この戦いでシニストラが命を落としたと、彼女のかつての寮監だったフリットウィックは教えてくれた。彼女は全力で戦い抜いたと。攻撃の呪文は苦手だった彼女が、子供たちを、この城を護るために全力を尽くして散っていったと。はそんな彼女の死に顔に、一つだけ涙の粒を零した。ごめんね。ありがとう。あなたの明るい笑顔に、真っ直ぐな眼差しに。私はいつだって救われていた。
「あの子はずっと、あなたのことを信じていましたよ」
フリットウィックはそう言って、愛おしそうにシニストラの髪を撫でた。
「何か、事情があったのだろうと。たとえ彼女がどんな過去を負っていたとしても、私がこの数年見つめてきた彼女の姿に、偽りはないはずだといって」
そんな、ことを。は涙の溢れそうになった目尻をそっと指先で拭い、その手をそのままシニストラの、すっかり冷たくなった頬に運んだ。馬鹿ね、あなたも。本当に
英知を誇りとするはずの、レイブンクロー生であったあなたが。本当に、ばかなんだから。
は彼女の傍らに両膝をつき、人目も憚らずに声をあげて、泣いた。
この辺りだったはずだ。握り締めた杖を自分の周囲にかざしながら、目を凝らす。
彼女は禁じられた森にいた。どうしても気になることがあるといって出発前に無理に時間を取ってもらったのだ。逃亡の恐れがあるとビーグル・ブラウンは難色を示していたが、今更彼女が逃げるとは思えないとしてベンサムがそれを許可した。少なくとも数年は、どうしたところでここへ戻ってくることはできないのだから。
確かにこの辺りだった。昨夜我々が野営した跡があるし、向こうの木には抵抗したハグリッドがつけた傷跡らしきものも残っている。間違いない。私は確かにここで、あの声を聞いたのだ。
だがそこには、特筆すべきものは何もなかった。視界一面を埋め尽くす緑。帝王が火を焚いた跡。ナギニの這った太い痕跡もある。だが、それだけだ。空耳だったのだろうか。いや、違う。聞き違えるものか。彼の声を、私が聞き間違えるはずが
。
「
」
はっとして、彼女は息を呑んだ。確かに聞こえた。声が。ずっと追い求めてきたもの。ある日唐突に、私たちの前から姿を消した。は勢いよく振り返り、その声の主を探した。
だがそこには、誰もいなかった。ただ風に揺られる草花が、静かにそよいでいるばかりだ。嘘だ。そんなはずはない。私は確かに、彼の声を聞いた。
「」
今度ははっきりと、その声を聞いた。顔を上げ、惑う子供のように周囲を見回す。
そしてようやく、彼女は眼前にその姿を見た。先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、ぼんやりと浮かび上がった人影が立っている。
はそこに、あの頃のままのジェームズ・ポッターを見た。
「やあ、。どうしたんだい?そんな、幽霊でも目の当たりにしたみたいな変な顔して」
言って彼は、自分の言葉に小さく噴き出した。幽霊なんて別に珍しくもなんともないよね。でもマグルの間じゃ、やっぱりこういう例えはよく使うんだろう?
そう、付け加えて。
それでも口を開けたまま何も言わないでいる彼女を見て、今度は怪訝そうに眉を顰めた。
「本当に、どうしちゃったんだい?僕だよ、ジェームズ。分からない?君の大切な大切な、ジェームズ・ポッターだよ」
あまりといえばあんまりの事態に、は目を見開いたままその場で固まってしまった。呼吸すらも忘れ、ただ呆然と目の前に現れたかつての親友を見つめる。彼は困ったように頭を掻きながら、口の中でもごもごと言った。
「あれ、おかしいな。もっとこう、感動的な再会を期待してたのに。それともあれかな、僕の顔に何かついてる?」
それは確かに、困ったときに彼がしてみせる仕草だった。はまだ何も言えずに立ち尽くしていたが、やがて喉の奥から込み上げてくるものを抑えることなく一気に吐き出した。
「な……、なによ、何なのよ。分からない、ですって?ふざけないでよ……この二十年、一度だってあなたたちのことを忘れたことなんて、なかったのに!」
突然声を荒げたに、彼は面食らったように瞬きした。構わず、続ける。
「分からないわけないでしょう!ええ、そうよ。あなたは私にとって、大切な大切な友達だった。それをどうして、忘れたりするもんですか!」
溜め込んでいた涙が堰を切ったように溢れ出した。どうして、ねえ、どうして。どうしてあなたがここにいるの。これは、夢?あなたを求めるあまり、私が生み出してしまった幻想?それでも確かに、私は昨日、この場所で。彼の声を聞いたのだ。
