「どういうことなの!!」
美しい黒髪を振り乱し、女が目の前の男に向けて唾を散らす。男は小さく息を漏らし、幼い子供でもあやすように軽い調子で告げた。
「闇の帝王自身のご決定だ。セブルスは帝王から直接閉心術を教わった…密偵としてはこれ以上ないほどの適役だと思うが」
「じゃああの女は!?あの女まで行く必要はないでしょう!」
「帝王がお許しになった」
うんざりした様子で、男が言葉を続ける。
「それにが自分の手元にあると思えばダンブルドアも気を抜くことだろう。どちらにしてもあの期限≠ワではまだ5年以上あるのだ、それならばにも密偵として動いてもらう方が効率が良い」
「でもそんなことをして、もしもあの女が私たちのところに戻ってこなかったら…!」
「心配するな。セブルスがついている」
チッと舌打ちして、女が苛々と前髪をかき上げる。男はフードを深く被り直すと、その下からちらりと見えるブロンドを軽く振って姿くらましした。女はもう一度舌を鳴らし、男の後を追うようにして一瞬でその場から姿を消した。
DOUBLE AGENT mission
外部からの調査では限界があるという現実と、闇の帝王を打ち破る力を持った者が来たる7月末に生まれるという予言の報告を受けて、闇の帝王は一つの大きな決断を下した。
「セブルス、お前に騎士団への潜入調査を頼みたい」
大きく反応を示したのはむしろ周りの死喰い人たちで、、そして当の本人であるセブルスは静かに帝王の言葉を聞いていた。
「お前は閉心術にも長じている…ダンブルドアの目を欺くことも可能だろう。密偵として騎士団に潜り込んで欲しい」
「準備は整っています」
セブルスの答えに、闇の帝王は満足げに目を細める。低くざわめく死喰い人たちの中で、は顔を上げて真っ直ぐに帝王の紅い瞳を見据えた。
「 The Dark Lord... 一つ、お願いがあります」
「…何だ、」
背もたれにゆったりと身体を預けたまま、帝王の目がニヤリと笑う。
「私も セブルスと一緒に、行かせて下さい」
「お前もか?」
そうは言いながらも帝王は彼女の頼みを予測していたようで、彼はさして驚いた様子もなくただ愉快そうにくつくつと喉の奥で笑った。
「私もセブルスと共にあなた様から閉心術を学びました。ダンブルドアを欺く自信はあります。私もセブルスと一緒に帝王のお力になりたいのです」
がはっきりとそう告げると、死喰い人の一人がおずおずと口を開く。
「ですが、The Dark Lord... をここでダンブルドアのもとへ行かせるのは…あの期限≠ェ近付けばの周囲の警護は確実に厳しくなるでしょう…そうなればがこちらに戻ってくるのも難しくなります…」
「…ウィルクス…を誰の孫だと思っている」
帝王が低い声音で口を開くと、ウィルクスは小さく声をあげて「申し訳ありません」と引き下がった。闇の帝王がとの関係を口にするのは珍しい。もまた、帝王を主人だと思うことはあっても祖父だと感じることはほとんどなかった。
ニヤリと笑いながら、帝王が言葉を続ける。
「…、お前が望むのならば好きにするがいい…お前が本気を出せばダンブルドアの下から逃げ出すことくらい容易だろう」
「 ありがとうございます…」
セブルスの傍らで軽く一礼し、はまた顔を上げて帝王の瞳を見た。
「それからもう一つ。お許しいただきたいことがあります」
「言ってみろ」
そっと瞼を伏せ、深く息を吐き、そして目を開ける。
「 機会さえあれば…私のこの手でダンブルドアを殺すことをお許しいただけませんか」
目を見開いたセブルスがパッとこちらを向く。周囲の死喰い人たちもハッと息を呑んだ。
闇の帝王は目を細め、を見つめたまま黙する。
どれほどの時間が経過したのか、ようやく帝王は口元に当てた手をそっと肘掛けに載せ、僅かに身を乗り出して口を開いた。
「自らの手であの男の息の根を止めたいと?」
「…はい。可能ならば」
「無理です!帝王でさえ危険な目に遭ったというのに、万が一失敗してがアズカバンにでも放り込まれることになればどうするのですか!せっかく帝王がダンブルドアを凌ぐ力を手に入れることができるというのに、もしもそんなことにでもなれば…」
