目を丸くしてこちらを凝視している彼を見て、はニヤリと笑った。
「ひょっとして惚れた?」
「バカかお前は」
間髪を容れずセブルスが吐き捨てる。
「誰が腰の曲がった老婆に惚れる」
「それは腰の曲がった老婆の姿でさえなければ私に惚れるということかしら」
「勝手にほざいてろ」
彼との下らない口論が、今の生活での唯一の楽しみ。
一蓮托生とはこのことなのだから、それならばせめてこの日常を楽しみたいと思う。
出掛けにセブルスがこちらに背を向けたままポツリと呟いた。
「だがお前の変装にしては大したものだ」
彼のさり気ない優しさに、ホッとする。たとえこの手を汚そうとも、私たちはまだ 人間なんだ、と。
『例のあの人』や死喰い人は人間ではない、と言う人々は多い。私だって、そうだった。
けれど。
「行くぞ、グズグズするな」
「『お婆ちゃん、行こうか』、でしょう?」
くすくす笑ってそう返し、はセブルス手製の杖をつきながら彼の後にのんびりと続いた。
breather INTO crisis
何だかんだといっても、結局彼は根本的なところで人の温もりを捨てきれない男なのだ。
杖をつく老婆の姿に変装したは、無意識であろうセブルスが自分の背に手を添えてくれるのを感じながらそう思う。本当はぴんぴんしていて飛び回ることすらできる若者だというのに、彼は律儀で優しすぎ、そして時にうっかり者だ。
ノクターン横丁ならいざ知らず、ダイアゴン横丁では、しかもこんな明るいうちからフードを被っている方が目立つので、今日はセブルスも珍しく日光の下にあのくたびれた青白い顔を晒している。今にも干乾びてしまいそうだ。やはり彼は、薄暗い部屋の中で帝王と向き合っているのが似合う。
見慣れた通りを、ゆったりと進む。眩しさから逃げようと、安っぽい三角帽子を買ってみた。
「セブルスちゃんもどうかね?」
「…要らん」
笑えるくらい子供っぽい原色のピンクを散りばめた三角帽子。こんなものを被って外を歩けるのは、きっと幼児と老婆だけ。もしくはお茶目な老人か。それこそ、ダンブルドアのような。
途端に自分の考えに嫌気が差して、は買ったばかりの三角帽子を傍らのセブルスに押し付けた。セブルスは迷惑そうに顔を顰める。
「セブルスが被って」
「バカを言うな。自分で買ったものには自分で責任を持て」
「何か嫌になってきた」
「俺の知ったことじゃない」
眉根を寄せ、有無を言わさずセブルスはピンクの散った黒い三角帽子をの頭に被せた。
「それを被っていた方がいかにも耄碌した年寄りに見えて効果的だ」
「『いかにも』って何?」
聞き捨てならないと目尻をつり上げるだったが、帽子を目深に頭に押し込まれてセブルスにはその表情が見えない。
仕方なく、は三角帽子を頭に載せたまま『いかにも耄碌した年寄り』を演じることにした。ふくろう百貨店の店先にいたコノハズクを指差して「セブちゃんそっくり!」と笑ってやる。彼は若干唇を引き結んだ。
ようやくグリンゴッツに着くと、先にセブルスの金庫に行くことになった。ちらりと見えた中にはあまり硬貨は入っておらず、さり気なく目を逸らす。彼は持ってきた小さな袋もいっぱいにならないくらいのガリオンを掴んで戻ってきた。
一方の金庫の中を覗いたセブルスは(やはりほとんど保護者気分らしい)目を丸くして口をあんぐりと開けた。
「…これだけの金貨をどうやって稼いだ?」
「私じゃないわよ、母さんよ」
贅沢をしようとは思っていないが、体調を崩さない程度にはきちんとした生活をしたい。は十分なガリオン金貨を鞄に放り込んだ。
母さん、私はこのセブルスと一緒に母さんの敵を討つからね。
「宝くじをね、一枚買ったんだって。それがぴったり当たって、母さんは私のために全部残してくれた。きっとこれは、母さんが私を護ってくれてるって証じゃないかなと思う」
彼は何も答えなかったが、馬鹿にもしなかった。じわりと滲んだ涙を、そっと拭う。
小鬼が乗り込んだトロッコにが足を乗せるのを、セブルスが手伝った。
「 行こうか…婆、さん」
びっくりして振り向くと、俯いた彼が傍らの座席に腰を下ろすところだった。ニヤリと笑って、は頷く。
「そうだね、セブルスちゃん」
出発します、と小鬼が言うと、小さなトロッコはびゅんと音を立てて風のように飛び立った。
少しでも早くこの明るい横丁を去ることを主張したセブルスを引きとめ、はようやくフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーで身体が温かくなるパフェを注文した。セブルスは闇の魔術の本が欲しいと言っていたが、こんな時代にこんなところで購入するようなものではないので、後でノクターン横丁に行くつもりだ。第一、フローリシュ・アンド・ブロッツ店に行けば ニースがいる…。