ジェームズはおろおろと狼狽え、すぐさま彼女の許へと駆け寄ってきて声をあげた。
「ご、ごめんよ、……少しからかっただけなんだ。ごめん、本当にごめん」
「……タチが悪いのよ。あなたはそんな冗談、言う人じゃないと思ってた」
「ごめんってば。だってほら、僕たちは『悪戯仕掛け人』だったじゃないか。ちょっとした演出さ、分かるだろう?」
「あの頃の私たちは、決してそんな冗談を言ったりはしなかった」
きつい口調で言いやると、収まりかけていた涙が再び溢れてきた。『私たち』。魔法悪戯仕掛け人。それは最も輝かしかった、あの頃の掛け替えのない思い出。
彼はばつの悪い顔で小さく笑んでから、もう一度、ごめんと繰り返した。
「そうだね……どうかしてた。ただこうして君の前に姿を現すことができて、少し羽目を外したんだ」
は顔を上げ、溢れ出る涙が頬を濡らすのも構わずに口を開いた。
「……ねえ、これはどういうこと?どうして、あなたがここにいるの?ねえ、一体どうして……あなたは、確かに……」
「
」
声はまた、思いもよらないところから聞こえてきた。いつの間にか、ジェームズのすぐ後ろにもう一つの人影が立っている。
は呆然と目を見開き、記憶の中に深く刻み込まれた彼女の名前を呼んだ。
「……リ、リリー」
にこりと柔らかく微笑んで、彼女は頷いてみせた。ジェームズもまた、穏やかに目を細める。
は無意識のうちに動きだし、微笑むリリーの胸へと飛び込んだ。幽霊じゃない。彼女は確かに、母のように温かく、そして力強く抱き締めてくれた。リリー。リリー。私の、大切な。
「……ねえ、どうして?おかしいよ、だってあなたたちは……あなたたちは……それなのに、ねえ、一体どうして?」
「
」
そっと彼女の名を呼んだリリーは、その緑色の瞳にうっすらと悲しげな涙を浮かべて、囁いた。
「……つらかったでしょう、ずっと。ごめんね。何もしてあげられなくて、ごめんなさい」
その言葉に胸をきつく締め付けられて、は彼女の腕の中で、激しく首を振った。
「どうして?どうしてあなたが謝るの?私、あなたたちを護れなかった。私、あれからだってずっと……何にもできなかった。謝らなきゃならないのは……ううん、どれだけ謝ったってちっとも足りないよ……だって、私は……」
「、もうやめてくれ。君は立派に戦ってきた。僕たちはそれを知ってる」
ジェームズはそう言って、哀しそうに微笑んだ。の髪をそっと撫でながら、リリーが言う。
「そうよ、。私たち、ずっと見てたんだから。あなたはずっと、あの子を護ってくれていた」
「……違う!私には何もできなかった。あの子を護ってきたのはダンブルドアよ、セブルスよ。見ていたのなら知ってるでしょう?私はずっと、あの子を苦しめてきた!」
リリーは静かにかぶりを振った。その深い眼差しで、真っ直ぐにこちらの顔を覗き込んでくる。ああ、なんて。美しい瞳。私はずっと、この眼に焦がれていた。
「、もうやめて。分かってるから。あなたもダンブルドアも、そしてセブルスも。みんながあの子を大きくしてくれたことを、私たちは知ってるから」
は両手で目元を拭いてしっかりと相手の顔を見ようとしたが、次から次へと溢れ出てくる涙がますます視野を狭くした。どうして、どうして。あなたたちは、昔からそう。
リリーは僅かに瞼を伏せて、ひっそりと囁いた。
「だけどね、
私はあなたに、自分のことをもっと、大切にしてほしかった」
怒るためではない。諭すためでもない。ただ悲しみの音を宿して告げられた彼女の言葉に、は慟哭した。リリーの腕の中で、腹の底からそれを絞り出す。
「な、何で……私、そんな資格ない……あなたたちを死なせたもの……他にももっと、たくさんの人たちを死なせてきた……そんな私は、もう壊れるしかない……みんな、みんな私のせいで……」
みんな。ジェームズもリリーも、ピーターもそしてセブルスも
シリウス……私があの時、引き留めていれば。彼が最後に残そうとした言葉は、一体何だったのか。分からない。もう。彼の死んだ今となっては。
小さく息をついたジェームズは、リリーと短く視線を合わせてから優しくに声をかけた。
「。人ってさ、死ぬとどこへ行くか、知ってるかい?」
は顔を上げ、涙の滲む眼で彼を睨み付けた。
「……知るわけないじゃない。だって私、死んだことがないんだもの」
それをどれだけ、願ってきたことか。けれども神は、決してそれを許してはくれなかった。お前にはまだ、為すべきことがあるはずだと。
ジェームズは小さく苦笑し、困ったように頭を掻いた。
