ルシウスは時折ホグワーツの魔法薬学研究室にふくろうを寄越した。それは2人に宛てた差し障りのない季節の挨拶であったり、マルフォイ家で行われるクリスマスパーティへの誘いであったり。
後々のことを考えれば彼との繋がりは断ち切るべきではなく、とセブルスは同様に当たり障りのない返事を書き、招待状の類にはやんわりとお断りのカードを送った。帝王が姿を消した今でも、ダンブルドアの側を離れるのは都合が悪いのだと暗に伝わるように。それでもルシウスはしつこくふくろうを送り続けたし、のもとには時にナルシッサから手紙が届くほどだった。
『貴女のことを話して聞かせたら、ドラコがとても会いたがっていたわ。仕事が落ち着いている時でいいから是非セブルスと一緒に遊びに来て』
「…息子の名前まで使って、あの人ったら…」
は目の前の羊皮紙から視線を外し、うんざりと溜め息をついた。
「どうした」
寮監の仕事から戻ってきたセブルスが自分の机に着きながら素っ気無く訊ねる。は皮肉に唇を歪め、「親愛なるシシー≠諱vと吐き捨てるように言った。
「ドラコが私に会いたがっていると」
「今度はその手できたか」
鼻で笑い、セブルス。
「うまくかわせ。俺はともかくお前は連中と会うべきではない」
「分かってるわよ」
大きなお世話と言わんばかりに口角を上げ、は無造作に畳んだ羊皮紙を上等の封筒に戻して机の隅に置いた。
「セブルスはドラコに会ったことあるんだっけ?」
「一度だけ」
セブルスは持ち帰った書類を机の上に広げ、物憂げにページを繰った。
「確か…ハリーと同い年だったわね?」
がそっと口を開くと、セブルスは僅かに眉根を寄せ、「そうだったかもしれんな」と言葉を濁した。
「賑やか≠ネ学年になりそうね?難を逃れた死喰い人の間では…ハリーが帝王を凌ぐ闇の魔法使いかもしれないと専らの噂だとか」
セブルスは手元から顔を上げ、珍しく目を瞬いた。
「…どこでそれを?」
は思わず失笑する。彼がこんなことに引っ掛かるのは稀だ。セブルスは不快そうに口元を歪めて舌打ちした。
「ああ、やっぱりそうなんだ?そうじゃないかと思ってたのよ。帝王を打ち破った力のことを知る人間はほとんどいないわ。だとすればハリーがどうやって帝王を破ったのか…誰もが考えを巡らせる。一つの可能性として思いつくのは、彼自身がそれほどの魔法使いだということ。帝王を破るほどの闇の力を持った、ね」
セブルスは渋い顔をしてただの言葉を静かに聞いている。
「そう考える元℃喰い人がいる以上、彼らはハリーに近付こうとするでしょうね。彼が本当に帝王に勝る闇の魔法使い≠ネのか、もしもそうなら…彼を旗頭にもう一度立ち上がろうとする。帝王の生存を信じているのはアズカバンに放り込まれた死喰い人くらいでしょうからね。ルシウスがその計画に息子を使おうとするのは十分に考えられるわ」
がそこで言葉を切ると、セブルスは目を細めて満足げに言った。
「お前もただの馬鹿ではなかったようだな」
「今頃気付いたわけ?」
くすくすと笑って立ち上がる。は先日2人で購入したばかりのミルに、専門店から取り寄せたコーヒー豆を放り込んだ。ガラガラという音とともに芳ばしい香りが部屋に広がる。挽いた豆に杖を振って熱湯を注いでいると、研究室の扉が外側からノックされた。
「はい、どうぞ」
杖を手にしたまま振り返っては訪問者に呼びかける。遠慮がちに開いた扉から現れたのはグリフィンドールのネクタイを無造作に締めた赤毛の青年で、彼はひどく慌てた様子でまくし立てた。
「お、遅れて申し訳ありません!課題を…」
「ミスター・ウィーズリー?教授は確か締め切りは5時と明言したはずだけど?」