行けるはずが、ない。
「セブルスちゃんもどうかね」
「要らん。さっさと食べろ」
店のテラスで、つい先ほどから降り出した粉雪を見上げ、セブルスが吐き捨てるように言った。はスプーンで掬いセブルスの方に差し出していたアイスを膨れっ面で口に運ぶ。
「パフェくらいゆっくり食べさせておくれ」
隠しもせずに大きく溜め息をつき、セブルスは血色の悪い両手で顔面を覆った。
「お前の神経の太さが信じられん」
「そうかね」
すました顔でモグモグと口を動かす。変装がうまいと言ってくれたのはそっちじゃないか。
がパフェをすっかり食べ尽くしてしまうと、やれやれとセブルスは物憂げに立ち上がった。杖をつき、もまた「よっこらしょ」と腰を上げる。
時折はこうしてセブルスの『お婆ちゃん』になってみるのもいいかもしれない。何だか新鮮な気持ちでセブルスと接することができる。
ノクターン横丁への道をやはり老人らしくゆったりと歩きながら、はセブルスの斜めに構えた後ろ姿を眺めた。
大嫌いだった背中。今は大好きな背中。
それでも。
大切な大切なあの背中を…忘れられない 。
が俯くと同時、急に歩幅を落としたセブルスが彼女の背に手を当てた。その右手は心なしか硬くなっている。
「どうかし 」
「顔を上げるな」
ほとんど独り言のような声音でセブルスが囁く。
だがはそれほどに素直ではなかった。三角帽子の下からちらりと視線を上げる。
そしては見てしまった。通りの向こうからやって来るのは 。
どこか脇道に逸れられないか。顔は動かさずに周囲を見渡す。ダメだ、向こうに突き出るまでここは一本道。かなり人通りの減ってきたこの通りで慌てて引き返せば怪しすぎる。
溜め息雑じりにセブルスが言った。
「このまま擦れ違う。動揺するな。心を閉じろ」
表には出さずに頷いて、は右足と杖を同時に前へと進めた。
恐れる相手が、次第に近付いてくる。いけない。心を閉じろ。
「…スネイプ?」
通りの向こうからやって来たその人物は、驚きと嫌悪の入り混じった声でセブルスの名を呼んだ。ピタリと足を止めたセブルスに倣い、もまた俯いたままで立ち止まる。
早く行ってくれ。閉じようとした心の中から自分が必死に叫ぶ。
セブルスは冷え切った声音でゆっくりと口を開いた。
「何か用か」
「…驚いたな。お前にこんなところで会うなんて」
「どういう意味だ」
セブルスの問いかけに、相手は答えなかった。
お願いだから。早く行って ジェームズ。
半年ぶりのジェームズはの知らない老人と一緒だった。老人、といってもが変身しているような老い耄れた姿ではなく、その目は鋭く傷だらけの顔は厳めしい。
ジェームズは吐息雑じりに言った。
「…お前に用なんてないけど、でももしかして」
「手短に話せ。お前に付き合う時間などない」
二人が杖を突きつけ合わなかったのは、大人としての理性が働いているからだろう。学生時代はそれがなかった。二人の間にあるのは ただ憎悪と嫌悪、だけ。
「 の行方を…知らないか?」
ピクリと僅かに動いてしまったの背をそっとセブルスが撫でた。『落ち着け。取り乱せば目をつけられるぞ』。
三角帽子の下で、目を、閉じる。心を 閉じる。
セブルスが鼻で笑う。
「私がそんなことを知ると思うか」
「…そうか。そうだろうな…話はそれだけだ」
端から期待していたわけではないようだが、少なからずジェームズが肩を落としたのが気配で知れる。セブルスはの背を押してゆっくりと歩き出した。
7年来の親友を欺けた。そうだ、私は闇の帝王に閉心術を学んでいる。変身術の能力もある。これくらいのことは。
だがは無意識のうちに、杖を握るその手でそっと左腕に触れた。
ジェームズの隣にいた老人が、鋭い視線で振り向く。
「 ・…!」
、セブルス、そしてジェームズがほぼ同時に互いを振り返った。次に動いたのは、傷だらけの老人。彼は片方の大きなコインのような目でギロリとを見た。
一瞬で懐から取り出した杖を掲げ、老人が口を開く。
「ステューピファ 」
「逃げるぞ!」
ひどく慌てふためいたセブルスが無造作にの腕を掴む。彼女の視界に最後に映ったのは、青ざめた顔で目を見開いたジェームズと、赤い光線。
あの吐き気がするような姿現しの不快な感覚の後、とセブルスは虚空から河川敷の草むらに放り出された。周囲にマグルがいなかったのは幸いだった。
全身で大きく呼吸を繰り返しながらは呻いた。
「…何で…何であの人、分かったんだろ…」
セブルスがこめかみに汗を浮かべて地面から身を起こす。彼がこんなに焦っているのを見るのは初めてかもしれない。
「…ムーディだ…」
「ムーディ?」
鸚鵡返しに呟く。セブルスは草の上に座り直し、が起き上がるのをうんざりした様子で手伝った。