「そうだね。本当は言うべきじゃないのかもしれないけど、でも君はきっとこれからも負い目を感じて生きていくんだろうから。これくらいのことは神様だって許してくれるさ」
言って彼は、自分の広い胸を示した。彼は最後に出会ったあの夜と同じ、その薬指に輝く銀色の指輪を嵌めていた。
「。人はね、死ぬとまたこの世界で新たな命として生まれ変わるんだ。僕たちはもう、それぞれの新しい人生を生きてる。君の生きるこの世界で。君ともっと一緒にいられなかったこと。小さな小さなハリーを残して逝ったこと。心残りだった。でも僕たちは、新しい人生を歩むことを決めたんだ。だって僕たちは、君たちのことを信じていたから」
だからね、といって、彼は彼女の頭を撫でた。それこそ小さな子供でも、あやすように。
「だからもう、泣かないで。死ねば人は、そこで終わりじゃないんだよ。君がずっと苦しんできたことを僕たちは知ってる。ずっとあの子を見守っていてくれたこと。ちゃんと見てたから。だからもう、自分を責めないで」
そんな。そんな、そんな。できないよ。だって私は。私は
。
ジェームズの手のひらが、そっと頬に落ちてくる。その肌は確かに彼の温もりを帯びていた。私はそれを、今でもよく覚えている。私は彼の匂いが、とても大好きだった。
「君はヴォルデモートに『愛』を伝えようとしていた。彼も心のどこかでそのことに気付いていたんだ。だからもう、大丈夫だよ。今度は彼もきっと、愛に満ちた人生を生きることができるさ」
驚いて、は呆然と彼の顔を見返した。どうして、どうしてそのことを。彼は悲しそうに微笑んで頷いてみせた。ああ、まさか。あなたはまさか本当に、ずっと私のことを。
思わず瞼を伏せて、は唇を緩めた。やっぱり、あなたっていう人は。すごい人だね。本当に。何もかも、気付いていたんだね。
「……また、会える?」
消え入りそうな声で問い掛けると、リリーと顔を見合わせたジェームズは嬉々として笑った。
「君が僕たちを忘れない限り、僕たちの魂も決して君のことを忘れない。だから、いつだって会えるさ」
「……忘れないって、言ってるでしょ。忘れるはずなんか、ない」
だってあなたたちは。私にとって。
恨みがましく呟いたを見て意地悪く微笑んでから、ジェームズはふと彼女の背後に目をやった。そして殊更にその唇をにやりと歪めてみせる。
「ああ……とうとう出たな。この『やきもちやきお』め」
「は?ジェームズ、あなた何言って
」
眉を顰め、は彼の視線を追いかけてゆっくりと振り返る。そしてそこに、今度こそ信じられないものを見て唖然とした。
シリウス。
息が詰まりそうだった。うそ、嘘だ。彼が、すぐそこに。愛しいあの人が、永遠を誓うつもりだったあの人が。あなたを失ったあの頃のまま。今、私の目の前に。
「
」
二年前のあの頃のまま。彼が私の名を呼んだ。
「……」
まるでその応えを恐れるかのように、ひっそりと。
そのまま俯いて黙り込んだシリウスを見て、ジェームズはもどかしそうに声をあげようとした。だがそれよりも、彼の方へと少しずつ足を踏み出していた彼女が口を開く方がより速かった。
「……ごめん。ごめんね、シリウス」
顔を上げたシリウスはひどく驚いた様子で瞬きした。彼の真正面へと立ってから、は背の高い彼を真っ直ぐに見上げる。溢れ出す涙はいつの間にか収まっていた。
「護ってあげられなくて、ごめん。私のこの力なんて、戦うためにしか使えなかったはずなのに。悔しかったよね。悲しかったよね。本当ならこれから、やっとこれから、あなたはあの子と幸せな家族として生きていくはずだったのに」
「違う」
今度ははっきりと、シリウスが言い返す。は意表を突かれて目を丸くした。
「悔しかった。悲しかった。歯痒かった。でも俺は、後悔してない。ハリーは生き残った。お前もこうして生きてる。ヴォルデモートは今度こそ完全にいなくなった
だから俺は、後悔なんてしてない。俺は護られたかったわけじゃない。護りたかったんだ、あの子を。そして、お前を」
「……私は……私だって……」
護られたかったわけじゃない。護りたかった。大切なものを。大切な人たちを。それなのに。
誰もを失ってしまった。私の永久の宝石
輝かしかったあの頃の、確かな証を。
再び溢れ出した涙を拭おうと両手を持ち上げると、それよりも先に自分のものではない指先が頬に触れた。身に染みるほど温かい
それは確かな温もりを持った、シリウスの右手。ねえ、どうして。どうしてなの。あなたは確かに、死んでしまったんじゃないの?