「ロドルファス、お前は一つ大切なことを忘れている」
声を荒げたロドルファスに、帝王が静かに告げる。
「の記憶を覗いたことがある…ダンブルドアはを信用している。俺様とは違ってな。俺様が近付くよりもむしろの方があの男を油断させられる可能性は十分にある…」
「 お言葉ですが、騎士団側はが死喰い人になったことを知っているでしょう。それでもを信じていると?」
「お前はあの男を知らんようだな…ダンブルドアは人を信用せずにはおれん愚かな男だ…俺様だけは例外だったようだが。それに、は自分が死なせた教え子の娘だ…奴はには殊に甘い、それは間違いない。大方が俺様の下についたのも自分のせいだと痛感しているはずだ…」
闇の帝王はロドルファスからに視線を戻し、満足そうに笑みながら言った。
「、お前の好きにするといい」
口元を僅かに綻ばせるに、帝王は「但し、」と言葉を続ける。
「但し、失敗してお前が捕まるくらいなら何もするな。それでは元も子もない。成功か、死か…それほどの覚悟で臨め。セブルス、が無理をしないように常に目を光らせておけ」
「…畏まりました」
厄介な荷物だと言わんばかりのセブルスの返答に、は軽く眉根を寄せ、帝王は愉快そうに小さく笑った。
さて、と椅子から身を乗り出して闇の帝王が懐から徐に杖を取り出す。
「、そうと決まればお前には施しておきたい術がある…こちらへ来い」
一瞬不可解そうに眉を顰めてから、は言われた通りに帝王の前へと進み出た。左腕を出すように指示され、従順に漆黒のローブの袖を捲り、腕に刻み込まれた闇の印を顕にする。
帝王はゆっくりと彼女の腕を取り、その印の真上に杖をかざした。周囲の死喰い人たちが息を呑んでその様子を見守る。帝王が何やら短く唱えると、左腕に鋭い痛みが走ってはギュッと固く目を閉じた。
そして、そっと目を開けると。
「…これは」
周囲からも低い驚きの声があがる。死喰い人の印が 消えている。
「消えたわけではない。さらに上から膜を被せた。俺様がこの印に触れれば今までと変わらず焼け付くし、死喰い人の誰かが触ればうっすらと浮かび上がるようになっている」
「…でも、どうして…こんなことを」
「防衛策だ。お前だけはどうしても捕まってもらうわけにはいかん。闇の印さえなければ…魔法省もお前を死喰い人として罰することはできん。仮に捕まったとしても罪状は軽くなるはずだ。もちろん、そんなミスは許さんが」
つい先ほどまではっきりと髑髏が浮かび上がっていた皮膚を、そっと撫でる。膜を被せられたことなど全く分からないほどそれは自然な肌だった。
「…ありがとう…ございます…」
そうだ、これは私だけの問題じゃない。私が捕まれば、せっかくの帝王の計画もダメになってしまう。
絶対に 成功させなければ。
「だが、防衛策はそれだけではない」
杖先で軽く肘掛けを撫でながら、闇の帝王はニヤリと笑んだ。
「…俺様が60歳になったその瞬間、元通りに印が浮かび上がるようになっている…その時は何があっても俺様のところへ戻ってくるんだ…密偵の仕事など最早どうでもいい。俺様が無敵の力を得ることさえできれば 騎士団がどうあろうと関係ない。全て、捻り潰してやる」
ランプの明かりを受けて、帝王の紅い瞳が輝く。その光は あまりに、美しい。
「…畏まりました。あなた様が60歳になるその瞬間まで、セブルスと共に全力でその任を務めさせていただきます」
「私もです。すぐにと共にダンブルドアの下へ向かいます」
セブルスの隣まで下がり、恭しく一礼する。満足げに目を細める帝王にもう一度軽く瞼を伏せ、とセブルスは迅速に姿くらましした。
「 本当に、やれるのか…?」
マントを薄汚れたソファに脱ぎ捨てて、セブルスが疲れた顔で呟く。もフードを後ろに流しながら、小さく笑った。
「やらなきゃ。そうでしょう?」
「泣いても知らんぞ」
「泣かないわ。あなたがそう決めたから」
