「    ここで会えると思った」

声が聞こえてもさほど驚かなかったのは、それを心のどこかで予測していたせいかもしれない。とまれ、彼女は手を合わせた墓石の前でゆっくりと立ち上がり、振り向いた。

先ほど立ち寄ったホグワーツで、は先日がこの世を去ったことを知った。長年彼女の世話をしていたハグリッドによると、は主人がもうじき帰ってくるぞと聞かされてから、心底安心したように穏やかな顔をして死んでいったという。魔法界でも異例の長寿ふくろうだった彼女は、魔法愛玩動物協会から何とか賞を授与されることが決まったそうだ。
はその式典には、是非ともハグリッドに出席してほしいと伝えておいた。実質的に世話をしてくれていたのは彼であるし、出所したばかりの彼女は公の場に姿を見せるつもりはなかった。ハグリッドは渋りながらも、彼女の誠意に負けてとうとうそれを承諾した。

「本当はね、会いに行こうと思ったの。だけど    どのみちここで、会えるだろうと思ってたから」

現れた彼女はそう言って、腕の中に抱えた花束を一つずつ、四つの墓石の前に並べていった。魔法薬調合の材料ならばいざ知らず、観賞用の花の名前はよく分からないが、リリーには淡いピンクの花。ジェームズには華やかな黄色い花。シリウスには綺麗な薄紫の花、そして彼らの隣に立てられたピーターの墓には、純白の繊細な花が供えられた。

秋も終盤に差し掛かり、空を流れる空気は随分と冷たくなってきていた。ハロウィンを目前にしたゴドリックの谷ではオレンジ色の装飾が至る所に為され、人々は浮き足立っている。その村の外れにある共同墓地に、二人は静かに立っていた。

「旅に出るんだってね。リーマスから聞いたわ」

跪いてそれぞれの墓石に両手を合わせ、ゆっくりと立ち上がったニースが言った。はそれと分からない程度に首を回し、傍らに立った彼女を見る。彼女と会うのは実に二十年ぶりだったが、それでも。互いに相手のことは、一目見ただけではっきりと分かった。

「ええ……しばらく、ヨーロッパを回って……それから、アジアにも足を伸ばそうと思っていて」
「アジアへ?」
「ええ……父と暮らした故郷    日本に少し、戻ってみようと思うの」

それは父を失ったあの頃から、ずっと考えていたことだった。だが、まだ帰れないと思った。すべてを終わらせるまでは    決してあの町の土は、踏めないと思った。
だが、闇の帝王を打ち倒し、自らに科された囚役を終えた今ならば。

「そう……」

彼方を仰ぎ見るようにして顔を上げたニースは、感慨深げにそう呟いた。彼女の視線を追いかけて、もまた白んだ空を見上げる。
そういえば、あの冬の日もこんな風に冷たい雲が流れていたっけ。

そっと瞼を伏せ、もう一度目を開いてから、は密やかに言った。

「私、あの人の足跡を辿ってみたいの。あの人が旅したという土地を訪れて、あの人の感じたものを見てみたい。そうすることが、私の義務だと思うから」

するとニースは大きく目を見開き、思い詰めた様子で口を開いた。

「……。あなた、もう……もう、そんなことをする必要、ないでしょう?『あの人』は死んだのよ。あなたは精一杯戦った。知ってる?あなたやスネイプのことを書いた本が今やイギリス中に出回ってるわ……スキータの記事がすべて本当のことだとは思わない。だけどあなたは    あなたたちは、ずっと戦ってきた。スネイプのことは、本当に残念だったけど……でもあなたは、犯した罪を償ってこうして戻ってきた。それなのに、もうこれ以上、何をする必要があるの?もう、苦しまなくたっていいのよ?どうしてあなたは、そうやって    
「ううん……違うわね。義務じゃない。私が、そうしたいのよ。だって私は、あの人を完全には憎みきれない」

力なくかぶりを振り、は鋭く眼差しを細めたニースを見つめた。

「ごめんね。あなたにこんなことを言うのは、無神経だと思うわ。だけど私は、最後の一年をあの人のすぐ傍で過ごしたから。思ったの。この人は大人になりきれなかった、単なる一人の魔法使いに過ぎないんだって。それがたまたま、邪悪で、とても強力な魔法を使えてしまったがために起きた悲劇だったって。誰にでも自分の信じる正義があるわ。彼はそれをスリザリンらしいやり方で貫こうとしただけ。その道が誤っているのだと気付かせてあげられる誰かが傍にいれば……だけど私は、何もしてあげられなかった」

