「…今、何て仰いましたか?」

 目の前にゆったりと腰掛けた男の口から紡ぎだされた言葉がとても信じられず、確認のために訊き返す。驚いたのはセブルスも同じようで、彼は僅かに目を見開いたまま呆然と男の顔を見つめていた。

 男はゆっくりと、先ほどの言葉を繰り返す。

「君たちもよく知っておろう、ホグワーツで長年教鞭を執ってこられた魔法薬学のモーン先生が少し前から退職を希望しておってのう。じゃが後任の教員が見つからず彼には無理を言ってきた。そこで君たちにモーン先生の後を任せたいのじゃ。先生も君たちなら安心して退職できると喜んでおられる」

「ちょ…待って下さい!」

 クリスマスを数日後に控えたホグズミードも暗黒時代≠フ全盛期といえば賑わうはずもない。客足も遠退いた三本の箒に呼び出されたとセブルスは、2階の一室でダンブルドアから告げられた依頼に度肝を抜かれた。

「いきなりどうして私たちにそんなことを?私たちは卒業してからまだ2年しか経ってないんですよ、教壇に立てる自信も技術も…どうして私たちなんですか!」

 急にホグワーツの教師になってくれだなんて。そんなことは全く想定していなかった。苛立ちと戸惑いを隠しきれない。セブルスは眉根を寄せて口を閉ざしている。

 ダンブルドアはあくまで静かに言った。

「わしの人脈の中では君たちが最も適任じゃと思う。特にセブルスはモーン先生も学生時代から非常に高く評価しておった。君とセブルスならば互いに高め合い、たとえ経験はなくとも教師としての役をしっかりこなしてくれるものと信じておるがのう」

 そんな勝手な。顔を顰めるの傍らで、セブルスがやっと口を開いた。

「それに      ホグワーツに在籍し、あなたの側にいさせた方が…帝王もに手を出しにくくなる。そういうことですね」

 目を見開いてセブルスを凝視し、それから正面のダンブルドアに視線を移す。彼は肯定こそしなかったが、首を横に振ることもしなかった。

「…騎士団の中には、まだ君たちに不信感を抱いている者が少なくはない。もちろん君たちの活動は我々にとって大いに役立っておる。そこで君たちをホグワーツの教師として採用することで、わしが君たちに全幅の信頼を置いているということを彼らに示したいのじゃ」

 はしばらくテーブルの上で握り締めた拳を睨み付け、それからちらりとセブルスを一瞥した。セブルスは眉間にしわを寄せてジッと何かを考え込んでいるようだったが、やがてダンブルドアを見つめたまま、こう言った。

「分かりました。ですが一つ      お願いがあります」
another UNFORESEEN task
「あんなにあっさりと引き受けるなんて!」

 叩きつけた拳は、ばん、と大きくテーブルを軋ませた。

「何考えてるのよ!ホグワーツの教師?そんなものになれば帝王のために動ける時間なんてよっぽど制限されるじゃないの!本当にダンブルドアの犬にでもなったみたいに…これじゃあ今度は死喰い人たちに疑われるわ!」

「何を怒っている」

 炊事場で野菜を炒めながら、振り返りもせずにセブルスが言う。

「お前が目くじらを立てるようなことじゃない。これはむしろチャンスだ。俺たちをホグワーツに雇ってまでダンブルドアが俺たちを信頼していると内外に示せば、俺たちを疑っている輩は今までよりずっと俺たちのことに口を挟みにくくなる。これからは騎士団だけでなくホグワーツ内部、ダンブルドア自身の情報も掴みやすくなるだろう。お前があの男を始末できる機会も確実に増える」

「その分もちろん危険も伴うってわけね。敵の真っ只中に放り込まれて。私はいつだってダンブルドアの監視下。有り難いことにね」

 皮肉に口元を歪ませ、鼻で笑う。セブルスに悪態をつきたいことなんて滅多にないのに。今日ばかりは別だった。ダンブルドアの穏やかな笑みが脳裏を過ぎる。胃の辺りがむかむかした。

