生きた心地がしなかった。あの期限≠ェじりじりと近付いてくるにつれ、何もない腕を擦って深く息をつく。
今年もまた闇の魔術に対する防衛術教授の座を逃したセブルスがうんざりした顔で羽根ペンを動かす横で、は気だるげに瞼を伏せた。
この数年、イギリスはそれまでの混乱が嘘のように穏やかだった。世間を脅かす死喰い人も、『例のあの人』ももういない。セブルスの腕に刻まれた蛇を吐く髑髏も少なからず薄れていた。魔法使いの横町ダイアゴンも以前のように活気を取り戻している。
「ねえ、お願いよ。どうしてもこの本の改訂版が欲しいの。取り寄せてもらえないかしら」
「先生、何度も言わせないで下さいよ。うちは古書専門ですから。フローリシュ・アンド・ブロッツならいくらでも用意できるでしょう。うちでは無理です」
「そこを何とか頼めないかと訊いてるの」
「何度訊かれても同じです。諦めて下さい」
ホグズミードの外れにある古書店、ビアズリーズ。就職して以来が贔屓にしているその店は広範囲の書籍を数多く扱っているし、主人であるビアズリーは彼女によくしてくれたが、それでも時折最新版の専門書を求めてやって来る彼女にはひどく辟易していた。
医療や薬学というものは次々と新たな技術や効能が見出されていく。古きを知るのも大事だが、最新の情報を入手することが不可欠だ。そういった意味ではフローリシュ・アンド・ブロッツを避けている彼女は随分と不利な状況に立たされていた。それをカバーすることができるのは同僚かついわば上司的な存在であるセブルスがフローリシュ・アンド・ブロッツで様々な書籍を買い入れてくるお陰だ。それらはホグワーツの魔法薬学研究室、または2人の隠れ家に置かれ彼女も自由に閲覧できるため、購入費はほとんど折半という形になっている。
けれどいつもいつもセブルスにばかり買ってきてもらうのも気が引けるのでは何とか新書も自分の手で購入できればとこうしてよくビアズリーに古書以外の本も扱わないかと頼み込んでいるのだが、いい返事が貰えたためしはない。
は羊皮紙の切れ端のメモをくしゃくしゃと丸め込んで大袈裟に肩をすくめてみせた。
「分かったわ。今日のところは諦める。じゃあこれを頂戴」
「先生、勘弁して下さいよ。何度頼まれても同じですから。1ガリオンと2シックルになります」
財布から無造作に取り出した金貨1枚と銀貨を2枚カウンターに並べて、は優に500ページは超える黒い装丁の本を手に取った。東洋薬草の古い専門書だ。は少し以前から日本の薬草を用いた魔法薬の調合に興味を持っていた。NEWTにも東洋の魔法薬は数問取り上げられていたが、授業ではほとんど扱われなかったためにその知識は皆無と言ってもいい。だがふとしたきっかけで日本の薬草の文献を見たは、幼い頃蜂に刺された際磨り潰した白い花で父がその毒性を消してくれたのを思い出したのだ。
両親の墓はロンドンの外れにあった。登ればマグルの街の喧騒が小さく見下ろせる小高い丘の上。側には他にもいくつか墓石が立ち、は目を細めながら父と母のそれに積もった雪をそっと掻き分けた。
もう私には、家族と呼べる誰かはいない。新たな家庭を築くつもりもない。死んでしまったら私もここにこうして。父母と並んで眠りたい。
街の方から強い風が吹き、はコートの中で身を縮めた。首に巻きつけたマフラーの下から、外したネックレスを静かに取り出す。
はそれを母の墓石に彫られた十字架に重ねた。
「母さん…私、怖いの。もうすぐ帝王の60歳の誕生日よ…もしもあの印がまた、私の左腕に現れたら…私、そんなものを見ながら毎日過ごさなきゃいけないなんて」
ぞくりと背筋に悪寒が走ったのは、降り頻る雪の冷たさのせいだけではない。
自嘲気味に笑い、軽く首を振る。
「…自業自得ね。私はそれだけのことをした…私のせいでたくさんの人たちが死んだ。苦しんだ…親友を死なせたのも、バラバラにしたのも、全部私」
一度だけ、もう一度だけロングボトム夫妻に会いに行った。2人はちょうど睡眠薬を服用して眠り込んでいたが、どちらも以前のように幸せそうな面影は微塵も残っておらず、その顔は痩せこけ、やつれきっていた。彼らのベッドの傍らには、小さなブラウンの髪の男の子と、少年の手を引いた老魔女。その瞳を見て、は彼女がフランク・ロングボトムの母親だとすぐに気付いた。
胸がちくちくと痛む思いの中、瞼を伏せて軽く一礼する。は不思議そうに自分を見上げている少年の顔を見ることは出来なかった。
「…初めまして。お2人とは…騎士団で何度かお話をさせていただきました。・です。ホグワーツで魔法薬学の助教授をさせて頂いています」
「ああ…騎士団の。お若いのにホグワーツで働いていらっしゃるなんて、ダンブルドアが余程あなたを評価されているんでしょうね。初めまして。オーガスタ・ロングボトム、フランクの母親です。この子は 」
