トンクスと共に大広間に飛び込むと、地獄の体相を呈するその部屋は静寂に満ちていた。数え切れないほどの子供たちが床に倒れ、辺りには血生臭い空気が漂っている。生き残った人間たちが群れたその固まりの中心には、一定の距離を置いて対峙した二つの人影が見えた。誰もが息を呑み、遠目にその様子を見守っており、の存在に気付く者はいない。

「誰も手を出さないでくれ」

張り詰めた緊張感の中、ハリーのその声はやけにはっきりと彼女の耳にも届いた。

「こうなるべきだったんだ。僕がもっと早く終わらせるべきだった」

すると、古の杖を構え、不気味に微笑んだ帝王が向かい合うハリーを舐めるように見た。

「ポッターは分かっていない。自分の立場というものを。今宵は一体誰がお前の盾となってくれるのだ?」
    私がいます」

その言葉は、自然と口から飛び出していた。私こそが、もっと早くにこうするべきだった。自分のこの手で終わらせねばと思い立ってから、一体どれほどの月日が流れたろう。どれだけの犠牲を払ってきた?何のために、こんなにも多くの子供たちを死なせねばならなかった?あの日夢に見たディゴリーの死に顔が思い浮かんだ。どうして、一体何のために無垢な命が絶たれていったのか。
命よりも大切だと思えた掛け替えのない人々を、失ってまでも。

人々は一斉に振り向いてを見た。帝王はその唇に残忍な笑みをたたえ、蛇そのものの紅い瞳でゆっくりとこちらを向く。もうその首にはあの大蛇は絡まっていない。

「お前がポッターの盾になるか?それでこの小僧を救えると?」

彼の眼差しがあまりにも狂気に溢れていたので一瞬怯みそうになったが、彼女はその場に踏み止まって真っ直ぐに帝王を見返した。

「私の力では、誰も救うことはできません。こんなにも多くの犠牲を出してしまった後です……とても、そんな大層なことは言えません。でも私は、どうしてもその子だけは死なせるわけにいかないのです」
「この小僧がお前の『親友』たちの子供だからか?自分が死なせた奴らへの贖罪か何かのつもりか」
    否定はしません。確かに私は、彼らを死に追いやりました。最後まで、私を信じてくれた彼らを。だから、たとえ差し違えることになったとしても    あなたは、私がこの手で」

震える手で握り締めた杖を掲げると、闇の帝王は甲高い声をあげて笑った。

「それならばなぜ俺を殺さなかった。この一年、俺に止めを刺す機会などいくらでもあったろう。殺そうと思えば殺せたはずだ。なぜそうしなかった」

ははっとして目を見開いた。杖を持つ右手が愕然と上下する。だが彼女が口を開くよりも先に、鋭い眼差しで帝王を捉えたハリーが叫んだ。

「もうやめてくれ!僕はこれ以上、誰にも死んで欲しくない。僕が終わらせる。そうしなければならないんだ。だからあなたは手を出さないでくれ」
「で    でもあなたは    

そして彼はに何も言わせぬまま、叩きつけるように言った。

「分霊箱はもうない。お前と、そして僕だけだ。『一方が残れば他方は生きられない、そしてどちらかが永遠にこの世を去るだろう』……」
「『どちらかが』?」

喉の奥で忍び笑いを漏らし、目を細めた帝王が囁いた。

「それは貴様だ。分かっているだろう。『偶然にも』生き残った男の子よ。なぜならそれは、ダンブルドアが裏で糸を引いていたからだ。それ以上でもそれ以下でもない」

今度はハリーが冷ややかに笑う番だった。憐れむように口元を歪め、告げる。

「『偶然』か?僕の母さんが僕を護って死んだことが」

ぞくりと、背筋を冷たいものが駆け巡った。リリー。私の、大切な人。最悪の出逢いを果たしたはずの私を、いつも陰で見守っていてくれた。私がプライアたちの標的にされた時も、ジェームズたちと喧嘩をした時も、血筋のことで苦悩した時も。いつだって、傍で護ってくれていた。泣いてくれた。怒ってくれた。最後まで    こんな私を、心から信じ抜いてくれた。
そんな彼女が、どうして愛する息子のために命を懸けないなどということがあろう。

「『偶然』か?僕があの墓場で戦うことを決めたのは。『偶然』か?今夜僕が自分可愛さに逃げ出さなかったことも、生きてこうして戦いの場に戻ってきたことも」
「『偶然』だ!」

