帝王の最大の敵はアルバス・ダンブルドアだ。

 それならば、もしかして。

 あの男さえいなくなれば。

      ひょっとして。
NOW is the TIME to do
 ハロウィンが近付くにつれ、城の内装も徐々に橙に染まっていく。もフリットウィックを手伝って様々な装飾を施して回った。

 ここ数ヶ月で勢いを増している死喰い人の動向を逐一把握するためと、セブルスはダンブルドアの許可を得てよく城を留守にした。もちろん事が事だけに内密を要し、彼が城を出入りするのは週末や夜の帳が下りてからではあるが。

 セブルスの不在に伴い、薬学の授業準備はその大半をが行うようになった。帝王のところから疲れた顔で帰ってくるセブルスはその翌朝くたびれたローブに黒いマントを羽織り、の補助を受けていつものように授業を進める。彼は普段から血色が悪いので、その僅かな表情の変化に気付く者はほとんどいなかった。

     帝王がポッターの居所を突き止めたらしい」

 1年生のレポートに目を通していたはピクリとその手を止め、羊皮紙に視線を張りつけたまま目を見開いた。

 息をつき、レポートの右上に『A』と書き付ける。

「…そう」

 心臓の鼓動が喉の奥で喧しく打った。無意識に口元を押さえ、次のレポートを捲る。

 セブルスは5年生のレポートを採点しながらそっと瞼を上げた。

「俺たちよりも連中に近い人間が手を貸しているそうだ」

 羊皮紙に押し付けた羽根ペンの先がバキッと音を立てて割れる。レポートの端に飛び散った赤いインクを染み抜きインクで拭きながら、はようやく顔を上げた。

「…つまり、騎士団の中に私たちの他にダークサイドの人間がいると?」

「騎士団の中にいるかどうかは分からん。ダンブルドアに近すぎるという理由で帝王は俺にお話にならないことが増えた」

 眉を顰め、壊れた羽根ペンを屑籠に放り投げる。

「それは帝王が私たちに不信を抱いているということなの?騎士団にも関わることなら帝王は私たちに何でもお話になっていたのに」

「知る必要がないことだからだろう。用心に越したことはない。俺の持ち帰る情報に帝王が満足しておられるのは事実だ」

 淡々とした口調でそう締め括り、セブルスはまた採点へと戻る。は物憂げに立ち上がり、研究室の隅に置いた予備の羽根ペンの袋を開けた。

 手探りで取り出したそれは、もう何年も目にしていなかった上等の羽根ペン。そうだ、ここに放り込んでそのままにしていた。ずきんと胸が痛む。

 はもう一本安物の羽根ペンを取り出してから自分のデスクへと戻った。

「ねえ、セブルス」

「何だ」

 視線すら上げずにセブルスは短く返す。彼はそのレポートの右上にさらりと『D』と書いた。

「それは今の自分に不可欠なものではありません。でもそれにはとても大切な思い出が詰まっています」

「は?」

「黙って聞いてよ。それは実用性を考えると今の自分には必要なものではありません。でもそれにはかつての大切な人の思い出がたくさん詰まっています。でもその大切な人とはこの先共に笑い合うことすらないでしょう。その人のことは忘れるべきだと自分では分かっています。さあ、あなたはそれ≠どうしますか?」

 セブルスは思い切り顔を顰めての手の内にある羽根ペンを睨んだ。彼の答えなんて、分かりきっているのに。

 羊皮紙を捲り、セブルスは投げやりに言った。

「そんなものは捨てる」

「そうだよね、そう言うと思ったわ」

 ほら、やっぱり。彼の答えなんて最初から分かっていた。

 大切に使おう。そう思って一度もインクをつけないまま月日が流れた。どこに捨てよう。今はそればかり考えている。

 取り敢えずは引き出しに仕舞い込み、は安物の羽根ペンを使って残りの採点を一気に済ませた。

 帝王がジェームズたちの居場所を突き止めた。

 近いうちに彼らは襲われることになる。

 帝王はハリーの命を奪うつもりだ。つまり      ジェームズとリリーも殺されてしまうだろう。何度も帝王の手から逃れている二人でも、本気になった帝王に敵うはずなどないのだから。それは帝王の力を目の当たりにした自分が一番よく分かっている。