 セブルスの答えは平淡で波がない。

「これこそお前が待ち望んできた絶好のチャンスだ。違うのか」

 はソファの上で膝を抱え、唇を引き結んだ。

「…でもいくらなんでもホグワーツの教師なんて。子供たちに勉強教える自信なんて、あるわけ?」

「ない。ガキは嫌いだ」

「そうだろうと思ったわよ。あー、でもセブルスなら大丈夫か。確かあなた、教え方は上手だったわよね」

「俺のお陰でOが取れた。そうだろう?」

「否定できないのが悔しいわね」

 彼と言葉を交わすうちに、次第に怒りも収まってきた。ああ、乗りかかった船だ。セブルスの言う通り、潔くダンブルドアの下に入って機会を待つ方がきっと賢明だ。

「でもモーン先生がずっと退職したがってたなんて知らなかったわ。私たちに彼の後任が務まるかしら」

「やらねばなるまい」

「あ、でも待って。モーン先生が辞めるってことは     

 セブルスの背中を見つめながら、ハッとして声をあげる。そうしている間も、火にかけた鍋の中をスプーンで掻き混ぜる彼の手は止まらない。

     まさかあなたが、スリザリンの寮監に?」

「ああ、お前が席を外している時に話があった。俺がスリザリンの寮監を務める」

 は隠しもせずに小さく吹き出した。喉の奥でくつくつと笑う彼女に、ようやく振り向いたセブルスが眉根を寄せる。

「何かおかしいか」

「おかしいわ。ああ、私たち、ほんの数年前まで学生だったのに」

 笑っているうちに、涙が頬を伝って落ちた。ほんの数年前まで。私は大切な仲間たちと一緒に。笑いながら生きていたはずなのに。

 自分が何者であったとしても、シリウスといられればそれでいいと。

 どこでどう歯車が狂ってしまったのか。だが今更そんなことを考えたところで何がどう変わるものではない。

 セブルスが再びこちらに背を向けてから、は急いで目尻を拭った。







 その年のクリスマスも祝い事らしいことは何もせずに過ぎ、とセブルスは来年度から始まるホグワーツでの教員生活の準備に追われていた。

 は騎士団の会合には変わらず出席するようにしていたが、ダンブルドアの計らいで任務の回数は大幅に減らしてもらった。セブルスもまた同様に新学期の準備に専念していたが、帝王は彼の言う通り二人がホグワーツに雇われたと聞くと大いに喜んだらしい。

「…ベラトリクスなんかは、怒ってたでしょう?」

「知らん。彼女には会っていない」

 とセブルスが騎士団に潜入すると聞いた時もベラトリクスはひどく憤慨していたようだった。まあ、彼女がどう思おうと私には何の関係もないが。

 引継ぎも兼ねて、二人は頻繁にホグワーツに足を運ぶようになった。何しろ卒業したのがほんの2年前のことなので、在学当時に彼らが世話になった教員は多い。たちが死喰い人だったという事実を知る者は少なかったが、それでも二人を見る教師たちの目はどこか冷ややかなものがあった。

 何を、誰を信じればいいのか分からない。それが今の世の中だ。そんな時代にダンブルドアという人物は、どこまで愚かな男なのか。

「これが今年度のカリキュラムだ。来年も参考にするといい」

 魔法薬学の研究室は数年前と変わらず石造りの地下にあり、今まさにとセブルスはそこにいた。在学当時から教授の研究室は整然としていたが、既に退く準備を始めたその部屋は荷物が減ったせいで余計にひっそりとしている。

