随分と不快な夢から目覚めたセブルスは、壁に掛かる時計に視線を走らせて顔を顰めた。

 朝食を食べ損ねた上に、1限が始まるまであと数分しかない。実習の準備は彼女に任せていたが、この調子では恐らく済ませてはいまい。

 だらりと座り込んだソファの上、傍らで眠り込む彼女を揺り起こそうと手を伸ばしたところで、彼は研究室の扉が外側からノックされる音を聞いた。

 伸ばしかけた右手を引っ込め、眉根を寄せながら重たい腰を上げる。

「…はい?」

 頭の隅に鈍い痛みが走り、ふらふらとよろめきながら歩いた。二日酔いだなんて情けない。いつの間にか手から零れ落ちていたらしいグラスが途中で爪先に触れて転がった。

「わしじゃ。セブルス、起きておるかね?」

 寝過ごした自分たちを案じて、こんな冷え切った地下にまで足を運んできたのか。つくづく、お節介な男だ。朦朧とした意識の中で、セブルスは縋るようにしてドアの取っ手を手前に引いた。

 その隙間から顔を覗かせた老人は、右手に新聞を一つ握り締めて立っていた。

「おはよう、セブルス。その様子ではたった今目覚めたということかな?」

「…はあ。申し訳ありません、今すぐ支度をして授業までには必ず」

「いや、それには及ばぬ。今日君たちが受け持っている生徒たちには既に休講通知を出しておる。一日くらいは、君たちもゆっくり身体を休めなさい」

 ダンブルドアの言葉を飲み込むには少し時間がかかった。頭の中で噛み砕き、虚ろな瞳を見開いて瞬く。

「…なぜ、そのようなことを?これは、私たちの職務です…そのような、ことは」

 セブルスの声を遮るように、ダンブルドアは手中の新聞を彼の前にそっと差し出した。少しずつはっきりしてくる思考を駆使し、受け取ったそれの一面記事に目を通す。セブルスはすぐに視線を眼前の老人に戻し、ダンブルドアはそれに答えるように瞼を押し上げ真っ直ぐに彼を見た。

「…この一件は、いずれ彼女の耳にも入るじゃろう。どうか…彼女を、支えてやって欲しい。昨日の今日じゃ…君が苦しんでおろうということも、重々承知しておる。じゃが…」

     このことは…、私から彼女に伝えても?」

 これ以上老人に口を開かせてはいけないと思った。覆い被せるように訊ね、彼の答えを待つ。

 うむと徐に頷いて、ダンブルドアは言った。

「確認は取れておる。遅かれ早かれ…知らねばならんことじゃ。それならば」

 君の口から。そう締め括ったダンブルドアに軽く一礼して、セブルスはそっと扉を閉めた。

 慣れないアルコールに余程神経をやられたのか、彼女はソファの上で死んだように眠り続けている。再びその傍らに腰を下ろし、セブルスは折り畳んだ新聞を片手でまた広げた。

『例のあの人最大の支持者、ブラック拘束さる』
the CALM after the storm
 突然口の中に広がった苦味に思わず噎せ返り、は重たい瞼をゆっくりと押し上げた。目の前には無表情のセブルスの顔があり、彼の右手には一本の試験管が握られている。

「起きたか」

「…おはよう」

 不快な気だるさの中で、何とか朝の挨拶を口にする。口の端から零れ落ちた液体をローブの袖で無造作に拭うと、セブルスは呆れたように笑いながら掛時計を顎で示した。

「何時だと思っている。少なくともおはようの時間ではないぞ」

「…え?」

 眠気に押し潰されそうな眼球がやっとのことでセブルスの視線の先を追いかける。時計の針は午後の1時を示していた。ハッとして目を見開き、勢いだけで飛び上がる。

 ずきんと鈍い痛みが頭蓋骨を震わせた。

「いった…ちょっと、何で起こしてくれなかったのよ!思い切りサボっちゃったじゃない!それとも、私の補助なんて必要ないってことかしら!?」

「黙って寝ていろ。今お前が飲んだのは酔い覚ましだ。しばらく横になれば気分も良くなる」

「な、何それ、授業は?」

「ダンブルドアが休講通知を出した。二日酔いの俺たちがまともに調合できるとは誰も思わんだろう」

「でも…!」

 食い下がろうとするに小さく息をつき、セブルスは側のテーブルに空の試験管を置いてから彼女の背と膝の裏に両の腕を押し込んだ。抗うをようやく抱き上げ、彼女の寝室へと運んでいく。