苛立たしげに、帝王が声を荒げる。彼は歯を剥き、血走った眼でハリーを睨み付けた。

「単なる偶然と幸運と、貴様が自分よりは多少ましな人間の背後で縮こまっていたという事実だけだ!そして貴様は、この俺様にそいつらを殺させることになった!」
「今夜はもう、これ以上誰も死なせない」

はっきりと強い口調でハリーは言い切った。

「お前は二度と他の誰も殺せやしない。分からないのか?僕はみんなが傷付かないようにと、喜んで死のうとした」
「だが貴様は死ななかった!」

こめかみに血管を浮かび上がらせて怒鳴る帝王に、ハリーは落ち着いた様子で言いやった。

    そうしようとした。僕は、母さんが僕のためにしてくれたことと同じことをしたんだ。みんな、お前からは護られてる。気付いていないのか?お前がかけたどんな呪文も彼らには効いてない。お前は彼らに決して触れられない。自分の犯した失敗から何も学ばなかったんだな、リドル」

その最後の言葉に、帝王は大きく反応した。リドル。トム・リドル。彼の、本当の名前。

「貴様    
「トム・リドル。僕はお前が知らないものを知ってる。お前が知らない大切なものをたくさん知ってるんだ。もう一つ大きな過ちを犯す前に、それを聞いておいた方がいいんじゃないか?」

憤怒に顔を歪めた帝王はそこでようやく静かに嘲笑し、握った杖先を僅かに上に上げた。

「また『愛』か?」

そして一人で満足したようにくつくつと笑ってみせた。

「ダンブルドアお得意の解決策だな。愛。奴はそれが死をも克服すると言ったが、『愛』は奴が塔から落ちて蝋人形のように脆くも崩れ去るのを止められなかった。そうだな、。『愛』はスネイプの手からあの老い耄れを救ってはくれなかった」

は答えなかった。ダンブルドア。アルバス・ダンブルドア。空っぽだった私の人生を、瑞々しい潤いで満たしてくれた人。私が    私たちが、死なせた。けれど。

「お前は間違ってる」

言って、ハリーは再び帝王の視線を捉えた。

「ダンブルドアは賢明な魔法使いだった。お前よりもずっと優れた人間だった」
「奴は弱い、単なる老い耄れに過ぎなかった!この俺様の方がより高度な魔法を数多く知っている、それが何よりの証拠だ!」
「ダンブルドアは全部知っていたさ。ただ、彼にはお前が散々してきたような真似をしないという分別があった」
「それは奴が弱かったということの証だ!弱すぎたから何もできなかったのだ!」
「違う。彼はお前よりもずっと賢明だった。ずっと素晴らしい人間だった」
「そのアルバス・ダンブルドアを、貴様は死なせた!貴様のせいだ、貴様のせいで奴は死んだ!」

唾を散らす帝王に、ハリーはにべもなく告げた。

「お前はそう思ったろう。でもお前は間違ってる」
「ダンブルドアは死んだ!奴は大理石の墓の中で腐っていた    そうだろう、。誤魔化し様がないはずだ。俺は見た、奴は確かに死んだ!二度と戻らん!」

思わず瞼を閉じて、きつく唇を噛む。そう、確かにあの夜、私はセブルスと共にダンブルドアの腐乱死体を目撃した。帝王が吹き飛ばした棺桶の下から、無惨にもその姿が覗いていた。帝王はその様を見て笑った。私は    たとえ責務を果たすためだとしても、その悪行に目を瞑った。
ごめんなさい、先生。ごめんなさい    だけど、私は。

「ああ、ダンブルドアは死んだ」

静かに、ハリーはあとを続けた。

「だがお前が殺させたわけじゃない。彼は自ら死ぬことを選んだんだ。お前が自分の召使いだと信じ切っていた男にそうさせた」

は耳を疑い、慌てて顔を上げた。今、何て。あの子は今、一体何と言ったか。
帝王は嘲り、細めた紅い瞳でハリーを見据えた。

「何を子供じみた夢を見ている?ダンブルドアはスネイプが殺した」
「そのセブルス・スネイプは決してお前の召使いなんかじゃなかった。彼は芯からダンブルドアに忠実だった。お前が僕の母さんを殺した、その瞬間からだ。気付かなかったのか?まあ、お前には理解できないものだからな」

今度は彼の口からはっきりとその言葉を聞いて、は当惑した。どうして。なぜあの子が、そのことを知っているの。おかしい、そんなはずはない。そのことは誰も、知らないはずなのに。案の定、彼女のすぐ傍にいたトンクスや離れたところにいるマクゴナガルたちも、呆気にとられた様子でハリーを見ていた。