 モーンはデスクから取り出した羊皮紙の束をに手渡した。

「ありがとうございます。助かります」

「それにしても驚いた。まさか君と…スネイプが一緒に戻ってくるとは」

 かつての教え子を見比べながら、モーンが僅かに目を細める。は小さく笑って羊皮紙にサッと目を通した。

 一つの科目に二人の教員を採用するのは異例だ。は若く教師としての経験を持たないセブルスの補助として助教授≠ニいう地位に就くことが決まった。

 スリザリンのセブルス・スネイプと、グリフィンドールの。この二人が共にホグワーツに戻ってくると、ほんの2年前に誰が想像しただろう。母のことを知っていたと思われるモーンは複雑な表情でを見たが、彼女は何も語らず、そして教授もまた何も訊いてはこなかった。

、私はこれからスネイプに寮監の仕事の話をしたいのだが…君はどうする?聞かれたところで別段困る話ではないが」

「ああ…それでは私は、倉庫の薬品のチェックをしてきます。どうぞごゆっくり」

 ちらりとセブルスに目配せしてから、は教授に一礼して研究室を後にした。真夏でもひんやりと冷気のこもる地下は恐らくホグワーツの中では薬品の管理に最も適した場所であり、薬学に関するものはそのほとんどが石造りの部屋に保管されている。

 薬品の倉庫も同じく地下に造られていたが、誤って生徒が立ち入ったりすれば問題なので教室や研究室からは程遠い。も在学中はこの廊下を通ったことすらなかった。

 モーンから預かったキーを扉の鍵穴に差し込み、それからさらに杖でドアノブを3回叩く。軽く弾むような音がすると、するりと鍵が抜け落ちて扉は独りでに開いた。

 ただでさえ涼しい地下の廊下で、部屋の中から流れ出てきた冷気がぞくりとを震わせる。何度か身体を擦りながら彼女はゆっくりと倉庫へと足を踏み入れた。

 人が行き来できる幅はごくごく狭いが部屋の側面に置かれた棚は背が高く、大小様々なガラス瓶がびっしりと詰まっている。全ての薬品の名称とその位置を覚えるだけでも1ヶ月はかかるに違いない。

 うんざりと肩をすくめながら、持ってきた教科書をパラパラと捲る。差し迫って必要なものを見繕ってそれから覚えよう。は奥の壁に凭れ掛かっていた梯子を呼び寄せ、そこに軽く腰掛けて次は丁寧にページを繰った。こんなものを全て間違いなく記憶しているとすれば、私はモーンを世界で一番尊敬する。

 いつまで経っても進まない作業にとうとう梯子の上でうつらうつらしていると、倉庫の扉が外から無遠慮に開いた。驚いた拍子に思い切り床に転落する。眉根を寄せたセブルスは呆れ顔で呻いた。

「何をしている」

「…退屈ね、うんともすんとも言わない薬品相手に何十分も向き合うのは」

「これから魔法薬学の教員になろうという者が何を戯けたことを言っている」

「調合はいいのよ。だってうまくいっても失敗してもきちんと応えてくれるもの。無反応であるこの状態がつまらないの」

「保管している間にあちこちで反応が起こっている薬など使い物にならん」

「だから退屈だと言っているのよ」

 一字一句をはっきりと口に出して、は物憂げに立ち上がった。梯子を片付け、セブルスに向き直る。

「仕事の話は終わったの?寮監」

「ああ、一先ず終わった。教授はこれから授業があるので研究室は自由に使って良いと。簡単にカリキュラムを組めば後で教授が目を通してくださるそうだ」

「そう。じゃあ研究室に戻ればいいわけね?」

 ああ、と頷いてセブルスがマントを翻す。まさかあの格好でホグワーツ生活を送るつもりなんだろうか。確かに黒いマントは彼のトレードマークのようなものだが、第三者の視点から見るとどうなんだろう。怪しくはないだろうか。

 倉庫の鍵をかけなおし、セブルスの後に続く。彼の言うように研究室は空っぽで、とセブルスは隅の小さなソファに腰を下ろした。

 教授に渡された羊皮紙を覗きながら、大まかに来年の予定を練る。モーンの協力を得て、とセブルスはその日のうちに次の5年生と7年生の授業内容と進度をまとめ上げた。

「君たちが在学中もその傾向はあったんだが、この1,2年、学生たちの成績は低下の一途を辿っている。いくらダンブルドアがいるとはいえ、こんな時代だ…勉強どころではないという生徒も多い。このような状態で押し付けるのは責任転嫁のようで悪いが、君たちを信用してのことだ。私の後のことはよろしく頼んだ」