「……ねえ、どうして?あなたは……死んだんでしょう?だからあの屋敷の所有権があの子に引き継がれた。それなのに、ねえ、どうして?」
彼のその手に触れることは、できなかった。もしもこの手を伸ばしたその先に、本当は彼が
存在しなかったら?
僅かに目を細めて、その優しいグレイの瞳に彼は憂いの色を落とす。
「……ああ。俺は確かに死んだ。本当は、まだ死ねないはずだった。でもあの人が
俺のことを、見つけ出してくれたから」
「……ねえ、何を言ってるの?あなたらしくもない……そんな、抽象的なこと言って。あの人って誰?《死の間》のベールの向こうには、一体何があるの?」
彼の反応がもどかしく、急かすようにして訊いたが、シリウスは困った顔で小さく首を振った。
「……悪い。死の秘密は、誰にも言えないことになってるんだ。それを条件に、俺はあの人に救ってもらえた」
「いいじゃないか、パッドフット。僕たちだってついさっきに生まれ変わりの話をしたところだよ。はこれまで十分に人間の生き死にについて考えてきた。神様だってそれくらいのことは許してくれるさ」
シリウスは非難がましくジェームズを見たが、やがて諦めたように肩を竦めて頷いた。
「……普通、死ぬと人間の魂は肉体を離れてまた新しい別の肉体に宿るんだ。その記憶は一新されるが、忘れ去られるわけじゃない。心の奥底に眠っているだけなんだ。だから俺たちもこうして、再び以前の姿で現れることができた。
だが俺は、肉体ごとベールの向こうに落ちた。だから本来ならそこに漂ったまま、いつか必ず訪れる『死』をただ待っていなければならなかった。魂は肉体を離れなければ決して生まれ変われないからな。かといって、生の世界に戻ることもできない……俺はどうすることもできずに孤独の中で、『その瞬間』を待っていた。
でもあの人が
信じられないかもしれないが、『神様』が。そんな俺を、見つけてくれたんだ。そして死に損ないの俺を、真っ当な『死』に導いてくれた。だから俺は今、こうしてここにいられる」
「……分からないよ。ねえ、どうして?どうしてあなたが、ここにいるの?これは夢?いつかは覚めるの?そして私はまたあなたたちがいないことに気付いて愕然とするの?」
震える声で、呟いた。ねえ、こうして私を喜ばせておいて。あなたたちはまた、さよならも言わないで私を置いていってしまうんでしょう?
すると瞼を伏せたリリーが、再びその明るい緑色の瞳を覗かせて囁いた。
「ねえ、。これが夢かどうかなんて、そんなに重要?今私たちは、あなたの目の前にいる。それだけのことじゃ、いけない?」
そんな哀しそうな声で、訊かないで。だって、だってそうでしょう。あなたたちは死んだはずなのに、こうして私の前に立っている。一度失っただけで、もう十分なの。もうあんな思いは、二度と。
涙を堪えようと、きつく目を閉じて唇を噛んだ。すると驚くほどあっさりした口調で、ジェームズが言ってきた。
「だったらもう、生きるのを止めるかい?」
思わず目を丸くして、彼の顔を見つめる。シリウスとリリーも虚を衝かれたようにジェームズを見、拳を握ったリリーは頬を染めて憤慨した。
「なに言ってるの、ジェームズ、あなた
」
「そんなに辛いと思うなら、止めてしまえばいい。また別の人生を歩めるのだと、今のなら知ってるんだから」
リリーは憮然とした顔でジェームズを睨み、やがてを見た。シリウスは当惑した様子でジェームズとを交互に見つめている。口を閉ざしたが何も言えないでいるのを見て、ジェームズは小さく笑った。
「できないだろう。だって君はハリーと約束したんだ。あの子のためにも、これからも生きると」
ああ、まったく。は額に手を当てて深々と嘆息してから、徐にジェームズを見やった。
「……やっぱり、敵わないな。プロングスには」
「やだな、僕に勝とうなんて百年早いよ、ポーレス。そうだね、百年くらい経ったらまた挑んでくれたっていいよ。楽しみに待ってるからさ」
とジェームズは、声を潜めて喉の奥で忍び笑いを漏らした。それは子供の頃からの、二人だけに分かる暗号で理解し合ったときのようなあの不思議な息遣い。あまりにも懐かしく、あまりにも愛おしく。は何度も笑いながら涙を零した。
一頻り笑い終えた後、不可解な顔で眉を顰めているシリウスとリリーに視線をやる。
「
私、生きるよ。これからも。まだこの世界には、リーマスもいる。ハリーも、ネビルも。マクゴナガルもハグリッドも、他にもたくさんの大切な人たちが。私、生きてるんだもの。これからも、大切な人たちの幸せそうな笑顔を見ていたいから。私、これからも生きるよ、きっと」