騎士団へ赴く。それはつまり、かつての親友たちのもとへ戻るということ。
でも私の心はすっかり閉じてしまった。あるのはただ 復讐という目的だけ。
セブルスは湿気た羊皮紙の巻紙を取り出し、脇の小さな棚から羽根ペンとインクを引っ張り出した。はその紙をすぐに熱風で乾かす。
インク瓶の蓋を開けたセブルスは、羽根ペンを右手に持って少し考え込んでから、ふと思い出したように顔を上げた。
「 お前が書くか?」
「…え」
少しだけ、心が揺らぐ。この胸を動かすものは全て、排除する。
「ええ、いいわ」
すぐに頷いて、は彼の手から羽根ペンを奪い取った。そういえばあの冬に彼からプレゼントされた羽根ペンのセットは、トランクの中に入れっ放しだ。いや、そんなことはどうだっていい。
精一杯の憎悪を、静かな文体に覆い隠す。
『Dear Mr. Dumbledore』
手紙はすぐに仕上がった。セブルスにも確認してもらい、部屋の隅でうとうととしている森ふくろうへと託す。
「、こんな時間に申し訳ないけど、これをすぐに届けてくれないかしら」
望まない差出人からの手紙を予め拒否すべく、あの日以来はを手元に置いていた。かつての主人のもとで生活できるのが余程嬉しいようで、以前はよく狩りに行っていた彼女も近頃はよくこの家で過ごしている。
眠そうにホーと鳴いただったが、大人しく手紙を脚に括らせてくれた。窓を開けてそっと外に放した途端窓ガラスに衝突した森ふくろうを見て、セブルスが「大丈夫か」と呆れ顔で呟く。
「返事はできるだけ早くお願いね。それじゃあ、気を付けて」
暗闇の中に森ふくろうが消えていくのを見送ってから、はぴしゃりとカーテンを閉めた。
とうとう、敵陣に忍び込む。ダンブルドアが二人の懺悔の手紙を帝王の言うように素直に受け止めてくれればの話だが。
「大丈夫だ。ダンブルドアならお前を信用する」
セブルスは視線を足元に貼り付けたまま、無表情にそう言った。
が返事を持って戻ってきたのは、翌朝太陽が昇りきる前のことだった。
「 罠に違いない、アルバス。お前は易々と人を信用しすぎるぞ」
「信じんことには何も始まらん。あの二人が心から自分の行いを悔いてヴォルデモートに立ち向かいたいと言うのなら、わしはあの二人にその機会を与えるべきじゃと信じておる」
「お人好しもいい加減にしたらどうだ!死喰い人だぞ、しかもあの娘はヴォルデモートの血を引く者だ!お前がいくら信じたところであの娘は結局のところヴォルデモートの下につくことを選んだ…それを今更償いたいなどと、本音のはずがなかろうが!」
「アラスター、あの二人のことはわしに任せてくれんか。二人ともわしの大切な教え子じゃ」
ダンブルドアの言葉に、ムーディの二つの目は苛々と動いた。ダンブルドアは静かに続ける。
「それに あの子の母親のことを覚えておろう…彼女ものように強い意志を持っておると…わしは今でも信じておるよ」
ムーディはまだ憤然とした顔だったが、それ以上は何も言わなかった。
ダンブルドアはそっと立ち上がると、約束の場所へと向かうためにローブの裾を引きずって徐に歩き出した。ホグワーツの敷地を越え、青々と茂る草原を横切ってホグズミードを目指す。直に夏だ。
ハイストリート沿いにあるその小さな居酒屋は、まだ昼間だというのに人でごった返していた。カウンターの向こうに、小粋な顔をした曲線美の女性がいて、バーにたむろしている魔法使いたちに飲み物を出している。
マダム・ロスメルタはダンブルドアに気付くと、ぎこちない笑みを零して小さく頭を下げた。
「…既に来ていますよ…2階の19号室です…」
カウンターに近付いたダンブルドアに、マダムがそっと告げる。ありがとう、とニッコリ微笑んで、彼は静かに階段を上がっていった。
教えられた部屋の扉を、軽く2度ノックする。
やや間があって、ドアは内側から遠慮がちに開いた。
「 ダンブルドア先生…」
青ざめた顔をした、グリフィンドールのあの卒業生。
そして部屋の奥にはもう一人、疲れた顔をしたスリザリンの卒業生が立ち尽くしていた。