7月に入り、部屋に立ち込める熱気が額にじわりと汗を滲ませる。は軽く前髪をかき上げてダンボールの中身をチェックした。ホグワーツに移るのは8月の予定だが、先に荷物を整理して送らなければならない。セブルスはモーンの寝室をそのまま引き継ぐことになり、はその隣に新しく部屋を造ってもらった。

「同じ寝室でも良かったのにね」

「馬鹿者。それでは生徒たちに示しがつかんだろう」

「やーね。冗談よ」

 あははと軽く声をあげて笑い、ソファにだらりと横たわる。

 セブルスがその情報≠闇の帝王のもとから持ち帰ったのは、暑さにやられたがテーブルの上にばたりと落下したその夜のこと。
back to the CASTLE
「わぁ、今笑ったよ!笑うと目元が益々リリーにそっくりだね」

 ジェームズの腕の中で穏やかに笑むハリーを覗き込んで、リーマスが目を細める。キッチンで夕食の準備を進めるリリーは彼らに背を向けたまま嬉しそうに頬を緩ませた。

 ハリーが生まれてから、リリーは子育てに専念するために騎士団の任務からは完全に外れていた。その一方で死喰い人たちの暴挙は激しさを増し、ジェームズは家に戻れない夜が続くこともあった。それでも彼は最後には必ず愛する家族の許へと戻る。リーマスやシリウス、ピーターたちも任務の間を見てはよくポッター家に足を運んでいた。

「シリウスとピーターは忙しくしてるの?」

 シチューの鍋を居間に運んできたリリーがリーマスに訊ねる。彼はハリーの頬を軽く撫でながら振り向いた。

「うん、しばらくは来られそうにないかな。僕ももうすぐ行かないと」

「ムーニー、夕食くらい一緒に食べられるだろう?」

 ソファから立ち上がりかけたリーマスにジェームズが呼びかける。リーマスは小さく首を振った。

「いや、そうもいかないんだ。ダンブルドアに呼ばれていてね」

「リーマス、じゃあ一口くらい食べていって?まだ味見をしていないんだけど」

「つまり僕に毒見をさせようと?」

「あら、随分と失礼なことを言うのね」

 唇を尖らせるリリーに、「冗談だよ」とリーマスは笑う。ジェームズはハリーを抱いたままソファからテーブルへと移動した。

 鍋に直接スプーンを突っ込んだリーマスが湯気のあがるシチューを口に運ぶ。

「うーん、少しだけ薄いかもね。でも美味しいよ、ありがとう」

「薄い?おかしいわね、前と同じくらいにしたつもりなんだけど…」

 リリーは眉を顰めて自分もまた少し鍋からシチューを飲んだ。余計に口元を歪める彼女を笑顔で一瞥してからリーマスが口を開く。

「それじゃあ僕はこれで失礼するよ。プロングス、次の会合は3日後だからね」

「ああ、分かってるよ」

 傍らのベビーチェアにハリーを乗せて、ジェームズは鍋からシチューを小皿に取り分けた。部屋の扉に手を掛けたリーマスが、あ、と声をあげて振り返る。

「そうだ、ジェームズ…彼≠ゥらの話を聞いただろう?例の件、本気で考えた方がいいと思うんだ」

 彼の言葉に、ジェームズの笑顔がピクリと固まる。ジェームズは慌てて2,3度頭を振ると、乾いた笑いを漏らしながら軽い調子で言った。

「大丈夫さ、本当に心配性だな、ムーニーは」

「ジェームズ、僕は本気で心配しているんだよ」

 僅かに声を荒げ、リーマスが眉根を寄せる。その会話の意味が分からないリリーは二人の顔を交互に見比べながら首を傾げた。

「何?一体何の話?」

 すると目をパチクリさせたリーマスが、驚愕の声をあげる。

「ジェームズ、まさか君は…リリーに何も話していないのか?」

 気まずそうに目を伏せたジェームズは、ハリーを抱き上げてその黒髪を梳きながら微笑むだけだ。部屋を出かかっていたリーマスは大股でジェームズのもとへ歩み寄り言葉を続けた。