 どさりと下ろされたベッドの上で、は先ほどの薬の苦味に瞳を潤ませながらセブルスを睨んだ。

「そんなの…許されないでしょうよ!だってこれは私たちの仕事…」

「いいから休め。自分がどれほどの下戸なのか気付いていないのなら言っておくが、元々不器用なお前にまだ少しでもアルコールが残っているとすればお前は縮み薬すらまともに調合できまい。その上、休講通知を受け取ったただでさえやる気のない学生に薬品を使用させるなど危険極まりないことをするつもりは俺にはない」

 セブルスの言い分は尤もだったし、自分が二日酔いでひどい頭痛が抜けないのもまた事実だ。は浮かせた身体を大人しく布団の上に戻し、肺の底からゆっくりと息を吐き出した。自分の呼吸すらまだ少しアルコール臭かった。こんな姿で生徒たちの前に行けるはずもないか。

 寝室を去りかけたセブルスの背に、は囁くように呼びかけた。

「…ねえ、セブルス」

 足を止め、彼は怪訝そうな顔で振り返る。

「今日は何日?」

 セブルスは嘆息し、大袈裟に肩をすくめてみせた。

「11月2日の水曜日だが」

「あー…本当に?だとしたらおかしいわね、11月1日の記憶がないわ…私は確かに6年生と4年生の授業をして、こうして二日酔いになってるんだからどこかでお酒を飲んだのよね。おかしいわ、何にも覚えていない」

    

「おかしいわ、何にも記憶にない」



 彼女の言葉をきつい口調で遮り、セブルスは踏み出した足をこちらに向けゆっくりと歩み寄ってきた。

、目を逸らすな。どうしたところで奴らは戻らん」

 セブルスの平淡な言葉に、ぞくりと背筋が凍る。笑おうとつり上げたはずの口角が不気味なまでに引き攣った。

「ねえ…まさか、本当に…?」

 ベッドの縁に腰を下ろしたセブルスは、首を振ることも頷くこともしない。ただ静かに彼女を見つめている。

 お願い、どうか。否定して。

 掴んだ彼の手はひんやりと気持ち良かったけれど、ざわつく胸の内は対照的にうんざりするほど熱っぽい。は両手で包んだセブルスの手を熱く疼く頬に押し当てた。

 もう片方の手でセブルスが懐から徐に何やら取り出す。はそっと身を起こして彼の手の中にある予言者新聞を見つめた。

「…昨日の新聞なら、私だって読んだ」

「誰がそんな古い記事を持ち出す。今朝の新聞だ。ダンブルドアが持ってきた」

 ハロウィンの夜の出来事を掘り下げて書いてあるのだろうか。仰向けに横たわったままが新聞に手を伸ばすと、セブルスはひょいとその腕を上げて到底彼女には届かない位置までそれを掲げてみせた。

「読ませてよ」

「いいか、約束しろ。この記事を読んでも、俺に真偽を問うな。俺の持つ情報はお前とほとんど変わらんはずだ。そしてダンブルドアはこの記事に対しては確認が取れたと言った。どういう意味か、分かるな?」

「…もったいぶってないで、さっさと見せて!」

 薬が効いてきたのだろう、明瞭になってきた意識の中で勢いをつけて起き上がる。はセブルスの手から剥ぐように奪い取った新聞をその場で乱暴に広げた。

 飛び込んできた写真と、嫌でも目に付く大きな見出し。

 大きなシャベルで抉られたかのように凹んだ道路と、シリウス・ブラックとの文字。

 どきりと奇妙に心臓が跳ね上がるのを感じ、は食い入るようにその記事を読んだ。

『例のあの人最大の支持者、ブラック拘束さる』

 まさか、という思いが漠然と脳裏を巡る。口元に浮かぶ嘲笑を消しもせずに、は自分でも驚くほどのスピードで一面記事に目を通した。

 読み終えた新聞をばさりとベッドの上に放り出す。瞼を押し上げるとセブルスの黒い瞳と目が合った。

 笑うしかないだろう、こんなデタラメ満載の記事。

「まさかこんなもの、信じてるわけじゃないわよね?」

 くつくつと喉の奥で笑うを見ても、セブルスは欠片も笑わなかった。

「シリウスが死喰い人だった?ジェームズたちを裏切って、ピーターまで殺したって?まさかこんな記事…いくら何でも信じてるわけじゃないわよね?」

 セブルスは眉一つ動かさない。それでもは低い声をあげて笑うのをやめられなかった。

「まさか…ねえ、何とか言ってよ。こんな記事…馬鹿馬鹿しくて怒る気にもならないわ。ねえ、シリウスもピーターも騎士団にいるんでしょう?帝王が消えて…昨日はどこもお祭り騒ぎだったんでしょうから…まだ、三本の箒にでもいるのかもね。せっかく休講にしてもらったんだから私も行ってこようかな。ねえ、いいでしょう?」



