなんて、ひどく滑稽だと思えるけれど。
「 trap のことだが…何か考えはあるか?」
セブルスの低い声にようやく我に返り、身体を起こして伸びをする。
「あー…そうね。やっぱり…魔法薬を使ったものが確実じゃないかな。でもまあ少し、休みましょう?今日は何にも…考えたくないわ」
夏季休暇に入ってまだ数日しか経っておらず、とセブルスには慌しい日が続いていた。再びぐったりとソファに身を預けるの髪をセブルスの手がそっと掬う。
彼がそこに唇を落とすのを見ながら、は目を細めて小さく笑った。
ハリーが。そしてネビルがやって来ると思うと。気が気ではなかった。けれど。
私にはハリーを護るという使命が。闇の帝王をこの世から完全に消し去るという義務がある。
セブルスと一緒に、必ず。
ソファの上で身体を捻ったセブルスがの上に覆い被さるようにしてこちらに身を乗り出した。彼のキスを唇で受け止めながら、やっとのことで口を開く。
「…今日は何も考えたくないと、言ったはずだけど?」
「考える必要などないだろう?」
あっさりとそう切り返したセブルスの細い指先が彼女の顎をそっと掬い上げた。呆れたように息をつき、彼の背に腕を回す。
彼の言う通りで、その夜は何も考えずに眠りにつくことができた。セブルスに抱かれた気だるさのお陰なのか、それとも考えることを脳が完全に拒んだのか。そんなことはもう、どうでもよかった。
とセブルスが trap の内容を考え出してダンブルドアに告げたのはそれからちょうど1週間後のことで、その時には既に他の職員たちの案は全て出揃っていた。ハグリッド、スプラウト、フリットウィック、マクゴナガル、そして クィリナス。
「賢者の石は近いうちにハグリッドに運んできてもらう。部屋の trap はそれまでに準備してもらわねば。2人とも、頼んだよ」
2人の trap に使った論理はがビアズリーズで買ってきたマグルのパズルの本からヒントを得た。魔法使いの家系で育ったクィリナスを足止めするには只の魔法よりは有効だと考えたのだ。
その夏季休暇、とセブルスは隠れ家には戻らなかった。賢者の石のための trap を4階の奥の部屋に敷かねばならなかったし、ハリー・ポッターがやって来るともなればその護りを思案する必要もあった。城に居座り新学期の闇の魔術に対する防衛術の準備を進めるクィリナスを密かに監視する役も負った。
グリンゴッツ魔法銀行に侵入者が入ったという記事が予言者新聞に掲載されたのは、クィリナスが吸血鬼の新しい本を買いに行くと言ってホグワーツを留守にしたその翌日のことだったので、は彼への疑いを確固たるものにせざるを得なかった。
「でも…良かったわ。あなたが石を持ち出した後で」
はダンブルドアからの伝言を伝えるためにハグリッドの小屋を訪れていた。2人の間に漂うぎこちなさはどうしても否めなかったが、それでもこうして向かい合って紅茶を口にできるほどには関係は改善していた。私がダンブルドアに杖を向けた事実は変わらないけれど、ハグリッドは事情は理解してくれている。
相変わらず固いロックケーキを出してくれたハグリッドはの膝に顔を載せたまま動かないファングを軽く一喝してからふうと息をついた。
「まったくだ。本当はもっと早いうちに石を取りに行くつもりだったんだが…ちぃと想定外のことがあってな。本当に危ないところだった…」
「何か問題でも?」
ケーキには手をつけずにティーカップを口に運んだは眉を顰めてハグリッドを見た。ばつの悪い顔でハグリッドが咳払いする。
「あー、いや…入学許可証をな、ハリーのところにずっと送ってたんだが…あの腐れマグルどもが」
「マグル?彼の親戚のこと?どうかしたの?」
「あいつら、ハリーに俺たちの世界のことを何にも話してなかったんだ!何一つもだぞ!自分が魔法使いだと知った時のやっこさんの顔、お前さんにも見せたかったくらいだ!」
憤然としたハグリッドが苛々とカップをテーブルに置く。は目を瞬いて上擦った声をあげた。
「つまりハリーは…ジェームズのことも、リリーのことも…何にも知らされずに大きくなったっていうこと?」
「ああ、その通りだ!あの2人が自動車事故で死んだなんて…こんな侮辱はねえ!届いた許可証をあのマグルどもは全部ハリーに見せずに処分しとったんだ!俺が直接やっこさんに渡さんとならんかった…それで予想外に時間がかかっちまってな」
息が詰まった。ハリーはジェームズとリリーのことを何も知らずに育った。ハグリッドの言うようにそれは彼らへの侮辱だろうと思う。でも。
もしも彼が、両親が死んだのは私のせいだと知ったら。
そう思うと、怖くてたまらなかった。私が予言さえ聞かなければ。はカップをそっとテーブルに置き、ハグリッドから視線を外してファングの頭を掻いた。
「それで…ハリーは、ホグワーツには来るの?」
が訊ねると、ハグリッドは驚いたように目をパチクリさせた。
「当たり前だろう!やっこさんの名前は生まれた瞬間から入学名簿に載っとる」
「そう…そうでしょうね」
小さく笑い返し、はようやく椅子から腰を上げた。ファングが寂しそうにクーンと鳴く。
「また来るね。それじゃあハグリッド、6時に校長室。忘れないようにね」
「ああ、わざわざすまんかったな」
あたふたと立ち上がったハグリッドに見送られ、は城に向けて歩き出した。夏の陽光は眩しい。私に光は似合わない。
かつての親友のことを思い返すと、今でもどうしようもないくらい。
樫の扉を開けながら、は溜め息雑じりに瞼を伏せた。