秘密の守り人、すなわちシリウスからその秘密≠聞いていない自分は彼らの家を見つけることが出来ないのかもしれない。そんな彼女の心配も全てが杞憂に終わった。
ほんの数日前に訪ねたばかりのその小さな一軒家は、今は見る影もないほどに壊されてしまっていたからだ。
「…ジェームズ…リリー…?」
独り言のように呟いたその言葉は、誰の耳に届くこともなく掠れて消えた。ふらふらと瓦礫の山に歩み寄り、黒ずんだ地面に膝をつく。
「ねえ…ジェームズ…リリー…」
まさか。こんなこと。ねえ、嘘でしょう。私はあんな記事、信じない。僕が死ぬわけないだろう、馬鹿だなぁは。そう言ってきっと彼は笑いながら現れる。
もしも本当に闇の帝王が消えてしまったのなら、それはきっとあなたが。
「ねえ、ジェームズ…悪い冗談はやめてよ。どうせどこかで隠れて見てるんでしょう?ねえ…リリーも…こんなたちの悪い冗談は…やめてよ…ねえ」
村に僅かに点る街灯が周囲の茂みを照らす。きっと彼らは、そのどこかに身を潜めている。
「いい加減にしてよ…ジェームズ!ねえ…これ以上私を…」
待たせないで。そんな言葉、私には言えない。でも。
「ジェームズ…ねえ、ジェームズ!リリー!変な冗談はやめてよ!」
分かっている。
あの2人は間違ってもこんな嘘を、ついたりしない。
彼らはいつだって、私の呼びかけには応えてくれた。
これだけ呼んで、返ってくるものが何もないのならば。それは一つの結論しか導き出さない。
彼らは、本当にいなくなってしまったのだ。
は無我夢中で瓦礫の山を掻き分けた。2人はどこにいるのか。せめて彼らの最期の姿を見届けなければ、私は。
どうして。忠誠の魔法が間に合わなかったのか。すぐに済ませろとダンブルドアがあれだけ忠告したのに。
かつての壁だったものを必死に脇に放り投げていると、は突然背後から声をかけられて心臓が跳ね上がった。
「…そこで何を?」
振り返り、暗闇に慣れた目に映ったのは見知らぬ中年の女性だった。手に持っているのは懐中電灯で、恰好からしてもマグルのようだ。は慌ててコートの前を手繰り寄せ、中に着ているローブが見えないようにした。
「あー、いえ…その…」
「そこは数日前から空き家だったんだよ?ちょっと前までは若い夫婦が住んでたみたいだけど」
どくんと鼓動が高鳴る。空き家のはずはない。現にこうしてあらかた破壊されているのだから。
それなのにマグルの目には空き家≠ニ映っていたのなら、それはつまり。
「…まさか。そんな…だったら、どうして…」
がくがくと震えながら独りごちるに首を傾げながら女性は続ける。
「今朝方起きてみたらこの有り様だよ。それによく分からないけど今日あんたみたいにその瓦礫の山引っ繰り返してる兄ちゃんもいたしね。一体何が起こったんだい?」
そんなことは。私の方が訊きたい。は力なく家の残骸に向き直り、また少しずつ瓦礫を脇へ脇へと分けていく。気付いた時には女性の姿はなかった。
DROWN my sorrows
どこへ帰ればいいのか、分からなかった。ホグワーツ?セブルスと暮らした隠れ家?それとも騎士団の会合場所だった三本の箒か。いや、どこでもない。帰りたい場所なんて、ない。
はふらふらと適当なところに何度も姿現ししながら歩いた。瓦礫の山からはジェームズとリリーは見つからなかった。遺体も残らないほどに粉々にされたのか、それとも既に誰かが葬ってくれたのか。たった一つの推測すら決定付けられないほど今の彼女には情報がなかった。
けれど、そんなもの。欲しくも何ともない。
ジェームズは死んだ。リリーも死んだ。私が予言を聞いてしまったせいで、かけがえのない親友を死なせてしまった。
予言者新聞が正しいのなら、生き残ったハリーは予言の通りに赤子ながらあの闇の帝王を破った。人々は永遠に彼を称え、彼を知らない子供はこの世からいなくなる。彼が最大の功績を為しえたその瞬間に失われた2つの命のことなど誰も語らない。
『ハリーは僕が命に代えても守り抜きます』
言った通りに実践しなくても、いいのに。
一緒に生きれば、良かったのに。
どうして、こんなにも先に逝ってしまったの。
ハリーがどこに行ったのか、そんなことを考えるような余裕は今のには全くなかった。
最後に行き着いた先は、ホグズミードの裏通りにひっそりと佇むホッグズ・ヘッドだった。ああ、ここで私は。あの予言を聞いてしまったんだ。
あの頃はただダンブルドアへの復讐だけを糧に生きていた。
