学期末の宴会で出身寮であるグリフィンドールのクィディッチ杯と寮杯の獲得を知らされても、の心は少しも躍らなかった。頬杖をついたままぼんやりと虚空を見つめ、無意識に溜め息を繰り返す。

 何もかもが色を失って見える。無音の、モノクロの世界。しもべ妖精が腕によりをかけて作り上げた豪華な料理すら味気なく思えた。

 生徒たちを送り出した後の城はひっそりと静まり返り、教員たちも早々に帰宅の準備を始める。もまた例に漏れず、セブルスとあの隠れ家に戻る支度を済ませた。

 この数週間、5階の奥の隠れ穴には何度も行きかけて、その度に途中で引き返した。ダメだ。今更彼との思い出に触れても何の意味もない。

 しがみつこうとしたところで、過去はもう、遠い彼方に過ぎ去ってしまったのだから。

 何度か姿現しをして辿り着いた先には、ほぼ1年ぶりの私たちの住居。

 ただいまと口にすることすら、ひどく滑稽だと思った。
WEAK-WILLED me
「お前に話がある」

 研究室のデスクの整理をしていたははたと手を止めて目を瞬いた。

「何、藪から棒に」

 セブルスはマグカップを片手にどさりと隅のソファに腰を下ろす。彼が改まった口調で話しかけてくるなんて珍しい。はセブルスに身体を向け、椅子の上にきちんと座り直した。

 彼もまた、真っ直ぐにこちらを見ている。

「前々から考えていたんだが」

「うん、何?」

 冷えたコーヒーを口に含み、一旦瞼を伏せたセブルスが顔を上げる。

「俺は闇の魔術に対する防衛術の教員になりたい。来年はその方向で希望を出すつもりだ。異存はあるか」

「え?」

 彼の言葉には驚いて目をパチクリさせた。

「闇の魔術に対する防衛術の?どうして?じゃあ私はどうしたらいいのよ」

 セブルスはまたマグカップを傾け、静かに一点を見つめている。

「俺は薬学よりも向こうの世界の方が性に合う。グレンフェルは今期一杯で辞職するつもりだからな。薬学はお前が教えればいい」

「ちょ…そんな、無理よ!私はあくまであなたの補佐≠諱Hサブはメインになりえません、無理です!自分で言ったんじゃない、私はただダンブルドアの目が届くようにここに呼ばれてきたに過ぎないって」

 声を荒げるに、セブルスは顔を顰めて眉根を寄せた。

「一人でも十分こなせるだろう。お前が調合するわけではない、お前は今まで通りにあのウスノロどもに指導して回ればいいだけだ」

「それは、そうかもしれないけど…」

「それに思い出してもみろ。学生時代に教わった闇の魔術に対する防衛術の教官に少しでもましな奴がいたか?本物の闇の魔法に対抗できるような?俺のように向こう側にいた人間こそが適任だと思わないか」

「それは尤もらしい言い分にも聞こえるわね。でも私が一人で薬学の授業を持つなんて、そんなの無理に決まってる。私の手先が器用でないことくらい知ってるでしょう!」

「それで俺はお前に何を言えばいいんだ?ガキのように試しもせずに投げ出すななどと言えばいいのか」

「何よ、異存がないか訊いたのはそっちでしょう!ありすぎて言い表せないくらいだわ!」

 は苛々とまくし立てたが、セブルスはまともに取り合おうとしなかった。

 彼自身、その意向をダンブルドアに受け入れてもらえないということを端から悟っていたせいかもしれない。

 数日後、校長室から戻ってきたセブルスは仏頂面で短く吐き捨てた。

「無理だった」

 顔も上げずには機械的に試験の採点を進める。

「ほら、そんなことだろうと思ったわ。ざまあみろね」

 フンと鼻を鳴らし、セブルスはどさりと自分の椅子に腰を落とした。セブルスが不服そうに言うには、来年の闇の魔術に対する防衛術の教授に関してダンブルドアには既に考えがあるらしい。の在学中もそうだったが、あの科目は昔から2年以上持った教授が一人もいないらしい。呪われた教科だと生徒たちは口々に囁いた。