 唸るように、セブルスが呟く。はやっと笑うのをやめた。顔を上げ、セブルスを見つめる。

「目を逸らすなと言ったろう。確かに荒唐無稽な噂が多く出回ることもある。だがこの記事をわざわざダンブルドアが持ってきたということは、知る必要があるからだ。知る必要があるということはこれがその荒唐無稽な噂話≠ナはないということだ。確認が取れているとはそういうことだろう。ポッターの秘密の守り人だった奴は帝王に寝返り、そして追ってきたペティグリューを殺した。生き延びたマグルによる証言もある。これがお前の知りたがっていた真実≠セというのなら、大人しく受け入れたらどうだ」

「ま…」

 まさか。そんな言葉すら、喉の奥で掠れて消えた。セブルスの深い瞳の色がそうさせなかったのだ。

 は放り出した新聞に伸ばしかけた手を、所在無さげに布団の上に押し付けた。

「ちょっと…待って。そんな…どうやって、信じろって?ねえ、セブルス…まさか帝王のところで、シリウスを見たわけじゃないでしょう?」

 うんざりした様子で息をつき、セブルスが投げやりに口を開く。

「お前だって分かっているだろう。死喰い人を全て把握していたのは帝王だけだった。俺が奴を帝王のところで見かけたことがないからといって奴が死喰い人でなかったという証明にはならん」

「何で…理由がないわ!彼は闇の魔法使いを憎んでた…ジェームズの親友だった!」

「それはそっくりお前にも当て嵌まるんじゃないのか」

 セブルスが冷ややかに切り返し、はぐっと息を呑む。確かに、私は闇の魔法使いを憎んでいた。ジェームズ、リリーが一番の親友だった。それでも、私は彼らを裏切って死喰い人になった。

 でも、シリウスは私なんかとは      違う。

「でも…たとえ最後の一人になっても、シリウスはジェームズを裏切ったり…しない!シリウスがそんなこと…するわけない!」

 セブルスはゆっくりと肺の底から溜まった息を長く吐き出し、蔑みを滲ませた暗い瞳でを見下ろした。

「俺はお前の下らない感情論を聞くつもりはない。頭を冷やして、よく考えろ。明日の実習の準備は俺が済ませておく」

 吐き捨てるようにそう言うと、セブルスはさっさと部屋を出て行った。置き去りにされた新聞が空しくベッドの上に転がっている。

 触れようとして、それを断念し、は2,3度頭を振ってベッドから飛び下りた。突然押し込まれた情報に頭の中は混乱しているが、ここで思い悩んでいたところで何も答えなど出てこない。

 あたふたと着替えを済ませ、引っ掴んだ杖をポケットに仕舞い込んでからは寝室を飛び出した。既にセブルスの姿はなく、研究室のドアを潜って玄関ホールへと上がる。午後の授業はとっくに始まっていたので、城の外に出るまで彼女は誰にも会わなかった。

 一昨日の晩にジェームズとリリーは死に、帝王がいなくなった。昨日ピーターは殺されて、シリウスはその咎で魔法省に捕らえられた。まさかそんなこと。悪い夢を見ているに違いない。

 だって私の生活は何も変わっていないし、私の心臓はこうしていつものように動いている。それなのに一度に3人もの親友を失い、それが私の最愛の人の背約に因るものだなんて。

 夢としか思えない。そんなこと、あってたまるものか。

 彼女の爪先は自然とホグズミードへ向き、が三本の箒のドアを押し開けると真昼間だというのに中は陽気な魔法使いたちでごった返していた。帝王が消えたことへの興奮がまだまだ冷めやらぬらしい。は唯一残るカウンター席へと身体を滑り込ませ、その向こう側で慌しくアルコールの準備をしているマダムに視線を走らせた。

 マダム・ロスメルタはに気付くとばつの悪そうな顔で小さく挨拶してきた。

「あら、いらっしゃい。こんな時間に仕事はいいの?」

「野暮なことを訊かないで。ねえ、少し話がしたいんだけど」

 するとマダムは両手に抱えたジョッキを軽く掲げ、「少し待ってて」とパブの奥へ優雅に去っていく。戻ってきた彼女はの注文を受けてバタービールを取り出しながら言った。

「昨日は来なかったのね。騎士団の皆さんがお見えだったのに」

「…とてもね、そんな気分じゃなくて」

 微かに苦笑いを漏らし、泡立ったバタービールを勢いよく喉に通す。はジョッキの縁に唇を押し付けたまま物憂げに瞼を上げた。

「ねえ、本当に…闇の帝王はいなくなったのかしら?」

 マダムは驚いた顔で目を瞬かせたが、すぐに手元のグラスに視線を戻しながら純白のナプキンでその内側をサッと拭いた。

「ダンブルドアが仰ってたでしょう。ジェームズとリリーのことは、本当に残念だったわ…でも息子のハリーがこの国を救ってくれた。きっとあの2人だって彼を誇りに思ってるはずよ」