「あ……あなた、どうしてそれを    
「お前はスネイプの守護霊を見たことがないのか?リドル。彼の守護霊は鹿だ。僕の母さんと一緒だった。スネイプは人生のほとんどすべてを懸けて僕の母さんを愛してた。子供の頃からずっとだ。お前はそれに気付くべきだった」

まさか、まさかそんな。そのことは誰も知らないはずだった。恐らくきっと、自分とダンブルドア以外は。そしてジェームズもまた、そのことには気付いていたのだろう。彼らの間には決して相容れないものが存在するということは子供の頃から分かっていたが、それがリリーを巡る恋愛感情に由来するものだと気付いたのは、卒業間近、彼から閉心術の訓練を受けている最中のことだった。
彼の記憶の中に、リリーの姿を見た。傍らで、心底楽しそうに微笑んでいる。彼女がセブルスにそういった表情を見せているのを目撃したことは一度もなかった。むしろ他の誰かが近くにいる場合、二人は互いに知らない振りをしていたのだろう。幼い頃のことは分からない。だがきっと、年を重ねるにつれて周囲の目を気にかけたり、寮の壁を気にするようになったのだろうと思う。そういえばシリウスが悪ふざけのつもりでセブルスを死なせかけた時、リリーの憤慨ぶりにはただならぬものがあったし、怒った勢いで彼女は一度だけ、の前で彼を「セブルス」と呼んだ。

だから彼はハリーの眼を見る度に、言い知れぬ深い感情に見舞われるのだった。姿形はジェームズにそっくりで、でも見上げたその瞳はリリーのもの。つらかっただろう。苦しかったろう。それでも彼は、最後のその瞬間まで立派にあの子を守り通した。
でもどうしてそれを、ハリーが。

帝王は嘲笑を崩すことなく、愉快そうに肩を揺らした。

「奴は確かにあの女を欲していた。だが、それだけだ。あの女が死んでから、奴は女は他にもいると言った。もっと純粋な女だ。奴にとっては、穢れた血などよりもずっと価値のある    
「もちろんお前にはそう言ったろう。でもスネイプはお前が僕の母さんの命を脅かして以来ずっとダンブルドア側のスパイだった。お前を倒すために動いていた。ダンブルドアはスネイプが彼を終わらせたから死んだんだ」
「そんなことは問題ではない!」

帝王は激しい口調で捲し立てた。瞬時に暴発したらしい彼の魔力が大広間の天窓を何枚か吹き飛ばす。頭上に散らばって降ってきた窓ガラスの残骸を、は杖を一振りして取り除いた。

「スネイプが俺様のものであろうとダンブルドアのものであろうと、そんなことはどうだっていい!奴らが俺の前にたとえどんな障害を置こうとも、俺はスネイプが『偉大なる愛』を捧げた貴様の母親の時と同じように、それらを悉く打ち砕いてきたのだ!」

声の調子はそのままに、帝王は続ける。

「ダンブルドアは俺様を古の杖から遠ざけようとした。スネイプが真の主人となるように仕向けたに違いない。だが俺様は現にこうして杖の主人となったのだ!俺様は三時間ほど前にあのセブルス・スネイプを殺した。『古の杖』、『死の杖』、『運命の杖』……もはやこれは、本当に俺様のものとなった!ダンブルドアの最後の計画は失敗だったな、ハリー・ポッター!」

ああ、セブルス……やはり、そう、あなたは先に逝ってしまったのね。ずっと、一緒だった。いつでも傍で、支えてくれていたのは紛れもなくあなただった。ごめんなさい。私はあなたに、何もしてあげられなかった。ごめんね。本当に
    今までずっと、ありがとう。

驚いたことに、帝王のその言葉にも、ハリーは顔色一つ変えなかった。その決然とした顔付きは、ほんの少しだけ
    あの老人に、似ていた。

「ああ、そうだろうな。でもお前が僕を殺そうとする前に、一つだけ教えてやるよ、リドル」

さらに目つきを鋭くした帝王が噛み付くようにしてハリーを睨んだ。

    貴様……」
「いいか、ダンブルドアの最後の計画は決して僕に跳ね返ってきたわけじゃない。リドル、お前にだよ」

するとその瞬間、古の杖を握る帝王の手が確かに一度だけ震えた。微かに口角を上げ、ハリーが告げる。

「その杖はまだ正常には作用していないんだろう?なぜだか分かるか?お前は誤った人間を殺したからだよ!セブルス・スネイプは古の杖の真の主人じゃなかった。彼はダンブルドアを倒してはいないんだからな」

は目を見開いてじっとハリーの顔を見た。今、何て。セブルスが、杖の真の主人じゃなかった?