うんざりした様子で顔を上げ、唇を開いたセブルスを遮るように、はその5年生に歩み寄りながら平たく告げる。壁に掛かる時計は夕方の5時半を示していた。
ばつの悪い顔で、ウィーズリーが手に持った羊皮紙を差し出そうかどうしようかと迷っている。は小さく肩をすくめて溜め息雑じりにそれを受け取った。
「2度目は受け付けないわよ。期日は厳守しなさい。グリフィンドールは5点減点。クィディッチに感けている暇があるなら課題くらいはしっかりとこなすように。学年末には大切な試験を控えているのだということを忘れないで欲しいわね」
「…はい、気を付けます」
項垂れ、深々と頭を下げながらウィーズリーは研究室を出ていった。やっとセブルスが口を開いたのは、彼が彼女に代わってコーヒーをマグカップに移している最中のこと。
「期限を軽んじる学生のレポートなど勝手に受け取るな」
「誰でも過ちを犯すことはあるわよ。それを正す機会くらい与えるべきだと思わない?」
含みを持たせてが言いやると、セブルスは顔を顰め、何も言わずに彼女に甘いカフェオレを手渡した。やはり手挽きはインスタントより幾分も香りがいい。
一服挟んでしばらくレポートの採点を進めてから、とセブルスは夕食をとろうと大広間に向かった。玄関ホールで遭遇したのは、大理石の階段を一人で下りてきた朗らかに笑う若い男。
「ああ、スネイプ先生、先生。今夜は少し冷えますね」
「あー…こんばんは、先輩」
がぎこちなく笑い返すと、クィレルは可笑しそうに口元を押さえた。
「先輩≠ヘやめてくれよ。今は君たちの方が先輩なんだから。ねえ、セブルス?」
不機嫌そうに顔を歪めるセブルスにクィレルが笑いかける。セブルスはフンを鼻を鳴らして大股に広間へと入っていった。
クィレルは卒業以来、アルバイトで収入を得ながら闇の魔術に対する防衛術の教授を目指してその研究に没頭してきたという。ダンブルドアから声がかかったのは去年の冬のことで、しかし誘われたのは学生時代に選択していた古代ルーン語。悩んだ末、彼は将来闇の魔術に対する防衛術を担当できることを夢見てダンブルドアの依頼を引き受けたのだと言った。
「それじゃあセブルスとはライバルということですね」
はクィレルに宛がわれた研究室で彼に淹れてもらった紅茶を口に含んで苦笑いした。首を傾げ、クィレルがの向かいに腰を下ろす。
「セブルスもずっと闇の魔術に対する防衛術の教授を目指してるんですよ。今では生徒でも知らない人間はいないくらいです」
「へえ、そうなんだ。そういえば彼は学生時代から闇の魔術にも随分詳しかったんだよね?」
思わず左腕を押さえようとした右手を、は慌ててティーカップに戻した。クィレルは不思議そうに眉を顰めたが、何も訊いてはこなかった。
「それにしても、驚いたなぁ…君とスネイプくんが一緒に働いてるなんて。ほら、覚えてるかな?夜中に君と彼が空き教室で杖を突きつけあって…それなのに、今じゃ君は彼の唯一の片腕だって聞くよ」
クィレルが肩を揺らしてくすくす笑う。は居心地が悪くなって小さく咳払いした。
手にしたティーカップをそっとテーブルに戻したクィレルが、突然神妙な顔付きになって口を開く。
「色々と…新聞を読んだよ。君は随分と…辛いことがあったみたいだね」
は顔を上げて目を瞬いた。
「ポッターくんもペティグリューくんも…ブラックくんもみんな、君の、親友だっただろう?」
どきりと心臓が跳ね上がった。込み上げてくるものを紅茶と一緒に押し込む。は肺の奥から長く息を吐き出しながら小さく笑ってみせた。
「その話は…やめて下さい」
「ああ…ごめん」