 どうすればいい。何か手はないか。彼らはうまく逃げてくれると思っていた。私はダンブルドアを殺したいだけでかつての大切な友人を失いたいわけじゃ、ない。

 帝王の意向なら、躊躇わずにそれを支持するつもりでいたのに。

 こんなにも、動揺するなんて。

『お前は最近弛んでいるぞ』

 そうだ、せっかく学んだ閉心術なのに。

 就寝時間も過ぎ、静まり返った城内を一人でゆっくりと歩きながらは瞼を伏せた。

      私たちよりもジェームズたちに近しい人間。でも彼らの居所を知る者といえばよっぽど限定されるはずだ。

 懐に忍ばせた羽根ペンと栞をローブの上から握り、は5階の奥にある魔女の胸像の前で足を止めた。窓ガラスから差し込んでくる月明かりがその像の横顔を照らしている。もうすぐ満月だ。リーマスはまたたった一人であの長い夜を過ごすのだろうか。

 さっと周囲を見渡してから、は目の前の壁にぐいと右手を押し当てた。するとその壁が突然柔らかくなり、そのままそこを摘む。かなり高い位置からぶら下がるように現れたそのマットのようなものを捲ると、奥に小さな穴があった。

 1年生の時、フィルチの追跡から逃げる際にシリウスに引きずり込まれたあの穴。当然ながらそこには、誰もいない。喉の奥から込み上げてくるものを無理やり押し込んで、は取り出した羽根ペンとバラの栞をそこに放り込んだ。

 捨ててしまうことなんて、できない。彼があの冬にくれた、大切なプレゼントだもの。でもふとした時に目に触れるのは辛すぎる。

 それならば、手の届かないところへ。

「…シリウス…シリウス、さよなら…」

 堪えきれない涙が、頬を伝って落ちた。あなたの腕の中は、心から落ち着けるほどに温かかった。

 ずっと      一緒にいたかった。

 マットを手放すと、それは穴の上に覆い被さって白い壁に吸い込まれていった。がくりとその場に膝をつき、肺の奥から息を吐く。

 悪戯仕掛け人作成の秘密の地図は、7年生に上がりが彼らと復縁した時には既に完成していた。だが彼らは彼女の名前も彼らのニックネームの隣に加えてくれていた。

『ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングス、ポーレス

 我ら魔法悪戯仕掛け人のご用達商人がお届けする自慢の品、忍びの地図』

 この穴も地図にはきちんと書き込まれていたが、あの地図は今はフィルチの事務所にあるはずだ。最初で最後の管理人への置き土産として、卒業前にジェームズがわざとフィルチに没収させようと提案したのだ。計画はうまくいき、忍びの地図はフィルチの手に渡った。

 けれどあの地図を活用するには簡単な呪文が必要なので、フィルチが使えるとは思えない。だとしたら仕掛け人たちのようによっぽどの物好きでない限りは誰もこの穴も見つけられないだろう。それかジェームズの言っていたように、有能な後輩≠ェあの地図を見出さない限りは。

 彼からの贈り物。捨てることはできない。このままここで、朽ちて。

      私の心のように。このまま。

「 Mischief managed 」

 ぽつりと呟いて、は溜め息雑じりに立ち上がった。悪戯完了。もうこれで、お仕舞い。

 さよなら、みんな。

 最後に一つだけ、私がみんなのために何かできることがあるとすれば。

 壁に軽く唇を寄せて、目尻の涙を拭い去る。

 は続けてローブの下から取り出したクロスのネックレスに口付けた。

「こーんな時間に一体だぁれ?」

 突然背後から聞こえてきた甲高い声に、眉根を寄せて振り返る。ピーブズはつまらなさそうに唇を尖らせながら近付いてきた。

「なーんだ、生徒ならフィルチでも呼んできてやろうと思ったのにー。あのちゃんが先生なんてちゃんちゃらおかしいねー」

「おかしくて結構。用がないのならさっさと消えなさい。私は今機嫌が悪いのよ」

「けー、怖いねえちゃん。ちゃんこそこんなところで何してたのかなー。夜中にこそこそ歩き回るのは学生の時から慣れてるもんねー」

     消えなさいと言っているのが分からないの?」

 自分でもぞくりとするほどの低い声で、唸るように告げる。頬を膨らませたピーブズは「べー」と盛大に舌を出し、去り際に側の壁に掛かった額縁を剥ぎ取ってこちらに投げつけてきた。

 取り出した杖で絵画を脇に落とした時にはピーブズの姿はなかった。

「痛っ!ちょっと、いきなり何するんですか!」

 額縁の中の住人は突然安眠を妨害されたことにひどく憤慨した様子で、鼻息も荒く怒鳴り飛ばした。







 がダンブルドアに呼ばれたのはその翌日のことだった。大広間での夕食を済ませ、セブルスと共に席を立つ。色恋沙汰ともなれば何でも面白おかしく推測する生徒たちはいつも揃って行動するとセブルスをチラチラと盗み見ていることが多かったが、最近はそれも落ち着いてきた。