「奴は確かに    
「聞いてなかったのか?スネイプはダンブルドアを倒してはいない!ダンブルドアの死は彼らの間で計画されたものだった!ダンブルドアは自分が倒されずに死ぬように画策したんだ!杖の所有権が自分を最後に消滅してしまうようにと。もし計画がすべてうまくいっていたら、今頃杖の魔力はダンブルドアと一緒に消えていたはずだったのに。だって彼は、『負かされた』わけじゃない」

まさか    まさか、まさかそんな。セブルスは古の杖の主人ではなかった。それならば、どうして。どうして彼が死ななければならなかったの?

「だがダンブルドアは俺に杖を渡したも同然だ、そうだろう、ポッター!俺はこの杖を最後の所有者の墓から奪ったのだ!最後の所有者の意思に反して!ならばその力は俺様のものだ!」
「まだ分かっていないようだな、リドル。杖を『ただ持っているだけ』では真の所有者にはなれない。オリバンダーの言葉を聞かなかったのか?『杖は持ち主を選ぶ』……古の杖はダンブルドアが死ぬ前に新しい主人を選んだ。その人物が杖を手にすることはなかったけどな。その新たな所有者はダンブルドアの意に反して彼の杖を取り上げた。まさかこの世で最も危険な杖の所有権が自分に移っただなんて知らずに……」

動悸が次第に速まっていく。どういうこと?古の杖の真の主人はセブルスではなかった。他にダンブルドアを武装解除した者がいる。そういえば私がセブルスと共に天文台の塔に上がった時、彼は既に杖を持っていなかった……。

「古の杖の真の所有権はドラコ・マルフォイにあった」

    ドラコ!ああ、そうか。そうだったのか。彼はダンブルドア殺害という任務を負っていた。彼を武装解除するところまでは成功したものの、その先に進むことができずにああして硬直していたのだろう……そうか、そうだったのか。この一年、あの子からはできるだけ目を離さないようにと気を付けていた。だが今夜はあの混乱の中、見失ってしまった……無事だろうか。護ってやれなかった、愛しい、あの子は……。
帝王は一瞬その瞳に衝撃の色を浮かべたが、すぐにそれを消し去って嘘のように穏やかな声で囁いた。

「それがどうした。たとえ貴様の言っていることが正しかったとしても、貴様と俺様にとってそこに一体どんな違いがある。貴様には不死鳥の杖がない。技だけの決闘だ……そして貴様を殺したその後で、ドラコ・マルフォイを殺ればいい……」

そんな。だが思わず前へと飛び出そうとしたを遮るようにして、ハリーの言葉が続いた。

「いや、もう遅すぎたな。お前はチャンスを逃したんだ。僕は何週間か前にドラコ・マルフォイに打ち勝った。この杖を彼から取り上げたんだ」

ははっと息を呑んだ。距離を置いて二人を取り囲んだ面々はまったく意味が分からずに不可解な顔をしているが、彼女にはすべてが分かった。ハリーの持つ杖、それは確かにドラコが入学した時から使っていたものだった。

「お前が持っているその杖は、真の主人が誰なのか、きっと分かっているだろうな。そう……僕が古の杖の、本当の所有者だ」

今度ははっきりと、帝王の顔に衝撃が走った。だがそれを振り払うように頭を振った彼は握り締めた杖を掲げ、すべてを終わらせるためのその呪文を唱えた。はっとして飛び出したの呪文は、間に合わない。
ハリーもまた、対峙した帝王へとドラコの杖を突きつけて叫んだ。

アバダ ケダブラ!
エクスペリアームス!

一瞬にして、眩いばかりの様々な光が大広間を満たした。大地を揺るがすような震動、衝撃。思わずぐらついた体勢を立て直しては顔を上げる。すっかり霧散した光の中で、彼女は先ほどまで杖を構えてそこに立っていた男が今や無惨にも床に伏しているのを見た。その脇には、杖を握り締めたままのハリーがだらりと肩を落として立ち尽くしている。

しばらくの間、そこにいる誰もが動かなかった。だがやがて、帝王の死を確信した人々は歓喜の声をあげて飛び上がる。周りの人間たちと笑顔で両手を打ち鳴らし、安堵感に咽び泣いた。

けれどもは、伏した彼の姿を見つめたまま、呆然とその場に佇んでいた。

「やった!終わった、終わったのよ……ハリー、あの子がついにやったのよ!」

傍にいたトンクスが涙ながらに声をあげて隣のレイブンクロー生と抱き合っている。はそれをまるで彼方のことのように思いながら、ゆらゆらとふらついた足取りで前方へと歩き出した。
そのことに気付いた人々は動きを止め、じりじりと後ずさりながら彼女に道を譲る。あっという間に明け渡された道を進み、彼女はゆっくりと帝王の許へと歩み寄った。