申し訳なさそうに瞼を伏せ、クィレルはテーブルに載せたビスケットを静かに口に運んだ。親友、か。今の私にそう呼べる存在はいるだろうか。否。もうリーマスを親友と呼ぶことはできない。セブルスは友人というよりも相棒という肩書きの方がしっくりとくる。
友のいない生活がこんなにも色褪せたものだなんて。学生時代には想像もしていなかった。何のために生きているのか。時折分からなくなる。それでもこうして生きていけるのは、果たすべき目的があるからだ。
母が守ろうとしたこの世界を。ジェームズとリリーが命を懸けて守り抜いたハリーを。今もどこかで再び立ち上がる日を待っているであろう帝王から守るために。それが私に出来る、唯一の償いだと信じている。
帝王の息の根を確実に止めるまでは 死ねない。
目的を同じくするセブルスが側にいてくれる。だから私は、こうして。
クィレルの研究室には古代ルーン語の他にも、闇の魔術に対する防衛術の専門書が所狭しと並べられていた。どちらかというと後者の方が多いくらいだ。は立ち上がり、ルーン語の本を適当にその中から一冊抜き出してパラパラと捲った。
「ああ…懐かしい」
「さんも古代ルーン語を選択していたの?」
「ええ。尤も…OWLでDだったもので、6年生以降は取っていませんが」
古代ルーン語。偶然にも彼≠ニ同じ科目だった。ジェームズは当時片思いだったリリーと同じクラスになりたくてマグル学を選択していた。リーマスは数占いで、ピーターは占い学を取りたがっていたのに一人は嫌だと言って…。
クィレルに背を向けたままはこっそり目尻を拭って、さっとルーン語の文法書を棚に返した。
「私もルーン語はどちらかというと苦手だったかな。もちろん興味はあったけどね」
「それは古代ルーン語の教授として不適切な発言かと?」
「そうかな?でも精一杯やらせて貰っているよ」
クィレルはくすくす笑って椅子の上で軽く伸びをした。
彼は穏やかな男だった。昔から。初めて会ったのは1年生の冬。顔を合わせたこともない私のことを記憶していて、優しく声までかけてくれた。勉強熱心でルックスも悪くはなく、人気の模範生。
彼は少しも、変わっていない。
それなのに 私は。
都合よく忘れた罪悪感を時折思い出すと、覆われた闇の印が疼くような気がした。忘れられない。忘れては、いけない。
重なった空き時間にミッディ・ティーブレイクを楽しんだは、かつての先輩に丁寧に礼を告げて古代ルーン語の研究室を後にした。戻った地下牢研究室のセブルスはちらりとも顔を上げずに黙々と手元の羊皮紙に羽根ペンを走らせていた。
ただいまと言って自分の机に着いたの前に、セブルスは無言でレポートの山を突き出す。
「何か怒ってるの?」
それを受け取り、は眉を顰めてセブルスを見た。
「なぜ俺が怒る。さっさとその採点を済ませろ」
「分かったわよ」
フンと鼻を鳴らし、赤いインクを取り出す。以前は下級生の課題ばかり見ていたが、最近ではも上級生の採点を手伝うようになっていた。ホグワーツに就職してもう7年になる。セブルスほどに特別な調合ができなくとも生徒の指導を焦らずこなせる程度にはも教師としての力をつけていた。セブルスは落ち零れた生徒は情け容赦なく置いていく。の役目はその生徒たちに適切な助言を与えサポートすることであり、端から複雑な調合の手順を必要とすることが少ないという理由もあったが。
クィレルがホグワーツに戻ってきて以来、セブルスは不機嫌になることが多かった。学生時代彼に好意的でなかった上、今は同じ科目の教授職を狙ういわばライバルとも言うべき存在である。クィレルの方はあまり気にしていない様子だったが、セブルスは考えていることがすぐに顔に出る。もちろんそれは彼女との付き合いの長さや深さによるものではあるが。
セブルスの眉間のしわがより一層濃くなるのは、特にがクィレルとのお茶会を楽しんできた後のことだった。