「道理でおかしいと思った…これは君だけの問題じゃない、君たち家族全員の問題なんだよ!それなのに一人で抱え込むなんて…」

 突然のリーマスの大声に驚いたハリーがジェームズの腕の中で泣き始める。必死にあやそうと身体を揺らすジェームズからハリーを取り上げて、リリーは厳しい口調で言った。

「ジェームズ、どういうことなの?私たちに何か大切なことを隠してるの?」

「いや、リリー、それは…」

「どうなのよ!何かあるならはっきり言って!」

 ハリーの泣き声が益々大きくなる。リリーは慌ててハリーの額に唇を落としながらもその緑色の瞳は真っ直ぐにジェームズを見つめていた。

 ジェームズは口ごもり、リーマスが静かに口を開く。

「…リリー、先にハリーを寝かしつけてきてくれないかな。帰る前にジェームズと二人で話したいんだ」

 リリーはまだ鋭い視線でジェームズを睨み付けていたが、やがて小さく頷いて寝室へと上がっていった。立ち尽くすジェームズに、唸るように告げる。

「…どういうことなんだ、ジェームズ。彼女に余計な不安を与えたくないって気持ちは分かる。でもそれ以上に君たちは今とても危険な状態にあるんだよ」

「それは…僕たちに限ったことじゃ」

「そうじゃない、君だって分かってるだろう?ハリーはヴォルデモートに狙われているんだ、君たちは身を隠す必要がある…今よりもっと、ずっと安全な方法で!」

     君はスネイプの言うことを真に受けるっていうのか?」

 苛々した様子でジェームズが顔を上げた。小さく息をつき、続ける。

「…ジェームズ、彼はヴォルデモートの下から直接情報を仕入れてくるんだ、彼の言葉ほど確かなものはないだろう」

「じゃあ君は何の疑いもなくあいつの言葉を信じるっていうのか!あいつが騎士団に忠誠を誓ってるなんて保証はどこにもない!」

 ジェームズの拳がテーブルを擦る。そのハシバミ色の瞳が憤りに揺れていた。それでも。リーマスはあくまで静かに口を開く。

「ダンブルドアが彼を信用している。だから僕も彼を信じる。もちろん      彼女≠フこともだ」

 ジェームズはハッとして目を見開いた。だがすぐさま目を細め、また拳でテーブルを殴りつける。

「彼女は僕たちを裏切った、ダンブルドアを裏切った      いくらダンブルドアがあの二人を信じようと、僕は絶対に彼女を許さない」

「そのこと自体を非難するつもりはないよ。確かに彼女は僕たちにひどい仕打ちをした。でもそれとこれとは話が違う。僕はあの二人が騎士団に忠誠を誓っていると信じている。だから君たちにもっと確実な方法で身を隠してもらいたい。これはダンブルドアも望んでいることだ」

 そっとそう言ったリーマスは、軽くジェームズの拳に触れた。震える彼の手をすぐに離し、くるりと踵を返す。

 扉の前でまた足を止めてから、リーマスは囁くように言った。

「僕だって、簡単に彼女を許すことなんてできない。一生できないかもしれない。でも」

 会合に顔を見せる彼女の表情が、脳裏を掠めた。

「忘れちゃいけないことがある。彼女が抱えてきたものはきっと僕たちには一生理解できないくらいに重いものだ。こんな時代に生まれてしまった彼女にとって、それは本当に辛いものだと思う。かつて親友だった僕らは、彼女の行いを許すことができないとしても、そのことを忘れてしまってはいけないと思うんだ」

 ジェームズが口を開くまでは、随分と時間がかかった。けれどリーマスはドアノブに手をかけたままそれを待った。

 やがて、ポツリとジェームズの声が聞こえてくる。

「…彼女は、僕らを親友だなんて思ってくれて、ない…」

「それなら」

 リーマスは物憂げに扉を押し開けた。

     どうして今の彼女は、あんなに哀しそうな目をしてるんだろうね」

 踏み出した廊下で、ほんの一瞬だけ動きを止める。瞼を伏せて、リーマスは後ろ手にドアを閉めた。廊下の先は薄暗い。ただ窓ガラスから差し込む月明かりが薄っすらと彼の影を作っている。

