3年前の卒業生であるとセブルスを記憶している5年生は少なくなかった。セブルスは闇の魔術に対する防衛術と魔法薬学においては右に出る者はいなかったし、は次席でありながら悪戯仕掛け人の親友として広く知られていたからだ。
「諸君も承知の通り、このクラスでは魔法薬調合の微妙な科学と厳密な芸術を学ぶ」
ひっそりとした地下牢の中で、出席を取り終えたセブルスが呟くように口を開く。生徒たちを挟んでセブルスと向かい合う形で、は教室の最も後ろに腕を組んで立っていた。
だが、とセブルスは冷ややかな声で続ける。
「モーン教授から昨年までの諸君の成績表を預かっている。せめて自覚があるものと祈りたいが 散々な、結果だ。教授の過去数十年分の試験には全て目を通したが、そこまで困難な問題はほとんど出題されておらん。このままでは来る6月に行われるOWL試験の結果など目に見えている」
生徒たちはセブルスの言葉に不快感を顕にしたが、彼がまた話し始めると教室内には不気味なまでの静寂が満ちた。
「いいかね、諸君が魔法薬調合の絶妙な世界を真に理解するとは期待しておらん。だが、我輩の授業を受講するからには最低でも合格すれすれの『A』は取ってもらう。さもなくば 我輩の不興を被るであろう」
セブルスの暗い瞳が生徒たちをさらりと見渡す。誰も口答えする者などいなかったが、生徒たちは互いに視線を交わし合い不平不満を無言で囁き合った。
「モーン教授はNEWTレベルの授業をE以上の学生に実施していたが、我輩は最も優秀なる者にしか来年以降の受講を許さん。つまり、必ずや何人かの学生はこの授業に別れを告げることになろう。だがそれまでにはまだ1年もある。臨むからには僅かでも高いOWL合格率を期待する。全員努力を傾注せよ」
セブルスがちらりとこちらに一瞥を与えたのを薄暗い室内でもきちんと読み取り、は足音を立てずに移動する。隅の薬品棚の前で歩みを止め、そっとその扉を開けた彼女の耳にセブルスのねっとりした声が聞こえてきた。
「今日はOWL試験にしばしば出てくる『安らぎの水薬』の調合を行う。だがそのように余計なことにばかり注意しているようでは何が完成するか分かったものではないな、ミスター・ブレロ。グリフィンドールは5点減点」
何事だろうと振り返ると、後ろの方に座っていた黒髪の青年が真っ赤になりながら慌てて下を向いた。
the POTIONS Masters
「お前のことばかり見ていた」
思った通りにウスノロばかりだったと愚痴をこぼすセブルスの傍らで明日の授業の準備に教科書を捲りながら、は眉を顰めた。
確かに5年生で安らぎの水薬を調合させるのは妥当だが、彼は成分と調合法を簡単に黒板に書いただけで後は勝手にやれ、だ。それで調合できるのは有能な学生だけであり、大抵は複雑な手順に失敗を起こす。はセブルスがネチネチと嫌味を言い放ち余計に混乱してしまった生徒たちにアドバイスをして回るだけで大忙しだった。因みに自分が5年生の時には、銀色にならねばならない湯気が茶褐色になった。
どうしてあそこでブレロから減点したのかと問い質すに、セブルスはさらりとそう言った。
「はあ?何て?」
「何度も言わせるな。ブレロは俺の話を聞かずにお前ばかり見ていた。だから減点した」
「何、それは嫉妬なの?嫉妬で減点するなんて権力の乱用」
「馬鹿かお前は。冗談も休み休み言え」
「ええ、そうよ、冗談よ、所詮はジョークですよ」
不貞腐れた顔で投げやりに返し、はぱらりとページを捲る。セブルスは先ほどスリザリンの監督生が持ってきた書類に適当にサインした。彼の字は汚くはないが角ばっていて読みにくい。突然襲ってきた眠気に打ち勝とうと椅子の上で背伸びをして、は彼が分厚い魔法薬の専門書を開くのを見ていた。