感情なんていうものは押し殺して、目的を達するためだけに。
相変わらず埃っぽいカウンターからウィスキーのボトルとグラスを受け取って、は一番奥の湿気た四人掛けのテーブルにどさりと腰を下ろした。バーテンは彼女が自分に磔の呪文をかけた相手だと気付いているのかいないのか、表情の読めない難しい顔をしている。だがそれも何もかも、今の私にはどうだっていい。
『少し飲んだ方がいいよ。随分顔色が悪い。教師なんて似合わないことやってるから疲れてるんじゃないかい?』
自嘲気味に笑い、汚れたグラスに注いだウィスキーをごくりと喉に通した。慣れない強烈な熱さに思わず噎せ返るが、それでも自虐的にその液体で口を潤すのを止めない。目眩を覚え、頭がくらくらした。
いっそ壊れてしまえ。
『お前は災いをもたらす』
私なんか、いなければ。
「自棄酒か。無理はしない方がいい」
テーブルに突っ伏した頭の上から突然声が降ってきた。グラスで額を冷やしながら、途切れそうな神経を保って何とか顔を上げる。の斜め前に腰掛けたのは数日前に出会ったばかりの若い魔法使いだった。
「…放っといて」
吐き捨てるように呟いて、はテーブルに放り出した腕にまた顔を押し付けた。
カウンターから持ってきたグラスの内側を軽くナプキンで拭いてから、ロングボトムがのボトルからウィスキーを注ぐ。
「礼を言っていなかった」
は突っ伏したまま顔の向きを意味もなく変えた。
「何の」
「忠誠の魔法の証人を引き受けてくれて。ありがとう」
「…そんなこと」
どうだって、いい。ジェームズとの約束を守るためにダンブルドアがただ一緒にいた私を証人にしただけの話だ。
「みんな、三本の箒に集まっている。さっきダンブルドアも来てね。私たちにかけてもらった忠誠の魔法は解いてもらった。もう、必要がないから」
ロングボトムの落ち着いた声が苛々と胸を揺さぶった。グラスに残っている液体を一気に飲み干し、ふらつく手付きでまたウィスキーをそれに注ぎ込む。彼女からボトルを取り上げようと伸ばしたロングボトムの手をは乱暴に払い除けた。
喉の奥を、胸の底を焼き焦がしながら、どうにでもなれという思いでただアルコールを呷る。
「、もうやめておけ。明日の仕事に響くだろう」
「うるさい…あんたには関係ない」
あんたには分からない。誰にも、分かりやしない。
知らない間にまたグラスが空になっていた。ボトルは遠く、ロングボトムの手の中にある。
意識がぼんやりと掠れ、ロングボトムの顔が視界の隅でぶれる。
は瞼を半分ほど下ろし、ボトルを求めて手を伸ばす。
「ええ、そう…必要ない、忠誠の魔法なんて。ちっとも役に立たないじゃない…」
「…」
ウィスキーのボトルを自分の傍らの椅子に下ろし、ロングボトムが疲れたように息をついた。
「…忠誠の魔法は、この世で最も確実な魔法の一つだ。その魔法をかけた秘密が漏れたということがあれば、まずそれは間違いなく…」
「 シリウスがジェームズたちを裏切ったとでも言いたいの?」
空のグラスをお粗末に回転させ、視線の先をその円に張り付ける。自分でも冷え切った声音だということには気付いていた。
もう、どうだっていい。
「…ジェームズたちの秘密の守り人がシリウスだったというのなら、そうなんだろう」
鼻から息を抜かせ、くつくつと喉で笑う。何も分かっちゃいない。ロングボトムは、私たちのことなんて何一つ分かってない。
「どこかに綻びがあったのよ、そうに決まってる…あんたは帝王の本当の力を知らないから…彼はどんな小さな隙間にでも入り込んでくる…どこかにきっと綻びが…」
「、確かにジェームズとリリーのことは残念だった。だがどう足掻いたところで 」
「一人で愚痴りながら飲むことも許されないっていうの!?」
声を荒げ、握り締めたグラスを床に叩きつける。飛び散った破片が辺りに散らばり、その甲高い音はバーの人目を引くに十分すぎるほど大きかった。
でもそれも、どうでもいい。
だってもう ジェームズとリリーは、いない。
「あんたたちにとっては尊い犠牲の一つ≠ノ過ぎなかったでしょうけど、私にとっては無二の親友だったのよ!ジェームズもリリーも…シリウスも!どうせあんたには何も分からないわ!知ったような口を利かないで!」
私が殺した。私が、みんなをバラバラにした。
無造作に脱ぎ捨てたコートを引っ掴み、乱暴に立ち上がる。は仏頂面のバーテンにガリオン金貨を1枚投げつけ、「グラスくらいまともなものを出しなさいよ」と言い捨てて店を飛び出した。