 ジョッキの中で燻る泡を見つめ、ああ、と声をあげる。そうか、ハリー。

「ハリーは…どうなったの?」

 ますます驚いた様子でマダムが瞬きを繰り返す。彼女は怪訝そうに首を傾げながら言った。

「あなた、何も聞いてないの?」

「ああ…昨日は、気が動転してて…ダンブルドアに会っていないのよ」

 その時店の奥の方から「ママ、ラム酒を頼むよ!」という声が響き、マダムはまたそちらの方へと姿を消した。温くなったバタービールの香りが口の中から鼻へと伝って上がる。はカウンターテーブルに突っ伏して周囲の喧騒を意識から締め出した。

 しばらくしてマダム・ロスメルタがまたカウンターの中に戻り、は気だるい息を吐きながら頬杖をつく。

「で、ハリーは一体どこへ?」

「ああ、それね。ダンブルドアがマグルの叔母さまの家に連れていったらしいわ。昨日の晩、その後にここへ寄って下さってね」

「マグルの?」

 片方の眉を上げ、記憶の底を掘り返す。リリーにはマグルの妹がいた。確かに、ハリーは身内のもとで過ごす方がいいのかもしれない。両親を失った、この魔法界で暮らすよりは。

「ねえ…彼≠ヘ、昨日ここへは来たの…?」

 喉から絞り出した自分の声が震えているのが分かった。誤魔化すようにジョッキを傾け、泡の抜けたバタービールで乾いた口腔を潤す。

 マダムはすぐさま眉を顰めた。

「誰のこと?」

「…誰って」

 分かってよ。そう言いかけて、自嘲気味に笑う。分かるわけが、ないよね。

「…シリウスよ。シリウス・ブラック」

 途端にマダムの顔付きが強張り、彼女は気まずそうに瞼を伏せた。

、あなたも…今朝の予言者新聞、読んだんでしょう?彼は…捕まったのよ。昨日もここには来なかったわ。前回の会合以来、彼はここには来てないわ」

「…そう」

 そんなことを訊いて、どうするつもりだったんだろう。もしも昨日ここに彼が来ていたのなら、ジェームズたちを裏切った彼が大胆にもこんなところにやって来るはずがない、とか、そんな反証をするつもりだったんだろうか。いや、それはお前の感情論だとセブルスは笑うだろう。

 マダムはの手からジョッキを取り上げ、泡の抜け切ったバタービールを新しいものに替えてくれた。

「…ジェームズもリリーも…シリウスも、あなたの…親友だったものね。辛いでしょうけど…とにかく、飲みましょう」

 いつの間にやらマダムが自分用に注いだワイングラスを掲げ、のジョッキに軽く当てた。カランと乾いた音が響き、マダムはぐいっと勢いよくそれを飲み干す。

 は小さく息をついてからジョッキをそっと持ち上げた。

 これを初めて飲んだ時は、ジェームズがいて、リリーがいて。ピーターがいて、リーマスがいて。

 そして、シリウスがいた。

 みんなが、私の手の届くところで笑ってくれていたのに。

「あら、リーマス。帰るの?が来てるわよ」

 マダム・ロスメルタの声に、はハッとして顔を上げた。首を捻ってマダムの視線の先を追うと、そこにはくたびれた顔をしたリーマスが一人で立ち尽くしていた。よくよく見てみると、パブの奥のテーブルをいくつか陣取っているのは騎士団のメンバーのようだ。