「でも良かったじゃないの。闇の魔術に対する防衛術の教授になんかなったらあと1年でホグワーツを去ることになっちゃうでしょうし」

「なぜだ」

「やーね、呪われてるって噂昔から聞いてるでしょう?」

「くだらん」

 も根拠のない噂を信じるつもりはさらさらなかったが、彼をからかう冗談くらいは言わないと身が持たない。

「あなたは私と一緒に延々と薬草を煎じるのが運命なのよ」

 馬鹿馬鹿しいと言われるのが関の山だろうと思った。けれどセブルスは少しだけ口角を上げ、呆れたように笑いながら「悪くはないな」と言った。

 セブルスの予測通り、今年の生徒たちの成績は点数だけを見れば昨年にもまして下降した。それは彼の求めるボーダーが予め高く設定されているためだということは明白だったが、は気付かないフリをして冷酷に目の前の答案用紙の隅に『D』と書き込んだ。








 隠れ家に帰ってきたのはいいものの、とセブルスは8月上旬にはホグワーツに戻ることにしていた。来年も共に魔法薬学の担当を続行することに決まり、その準備と実験のためだ。隠れ家では経済的な面からも家の広さから考えてもとても実験の器具や薬草を揃えられない。およそ1月はそれらから一切離れて骨休めに充て、来月からまた城での仕事に従事する。

 この家に戻ってきて、こうしてだらりとソファに寝転んでいると。記憶が1年前に逆行する。この1年の間に起きたことが全て夢幻だったかのように意識が遠退く。

 私はダンブルドアが母を殺したと信じ込んでいて。ただ彼を殺すことだけを考えている。セブルスは時々帝王のところに足を運んで、そして仲間の死喰い人たちの情報を持ち帰る。ジェームズもピーターもリーマスも、そしてシリウスも。みんなみんな、騎士団で働いている。リリーは子育てに忙しくて。

 でも、そうじゃない。ジェームズとリリーとピーターは死んで、シリウスはいない。ロジエールもウィルクスも死んだ。もうあの頃とは、違う。何もかも。

 変わらないのはただ一つ、私の隣には今でも、セブルスがいるということ。

 2人の間に漂うのはやはりコーヒーの香りだった。朝は大抵セブルスが先に目覚め、彼は朝一番にもコーヒーを飲む。はその香りで目を覚まし、心地良い空気に包まれて身を起こす。

 生きている実感を持てるのは、こうして落ち着ける匂いが側にあるからだ。

 そのふくろう便が届いた朝も、はいつものようにセブルスの淹れたコーヒーの香りに引き寄せられるようにふらふらと寝室から歩み出た。

 テーブルにマグカップを置き、ソファに浅く座り込んだセブルスが深刻な面持ちで開いた羊皮紙を覗き込んでいる。は寝惚け眼を擦りながらどさりと彼の隣に腰を下ろした。

「おはよう、セブルス。真面目な顔してどうしたの」

 彼が不真面目な顔をしていることなんてあまりないけれど。

 は腕を伸ばしてセブルスのコーヒーを少しだけ飲んだ。無糖の上にかなり濃い。苦いだけの飲み物だが眠気覚ましには悪くない。

 羊皮紙から視線を外し、セブルスは小さく頭を振って眉間に右手を当てた。

     ロングボトムが…襲われた」

 え、と声をあげて、目を見開く。は慌ててセブルスの手から羊皮紙を取り上げてそれに目を通した。手紙はダンブルドアからで、ロングボトム夫妻が昨夜何者かに襲われ、気が触れた彼らは聖マンゴ病院に運ばれたという。何とかフランクから事件当夜のことを聞き出したダンブルドアが、セブルスに犯人の探索を手伝って欲しいというのだ。

「…ベラトリクスたちが…どうして…」

 ベラトリクス、ロドルファス、ラバスタン、そしてバーティ。憤りで羊皮紙を握る拳が大きく震えた。

 セブルスの声は平淡だったが、その黒い瞳には疲れに似たものが見えた。

「磔の呪文で狂ったロングボトムの証言をどれだけ信用できるかは分からんが…ダンブルドアもかなり動揺している。まずはベラトリクスたちの行方を追うのが先決だろう」

 セブルスの言う通りで、筆跡からもダンブルドアが幾分乱れているのが分かる。は手紙を掴んだ手で苛々とソファを叩きつけた。

「私も一緒にあいつらを探しに行くわ」

 だがセブルスは残ったコーヒーを一気に飲み干すと軽く首を振った。

「お前は来るな。ベラトリクスはお前のこととなるといつも過敏になる。お前がちらとでも姿を見せればあいつは益々抑えにくくなるだろう。それに、お前はダークサイドに長く顔を出していない。あいつらの動きを予測することも難しいだろう。お前がついて来る意味などない」