「セブルスって損な性格だよねぇ」
「何の話だ」
びっしりと書かれた小さな文字の上を左手の人差し指で辿りながら、セブルスは羊皮紙に何やら書き写している。
「きちんと教えれば分かりやすいのに。何で生徒にそうして教えてあげないのよ」
「お前のアドバイスであいつらには十分だろう」
「それにわざわざあんなに嫌らしいこと言わなくてもいいのに。生徒たちかなり引いてたよ。しかも絶対贔屓してるでしょう。スリザリンは減点しなかったくせに」
「だからあれはブレロが俺の話を聞いていなかったから 」
「それだけじゃないでしょう、今日一日であんたが何点グリフィンドールから減点したか覚えてるの?私がどこの出身なのか忘れてるんじゃない?」
「関係ない。俺は減点に値するものしか減点対象にしていない。お前こそ贔屓なんじゃないのか。何かにつけてグリフィンドールの連中に加点したろう」
「あんたが減点しすぎるからよ!」
が苛々と指先で机を弾いている間にも、セブルスの羽根ペンの動きは止まらない。視線の先を専門書に張りつけたまま彼は静かに言った。
「 お前はいつまでもこの城に残るつもりなのか」
ぴたりと動きを止め、僅かに目を見開く。どきりと心臓が揺れた。セブルスは淡々と羊皮紙の表面を文字で埋めていく。
「この城に骨を埋めるつもりがないのなら一時の学生になど必要以上に関わらんことだな。それで泣いても自業自得だ。俺は知らん」
確かに、彼の言う通りかもしれない。いずれ私はダンブルドアを そうでなくとも、あと5年もすれば確実に帝王のところへ帰る。生徒に情を持てばまた別れるのが辛くなる。みんなを裏切るのが怖い。
私は、生徒たちの未来を滅茶苦茶にしてしまう。
『お前は災いをもたらす』
ああ、こういうことだったんだ。
でも、もう引き返せないから。
羊皮紙を埋め尽くし、新しい紙に手を伸ばしたセブルスが素っ気無く言う。
「お前は最近弛んでいるぞ。お前が選んだのは本来のお前にとって困難な道だ。だから閉心術を習得したんじゃなかったのか。それがどうだ、お前はまた失いたくないものを作ろうとしている」
「そんなことは…」
ない、とは言い切れなかった。彼らと7年を過ごしたこの城で。心をすっかり閉ざしてしまうことなんて。
どこへ行っても彼らを思い出す。教室、図書館、大広間、校庭…彼らの笑顔が脳裏から離れない。
ひょっとしてダンブルドアは私の意図を知っていて、その上で私をホグワーツに雇ったのかもしれないと思うほど苦しかった。それを忘れてしまうには新しい何かに紛れさせてしまうより他にないと思った。でもそれでは結局のところ同じことの繰り返し。分かってるんだ、そんなこと。
机の上で教科書を無造作に閉じ、は物憂げに腰を上げた。
「…ちょっと散歩してくるわ」
背もたれに掛けてある薄手のコートを羽織り、何も言わないセブルスを残して研究室を出る。カツカツと高い音を鳴らしながら石の階段を上ると、ちょうど玄関ホールに下りてくる大理石の階段に差し掛かった人影を見つけては目を細めた。
相手もこちらに気付いたようで、彼は足を止め「あー…」とぎこちなく口を開く。
「こりゃ…、先生」
「こんばんは」
『お前はまた失いたくないものを作ろうとしている』
耳の奥で響く声に、胸中で悪態をつく。そんなことは、ない。
彼はその階段を一段一段踏み、から少し離れたところに下り立った。ほんの数年前まで、2人の間にこんな距離はなかった。10年前、辛い時に一番会いたいと思うのは彼で、そして彼はそれを喜んで受け入れてくれたはずだった。
「授業は…どうだった?お前さんの説明が分かりやすかった、と生徒は言ってたみたいだが」