きっと。それは単なる、口約束かもしれない。けれどもそれが、他のどんな契約よりもきっと。
三人の姿を交互に見つめて、涙混じりに微笑む。みんなが死んでしまっても。見守っていてくれること。今の私なら、分かるから。だから。
その時ふと、別のところから気配を感じては瞬時にそちらを見た。先ほどまで誰もいなかったはずのそこに、また新たな人影が現れていた。はっとして息を呑む。出逢ったことはない。けれどもそれは、いつだって彼女の心の中に生き続けた人。
「……お母さん」
母は子供の頃に古びた写真の中で見た、あの若々しい姿のままそこに静かに立っていた。ずるい、ずるいよ、みんな。私ばっかり、これからもずっと、年を取っていく。
無意識のうちに飛び出したを、母は温かい腕でしっかりと抱き留めてくれた。ずっと、ずっと追い求めてきたのはこの温もりだった。母は私を護るために、この命を落としたのだ。家族を護るためにその手を汚すことを決めた。母は、母はいつだって
。
「ごめんね、」
言って彼女は、涙で腫れ上がったその透き通った眼差しでの顔を覗き込んだ。母は私よりも、少しだけ背が高かった。
「辛い思いをさせて、ごめんね。私が父を説得できれば良かったの。それができないのならせめて、私の手で終わらせてあげれば良かったのに。まさか……まさか、こんな悲しい戦いになるなんて、思ってもみなかった」
「違う、お母さんは悪くない。私が馬鹿だったの。私が非力だったの。私もお母さんと同じことを思った。でもどうしても、あの人を止められなかった。私がもっと早く、そのことに気付いてあげられたら、あの人は……あの人は……」
母は最後の最後まで、あの人の更生を望んでいた。家族として、それができると信じていた。私もまたそうすべきだったのだ。どうして、気付いてあげられなかったのだろう。
いつの間にか、母の傍らには父の姿もあった。それはが知っているよりも、随分と若い姿形をしている。けれども彼女にはすぐに分かった。父は彼女の記憶にあるどんなものよりも、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お父さん……ごめん、ごめんね。護ってあげられなくて、ごめん。何も言わずにいなくなっちゃって、ごめんね。私、どうしようもない親不孝者だったよね。ごめん、ごめんね……何もしてあげられなくて、ごめん……」
「
もういい、。いいんだ。お前が苦しみ続けていることの方がずっと、私たちにとっては辛い」
「そうだよ、。君はもう、十分に償ってきたんだ」
父の言葉に頷いて、ジェームズがそのあとを続ける。は溢れ出す涙に阻まれて、それ以上は何も言えなくなってしまった。ああ、どうして。現れた彼らは、決して恨み言を言ってはくれない。
泣いている間、みんなはただ黙って私のことを見守っていてくれた。ジェームズ、リリー、シリウス、そして愛しい家族
父と、母と。私はこんなにも、たくさんの愛に護られて、こうしてここまで生きてくることができた。
ありがとう
本当に、ありがとう。
ようやく顔を上げたは、振り向いて優しくこちらを見つめるシリウスを見た。
「……お父さん、お母さん。今まで、一度も紹介できなかったけど」
そしてゆっくりと、父と母を振り返る。
「シリウスだよ。シリウス・ブラック。私が生涯でただ一人、ずっと一緒にいたいって思えた人」
シリウスはこれでもかというくらい目を丸くして、石のように固まってしまった。それを見てジェームズは冷やかすように笑い、リリーがきつい眼差しで窘める。は気恥ずかしい気持ちを抑えながら、ゆっくりとシリウスのところへ足を運んだ。
硬直したまま動かない彼を見て、くすりと笑ってみせる。
「シリウス。私、言ったよね。すべてが終わったら、私からプロポーズさせてほしいって」
そして僅かに視線を落とし、小さく噴き出した。
「だけどあなた、先に逝っちゃうんだもの。だから……だから……」
込み上げてくる涙を押し止めて、はなんとか微笑んだ。
「生まれ変わったらもう一度。私、必ずあなたを見つけるから」
たとえこの人生で、あなたと添い遂げられなくても。
「だからプロポーズの言葉は、その時までお預け」
ようやく金縛りの解けたらしい彼は、潤んだ瞳で一度だけ瞬きしてを見下ろした。そのグレイの眼。不器用で、いつだって優しいあなたのその眼差しを、私は子供の頃からずっと。
「ありがとう、シリウス。あなたを愛して、愛されて。私は本当に、幸せだった」
過去形にしなければ。彼らはもう、永遠に戻らない。