ニースが複雑な面持ちで瞼を伏せたので、もまた一瞬、彼女から目を逸らしてしまいそうになった。だが心を決めて、前を向く。

「私は知りたい。あの人が何を見て、何を感じてあの道を選んだのか。彼は時々、昔の話をしたわ。きっと、知ってほしかったんだと思う」

ダンブルドアはホークラックスの秘密を探るため、帝王の記憶を集めて回った。そうではなく、私はただ、あの人の哀しい生き様を知るために。そして、彼のことを誰もが忘れてしまわないように。
彼女がシリウスから贈られた指輪の他にもう一つだけ嵌めているもの。それは帝王が生前、肌身離さず着けていた指輪だった。きっと、深い意図などなかったろう。けれども彼が、十字の印を刻んだ指輪を身につけていたこと。それは彼女にとってはとても、大きな意味を持つように思ったのだ。

「そう……」

呟いたニースは深々と嘆息し、疲れたように首を振ってから、また顔を上げた。

「これがあなたじゃなかったら、きっと私、殴り飛ばしてると思うわ」

何も言えずにかつての友人の顔を見返すと、彼女は芝居がかった仕草で握り締めた拳を解いてみせた。

「『あの人』は私の家族を殺した。そして私が永遠を誓った、大切な人も」

はそのときに初めて、彼女がその繊細な薬指に、シンプルな指輪を嵌めていることに気付いた。そうか、そうだったのか……。
だけどね、といって、ニースは寂しそうに微笑んだ。

「だけどそれは、あなただって同じことだものね。それでもあなたは、『あの人』の足跡を辿る旅に出たいという。たとえどんなに哀しい人生だったとしても、そんな風に思ってくれる人間が一人でもいればきっと、『あの人』も救われたことでしょうね」

ごめんね、ニース。久しぶりに会って聞かされるのが、こんな話で。けれどももう、自分の気持ちに嘘をつきたくはなかった。私は知りたい。だから、旅に出る。

「ただ、こんな……誰かから間接的に聞かされるんじゃなくて。あなたの口から一言でも何か、言ってほしかったな」

ニースは恨めしげにそう言ったが、横目でちらりと見やるとその瞳はどこか吹っ切れたように緩んでいる。は静かに瞼を閉じて吐息とともに言った。

「……ごめん」
「今更そんな言葉が聞きたくてここに来たんじゃない」

自分の台詞が可笑しかったのか、ニースが小さく噴き出して軽く頭を振る。

「ほんとに、いまさらよね。あれから何年経つのか……数えようと思うだけでうんざりするわ」

あれから。その起点はきっと誰にとっても異なる。あれから。そうね、あれから一体どれくらい経つんだろうね。

「旅に出て……それから、どうするの?ここへは帰ってくるの?」
    うん。帰ってこなきゃ。私のすべては、ここにある。だから戻ってこなきゃと思ってる」

言って、は少しだけ雪の積もった『ジェームズ・ポッター』と刻まれたその墓石を撫でた。私の『はじまり』は、あなたがくれたんだよ。あなたがいなければ、私はきっと。
ううん、「あなたがいなければ」なんて、ないね。あなたは確かに、ここにいた。

「もっと生きられたはずなのに、生きられなかった人たちがたくさんいる。私が、そうさせてしまった人たちも。私は今も、ここにこうして生きてるから    だから、伝えられなかった人たちの、伝えられなかった言葉をこの世界に残したい」

だからこの足で、この世界を歩きたいの。あの人だけではなくて。誰もが零してしまったものを、誰もが失くしてしまったものを見つけ出すために。
まじまじとこちらを見てくるニースの眼を見返して、ははっきりと告げた。

「私、書きたいの。みんなのこと、あの人のこと。たくさんの人たちに伝えるために    忘れてしまわないように」

それがこの私にもできる、最大の償いだと信じている。
こんなことしかできないけど、それでも私はあなたたちの言葉を伝えていくから。

ニースはしばらく何も言わずにじっとの横顔を見つめていたが、やがて小さく息をついて言った。

「それなら私にも手伝わせて」
「え?」

わけが分からず聞き返すと、彼女は憮然とした様子で繰り返した。

「ジェームズたちのために何かしたいと思ってるのはあなただけじゃないの。私だって……彼らに何にも、してあげられなかったんだから。私にも手伝わせてちょうだい」
「でも    
「あなたの書いた作品は、私が責任を持って世に送り出すわ。だからいつでも連絡して。私は、いつだってここにいるから」