「そう?ありがとう。私も元々薬学は不得手でしたからどう説明すればより理解し易いかは心得ているつもりです」
「課題の量は半端じゃねえとか」
「それは教授の判断ですから」
は感情を表に出すことなくきびきびと答える。辟易した彼は頬を2,3度指先で掻いてから、急に思いついたように声をあげた。
「そうだ、せっかくだから俺の家で一緒に茶でもどうだ?ファングもきっと喜ぶ 」
「ありがとう。でももう遅いので遠慮させていただきます。それでは」
軽く頭を下げ、くるりとハグリッドに背を向ける。玄関の樫の扉を押し開けて、はひんやりとした風の中を湖へと向かいながら少し身を縮めた。
ああ、この道も。この夜も。あの頃のまま。微かにジェームズの匂いが染み付いた透明マント。狼、鹿、鼠、そして犬。蛇はもう、その中には入ることができない。
初めからおかしかったんだ。蛇の目は冷たいものだと小さい頃は知っていたはずなのに。彼らの瞳は、優しくて温かい。でも私は。
最初から一緒にいるべき存在では、なかったんだ。
スリザリンに入っていれば、こんな思いをせずに済んだろうに。こうして涙を流すことも、目的のために愛する人を手放すことも。
肺に思い切り吸い込んだ夜風が彼女の思考を鮮明にさせた。
静かに湖面を滑る大イカの影を半月が照らす。
は空にかざした両の手のひらをぼんやりと見上げた。
私は誰も直接この手にはかけていない。でもこの手が掴んだ情報で何十人もの人々を苦しめ、死なせてきた。
それももうすぐ 終わる。
あの男の息絶える姿をこの目で見届けたその後は。
そっと捲り上げた左の袖の下に軽く唇を落とし、は静かに瞼を伏せた。
目を閉じる。心を、閉ざす。それは帝王のため、セブルスのため。そして何より。
母の ために。
魔法薬学の新任教師セブルス・スネイプ教授の陰湿さは新学期初日から話題となっていて、冗談ながらも「死喰い人ではないか」と囁かれるほどだった。だがその一方で助教授の・は個人個人に行うアドバイスが適切で分かりやすく、スネイプのあからさまな贔屓に対抗してグリフィンドールに加点してくれると専らの評判で、たった1日で獅子寮生の人気を勝ち取った。
けれど9月3日以降に初めて彼らの授業を受講した生徒たちは、先日出回った助教授の噂が全くの出鱈目だと感じたことだろう。確かに彼女の説明は丁寧で、生徒たちが正確な理解を得る大いなる手助けとなるのは事実だが、スネイプの理不尽な減点・加点攻撃に対抗するどころかむしろそれを完全に黙認し、授業中も必要最低限のアドバイスしか口にしなかった。
まるで全てを否定するかのように。全てを拒むかのように。
彼女がグリフィンドールの卒業生であると知る生徒たちがみな卒業してしまうと、薬学の2人の教員は共にスリザリンであるという噂が実しやかに囁かれるようになるが、それはまだ先の話である。
「スネイプとは付き合っているらしい」
ホグワーツに就職して1月と経たないうちに、生徒たちの間にはそんな噂が広まった。2人は宿敵のはずの蛇寮生と獅子寮生。しかもはあの悪戯仕掛け人の一人、シリウス・ブラックと交際していた。スネイプと悪戯仕掛け人たちの不仲は当時を知るホグワーツ生たちなら知らない者はいない。
そんな因縁の2人が全く同時に、しかも同じ科目の教員になった。寝室も隣り合わせ。勝手な憶測を気ままに推し進めることくらいしか今の時代の子供たちに楽しみはなかった。
「ミス・マクドネル、ミス・ウッドヴィル。我輩の授業でそのようなお話はご遠慮いただきたいものですな。グリフィンドールは10点減点」
自分の色恋沙汰を口にされても顔色一つ変えないスネイプを見て、生徒たちはその噂を益々確信をもって広め合う。
木々もほとんどその葉を落とし、底冷えするような風が吹き抜ける10月も半ばのこと。