こうしてかつての親友たちの存在を強く感じると。思い出す。何もかも。初めて出逢った頃のこと。共にあの城で駆けずり回ったこと。喧嘩を繰り返したこと。彼への想いに気付いたとき。血筋のこと。父のこと、母のこと。好きだと彼に、伝えた瞬間。何もかもすべて、あなたが。あなたたちがいたから。
「私、あなたを
あなたたちを愛せたこの世界で、これからもきっと生きていく」
ありがとう。本当に。やはりこの世界はどこまでも醜く
そしてまた、美しい。
「
先生」
唐突に聞こえた母の声で、は目を開いた。誰もが振り向いて彼女の視線の先を見つめている。もまたそれを追いかけ、そこにアルバス・ダンブルドアの姿を見た。
いつだって、私にいくつもの選択肢を与えてくれた人。自分を殺せと、あまりにも残酷な命令をセブルスに下した人間。私はあのとき、確かにダンブルドアを憎んだ。
けれども、今となってはもう。
母は一歩前へと踏み出し、日本人特有のやり方で深々と頭を下げてこう言った。
「先生。を
この子を見守ってくださって、愛してくださって、本当に、本当にありがとうございました」
するとダンブルドアは、あまりにも哀しそうな眼で、微笑んだ。
「立派な娘さんじゃった。君によく似た、とても
強い子じゃった」
やめてくれ。私は数え切れないほどに、つまずき、立ち止まり、そして迷い続けてきた。それをここまで生きてこられたのは、すべて。
口を閉ざして涙を零すを見て、ダンブルドアは愛おしげに瞼を伏せた。
「わしはのことを、とても誇りに思うよ」
「
はい……」
頷いた、母のその一言に。たまらなくなって、はその場に蹲った。膝を抱え、溢れ出した涙を手のひらに覆い隠す。彼女は声をあげて泣いた。あまりにも胸がいっぱいになって、子供のようにしゃくり上げて泣いた。
私の生き様は羞恥だらけだというのに。ずっと焦がれてきた母にそんな言葉をかけられて。は堪えきれなくなって、激しく啜り泣いた。そしてこれからは、決して父に、母に、誰にも恥じないで済むように心を決めて生きようと、思った。
行かなければ。やっとのことで立ち上がったは、これから魔法省に出頭しなければと、幽霊とも実体ともつかない彼らに別れを告げた。
「……また、ここに来ても構わない?」
訊ねると、寂しそうに微笑んだジェームズは軽く首を振った。
「来るなとは言わないよ。だけど君には、君の生きる人生がある。僕たちを忘れないでいてくれることは、とても嬉しいよ。だけど僕たちは、今を生きる君を縛りたくはない」
「そんな……そんなつもりじゃないよ。分かってるよ。だけど」
「ねえ、。忘れないで。確かに私たちが、こうしてあなたの前に姿を見せることができるのは稀なことよ。でも、あなたが忘れないでさえいてくれれば、私たちはいつだって、あなたの傍にいる。だから、約束して。もう、ここへは来ないと」
リリーの言葉に、は息を呑んだ。だがそれを引き継ぐようにして、母もまた頷いてみせた。
「ええ、。そうしてちょうだい。過去に囚われて、前に進めなくなる人は多いわ。私たちは誰も、あなたにそうなってはほしくない。大丈夫。たとえ目には見えなくても、私たちはいつも、あなたと一緒にいるから。分かるでしょう?私の心は、いつだってずっとあなたの傍にいた」
は涙の滲む眼で母を見た。確かにその通りだ。彼女の守護霊は子供の頃からずっと、一匹の蛇だった。それはいつだって、母がすぐ傍で私を見守っていてくれたということ。私はそれを知っている。
は不安げな眼差しで、続いてシリウスを見た。彼はその顔に少なからず寂しそうな色を浮かべてはいたものの、どこか決然とした面持ちで力強く頷いた。それを見てもまた、心を決めた。
「……分かった。もうここへは来ない。約束する」
誰もがほっとしたような、それでいて哀しそうな顔をして微笑んだ。歩き出した彼女は、しばらくして振り向いて彼らを見る。
「私、見送られるのって気恥ずかしくてあんまり好きじゃないの。知ってるでしょう?」
すると彼らは自然と笑い、肩を竦めてジェームズが言った。
「よく分かったよ。それじゃあ、僕たち一足先に行くから。、身体にはくれぐれも気を付けてくれよ?」
「元気でね、」
「」
彼らは口々にの名を呼んだ。再び溢れ出しそうになった涙を抑え、最後の憎まれ口を叩く。
「分かったから。早く行ってよ、恥ずかしいから!」
そして大股で歩き出した彼女を、シリウスの吠えるような声が呼び止めた。
「!」
どきりと心臓が跳ね上がるのを感じて、足を止める。彼女は振り返らなかった。けれども、構わないということだろう。彼の声だけが追ってくる。