「…存じ上げています。お2人の息子の…ネビルですね。ネビル、こんにちは」
そこでようやくはネビルの顔を見たが、思わず胸が詰まりそうになった。少し丸みを帯びた顔付きも、人懐っこそうなこの瞳も本当にアリスにそっくりだ。髪の毛は少し父親似かもしれない。ネビルは何度か目を瞬いて、こんにちはとはにかむように笑った。
初めて出会った時には、まだ母親の腕に抱かれるまま満足に単語も話せなかったのに。
あの赤子は今ではこうして自分の足で地に立ち、母親のあの笑顔を彷彿とさせる表情を人々に見せている。ロングボトム夫妻襲撃事件が起こったのは彼の2歳の誕生日の翌日で、ちょうどその夜、彼は祖母の家に預けられていたために助かったのだという。もしかするとフランクは、自分が狙われていることに気付いたのかもしれない。
廃人となってしまった彼の口からは、もう真実なんて、聞けやしないだろうけど。
込み上げてきた涙を、は必死の思いで堪えた。いけない。私には人前で泣く権利なんて そんなもの、持ち合わせてはいないのだから。
…私は、この子が死ねばいいと、そう思っていた。
予言された子供がジェームズとリリーの息子かロングボトム夫妻の息子だと知った時には、躊躇うことなくロングボトムの赤ん坊が死ぬことを期待した。これ以上ジェームズたちを苦しめたくない、いやそれ以上に、もう自分に課せられた重荷を増やしたくなかった。良心を捨てきれない以上、苛まれる罪悪感を減らすことだけが希望だった。
あなたの死を待ち望んだ私が、こうしてあなたの目の前に平然と立っている。
あと数年もすれば、この少年はホグワーツにやって来るだろう。私は彼から逃れられない。一生、彼の両親を狂わせてしまった咎に追い詰められながら生きる。
そしてそれは同時に、最愛の親友であるジェームズとリリーを死なせてしまった事実にも永久に苛まれるということだった。
ネビルが入学してくるその年、彼らの息子であるハリーもまた、あの城に戻ってくるということなのだから。
彼をこの目で見たのは一度きりだった。ジェームズとリリーに最後に出会ったあの晩、すやすやと眠る彼の手があまりに小さくて驚いた。ジェームズは息子を起こさないようにと声を抑えて大笑いしながら、「赤ちゃんの手はこんなものだよ、」と言った。
そう、一度でも二度でも何度でもハリーに会いに来てくれと言って彼は嬉しそうに笑っていたのに。
ハリーはもう手の届かないところへ行ってしまった。抱き締めることも出来なかった。いや、その方がかえって良かったのかもしれない。この汚れた手で彼らの愛する息子に触れることなんて、赦されないに違いない。
「この子がホグワーツに行けば、どうかきつく指導してやって下さい。…無論、入学許可証がこの子のもとに届けば、ですが」
ミセス・ロングボトムは言葉の最後を冷ややかに括り、ジロリと傍らの孫を睨み付けた。ネビルはびくりと身を強張らせて身を縮める。
「差し出がましいことを申しますが、この子はあのフランクとアリスのお子さんですよ?許可証が届かないはずがないと思いますが」
苦笑しながらが柔らかく返すと、ミセス・ロングボトムは疲れたように首を振った。
「それが…お恥ずかしいことに、この子はまだ魔力の片鱗すら感じさせないのです。魔法を意のままに使えるようになるには勿論鍛錬が必要ですが、それにしてもここまで何もないと…父親はこの子の年には無意識にですが軽く物を飛ばす程度の魔力は見せていました。それを思うと私としては心配で心配で…」
苦しそうに顔を歪めるミセス・ロングボトムに、項垂れるネビル。は小さく肩をすくめ、微かに笑ってみせた。
「心配は要りませんよ。私はホグワーツに入学するまで魔法のまの字も知りませんでしたから。あの2人のご子息です、信じて待ってあげればいつか必ず芽が出ます」
ミセス・ロングボトムは恥ずかしそうに目を伏せたが、やがて小さく笑って「ありがとうございます」と言った。
偽善者ぶるな。誰かが言う。はそれを脳裏から追い出して、老魔女と幼い少年に丁寧にお辞儀をすると「お大事になさって下さい」と言い残し病室を後にした。
その年の末も職員たちは何かと城で慌しくしていたが、12月30日の深夜ばかりはとセブルス、そしてダンブルドアまでもが職務のことを完全に頭から閉め出して地下の魔法薬学研究室にこもっていた。厳重に鍵をかけ、防音の魔法も忘れない。3人が待っているのは、12時を示す小さな鐘の音だった。
隅のソファに腰掛けたは、ローブの左袖を捲ってじっとしている。ダンブルドアは彼女の隣に座り、セブルスはその2人の前に腕を組んで立っていた。セブルスもダンブルドアも右手に杖を握り締めている。