 教員たちの後ろを通り過ぎようとした時、ダンブルドアが僅かに首を捻りこちらを見た。

先生。後でわしの部屋に来てくださらんかのう」

 足を止め、視線だけを動かす。ダンブルドアは半月眼鏡の奥で朗らかに笑んでみせたが、彼はその底に何か意図的なものをきちんと備えていた。騎士団の話だろうとすぐに察しをつける。

 はダンブルドアの耳元に軽く顔を近づけて囁くように言った。

「分かりました。では就寝時間が過ぎればすぐに教授と伺います」

「ああ、いや。今日は君だけに話があるんじゃ。一人で来てくれんかのう」

 目を瞬き、素早くセブルスに顔を向ける。彼が小さく頷いたのを見ては慌ててダンブルドアに視線を戻した。

「…分かりました。後ほど伺います」

 ホグワーツに就職してから校長室を訪れたことは何度もあったが、職務の話の時も騎士団の任務の話の時も、必ずセブルスと一緒だった。セブルスは闇の陣営の情報を伝えるためによく一人でダンブルドアと会っているが、彼女にとっては初めてのことだ。

     どうしよう」

 地下の研究室に戻ったはどさりとソファに座り込んだ。マントを脱ぎ捨てたセブルスはデスクの椅子に腰を下ろしながら軽く首を振る。

「どうしようも何もない。お前は大人しくダンブルドアの言うことを聞いていればいい」

「でも…一体何の話かしら。私だけなんて…」

 落ち着かない。胸が苛々と燻る。握った拳でソファを殴りつけた。

 対照的に静かなセブルスが背中の棚から取り出した薬学の専門書を開く。

 栞を挟んだページを開け、彼はゆっくりと口を開いた。

「いいか、馬鹿なことは考えるな。今のお前は心をうまくコントロールできていない。そんな状態で行動を起こしても成功するはずがない。今はまだ、抑えろ」

 瞼を伏せ、握った拳を力なく解く。は薄い視界の向こうでセブルスが分厚い本に目を走らせるのを見ていた。

 頷くことは、できなかった。







 就寝時間がやって来るまで、は寝室に閉じこもり荷物の整理をしていた。元々持ってきた私物は少なく、トランクもすぐに一杯になった。

 とセブルスの寝室は厳密に言えば隣り合わせではなく、魔法薬学の研究室を挟んでどちらも研究室と繋がっている。が寝室を出ると、帝王のところへ向かう準備を済ませたセブルスがマントの上にコートを羽織っているところだった。

「ああ、そっか…今夜だったわね」

「そうだ。お前を見張れないのが残念でならん」

「冗談はやめてよ。余計なお節介。そんなことよりも他に気にすることはいくらでもあるでしょう」

 口の端をつり上げて素っ気無く吐き捨てる。セブルスもまたフンと鼻を鳴らして研究室の扉に手を添えた。

「重ねて忠告しておく。いや、これは俺からの命令だ。迂闊な行動には出るな」

「あなたに命令される筋合いはないけれど、忠告なら取り敢えず受け取っておくわ」

 ニヤリと笑い、セブルスの背を押して部屋を出る。彼の斜め後ろについて歩きながら、は玄関ホールに上がった。

「それじゃあ、行ってらっしゃい」

「迂闊なことはするなよ」

「くどいわ」

 短く切り返し、はくるりと踵を返した。大理石の階段を一段ずつ上がり、ガーゴイルの石像を目指す。

 砂糖羽根ペン、と唱えるとガーゴイル像は瞬時に脇に飛び退き、は壁の隙間を通り抜けて石の螺旋階段に足をかけた。すると階段がゆっくりと動き始め、背後で壁が閉まる。動く螺旋階段は彼女を樫の扉の前まで連れて行き、は真鍮のノッカーを軽くドアに打ち付けた。

「ダンブルドア先生、です」

 扉はすぐに独りでに開き、はその中に入った。そこはとても美しい円形の部屋で、ホグワーツの歴代校長の写真がずらりと並んでいる。どの写真もぐっすりと眠り込んで、胸が静かに上下していた。