「……幸せに、なれよ」
振り向いて、思わず怒鳴りつけそうになった。幸せになれ?あなたのいない世界で?それがどれだけ残酷な言葉か、あなたには分からないのか。
だが振り向いたは、涙を零しながら歯を見せて笑った。
「みんなが見ててくれるから。だから私、もう十分に幸せだよ。ばか!」
最後にこれくらい、言ったっていいだろう。ばか。ばかばかばか。
彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑って軽く右手を挙げてみせた。ばか。本当に、ばか。ばか。
今度こそ意を決しては歩き出した。ベンサムが待っている。ハリーもリーマスも、トンクス
もとい、ニンファドーラも。ハグリッドもマクゴナガルも、みんな、私を待ってくれている。ハリーがすべてをみんなに語って聞かせてくれたのだ。彼らは、そうせざるを得なかったからダンブルドアを殺したのだと。どのみちダンブルドアは指輪の呪いで死ななければならなかった。それならば、と。それは命懸けの、ダンブルドアの命令だった。
話を聞いたとき、マクゴナガルはあのタータンチェックのハンカチで鼻水を拭きながら泣いた。ハグリッドは「お前さんはとんでもねえ大馬鹿野郎だ」といって、おろおろと泣いた。ニンファドーラは大泣きしながらマクゴナガルを宥め、リーマスは静かに涙を流しながら、ただ一度だけの頬を叩いた。
驚いたが何も言えずに唖然としていると、彼は厳しい眼差しで囁いた。
「
君は、結局最後の最後まで、たった一人で背負おうとして」
彼はダンブルドアを失った悲しみに涙したわけではない。彼女のために、泣いてくれたのだ。
「……ごめんなさい。でも、言えなかった。そんなことを言ってしまったら、誰もが止めたでしょう。それじゃあ計画はうまくいかなかった。帝王のところへ潜り込むこともできなかった」
「ああ、分かるさ。きっとその計画を予め聞いていれば私は何としてでもそれを止めようとしただろう。でも、どうして君ばかりがそんな辛い責務を負わなければならなかった?私たちは仲間だったろう。それを、一人で憎まれ役を買って出て……いつもそうだ。君は昔からずっとそうだった」
「……私だけじゃない。私にはセブルスがいた。だからきっと、耐えられたのよ。私たちが、やらなければならかった。だって私たちは
過去に犯した自らの過ちを、悔いていたから」
セブルス。そう、私には、彼がいたから。
俯き、唇を噛んだ彼女の身体を、そのイメージからは遠くかけ離れた力強さでリーマスはきつく抱き締めた。いつだって彼は、割れ物でも扱うようにそっと、抱き寄せてくれたのに。今度ばかりはすべての力を込めて。のことを抱き締めた。
「もう二度と、こんな馬鹿な真似はしないと誓ってくれ。三度目はないよ。分かってるね?」
「……うん。もう、しない。あなたを、失望させるようなことは」
「本当に、分かってるね?」
「……うん。約束します、ルーピン先生」
畏まった口調でそう告げると、そこでようやくリーマスは表情を緩めた。ごめんね、リーマス。苦しめて、悩ませて。信じてくれて
本当に、ありがとう。
禁じられた森を足早に立ち去ろうとしたは、確かに靴底に違和感を覚えて足を止めた。何だろう。足下を見下ろし、目を凝らした彼女は地面にきらりと光る何かを見つけて腰を屈めようとした。
するとそこへ、突然背後から声が降ってきた。
「触れないでください」
予想していなかった呼びかけに、思わず飛び上がって振り向く。気付かなかった。目の前に、一頭のケンタウルスが厳しい顔をして立っていた。
「……フィレンツェ。あなたが、どうしてここに?」
「あなたを追ってきました」
「でも、あなたは戻った方がいいわ。他のケンタウルスにでも見つかったら
」
「私のことはご心配なさらないで。それよりも、あなたはその指輪に触れない方がいい」
指輪。はっとして足下に視線を戻すと、それは確かに見覚えのある古びた指輪だった。マールヴォロの
スリザリンの、指輪。どうして、こんなところに。
「どうして?これはスリザリンの指輪だわ。私は彼の最後の子孫よ
その私が、どうして触れてはいけないの?」
「その指輪には、あなたの予期せぬ魔法が込められています。その魔法に心を掻き乱され、我を失った魔法使いが大勢います。だからあなたは、それを置いて早くこの森を立ち去った方がいい」
「私は!私は……スリザリンの末裔であることで、人生を狂わされた。無くさなくてもいいものを数え切れないほど失ってきた!くだらない、血筋なんかに惑わされて……そのことを忘れないためのきっかけが必要よ。こんなところで見出せたのも運命だわ。私はこの指輪を持ち帰る」