振り向いたハリーが、何も言わずに真っ直ぐこちらを見ている。喜びに沸き上がった広間は、再び重々しい静寂に包まれた。
やっとのことで帝王の許へと辿り着いたは、そっと、その傍らに膝をつく。古の杖は彼の手を離れ、少し離れたところに落ちていた。砂塵まみれの床に倒れた帝王は、恨めしげに眼を見開いたまま確かに事切れていた。
帝王の目論見は、失敗に終わったのだ。杖の所有権はハリーにあった。古の杖は、真の主人を護って呪文を跳ね返したのだろう。
分霊箱は、もうない。彼もまた、こうして死に絶えた。

史上最悪の闇の魔法使いと呼ばれた闇の帝王は、ここに確かに、終わったのだ。

「……帝王」

無意識のうちに手を伸ばし、彼女は恐る恐るその右手を握った。まだ温かい。だって彼は、ついさっきまで、ここにこうして生きていたのだから。

「我が君……私たち、気付くべきだったんです。人を救えるのは、確かに、愛しかなかったんだって」

胸を焦がすほどの涙が溢れ出た。たまらなくなって、握り締めた彼の両手に額を押し当てる。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。私、結局はあなたに何も教えてあげられなかった。
今ならば分かる。あの予言の本当の意味が。闇の帝王がその血を継ぐ者と手を結んだその時、闇の帝王は無敵の存在となるだろう。

確かに私のこの血は、帝王により強力な魔法を与えた。そういった意味においてもアレクシスの予言は間違ってはいなかったろう。だがあの予言の真意は、そんなことではなかったはずだ。だって帝王は    現にこうして、ハリーの前に倒れてしまったのだから。
あの予言が真に意味するところは、そんなことではなかった。帝王の知らない強力な、力。それを知ったその時、彼は真に最強の魔法使いとなることができようと。

彼に『愛』を教えてあげることができるのは、それは私しかいなかったはずなのに。

帝王は強力な魔法使いだった。力に貪欲で好奇心も強く、勇敢でそして頭も良かった。そんな彼に一つだけ欠けていたもの、それが    愛。
愛を知れば則ちそれが、彼を真に無敵の存在と言わしめることになったろうに。予言はそのことを示していたのだ。

どうして気付いてあげられなかったのだろう。彼は確かに、『愛』を欲していた。私にはそれが分かる。この一年、ずっとすぐ傍で彼の姿を見てきたのだ。引き戻すことができたとしたらそれは、最後の『家族』であるところの私だけだったはず、なのに。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

嗚咽混じりに繰り返すの背後で、突然鋭い声が飛んだ。

だな!『例のあの人』の孫……筆頭の死喰い人    

慌てて涙を拭いて振り向くと、人だかりの中から一歩前へと進み出ていたのは見知らぬ一人の魔法使いだった。黒髪の中年男で、そのローブの胸元には古びた魔法省の紋章がついている。彼が取り出した杖を彼女に向けようとしたところで、別の方向からさらに声が聞こえた。

「待ちなさい、ビーグル。彼女には私から確認したことがある」

姿を現したのは、金色の髪にいくらかの白髪をたたえた初老の魔女だった。その青い瞳はまるで矢のように鋭く、見る者を萎縮させる強い力を持っている。はそれが何者なのかを知っていた。彼女のローブにも、ビーグルと呼ばれた魔法使いのものと同じワッペンがついている。その魔女は同僚から彼女へと素早く視線を移した。

「私は魔法法執行部のジェーン・ベンサム。。この一年、私のところにずっと闇の陣営の情報を流し続けてくれていたのはあなたなんでしょう?」

は帝王の手を掴んだまま、何も答えなかった。ベンサムの言葉に誰もが目を丸くして、人々はざわめく。それが収まるのを待ってから、彼女は静かにあとを続けた。

「今夜戦いが始まる前に、まだ『あの人』の手に落ちていない魔法省の仲間を集めてホグワーツへ来ることができたのも彼女の情報があったからよ。だから予め、多くの子供たちを避難させることもできた」

人々は一斉にを見た。ぼろぼろになった生徒たち、かつての騎士団の仲間。一年前のあの夜以来、誰もが彼女を蔑み、憎み、裏切られたと感じたはずだ。それらの眼差しが今や当惑の色を浮かべて彼女を見つめていた。
僅かに声を落として、ベンサムが言う。