 僕の秘密を解き放ってくれたのは彼女だ。共有してくれたのは彼女だ。僕を満月の孤独から救ってくれたのは彼女だ。

 彼女の言葉を許すことはできない。でも僕たちは。少なくとも僕は。

 軽く頭を振り古い残像を打ち消してから、ようやくリーマスは玄関に向けて歩き出した。







 闇の帝王が興味を示しているのは、ハリー・ポッターだという。言いようのない不快感が喉の奥で燻っているのが分かる。

「…でも、彼は…混血よ?帝王なら純血のロングボトムに目をつけるんじゃないかって思ってた」

 8月も残すところあと数日。今夜でしばらくこの隠れ家ともお別れだ。こんな廃屋でも私たちにとっては日々の中で寛げる唯一の家だった。もしもホグワーツ生活の中であの男の息の根を止めることができたら、もう二度と戻ってはこられないだろう。

「俺もそう思っていた。だが、決めるのは俺たちじゃない」

 素っ気無く言ったセブルスがマグカップを二つ持ってソファにどさりと腰を下ろす。ありがとう、とそのうちの一つを受け取ってはよく冷えた甘いカフェオレを口に含んだ。

「帝王は今ポッターの居所を探している。俺たちの働きで唯一不満を持っているとすれば奴らの居場所を把握できていないということだ」

「…それは、仕方ないわ」

 自分自身にでも言い聞かせるかのように、ぽつりと呟く。帝王に狙われる可能性のあるポッター家とロングボトム家の所在は騎士団内でも明らかにされていない。知っているのは恐らく彼らによっぽど近しい人間とダンブルドアくらいだろう。自分たちがそれを訊ねれば怪しすぎる。

「お前が近付けば奴らは居場所を吐くだろうにと帝王は訝っておられた」

 はぎくりと身を強張らせた。そうだ、帝王は学生時代に私がジェームズたちと親しかったことを知っている。でも。

「でも…彼らはもう私を信用していないわ」

「ああ、俺からも帝王にそう伝えておいた。心配するな」

 ありがとう、とは言えなかった。自分が彼らにしてきたこと、彼らがもう自分を友人だと思っていないだろうことが深々と胸を突き刺す。そして私はこれから。彼らから大切な命を奪おうとしている。

 うまく身を隠して、ジェームズ。一生帝王の目に触れないような遠いところへ。でもそれを彼らに忠告するなんてできない。私は      死喰い人だから。

 セブルスの手が、そっと彼女の肩を抱き寄せる。

 泣いてはいられない。新しい生活が、始まる。

「新学期おめでとう!みんなにお知らせがある。今年は嬉しいことに新任の先生を3人もお迎えすることとなった。まず、グレンフェル先生じゃ。有り難いことに空席の闇の魔術に対する防衛術を担当して下さることになった」

 大広間からパラパラと気のない拍手が起こった。もまた適当に手のひらを打ち合わせながら、紹介された教授を一瞥する。あの男が実際に闇の魔術と向かい合った時にきちんと対応できるようには見えない。まあ、どうでもいいことだが。アバダケダブラと杖を向けられて生き残ることのできる人間など所詮は存在しないのだから。こんな科目は無意味だ。

「そして魔法薬学のモーン先生は残念ながら前年度末をもって退職なさることになった。元気なうちに余生を大いに楽しみたいということじゃ。そこで新しく2名の先生を迎えることとなった。上級生は覚えておる者も多いじゃろうと思う。魔法薬学を担当する教授のスネイプ先生と、彼の補助を行う助教授の先生じゃ。モーン先生の退職に伴い、スリザリンの寮監も卒業生のスネイプ先生が務めて下さることになった」