の言葉を遮るようにして為されたニースの宣言に、ぽかんと口を開けて固まる。そんな彼女の顔を見てニースは声をあげて笑った。

「馬鹿にしないでよ。フローリシュ&ブロッツに勤めてもう二十年なんだからね。それくらいの伝手はあるわ」
「そういう意味じゃなくて……そんな、私は    
「ただ書くだけじゃ意味がないでしょう。それじゃただの自己満足。あなたは『伝えたい』んでしょう?だったら広めなきゃ。少しでもたくさんの人に、彼らのことを伝えていかなきゃ」
「………」

そこまで考えていなかった。ただ、書き記したいと。そればかりを考えていた。
ニースの言う通りだ。私は『それ』を    伝えなければいけない。そのためには、私ひとりの力じゃ。

震える声を押し留めて、はやっとのことでそれを口にした。

「ありがとう    お願いしても、いいかな。いつになるか……分からないけど」

彼女は静かに微笑み、当たり前でしょうと呟いた。

「スキータじゃなくて、あなたが書くから価値があるのよ。すべてをその目で見てきた、あなたが書くからこそ。私も、楽しみにしてるわ。忘れないでね。私はあなたの、友達なんだから」

その台詞を初めて彼女の口から聞いたのは、遠い昔のことだったが。
涙が零れ落ちるよりも先に、は傍らの墓石の前にしゃがみ込んだ。

こんな私にもまだ、友達って呼んでくれる人がいるみたい。
ねえ、私    こんなにも恵まれてて、いいのかな。

「ニースがいるから、リーマスがいるから。あの子がいるから、みんながいるから私は生きていける。みんなの記憶があるから、これからも私はこの世界で生きていける」

みんなに出逢えて、幸せだったよ。
あなたを愛して、あなたに愛されて    本当に、幸せだったよ。
いつまでもいつまでも、大切にするね。

「大好きだった、よ……シリウス」

今はただ、思い出にしておこう。この世界の中で、前へと歩いていくために。
『その言葉』はまた遠い将来、『その時』のために取っておくから。

大好きだったよ、シリウス。
あなたを愛したこの世界は、今日もこうして美しい。
「ねえ、パパ、ママ。見て、綺麗なお花だよ」

彼は両親の枕元に置かれた小さなテーブルの上に、溢れんばかりの様々な花を挿した花瓶を載せた。父はぐっすりと眠り込み、布団の中で上半身だけを起こした母はニコニコと微笑んで、贈られた花束を見ている。けれども母がその美しさを感じ取っているわけでも、息子である自分を認識してその微笑みを浮かべてくれているわけでもないことを彼は十分に知っていた。
悲しいと思うときは、やはり時折巡ってくる。だが彼は、悪に屈さずその正義を貫いた彼らのことをとても誇りに思っていた。

子供の頃は、決して彼らのことを他の誰かに打ち明けたりはしなかった。恥じていたわけではない。けれども僕は、友人たちが当たり前のように、父親や、母親のことを話すのを聞くと、それだけでひどく惨めな思いに囚われたのだ。それならばいっそ、僕はこの口を閉ざしてしまおうと。だから僕は、誰にも両親のことは話さなかった。
でも今は、違う。立ち向かうこと。大切な何かを護ること。それがどれだけ尊く、気高い行いか、今の僕には痛いほどよく分かる。だから僕は、闇祓いとして、人として、そして父親、母親として奴らに立ち向かった両親のことを、とても誇りに思うのだ。