「でも…!」

 何もせずにただじっとしているなんて。

 彼女の胸の内を見透かしたように、セブルスは目を細める。

「自己満足のために足を引っ張りたいと言うのなら断固として断る」

 は開きかけた口をぐっと閉じ、溜め込んだ唾を飲み下した。

 ロングボトムと親しくしていたわけではない。けれど、彼の深い瞳の色を覚えている。時には不審そうに、時には確固たる信頼の念を持って。無論それは、ダンブルドアの後ろ盾によるものだと分かっているが。

 アリスは穏やかな女性だった。過去に闇の陣営にいたと知っていたはずのに闇祓いながらも躊躇いなく握手を求めた。

 ああ、もしも。彼らの住居にかけた忠誠の魔法を解かなければ。彼らは襲われずに済んだのか。どうして。暗黒時代は終わったはずなのに、こうしてまだ苦しめられる人たちがいる。

 私があの時ベラトリクスたちを止めていれば。だが彼らに疑われるのは先のことを思うと得策ではないと思った。

『忠誠の魔法の証人を引き受けてくれて。ありがとう』

 礼を言う必要なんて、なかったのに。

 一番必要な時に役に立たなかったんだから。解いてしまった魔法なんて、どれだけ高度なものだろうと何の意味もない。

 はその時、ロドルファスの言葉を思い出した。

『今のところは全くだが…手がかりを持つ人間はいるはずだ』

 まさか。ロングボトムが帝王の居場所を知っているとでも?

 有り得ない、そんなことは。もしもその勘違いで彼らが磔の呪文を受け、狂ってしまったというのなら。

      残酷すぎる。ロングボトムたちにとっても、もちろん、息子のネビルにとっても。

 簡単な食事を作ってセブルスを送り出したはその足で聖マンゴ病院に向かった。

「フランク・ロングボトムとアリス・ロングボトムに面会したいのですが」

「あなたは?」

「ああ…えー、彼らの、友人です」

 がぎこちなく返すと、案内係と書かれたデスクの魔女は怪訝そうに眉を顰めた。

「申し訳ありませんが、左腕を見せてもらえますか?」

 どきりと心臓が跳ね上がった。無意識のうちに押さえた左腕の袖をそっと捲り上げる。それを見て案内魔女はようやくうんと頷いた。

「失礼しました。ロングボトム夫妻を訪ねてくる方には全て確認するようにと上から言われていまして。ロングボトム夫妻は5階の奥、ヤヌス・シッキー病棟です」

 素早く袖を下ろし、は足早に案内所を去った。印が疼いた気もしたが、まさか。もう帝王は、いないのだから。

 その病棟は入院患者がずっと住む家だとはっきり分かるように、個人の持ち物がやたらとたくさん置いてあった。その一番奥の一角は、古惚けたカーテンに覆われている。さっと辺りを見渡して、すぐに分かった      ロングボトムがいるのは、あそこだ。

 踏み出そうとした足が、竦んだように動かない。鼓動がどんどんと速くなっていく。はそうして、しばらく入り口に立ち尽くしていた。

 ようやく歩き出そうとしたは、カーテンの向こうから聞こえてきた声にピタリとその足を止めた。息が詰まりそうになる。

「それでは…僕はこれで、失礼します。どうぞ…お大事に」

 カーテンが開き、そこから姿を現したのはリーマスだった。彼の後ろに見えたのは2つのベッドと、その傍らの小さな椅子に、こちらに背を向ける形で腰掛けた一人の老魔女。カーテンに遮られ、ロングボトム夫妻の姿は確認できなかった。

 目を見開いたリーマスが、一瞬硬直する。けれど彼はすぐにそのカーテンを閉め、伏せ目がちにゆっくりとこちらに歩いてきた。

「やあ…久し振り」

 彼は視線も上げず、微塵も笑わない。が何も言えないでいると、リーマスはそのまま彼女の横を通り過ぎてさっさと病室を去っていった。

 どうしようもなく、胸が痛い。待って、リーマス。その一言が、喉の奥でつっかえて出てこない。本当は話がしたくてたまらないのに。

 あなたは認めてくれなくても。あなたは赦してくれなくても。あなたは私にとって、大切な親友なのに。

 もう、笑い合えない。もう、一緒に涙を流せない。抱き合うこともできない。

 ロングボトムに会わないまま、は廊下に飛び出した。ダメだ、見られない。私のせいで、苦しめられた人の顔を。私があの時ベラトリクスたちを止めていれば、彼らは苦しまずに済んだのに。