「…ポッターといた男だ。アラスター・ムーディ。腕利きの闇祓いだ」
「…闇祓い?!」
どきりとして飛び上がる。本物の闇祓いに会うのは初めてだ。あの鋭い目 でも、どうして。
「あの男、知ってるの?」
「…噂だが。もう何人も死喰い人がアズカバン送りにされているらしい。あの目…恐らく、間違いない」
セブルスの脂ぎった黒髪が、汗で額に張り付いている。はそれをそっと払い除けた。
「 magical eye を持つと聞く…360度を見回すことができ、全てを見透かす あの、目だろう…」
あの、大きなコインのような青い瞳か。
セブルスが評価してくれたこの変装を、見破られた。
あれが闇祓いの力…。
闇の帝王の下で働き続けるのなら、彼らの追跡を逃れなければならない。
は目を細めて歯軋りした。
…ジェームズやシリウスと…闘わなければならない。
の頭から三角帽子を引き剥がしながら、セブルスが嘲笑った。
「怖いのか」
「…自分だって焦ってたくせに」
フンと鼻を鳴らす。セブルスは腰を上げ、軽く杖を振っての三角帽子を燃やした。
「俺たちにはあのお方がついている。だが、ムーディに察知されたということは…多少なりともお咎めがあるだろう。しばらくは外に出るな」
「…うん」
分かっている。私が闇の陣営にいると、きっと悟られた。そうでなければ老婆などに変装して外出する理由がない。そしてそのせいでセブルスも。ついに魔法省に面が割れた。
セブルスに全て任せて一人でグリンゴッツに行ってもらえば良かったんだ。ただ町に出かけたい。私がそう思ってしまったために。
その夜、とセブルスは闇の帝王のもとへと赴いた。
「…、お前がダイアゴン横丁へ出かけるなど…少し考えが足りなかったようだな」
「…申し訳ありませんでした」
仲間が失態のために拷問を受けるのを見たことがある。もそれを覚悟した。闇の帝王が暗闇の中で杖を上げる。
「クルーシオ!」
突然全身を襲った猛烈な痛みに、気付いた時にはは床の上でのた打ち回っていた。頭が割れそうだ。
を連れて人混みに出て行ったセブルスもまたクルーシオ呪文で仕置きを受けた。けれどその後で、闇の帝王は穏やかな口調でこう言った。
「…だが、ムーディに遭遇したのなら仕方あるまい。あの男の目は欺けん…遅かれ早かれお前のことには気付いたろう…」
帝王が認めているということは、ムーディとはやはり噂通りにかなりの闇祓いということなのだろう。できることならば二度と出会いたくはない。
「この穴埋めはお前たちにしっかりしてもらおう…セブルス、、ホグズミードに向かえ」
「…ホグズミードですか?」
眉を顰め、セブルスが繰り返す。
「…レグルスの話によると…どうやらダンブルドアが、俺様に対抗しようと秘密結社を立ち上げたらしい…拠点はホグズミードだ…偵察してこい。但し 失敗は許さん…」
ダンブルドアが。目を見開いたはさっと顔を伏せて、セブルスと共に「畏まりました」と一礼した。失敗は許されない。
「…やれるか?」
家に戻り、どさりとソファに腰掛けたセブルスがそっと口を開いた。
汲んできた水を沸かしながら、は彼に背を向ける。
「 やらなきゃ。そうでしょう?」
やらなきゃ。任務は、選べない。
目的を達成する、その時までは。
グリンゴッツでいくらか換金してきたポンドでインスタント・コーヒーを買った。セブルスは濃いブラックが好きだという。は砂糖とミルクをたっぷり加えたカフェオレを飲みながら深く息を吐いた。
ムーディ。闇祓い。ダンブルドア。秘密結社。
…ジェームズ。
頭の中を、雑然とした記憶がグルグルと廻る。
無地のマグカップをそっとテーブルに置くと、は隣に座るセブルスの肩にゆっくりと凭れ掛かった。ああ、ホッとする。
「重い」
「うるさい」
涙が、止まらなかった。
好き。好きなの、シリウス。今でも、ずっと。
それなのに。どうして、こんなことに。
こんなにも苦しいのなら、イギリスになんて来なければ良かったんだ。ホグワーツになんか、行かなければ。
たとえ日本にいても、闇の帝王は私を見つけ出していたのかもしれない。それでも。それなら。シリウスを、知らずに済んだ。私はただ死喰い人としてこんな思いをせずにセブルスといられたかもしれないのに。
彼の首にしがみつくと、カップを手にしていたセブルスは思い切り顔を顰めて「零れる」と言った。
「泣くのなら勝手に泣け。だが明日は泣くな。感覚が鈍るぞ」
「…分かってる」
今日は、我慢せずに涙を流そう。この半年抑え込んでいた感情を、素直に吐き出してしまおう。セブルスになら、受け止めてもらえる。
でも。
明日になればまた、心を閉じてしまおう。セブルスもまた、そうして生きているのだから。