 教職員テーブルの隅の方に腰掛けた2人を、大広間中の目という目が見つめた。ダンブルドアは朗らかに続ける。

「2人は卒業してからまだ間もないが、モーン先生が安心して後を任せられたほど優秀な先生方じゃ。年もみんなに近いことから良き相談相手にもなってくれよう。さあみんな、元気に遊び回るのも大事じゃが、気持ちも新たに今年も勉学に励むように!」

 陽気にダンブルドアが手を打つと、突然テーブルに豪華な料理が現れた。ああ、こんな贅沢も3年ぶりか。昔は宴会の食事を口に運ぶだけで幸せな気分になれたというのに。セブルスも物憂げな顔でフォークを動かしていた。

 新しい生活が、始まる。

 この空しさは、一体どこからやって来るのだろう。

「あの…先生」

 宴会も終わり、セブルスと共に大広間を出たは赤と金のネクタイを締めた一人の少女に呼び止められた。足を止め、小さく笑みを浮かべてみせる。

「ああ、クロイツね…久し振り」

「お久し振りです…」

 かつての後輩は瞼を伏せ、言いにくそうに口をもごもごと動かした。

「先に戻る」

「ああ、ええ…じゃあまた後で」

 セブルスは短く言い残し、黒マントを翻して玄関ホールを横切っていく。既に生徒たちはそれぞれの寮に戻っており、辺りはひっそりと静まり返っていた。

 少女はが最後に見た時に比べれば随分と女性らしくなっていたが、心なしかその顔色は暗い。彼女もまた時代の犠牲者なのだろうと何とはなしに思った。

「それで、私に何か用かしら」

「…あの、実は…噂を、聞いたんです。先輩が…いえ、先生が…死喰い人だ…って」

 は眉一つ動かさなかったが、心の中で訝った。ダンブルドアの計らいであの評議会のことは魔法省のごく一部内にとどめられているはずなのに。クロイツの身内が魔法省の役人ということか。もしもそうだとすれば否定する方が不信を買う。

「根拠のない噂なら鵜呑みにすること自体危険よ?特にこんな時代だとね。下手な噂一つで命を落としかねない。それでもしも私が死喰い人だとしたらどうするの?あなたの身にも危険が及ぶかもしれない」

 少女の表情が強張る。は彼女の頬をそっと撫でながら、目を細めて微かに笑んだ。

「私が死喰い人だったらそんな危険な人間をダンブルドアが雇うはずがないでしょう?変なことを気にしていないで明日の予習でもしなさい」

 少女はやっと困ったように笑い、軽く頭を下げて大理石の階段を駆け上がっていった。その後ろ姿に、かつての親友の姿が重なる。

 この城には彼らとの思い出があまりに多すぎる。ああ、どれだけ耐えられるか。目を伏せて、思う。

 地下の研究室に戻ると、セブルスは荷物の整理を進めているところだった。

「そんなもの、明日でいいでしょう」

「だからお前はだらしがないんだ。明日からは仕事でまたバタバタすることになるだろう」

「週末にまとめて片付ければいいじゃない。あなたは真面目すぎるのよ」

 呆れたように息をつき、隅のソファにどさりと腰を落とす。研究室は去年までとあまり雰囲気が変わらず、やはり殺伐としたものがあった。これが魔法薬学教授の性とも言えるのかもしれない。

「お前は明日の予習でもしていろ。いいか、俺の足だけは引っ張るなよ」

「そんなことしないわよ!ひどい、私だって優秀な先生方≠フうちに入ってるはずだけど?」

「いいか、お前はあくまでいつでもダンブルドアの目が届くように≠ニホグワーツに呼ばれたんだ。勘違いするな」

「言ってくれるじゃないの。あんたが文句一つ言えないくらいにしっかりと補助≠ウせていただきますよ、教授」

「それでは、お手並み拝見といきますか、助教授」

 鼻で笑い、セブルスが口角を上げる。は取り上げた教科書の側面で軽く彼の頬を叩いてから舌を出した。

 人生初の授業は、グリフィンドールとスリザリンの5年生の合同授業。