「
『復活の石』です。あなたはそれをご存じのはずだ」
ぴたりと動きを止めて。はフィレンツェを見た。復活の石。まさか
これが。帝王が杖の次に求めて止まなかった、死の秘宝。
「あなたは彼らと、前を向いてこれからも生きていくことを誓ったのでしょう。それならばそんなものは、置いて去る方がずっといい。忘れてはいけません。でもあなたには、そんなものは不要のはずです」
は呆然とその指輪を見下ろした。死の秘宝。復活の石。それはこんなにもすぐ傍にあった。私たちには何も、見えてはいなかった。
肩を落とし、は首を振る。
「……そうね。そんなもの、私には要らないわね」
そしてケンタウルスの紅い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは何もかも、知っていたのでしょう」
フィレンツェは悲しそうに首を振ってみせた。
「惑星は多くを我々に教えてくれます。ですがすべてを見通すことなど、ケンタウルスにも、そしてあのダンブルドアにさえも不可能です。すべてを知っていたならば、我々はそれを避けるための術を探るべきだった」
「……そうね。先のことは誰にも分からない。決して」
あの頃、誰がこんな未来を予測しただろう。それを知っていたならば、もっと他の道を選ぶべきだったのだ。それを。
「ありがとう、フィレンツェ。私、もう戻るわ」
「ええ。あなたにもきっと、ご多幸のあらんことを」
もう一度ありがとうと告げて、彼女は再び歩き出した。スリザリンの指輪を飛び越えて、仲間たちの許へと。ナルシッサたちも待っている。そしてドラコも。彼らは生き延びてくれた。良かった。本当に、良かった……。
しばらく歩いたところで、再び。背後から、ひっそりとした声を聞いた。
「
」
今度はさほど、驚かなかった。彼ならばきっと姿を見せてくれると、予測していたから。
彼は青年時代の姿を取って現れた。ああ、本当にあなたは。ずるいわ。そんな姿で現れられたら、私は。何も言えなくなってしまうでしょう。涙の滲む眼を開いて、彼女はピーターと向き合った。
「……、ごめん。本当に、ごめん」
は小さく笑って首を振った。
「ううん。私も悪かったの。あなたの気持ち、分かろうとすべきだった。今なら分かるわ。あなたが苦しみ抜いたことも、あの子を護ってくれたことも。ごめんね、ピーター。愛してくれて、ありがとう」
彼は一瞬大きく目を見開いたが、すぐにその瞳に大粒の涙を宿して啜り泣いた。ああ、まったくもう。あなたっていう人は。昔から、そう。
「……ありがとう、。ありがとう」
そして薄れゆく姿の中で、とても哀しそうに微笑んだ。
「
僕は君のことが、大好きだったよ」
彼女は飛ぶように森の出口へと向かった。まずい、遅くなった。ビーグル・ブラウンの苛立つ姿が目に浮かぶようだ。だが心なしか、彼女の足取りは軽い。
もう少しで彼らの待つ校庭まで辿り着くというところで、彼女はふいに甲高い声を聞いた。
「だーかーらー!俺はそんなことやらないって言ってるだろ!」
は思わず足を止めた。すぐにまた、別の声が聞こえてくる。
「馬鹿なこと言うんじゃないの!そんなことじゃいつまで経っても独り立ちできないじゃないの!」
「いいの!俺はそんなことしなくたって生きていける!」
「そんなことできるわけないでしょう!親がいつまでも生きてると思ったら大間違いよ!」
きーきーと口煩く怒鳴り散らしているのはどうやら母親らしい。は無意識のうちにその場にしゃがみ込んで、彼らのやり取りに耳を澄ませていた。声はここから少し離れたところを移動しながら言い争っているようだ。
「だったら俺はその辺の草でも適当に食って生きてく!」
「馬鹿な子!この子、あの人より馬鹿だわ!まあ、どうしましょう!」
「うるせえ!そうだ、あの馬鹿親父、人間の友達がいるって言ってたな。だったら俺だって人間の一人や二人、引っかけてそいつに獲物をせがんで生きていってやる!」
「あんた、あの人のそんな与太話、まさか信じてるの?人間の友達なんて、あんた、そんなものいるわけないでしょう!くだらないこと言ってないで、獲物を捕る練習でもしてなさい!」
「はあ、うぜえ!いい、もういい、俺は草だけ食って生きていく!」
「この馬鹿息子!」
ゆっくりと立ち上がったは、茂みの向こうを二匹の蛇がするすると通り抜けていくのを見て思わず噴き出した。
大丈夫。私はこれからもきっと、この美しい世界で生きていける。