「嫉妬?」
カラカラと笑いながらがそう訊ねると、彼は「馬鹿を言うな」と言って彼女の唇をキスで塞ぐ。はいつもそれを瞼を伏せて静かに受け入れた。
無糖のコーヒーの苦さが。いつも口の中に残る。触れ合った唇の間から漏れる彼の吐息はいつだって同じ香り。
甘くない。ただ、切ないだけ。だって彼は 私を、愛していない。
私が彼を、愛してはいないように。
それでも目を閉じて。耳を塞いで。
涙を堪えて、私たちは抱き合う。消せないものを、忘れようとして。
目を閉じても思い出す。耳を塞いでも聞こえてくる。
身体を重ねている時だけは、ほんの一瞬でも、それらを忘れて目に見えるものだけを信じられるような。
そんな、気がした。
ホグワーツ9年目の春、すっかり習慣となったクィレルとのミッディ・ティーブレイクを楽しんでいる時、は彼からこんな話を聞いた。
「来年は1年間実地研修に出ることになってね」
たっぷりのミルクと砂糖を入れたカップの内側を掻き混ぜていたスプーンをソーサーに載せ、は僅かに目を見開いた。
「実地研修?何の?」
「ダンブルドアと話し合ったんだ。以前から闇の魔術に対する防衛術教官の希望を出していたんだけれど…ルーン語を教えられる人間は貴重だということでダンブルドアは渋っていてね。でもようやく代用教員が見つかったんだ。1年間の実地研修を条件にダンブルドアは私を闇の魔術に対する防衛術の担当にと約束して下さった」
目をパチクリさせるに、クィレルは苦笑いする。
「驚いたよね。私もだよ。セブルスはかれこれ10年近くも闇の魔術に対する防衛術の希望を出し続けているんだろう?それなのに私が先にこんな話を頂いて…」
「ああ、でもそういうことなら…きっと彼は闇の魔術よりも魔法薬の方が性に合ってるとダンブルドアが判断してるんでしょう」
曖昧に笑い返し、は甘ったるいミルクティーを口に運んだ。ひょっとしてダンブルドアは、故意にセブルスを闇の魔術に対する防衛術のクラスから遠ざけているのだろうか。だとすればこの先どれだけ彼が希望を出してもそれが叶うはずなんてない。
セブルスが以前言っていた通り、本当に生徒たちを闇の魔術に対抗できるように育てたいと願うなら、闇の世界を知る者に学んだ方がそれだけ力はつくだろうに。実際に闇の陣営にいたセブルスやを少しでも闇の魔術から離したいというダンブルドアの気持ちは、分からなくもないけれど。
でもそんな甘い考えでは、いずれ痛い目を見るのは彼自身だろう。ダンブルドアの偉大さは十分に理解しているつもりだが、時折心からそう思う。実際のところ彼は、自分に殺意を抱いていたを何の疑いも持たずに受け入れた。あの時タイミングよくマクゴナガルが校長室に入ってこなければ、あの死の呪いは成功していたのではなかろうか。そう考えると今でもぞっとする。
『アバダケダブラ』。
ヒトに向けてその呪文を発したのはたった一度、あの時だけだったが、は闇の帝王に倣い、動物に対してその呪いを何度も練習した。初めて猫を殺したのは訓練を始めてから半月ほどが経った頃。飲み込みが速いといって帝王は素直に喜んだ。
OWLの実技試験でまね妖怪がとった姿を思い出す。あの夜、ダンブルドアの目に映ったのはまさにあの時の私なのだろう。最も恐れていたというのに。私はそれを実現させようとしていたのだ。
クィレルの話を聞いたセブルスはやはり不快そうに顔を顰めた。だが彼も、ダンブルドアの思惑には気付いているのだろう。文句を口にすることはなかった。
壁にかかるカレンダーを見上げ、は小さく息をつく。
ハリー・ポッターが私たちのホグワーツに戻ってくるその瞬間が、刻々と近付いてきていた。