 その日の夜、セブルスは戻ってこなかった。翌日の晩に疲れ切った顔で帰ってきた彼の口から、はベラトリクスたちが捕らえられたことを知った。

「…本当に、ベラトリクスたちがやったの?」

 また目の下のクマを濃くしたセブルスが、どさりとソファに背中から倒れ込む。彼は喉の奥で小さく呻いてから物憂げに瞼を上げた。

「拘束されて、そのまま評議会にかけられた。全員アズカバンでの終身刑だ。クラウチだけは滑稽にも父親の前で無実を訴えかけていたそうだがな」

「…クラウチ?バーティのこと?父親って、まさか…」

 ウィゼンガモットでを裁いた役人を思い出した。確かあの男も、『バーティ』だった気がする。

 知らなかったのか、とセブルスは眉を顰めた。

「バーディ・クラウチ。父親は魔法法執行部の役人だ。俺の裁判もあの男の担当だった。だが、息子が死喰い人とあればな…今の地位も危うくなるだろう」

 そうなんだ。バーティは、あの男の息子か。まさか父親が魔法省の人間だったなんて、冗談にもならない。

 哀れだとは思わないが。悲しい男だと思った。父親も、そして息子も。

「一先ずこれで一段落だろう。うまく逃げ遂せた輩を除けば主だった死喰い人は全てアズカバンに入った。あとは俺たちにできることといえば…本当に、待つことだけだ」

 アズカバン。セブルスに聞いたことがある。孤島の監獄には吸魂鬼という生き物がいて、人の幸せな感情を吸い取り絶望の淵に追いやるらしい。アズカバンに投獄された者の多くが1年やそこいらで気が狂って死んでしまうのだという。

 ベラトリクスなんて、そのままそこで朽ちればいい。でも。

      シリウス…。

 どうか、せめて、もう一度。

 彼が有罪か無罪か、そんなことはどうだっていい。

 ただもう一度、シリウスに会いたい…。

 泣いては、いけない。いくら涙を流しても、彼は、帰ってこない。みんな、戻ってきやしない。

 ソファの上で膝を抱えて瞼を伏せたの隣に、コーヒーを一つ淹れてきたセブルスが腰掛ける。彼は湯気の立つマグカップをそっとテーブルに置いた。



 いつもより低い声で呼ばれ、は顔を上げて目を瞬く。途端にセブルスの腕が伸びてきて、後頭部に回された彼の左手がぐいと彼女を引き寄せた。

 セブルスの瞳が。びっくりするくらい近くにある。彼が好きな濃いコーヒーの香りが鼻腔を刺激する。

 互いの吐息が微かに触れ合い、はぞくりと肩を震わせた。

「ちょ…待っ」

 後ろに引きかけた身体を、セブルスの大きな手が容赦なく引き戻す。頬に熱がこもるのを感じては慌てて目の前の瞳から視線を逸らした。

 セブルスの顔が、それから少しだけ近付いてきた。鼻先が一瞬擦れる。思わずきつく目を閉じた。

「…嫌か?」

 そっと、セブルスが訊いてきた。恐る恐る瞼を開けると、彼の寂しげな黒い瞳と目が合う。

 俯き、力なく首を振る。後頭部から外された彼の手が彼女の顎を捉え、上を向かされたの唇にセブルスは自分のそれを重ねた。

 口腔に、コーヒーの味が広がる。その苦さに顔を顰めたを、セブルスはそのままソファに押し倒した。

「ちょっと待っ、ねえ…!」

 彼の身体の下で反射的にもがいたの目を覗き込んで、セブルスが穏やかに言う。

「嫌なら止める」

 心臓が奇妙に揺れた。頭に浮かんだのは、セブルスの顔じゃなくて。

      シリウス…。

 彼のローブをきつく掴んだ。セブルスを抱き寄せて、首を振る。

 彼はそっと彼女の髪を撫で、柔らかくの首筋に口付けた。瞼を伏せて、唇を引き結ぶ。

 シリウス、私が愛してるのは、後にも先にもあなただけ。

 でも、どうしても。








 ほんの一瞬でも、こんな自分を忘れられる何かに縋らざるを得ない弱い私を、どうか赦して下さい。