「…

 呆然とこちらを見つめているリーマスが、独り言のように呟く。彼は再びマダムに呼び掛けられてようやく我に返った様子だった。

「あなたもこっちでもう一杯どう?バタービールでいいかしら」

「…いや、マダム。僕はもう、十分ですよ」

 気だるげにそう言って、リーマスはの隣にそっと腰掛けた。一瞬、息が詰まりそうになる。何を言えばいいのか分からなかった。

 ぽつりと口を開いたのは、リーマス。

「仕事の方は…順調かい?」

 溜め息雑じりの彼の声は、この世の全てに疲れ切っているようにも聞こえる。は握り締めたジョッキをぼんやりと見つめながら曖昧に笑った。

「まあまあ…ね」

「そう。それは…良かった」

 リーマスが口を開く度に、ずきずきと胸が痛む。彼がジェームズたちの話題を故意に避けているのは明白だった。けれど、私はどうしても。

「…朝刊を…読んだわ。ねえ…嘘よね?ピーターが…殺された、なんて…」

 視界の隅で、無造作に羽織ったボロボロのマントを彼がギュッときつく引き寄せるのが分かった。

「嘘だと思うなら魔法省に行けばいい。彼の指が…保管されてるはずだから」

「…指?」

 そんな。全身に走った寒気を打ち消そうとはバタービールをごくりと飲んだ。気まずそうに瞼を伏せたマダム・ロスメルタはちょうどよく頼まれた注文の品を手早く作り、またカウンターから去っていく。

「記事を読んだのなら知ってるだろう。彼は吹き飛ばされた≠だ。指一本もまともに残らなかった」

「…まさか。それを…シリウスが、やったって?まさかそんなこと…あなたまで信じてるわけじゃ」

 ゆっくりとこちらに顔を向けたリーマスの瞳は、信じられないほどに冷え切ったものだった。目を見開き、ジョッキを握ったまま硬直する。

「君がシリウスを信じてるとはね。それとも仲間≠庇い立ててるのか…どっちにしたって皮肉なことだ」

 嘲るように小さく笑い、リーマスは彼女からふいと視線を逸らす。は彼の横顔を呆然と凝視した。これが本当に…リーマス?

「ど…どういうことよ。シリウスがそんな人間じゃないって、あなただって分かってるでしょう?」

 肘をつき、リーマスはうんざりしたように眉間に手を添える。

「現にジェームズとリリーは死に、ピーターは彼に殺された。君が死喰い人になるような時代だ…何があるかなんて、分からないよ」

 身動きが取れないを残し、彼はそっと席を立った。人混みに紛れたリーマスの後ろ姿が出入り口のドアの向こうに完全に消えるまで、はずっとその一点だけを見ていた。

 そんなこと。シリウスは私とは     

 マダム・ロスメルタが戻ってくるよりも先に、は飲みかけのバタービールをそのままに銀貨を置いて立ち上がった。ふらふらとした足取りでようやく居酒屋の外に出た時には、既にリーマスの姿はなかった。

 私が死喰い人になったからといって、彼がそうかもしれないだなんて。

 だが学生時代の親友の最後の一人が冷たく言い放ったその言葉は、今の彼女にはあまりに強烈過ぎた。

『君が死喰い人になるような時代だ』

 私を信じられなくなるのは、仕方ない。私はそれだけのことをした。でもそれを、彼を疑う理由にしないで。

      私と彼は、違う人間なんだから。

 けれどそれを口にする勇気は、なかった。

 何を信じればいいのか。私にも      分からなかったから。

 いや、何を信じるべきかは明白だ。でも何もかも、あまりに現実離れし過ぎていて、どれも信じられそうにない。

 シリウスが死喰い人だった?ジェームズたちの秘密の守り人になって数日も経たないうちにその秘密≠帝王に漏らした?シリウスを追ったのがピーターだというのなら証人として立ち会ったのはリーマスではなく彼だったのか。そしてそのままピーターはシリウスに殺され、彼は魔法省に捕らえられた。

 これだけのことを、どうやって信じろと?

 ゴドリックの谷の惨状は昨日と変わりがなく、彼がピーターや多くのマグルを殺したという現場にもは足を運んだ。一面記事の写真にあったように抉れたクレーターは最早なかったが、そこには魔法で大きく修復を施した跡が見られた。

 彼の家にも、行った。およそ3年ぶりのその部屋は相変わらず物も少なく閑散としていたが、微かにほんの数日前まで人の生活した匂いがした。

「…ねえ、まさか…何かの間違い、だよね?」

 ベッドの布団に彼の温もりなどあるはずもなかったが、それでも彼が潜り込んでいたと思しき膨らみが残っていては視界が潤むのを感じた。ねえ、あなたはここで、ほんの少し前までずっと暮らしてきたんでしょう。まさかこんなことになるなんて、夢にも思っていなかったんでしょう?

 腰掛けたベッドの縁から立ち上がるまでは、かなりの時間がかかった。立ち去りかけた部屋の隅、小さな棚にふと目がいく。何となく惹かれるものを覚えて、はその引き出しをそっと開いた。

 入っていたのは、たった一つ、質素な薄青の小箱。

 躊躇いながらも、ゆっくりと開く。








 はそこに、透き通ったシンプルなムーンストーンが嵌め込まれた、美しいシルバーリングを見た。