覚束ない足取りで駆け出すの左腕を、追ってきたロングボトムが掴み取る。一瞬痛んだのが闇の印かと勘違いしてはぞっと身震いするのを感じた。彼の握力が強いだけだった。
ぐらりとよろめき、そのままロングボトムの腕に中に落ちる。意識が薄れる。頭の奥でずきずきと大音響が鳴った。
「急がない方がいい、酔いが回る。三本の箒で少し休んでから戻るんだ」
「放っといてって…言ってるでしょうよ」
ねえ、シリウス。私を恨んでるよね。ねえ、リーマス。ねえ、ピーター。
私が2人を死なせたんだもの。私を許してはくれないよね。
三本の箒なんて、行けるものか。みんなのいるところになんて、行けるものか。
私はとうとう、独りになった。これが天罰だというのなら甘んじて受けいれよう。でも、ジェームズとリリーを死なせることなんて、ないじゃないか。
「…やはりこんなところにいたのか」
ロングボトムの腕を押し退けようとしては彼に支えられ、を繰り返していると、背後からうんざりした様子の低い声が聞こえた。振り返るまでもなく、はその正体を悟って溜め息を吐く。
ロングボトムはホッと安堵の表情を見せながら口を開いた。
「スネイプ、良かった。彼女は酔っているんだ」
「見れば分かる。世話をかけたな、ロングボトム。私が責任を持って城まで連れ帰る」
「…三本の箒に、みんな集まっているが?ダンブルドア先生もいらっしゃる」
「いや、私たちは帰る。こいつがこの調子ではな。話なら後からでも聞ける」
セブルスはロングボトムの手を借りて、今にも倒れそうなを背に負ぶった。ああ、この感覚。何だか懐かしい、けど、何かが、違う。
ああ…そうだ…。
「セ…ブル…ス」
彼のマントをきつく手繰り寄せ、は朦朧とした意識の中で呼びかけた。
踏み出そうとした足を止めて、セブルスが僅かに首を捻る。
「どうした」
「…負んぶは、嫌だ…」
「は?」
不可解な顔でセブルスが訝しげに声を発する。は無理にでも彼の背から降りようともがいた。慌ててロングボトムが後ろから彼女を支える。
「!危ないだろう!」
「分かった、分かったから落ち着け」
僅かに声を荒げ、セブルスが素早くその場にしゃがみ込む。跳ねるように彼の背から距離を取ったはふらりとよろめいてそのままロングボトムの身体に倒れ込んだ。
セブルスは大好きだ。セブルスの温もりを感じると心からホッとする。
でも。
背負われたあの感覚だけは、どうしても。彼≠セけとの記憶にしておきたかったから。
こんなしがみつき方をしていたって、過去も、未来も、現在も。何も変わらないけれど。
ロングボトムに凭れ掛かった状態で静かに寝息を立て始めた彼女を見て、セブルスは肩をすくめた。
「すまない、手の掛かる奴で」
小さく苦笑いしたロングボトムがの身体をセブルスに渡す。どうやって連れ帰ったものかとしばらく思案して、セブルスはようやく彼女の肩に腕を回して足を引きずっていくことにした。ああ、彼女の吐息はアルコール臭がきつい。
「いや…でも、良かった」
ロングボトムがポツリと呟き、セブルスは僅かに視線を上げて眉を顰める。ロングボトムは「いや…良いことは何もないんだが」と言葉を濁した。
「何が良かったと?」
「…あー、いや…彼女の、こんな様子を見たのは初めてだったから…彼女も人の子だったんだと思ってな」
鼻で笑い、瞼を伏せる。下らない。
「当たり前だろう」
城へと向けて重い足を踏み出したセブルスの背に、ロングボトムの声が届いた。
「 スネイプ、君もそうなのか?」
少しだけ、足を止める。だがすぐに軽く笑い飛ばし、セブルスは振り向きもせずに吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい」
ロングボトムはそれ以上、追いかけてはこなかった。
そうだ、馬鹿馬鹿しい。
城まではいつもの倍以上時間がかかった。研究室のソファにの身を横たえ、手探りで棚の奥底からワインとグラスを取り出す。
暗闇の中で注いだワインはグラスの縁から僅かに零れた。
どさりとの傍らに腰を下ろし、ぐっとワインを呷る。口の端からも溢れた液体が喉を伝って落ちていくのが分かった。
「…馬鹿馬鹿しい」
ローブの袖で口元を拭い、見えない視界で彼女の寝息を見下ろす。
その頬にそっと指先を這わせながら、セブルスは思った。
何もかも、この世の全てが馬鹿馬鹿しいだろう。
なあ、エヴァンス。