「あなただったんでしょう?私にはすぐに分かったわ。あの子がアニメーガスになるのを何度も見たことがあったから。私は    まさかあの子が、帰ってきてくれたのかと、思った……」

彼女の瞳に大粒の涙が浮かぶのを見て、はそっと瞼を伏せた。だがベンサムは決してそれを零すことなく、再び人々に聞かせるための声を張り上げた。

「彼女はこの一年、ずっと闇の陣営の情報を私に流してくれていた。それを活かしきれなかったのは私の責任だわ。咎はこの私にもある」

そしてはっきりと、告げた。

「私、魔法法執行部参事官ジェーン・ベンサムがの身元引受人となる。彼女は命を懸けて闇の陣営の動向を探ってくれていた。そのことは私が証明する。文句がある者は私に言いなさい」

ざわつく人々の声を飛び越えるようにして、そこでようやくは口を開いた。

「やめてください」

ベンサムは目を見開いて彼女を見た。ああ、あの夜。はっきりと軽蔑の色を宿して私を見据えたの眼で。だが今は。

「お気持ちは有り難いです    とても。でも……私は、私は……」

とても、そんなものを受け取るわけにはいかない。だって、私は。

たまらなくなって、飛ぶように立ち上がったは意表を突かれた人々を尻目に大広間を飛び出した。だめだ。やっぱり私は、どうしてもあんなところにいるわけにはいかない。だって、帝王は死んでしまった。もう、ダンブルドアも、シリウスもセブルスも    もう誰も、残ってやしない。みんな、私よりも先に逝ってしまった。
ベンサム。母の、親友だった魔女。私、やっぱり無理だよ。あなたに認めてもらえた、そのことは素直に嬉しいと思える。でも、もう私は。

辿り着いた校庭の片隅で、彼女はようやく足を止めた。振り向くと、遠目にはホグワーツ城はいつものように穏やかな時間を持っているようにも見えた。だが違う。多くの子供たちが犠牲になり、そしてとうとう、闇の帝王が命を落とした……彼はやっと、『人間』に戻ることができたのだ。それなのに。

ピーターを死なせた。ベラトリクスを殺した    セブルスを、死なせた。

「私は……私は一体、何をやって!」

何ひとつ。何ひとつできないまま。

「たった一人で……こんな世界に、たった一人で!私は、どうすればいいの……!」

ずるい、ずるいよセブルス。あなたは、たった一人で楽になって。
この美しい世界で、私は一体どうやって生きていけばいいの。

そう    たくさんの人たちに出逢って、気付いた。どれだけこの手を汚しても、数え切れない訃報に嘆いても。この世界は眩しくて、美しい。
だから私は、この世界で生きていくわけにいかない。

(無理だよ、そんなの……私にはもう、何も残されていない)

生きていけるはずがない。そんなこと    できっこない。
司法は公の場で私を裁くだろう。そして裁判官の裁量で刑罰を科すだろう。それは死刑かもしれない。懲役かもしれない。だがそんなものは    私にとって、何の意味も為さない。

誰にも裁けない。私の犯した最悪の罪は    自分のこの手で、始末をつけなければならない。

先ほど帝王の手を握り締めた手のひらをじっと見つめてから、は森の奥へと向けてゆっくりと歩を進めた。セブルス。彼の死んだ場所。禁じられた森のどこか。セブルス    私、やっぱりこんな世界で、たった一人では。

    待ってください」

歩き出して数歩。背後から掛けられた声に、はその時まで気付きもしなかった。振り向くことができない。見られない    彼の、顔だけは。

「どこに、行くんですか」

開きかけた唇をゆっくりと閉じ    はやっとのことで、重々しく後ろを振り返った。
彼は一人で、そこに立っていた。ドラコの杖を握り締めたまま、ぼろぼろの足を引き摺るようにして彼女の目の前に。

「じきに魔法省の惨事部も到着するでしょう。あなたも事情聴取を受けることになる。それなのに、一体どこへ行こうというんですか」

静かに流れる風の音に紛れそうな声音で、彼はそう言った。その緑色の澄んだ瞳は、まるで何もかもを見透かしているようで。
いつの間に、彼はこんなにも。

口を噤んだまま何も答えないでいると、彼は握った杖をゆっくりと持ち上げて真っ直ぐに彼女を狙った。目を細め、はじっとその様子をまるで他人事のように眺める。

彼は深く吸い込んだ息を吐き出すとともに、囁くように告げた。

    行かせない。あなたにはまだ、やるべきことがあるはずだ」

ぴくりと身じろぎして、はようやく身体ごと青年に向き直った。透き通った緑の瞳。彼女のあの、力強い綺麗な眼差し。
彼は杖をしっかりと構えたまま、半歩だけこちらへ歩み寄ってあとを続けた。