「ねえ、ママ。このお花、誰がプレゼントしてくれたか、分かる?」

母はベッドの上に座ったまま、ただ静かに微笑むだけだ。それでも構わず、彼は朗らかに続けた。

先生だよ。知ってるでしょう?言ったよね。先生、先週帰ってきたんだよ。ほら、こんなにも綺麗な花束、贈ってくださったんだ」

母は反応らしい反応を見せなかったが、彼は懐から取り出した一枚のカードを彼女の前にかざし、その背景写真が見えるようにしてから再び自分の方へと引き戻した。

「『こちらはもう寒いけれど、そちらはまだピラカンサが咲いているのでしょうね。そろそろ気温も下がるでしょうから、身体にはくれぐれもお気をつけて』」

やはりニコニコと笑んだまま何も言わない母を見て、彼は目尻を緩めた。

「ママ、ピラカンサ好きだったもんね」

そしてそのカードをそっと花瓶の横に置き、夕食のメニューを担当癒師に聞くため席を立った。

出所して以来、彼女は時々両親のところへ花を贈ってきてくれた。初めは、カードも、名前さえもなく。けれども僕は、すぐにそれが彼女からだと分かった。ハリーから聞いたのだ。彼女は騎士団にいたときから僕の両親と知り合いで、彼らが危険な状況にあったとき、彼女が、ダンブルドアが守り人となった『忠誠の魔法』の証人を引き受けてくれたのだと。
けれども『あの人』    いや、ヴォルデモートが姿を消し、その『忠誠の魔法』が解かれたすぐ後に、彼らはレストレンジたちに拷問された。だから彼女はそのことでもずっと、負い目を感じていたのだろうと。

そうだったのか。だから僕はどこかで彼女の顔を見た覚えがあったし、彼女が時々、僕をあんなにも悲しそうな眼で見つめたのだ。

だから僕は、手紙を書いた。僕はあなたのことを知っているし、決してあなたを責めてなどいない。あなたには何の責任もない。彼らは自らの意思で戦った結果    
やがて、彼女から見覚えのないふくろうで返事が届いた。ごめんなさい    ありがとう、と。今度はあなたのお母様が好きだった、ピラカンサを贈りますと。恥ずかしいことに、僕は母の好きな花すらも知らなかったのだ。

「先生、ロングボトムです。母が、今日の夕食は何だろうって    

癒者の部屋を覗きながら、彼は心の中にかつての魔法薬学教師の姿を思い浮かべた。花のお礼に今度は僕が、先週街で見つけたタオルのセットでも贈ってあげよう。
ああ、この子はまた。同じところで間違えて。何度繰り返せばいい加減に覚えてくれるのだろう。私が学生の頃には、こんなところで五度も躓いたりはしなかったはずだ。それを言うと、かつての寮監は苦笑いして、「お前がそんなに物覚えの良い生徒だった覚えはないぞ」と肩を竦めた。まさか。口の中で反発しながらも、その先は言い返せずに彼は黙り込む。

今年で七年目になる天文学の教授である彼は、NEWT対策で週二日に増やした実習の課題を採点していた。何十年か前に当時の教授が製作し、それにさらに彼が改良を加えた天球儀を用いた実習はなかなか好評だが、あんなに遅くまで長引かれては翌日に響く、と子供たちはうるさい。この根性なしが。その程度のことは若さで乗り切ってみせたらどうだ。大切なNEWTが控えているのだろうに。

あと少し、というところで、研究室の扉が外側からノックされて彼は採点の手を止めた。

「どうぞ?」

すると勢いよくドアを開け、元気そうな顔を覗かせたのは七年生のハッフルパフ生だった。さすがにNEWTレベルの天文学を選択している生徒は少なく、彼女もそのうちの一人だ。明るくて素直、はっきりと物を言う。気さくで友達も多い。成績は中の下、程度だが、中でも天文学は人一倍の努力を重ねていつもなかなかの点数を採ってくれる子だった。私情を挟むつもりはないが、そういった意味で『お気に入りの生徒』ではある。

「どうした?質問か?」
「あ……いえ、その。先生、今お忙しいですか?」
「うーん、そうだな。もうちょっと仕事が残ってはいるが……どうかしたのか?」
「そ、そうなんですか……あー、えーと、その……ああ、どうしよう」

彼女は心底困った様子で頭を抱えた。どうしたのだろう。彼女がこんな煮え切らない態度をとったことは、少なくとも彼の記憶では一度もない。

「どうした?何か悩み事でもあるのか?」

図星だったのか、彼女は急に耳まで真っ赤になって少しだけ後ずさった。この子は本当に、分かりやすい子だな。小さく笑んで、彼はレポート用紙と羽根ペンを脇に寄せた。

「仕方がないな。五分だけだぞ。どうした、先生に何でも言ってみろ」
「ええと……その、大したことでは。ただ、その……」
「大したことがなくてお前がわざわざ私の部屋まで来るか?先生には分かるぞ。さあ、お兄さんに何でも話してごらん」

するとそこでようやく噴き出し、彼女はいつものように元気よく笑った。ああ、良かった。やはりこの子の笑顔は、見る者を不思議と心和ませる。だからこそ彼女の周りには、いつだって友達の輪が広がるのだ。