 この5年のOWLとNEWTの平均点をグラフ化したものを示しながら、教授が苦笑いする。は大きく息をつき、セブルスもまた眉根を寄せて肩をすくめた。確かにここ数年の成績は右肩下がりだ。これをどうにかしろと言うのか。帝王が60歳を迎えるまでのその場凌ぎの仕事だと割り切ってはいるが、先が思いやられる。

 城を出た時には既に日は落ちていて、とセブルスは杖先に明かりを点しながら敷地の外へとゆっくりと歩いた。このイギリスは私たち死喰い人のせいで至るところが変わった。でもここは、この城だけは      何も、変わっていない。

 その傍らを静かに通り過ぎる時、明かりのついたハグリッドの小屋の中から突然何かが飛び出してきて二人の行く手を阻んだ。そしてそれは勢いよくを地面に押し倒す。

「ファング!ちょ…こら、重い、ちょっと退い…」

「どうした、ファング?」

 どたどたと木の床を踏み鳴らす音がして、小屋から巨大な男が顔を出した。中の明かりに照らされて、ハグリッドの表情が顕になる。

 彼はとセブルスに気付くと、気まずそうな顔をしてもごもごと言った。

「ああ、こりゃ…こんな時間まで、仕事で?」

「え、ええ…モーン教授に色々とご指導を」

 も敢えてハグリッドから目を逸らしながら短く答えた。彼とは騎士団の会合で時々顔を合わせるが二人は他の団員との必要以上の接触を避けていて、も卒業以来ハグリッドと言葉を交わしたことはなかった。こうしてファングに会うのも2年ぶりだ。

 はファングを自分の上から退かせながらやっと身を起こした。

「それじゃあ、私たちはこれで…また」

 ポンポンと軽くファングの頭を叩いてから、ぎこちない笑みを返してセブルスとその場を去る。ファングが名残惜しそうに一度遠吠えしたが、は振り返らずに足早にホグワーツの敷地の外に出た。それからすぐに姿くらましして隠れ家へと戻る。そうだ、この家で一年を過ごすのも取り敢えずは今年で終わりか。

 ソファの背もたれに虚ろな目で凭れ掛かるの頬に、セブルスがそっと指先を滑らせた。

「顔色が悪い」

「そう?いつもでしょうよ」

「いつものお前は顔色ではなく血色が悪い」

「うわ、それあんたにだけは言われたくない!」

「冗談だ」

 あっさりと言い放ち、身を起こしたセブルスがテーブルの上の新聞を取り上げる。日刊予言者新聞の一面は連日死喰い人の事件ばかりだ。その概要を見ただけで誰の仕業かがすぐに分かるものもあり、は記事を見るのも止めてしまった。

 時々分からなくなる。自分が本当はどちらに忠誠を誓っているのか。

 母の敵を討ちたい。でもダンブルドアのことさえなければ、私は平穏な日常を送りたいと思っているのに。死喰い人が蔓延るこの世界には、全てのマグルが消え去るまで安息の地など有り得ない。

「明日、帝王のところへ行ってくる」

     そう」

 瞼を伏せ、いつものようにセブルスの肩に頭を載せる。大切だと思える人はこの世にたくさんいるのに、私はその全てを自分で打ち壊すような道を選んでしまったんだ。

「…気を付けてね」

 彼女のその何気ない言葉にセブルスはすぐさま眉を顰めたが、当の本人は全く気付かないまま静かに息をついた。







 ハリー・ポッター、そしてネビル・ロングボトムがじきに1歳の誕生日を迎える。

 その日≠ヘきっと      そう遠くは、ない。