「僕はスネイプの記憶を見た。死に際の彼は僕に自分の記憶を託したんだ。僕はダンブルドアの記憶も見た。彼はあなたに関する記憶を残していた。僕はあなたたちがどうしてダンブルドアを殺さなければならなかったかを知ってる。悔いているのなら、あなたは生き残った者として、それを公の場で証言して償うべきだ」

ああ、それで。だから彼は、セブルスが彼女を愛していたことを知っていたのか。そんな大切な記憶をこの子に託したなんて……セブルス、やっぱりあなたは。

は瞼を伏せ、仰ぎ見るようにして澄んだ星空を見上げた。生き残った者として、証言し、償いを……。
償えるなんて思っていない。闇の世界に堕ちたのみならず、たとえ彼の命とはいえダンブルドアを死なせた。いつだって信じ、赦し、認め、その大きすぎる懐で抱き留めてくれたあの人を。私はセブルスと共に、この手で。

あの時の杖の重みを思い出すだけで、今でもこの身体中に震えが迸る。

乾いた唇を引き結び、形振り構わずその場を立ち去ろうとしたを彼の思い詰めたような叫びが引き止めた。

「もう逃げないでくれ!」

はっとして    何とかそこに、踏み止まる。全身を駆け巡る動悸に呼吸を荒げながら、は何も言えずに呆然と立ち尽くしていた。
ゆっくりと、一歩ずつ青年がこちらへと歩みを進めてくる。

「あなたはいつだって    いつだって、苦しみながらも戦ってきたんじゃないか。そうやってまた何も言わずに、みんなの前からいなくなろうとするなんて……そんなの、勝手だ!自分だけ楽になろうとして……自分だけ、何もかも棄てようとして!そんなこと……シリウスが許すとでも思ってるのか!」

心臓が奇妙に跳ね上がるのを感じて、は慌てて胸元を押さえた。そんなもので抑えられるはずもなく、噴き出す汗が頬を伝って零れ落ちる。
彼の瞳が滲んだ涙で揺らいだが、それでも彼は気丈に言葉を続けた。

「あなたにはまだ、やるべきことがあるはずだ。それを果たすまで    死ぬなんて、僕は絶対に許さない」
「………」

ああ    やはり、この子は。いつまでもあの、我侭な子供のままではなかった。

まだ慎重に杖を構えたまま、彼ははっきりと言い切った。

「僕に、教えて欲しい。あなたがシリウスと    そして僕の両親と、共に過ごした時間のことを聞かせて欲しい。僕は知りたい。シリウスたちの一番近いところにいたあなたの口から、それを聞きたい。あなたにはまだ、やるべきことがあるはずだ」

まったく予想外のことを聞かされて、は驚きのあまりただ呆然と彼の瞳を見返すことしかできなかった。今、何て    どうして、そんなことを。

彼は視線を落として僅かに背後の城を振り返り、一瞬だけ唇を歪めたが、それを振り払うように顔を上げて言った。

「生き残ったあなたにはそれができる。あなたにしかできないんだ。シリウスにあなたしかいなかったように。だから今でも彼のことを想ってるのなら    シリウスのためにも、そうして欲しい。彼らの言葉を、僕に伝えて欲しい。だから死なないでくれ。僕のためにも、これからも生きて欲しい」

まさか    まさか、そんなことを。
あなたに、そしてあなたの大切な人たちに何もできなかったこんな私に。
いつの間に、あなたはこんなにも。

「……私」

ようやく絞り出した声は今にも消えてしまいそうで、は咳払いをして喉に詰まったものを吐き出そうとした。

「私は……自分の意思で、死喰い人になった。そしてあなたのご両親を死なせたのよ?ずっとあなたにつらく当たって……あなたの大切な名付け親を、みすみす死なせた    ダンブルドアを殺した。それなのに……私が、生きていていいの?私が    私さえいなければ、あなたは今でも幸せな家族に囲まれて暮らしていたはずなのに」
「それは違う」

はっきりとそう言いきったハリーは心底悔しそうに息巻いた。

「確かにあなたは自ら死喰い人になった。予言を聞いて僕の両親を死に追いやったかもしれない。でもシリウスの死にあなたは無関係だし、ダンブルドアは遅かれ早かれ死ななければならなかった。僕はあなたが思ってる以上にあなたたちのことを知ってるんだ。ルーピンもハグリッドもマクゴナガルも、ダンブルドアだってたくさんのことを僕に教えてくれた。あなたがいなければシリウスたちはアニメーガスにならなかったし、僕の両親が結婚することだってなかった。そしたら僕はこの世に生まれてすらいなかった!」