一頻り笑い終えた後、おずおずとこちらに歩み寄ってきた彼女はずっと後ろ手に隠していたものをそっと前へと差し出した。それを見て、彼は何度か瞬きを繰り返す。

「どうした?こんな時期に珍しいな。まさか先生にくれるのか?」
「はい!薬草学の授業で、好きな花を育てる実習をやってて。ロングボトム先生に教えてもらったんです、時季外れの花を咲かせる方法!だからこれ、先生にあげます!」
「おお、ありがとう。でも何で、私にくれるんだ?彼氏でもなんでも、お前くらいの年頃だったらもっと他にこういうのはあげたい相手がいるだろうに」

すると彼女は、幾分も不機嫌そうな顔をして眉根を寄せた。え、私は何か、悪いことを言ったろうか。それともあれか、この子に恋人はいなかったろうか。いや確かに私は先日、彼女がグリフィンドールの同級生と付き合っているという話を耳にした。

「先生にあげたいって思ったからあげたんです!だってその花、先生にとっても似合ってるって思ったから!要らないなら返してください!」
「あーごめん、ごめん、悪かった悪かった。ありがたくいただいておこう。どうもありがとう」

言って彼は、それを取り戻そうと手を伸ばした彼女から、さらにその上へと腕を持ち上げて薔薇の花を遠ざけた。先生にとっても似合ってる、か。薔薇が似合っているなんて、お世辞にも一度だって言われたことはないが。

「先生、ほんとにありがたいって思ってる?」
「思ってる思ってる。女の子にプレゼントもらった記憶なんて子供の頃からまーったくないからな。お前が初めてだよ、どうもありがとう」

気安い口調で軽くそう言ったのだが、彼女はとても不思議な反応をした。頬をますます紅く染め、数秒ほどの時間差を挟んでようやく声をあげる。

「う、うそ!うそ!そんなの!なによ先生、それって私のこと口説いてる?」
    はあ?言っておくが私は生徒に手を出すほど飢えてはいないよ、残念だがな」
「ほら!ほら!やっぱりうそ!幼気な生徒をからかうなんて、最低!」
「おいおい、嘘はついてないぞ。女の子にプレゼントもらったのは初めてだって、これは本当」
「うそ!だって先生、一体自分がいくつだか分かってる?」
「お前に教えてもらうまでもないよ。それは自分がいちばーんよく分かってるから」

悪いか。今年で三十七だ。もう十年近くもフリーで、なにが悪い。付き合った女の子の数だって片手の指で足り……いやいや、正直に言おう。二人だ、その二人とも決して私にプレゼントをくれるような子じゃなかった。ああ、悪いか。だいたいな、こんなところに就職して恋愛ができるとでも思うのか?周りはお子様とご老体ばかりで……。

「じゃあファインズ先生。可愛い生徒をからかった罰として、賭けに付き合ってもらいます」
「お前……まあ、いいだろう。なんだ、先生と何を賭けたい?一つだけ、お願い聞いてやろう」

すると彼女はその瞳に悪戯を思いついたときのような不思議な光をたたえ、二人の間に挟んだ机の上に身を乗り出すようにしてそれを口にした。

「先生、私、NEWTで天文学、『O・優』を取ってみせますから」

NEWTで『O』だって?お前、OWLで『E・期待以上』を取ったこと自体が奇跡だと叫ばれたお前が、一体どうした?そもそもお前の進路希望は魔法省の魔法生物規制管理部じゃなかったか?どうして天文学を選択した、と聞いたとき、単なる趣味だと言ったろうに。その学科で『O』宣言……おいおい、お前、一体何があった?
それとも、余程私に頼みたいことでも?

彼がそれらを言葉にして発するよりも先に、彼女は勢い任せでそのあとを続けた。

「その上で私が魔法省に入れたら    先生、私と結婚してください!」

あまりに突飛な彼女の『賭け』に、彼はまず唖然とした。けれども自分の手に握ったその一輪の薔薇を見ているとなぜか、彼はこうなることを予め悟っていたような奇妙な感覚にも襲われたのだ。

「……薔薇一輪につき、賭けは一回だけ有効」

ぽつりと呟いた彼の言葉に、まるで敏感な小動物のように目を丸くした彼女はやがて再び耳まで真っ赤になってその場で固まった。ああ、きっと私はずっと、この瞬間を待ち焦がれていたのだ。
教師として今はまだこれ以上、何も言えないけれども。

チャンスは何度か残しておいてやろうと、シリウス・ファインズは彼女だけに伝わるその言い方で、自分の可能性すらも広げた。
俺はきっと何十年も、この瞬間を待ち望んでいたに違いない。
Puer puellae rosas donat
FIN