帝王がどういった方法での闇の印を再び浮かび上がらせようとしていたのか、それはよく分かっていない。可能性の一つとして考えられたのが一種の時限装置のようなもので、1986年の12月31日に印を覆っていた膜が消滅するというものだ。膜が消えるだけならばそこまで問題はないのだが、もしもその際帝王が他にも何か仕掛けを施していたとすれば。その危険性を考え、こうしてダンブルドアとセブルスに見守られてはその時を迎えた。
だが闇の帝王の60回目の誕生日、の左腕には何の変化も見られなかった。
恐る恐る、印が刻まれているはずの皮膚に触る。違和感も全くない。目を瞬いて顔を上げると、ダンブルドアは眉根を寄せて訝しげに目を細めた。
「…何ともないのかね?」
「はい。全く」
ふむ、と唸ってダンブルドアが杖を構えたまま考え込む。セブルスもまた怪訝な顔で眉を顰めた。
やがて一つの考えに辿り着いたらしいダンブルドアが、そっと口を開く。
「つまり…時限装置というわけではないようじゃな。ともなれば、可能性として残るのは、あやつ本人が遠隔操作での皮膚の膜を消すつもりじゃったと 」
「 時限装置の可能性が消えたわけではありません」
静かに、だが強い口調でセブルスがそれを遮った。僅かに目を見開いたダンブルドアが首を傾げてセブルスを見上げる。
「帝王はの印を覆った時点で、時限装置と受け取らざるを得ない発言をしました。そして帝王が60歳を迎えたこの瞬間それが機能しなかったということは、それが完全なものではなかったということです。…尤も、帝王は自分が力を失うことになろうとは考えもしなかったでしょうから自分ではそれを完璧なるものだと信じて疑わなかったと思いますが」
「…セブルス、君が言いたいのはこういうことかね?奴は時限装置としての腕に膜を張った。じゃがそれは奴がそれだけの力を持っておる時にのみ有効であり、あやつが凋落した今、その機能は低下しておると」
「その通りです」
首を捻ったセブルスが、細めた黒い瞳でを見つめる。慌ててダンブルドアに視線を移すと、彼もまた深い色の目でを真っ直ぐに見ていた。
「それはつまり…帝王が力を取り戻せば、その瞬間にその機能が戻って私の闇の印が再び浮かび上がってくるということですか?」
「それも一つの可能性ではある。もしくは先ほどわしが言ったように、あやつは遠隔操作で君の印を覆う膜を剥ぎ取るつもりじゃったか。いずれにしても今夜は何も起こらなかった。今後も様子を見る必要があるようじゃ」
そう言ったダンブルドアはようやく杖を懐に仕舞い込み、よっこらしょと徐にソファから立ち上がった。
「、セブルスの側を離れるでないぞ。あやつがいつまた舞い戻ってくるか分からん…左腕に異常を感じればすぐにセブルスとわしに知らせることじゃ。いいかね?」
「はい…分かりました」
おやすみなさい、とダンブルドアを部屋から送り出したは、ふうと息をついてどさりとソファに倒れ込んだ。張り詰めた糸が切れたかのように緊張がゆるゆると解けた。
杖をポケットに突っ込んだセブルスが、彼女の正面に移動しての頬を冷えきった手で撫でた。
「やだ。冷たい」
「またお前のお守りを任された」
「ああ、本当ね。帝王からも、ダンブルドアからも…あなたも相当の苦労人ね?」
「世話の焼ける奴だ」
「そんなこと、昔から知ってるでしょう」
口角を上げてニヤリと笑うと、セブルスはの身体に覆い被さるようにしてソファに両膝をついた。耳元に寄せられた彼の唇から漏れてくる吐息がくすぐったい。
「腕は…本当に何ともないのか?」
「どうして私が嘘をつくのよ」
「嘘をついているとは思わんが、お前は感覚が鈍いからな」
言い返そうと開いた口を、すかさずセブルスの唇が塞いだ。彼のキスはいつだって苦い。
冷たい指で撫でられたうなじからぞくりとするものが広がる。
は彼の背に腕を伸ばしながら、ぎゅっときつく目を閉じた。
いつあの忌まわしい髑髏の印がひょっこり顔を出してくるか。分からない。それはひどく恐ろしいことだと思った。けれど。
驚くべきニュースが彼女のもとに飛び込んできたのは、また1年が過ぎ去ったとある夏の日のこと。
「先にみなにも紹介しておきたい。彼は古代ルーン語のキャボット教授の後任を引き受けて下さった。教授、ご挨拶を」
新学期を数日後に控え、城に戻ってきた職員を集めてダンブルドアがそう言った。
彼の導きで現れた魔法使いを見て、は目を丸くする。慌てて傍らのセブルスを見やると、彼もまた僅かに目を見開いて不快そうに眉根を寄せた。
その若い男は職員を見回して、ニコリと人の良さそうな顔で微笑んでみせた。
「新学期から古代ルーン語を担当することになりましたクィリナス・クィレルです。皆さん、ご指導ご鞭撻をどうぞ宜しくお願いします」