呆然と黙するに、僅かに声の調子を落ち着かせた青年は続けた。

「あなたがいなければなんて、そんなことは在り得ないんだ。あなたがいたから父さんと母さんは結ばれた。あなたがいたから僕がいる。あなたがいたから……だからシリウスは、シリウスでいられたんだ。シリウスが僕にあなたのことを、何て聞かせていたか知ってますか?」

奇妙に脈打つ鼓動に意識を奪われそうになりながらも、は涙で霞んだ眼をしっかりと見開いて彼を見た。ここで逸らしては    いけないと思った。

は、俺のすべてだって。今まであいつを信じられなかった分、たとえこの先は何があってもあいつのすべてを信じていくんだって。そう思える相手に巡り合えた俺はきっと幸せなんだって」

それを聞いた途端、堪え切れなくなったものが何もかも溢れ出た。握っていた杖を取り落とし、その場に蹲って頭を抱える。狂ったように声をあげ、は噴き出す涙が零れ落ちるに任せた。
馬鹿、馬鹿、馬鹿    こんな、こんな私のことを。何がすべてよ。あなたには他にいくらだって、掛け替えのないものがあったじゃない。

「私だって……あなたしか、いなかった……」

私には、あなたしかいなかった。
そんなあなたといられないのなら、使命感だけで生きていくしかなかった。
どうして、どうしてこんなことになってしまったの。

どこでボタンを掛け違えた。どこまで巻き戻せば、私はあなたと今も一緒にいられるの?

「生きてください」

そっと彼女の背を叩いたハリーは、そう言って哀しそうに微笑んだ。
十数年ぶりに触れた彼の温もりは    彼女の心を溶かすのに十分な熱を帯びていた。

触れてはいけないと、ずっと拒み続けていたその温かさ。

「あなたのすべてを許すことは    できないかもしれない。でも僕は、シリウスたちの思い出を大切にしたい。だから僕に、力を貸して欲しい。シリウスたちの記憶を僕に伝えてください。あなたが刑を終えるまで、僕は何年だって待っています。シリウスだって僕の両親だって、それにダンブルドアだってそれを望んでいるはずだから」

ああ、あなたはいつの間にこんなにも。
もっと早くに、認めてあげるべきだったかもしれない。私が目を逸らしたから。あの赤ん坊が今ではこんなにも、素晴らしい青年に成長したことを。

(当たり前じゃないか。だって僕の自慢の息子だよ)

声が聞こえた気がしてはっと顔を上げ    眼前の青年が、あまりにかつての親友に似ていることに驚いた。涙で滲んだ瞳を、ほんの少しだけ細める。

(ああ……本当だね、ジェームズ)

あの子はこんなにも、あなたに似てしまったよ。
昔からそうだったのかな。私がただ、否定したかっただけ?あの二人にそっくりだって、みんなが口を揃えて言うのに反発したかっただけ?

(ごめんね、リリー。こんなにも……時間がかかってしまって)

やっとここから、新しい一歩を踏み出せるから。だから。
答えてくれなくてもいい。ただこれからも    この子をずっと、見守っていてあげて。

(ありがとう、

彼に差し出された手を軽く掴んで立ち上がったところで、今度こそ声が聞こえた気がして空を見上げる。涙を見せてはいけない    汚れたローブの袖で、慌てて目元を拭った。
そこには瞬く星々以外、何も見えなかったけれど。

    行きましょう。みんな、待ってます」

呟いて、歩きかけた彼の後ろ姿を見つめながら、はローブの上からそっと左腕の印を撫でた。あの髑髏はこれからもずっと、永遠に私の未来を脅かす。けれども。
私にはまだこれから、為すべきことが残されているから。
セブルスの分もなお、この印を背負って生き続ける。

あなたたちの息子が、こんな私に生きろと言ってくれたの。あなたたちとのことを、聞かせてと。
ねえ    いいのよね。あなたたちとの大切な記憶を、幸せだった時間としてあの子に語り聞かせてもいいのよね。
伝えたいことはいくらでもある。それをあの子に語り尽くすまでは    どうしたって、死ねない。
いつか必ず、あなたたちの許へ行くから。
だからその時に、不平不満、愚痴だって何だって聞いてあげるから。

それまでは、ねえ、みんな。

たった一人だとしても、私はこの美しい世界でこれからもずっと、生きていくよ。