、待っておったよ。まずはこちらに掛けてくれんかのう」

 はダンブルドアの机の手前に置かれた椅子に大人しく座った。扉の脇の止まり木の上では真紅と金色の羽を持った不死鳥が歴代校長たちと同じようにすやすやと眠っている。

「お話とは」

 彼は余計な前置きが長い。はすぐさま本題に入ろうと口を開いた。

 僅かに目を細めたダンブルドアが、疲れたように息をつく。

「そうじゃ…君に一つ、頼みたいことがある。騎士団のため、わしのためではない…君の大切な、友人のためにじゃ」

「…一体何のお話でしょう」

、セブルスの持ち帰った情報は君も聞いているはずじゃ。ヴォルデモートが、ハリーか、もしくはネビルを狙っておると。わしはジェームズやフランクに身を隠すように忠告し、そして彼らは住居を何度も移した…それでもあやつから隠れるには不十分じゃと思う。そこでわしは、彼らに忠誠の魔法を使うようにと勧めた」

「忠誠の魔法=H」

 初めて聞く言葉に、眉を顰めて鸚鵡返しに訊ねる。ダンブルドアは静かに言った。

「生きた人間の中に魔法で秘密≠封じ込めるのじゃ。選ばれた秘密の守り人≠ェ暴露しない限りは、その情報を他の者が見つけることは不可能となる。彼らがあやつから確実に身を守るにはそれしかないと思うのじゃ」

「…つまり、秘密の守り人≠フ中に彼らの居場所を永遠に封じ込めると?」

「その通りじゃ」

 小さく頷いて、ダンブルドアは一瞬言葉を切った。彼は沈痛な面持ちで続ける。

「セブルスの話では、狙われる可能性が高いのはハリーの方じゃと。しかも彼らの居所がどこからか漏れているらしいと聞いた。事は緊急を要する。一刻も早くポッター家に忠誠の魔法をかける必要があると思うのじゃ」

 どうしてそこまでダンブルドアが知っているんだ。セブルスはそんな重要な情報を騎士団に伝えるとは言っていなかった。そんな魔法をかけられてしまえば帝王は決して彼らの居場所を見つけ出せなくなってしまう。

 動揺を隠そうとさり気なく彼から目を逸らしながら、は口を開いた。

「…それで私にどうしろと」

 ダンブルドアがあまり間を置かずに答える。

「…ジェームズはセブルスへの不信感を拭いきれておらん。学生時代にいざこざがあったからのう。じゃから彼はセブルスの持ち帰った情報を鵜呑みにして自分たちだけ安全な方法で守られるわけにはいかんと言って聞かんのじゃ。そこで」

 半月眼鏡の上からダンブルドアの青い瞳が彼女を真っ直ぐに見据えた。

「君からジェームズを説得して欲しい。君がヴォルデモートの下についておったという事実は決して消えはせんが、君たちの友情は今でも変わらんものだと信じておる。君はジェームズともセブルスとも信頼し合っておる、彼らのパイプ役には最適だと思うのじゃ」

 どくんと心臓が奇妙な速さで打った。慌てて胸元を押さえ、2,3度首を振る。

「ダンブルドア先生、残念ですがそれは無理です。もう彼は私を信用していませんから。先生の言うことを聞かない彼が私の言うことを聞き入れるとは到底思えません」

「それは、君が頑なに彼らを拒否し続けておるからじゃろう」

 あっさりとしたそのダンブルドアの言葉に、全身に震えが走った。俯き、額にそっと手を押し当てる。

「あやつの下についておったという罪の意識からか、君は自分の意に反して彼らと距離を置くことを決めたようじゃが。君たちは7年という月日を共に過ごした大切な仲間じゃろう。君が重傷を負った時にも彼らがどれほど心から君を案じておったか、わしは今でもはっきりと覚えておる。君さえ歩み寄れば、彼らには十分に君を受け入れる準備がある。わしに全てを打ち明けてくれた時のように、もう少し勇気を持ってみてはどうかね。今度は君が彼らを救うのじゃ」

 言いようのない怒りが迸った。何もかも全て、あなたのせいで滅茶苦茶になったのに     

 瞳から涙が零れ落ちた時には、は椅子を蹴散らして立ち上がり既に目の前の老人に杖を突きつけていた。

 老人が僅かに目を見開く。しばらくの間、どちらも微塵も動かなかった。

     帝王の最大の敵は、ダンブルドア、あなたです。あなたさえいなくなれば、帝王は予言された子供のことなんて忘れてしまうかもしれない」

 その杖先を、ゆっくりと相手の左胸に向ける。

「闇に堕ちた私がジェームズたちのためにできるのは、これだけ」

 そしては、冷え切った声で呟くように言った。







「アルバス・ダンブルドア。私はあなたを      殺します」