あった    これが、レイブンクローの王冠に違いない。だがは、どうしてもそれを持ち帰る気にはなれなかった。こんな、こんなものがあるから。だから帝王は、いつまで経っても『人間』に戻れないのだ。
ねえ、レグルス。あなたは気付いていたんでしょう。だからあの本を部屋に隠しておいたんでしょう。彼は自室の天井裏にホークラックスについて記されている本を何冊か隠していたが、本気で知られたくなかったのなら処分するなりもっと発見され辛い場所に移すなり対応を変えたはずだ。きっと、心のどこかでは見つけて欲しかったに違いない。だから、だからあんなところに。

彼女はそれを壊そうとしたが、何の呪文をかけても王冠はびくともしなかった。『アバダ ケダブラ』すら効かない。は途方に暮れたが、最終的にはそれをあの子に託すことを決めた。ハリー・ポッターはこれまでに帝王の分霊箱をいくつか破壊したという。そのための手段を、彼は既に手に入れているということだ。それならば、あの子に任せるしかない。彼女はそれを分かりやすい場所に置きなおし、簡単なメモを添えて足早に『必要の部屋』を出た。

戻りの道は、先ほどよりも随分と楽に進めた。どちらの側も激闘に疲労したらしく、互いに身を潜めてしばしの休戦状態に入っているらしい。一階に下りるまでに何人かの遺体を跨いだが、はそれらを見ないようにして帝王の待つ校庭へと戻った。

覚悟は決めていた。必ずレイブンクローの王冠を持ち帰れという命令を受けながら、私は手ぶらで戻ってきた。既に分霊箱はありませんでしたとだけ告げ、は磔の呪いを甘んじて受け入れた。こちら側に戻ってきてから、こうして罰を受けるのは初めてだ。ミスを犯したことなどなかった。
耐えろ。この程度の痛みが、なんだ。私が人々に与え続けてきた痛みは、こんなものではないはずだ……。

何度か立て続けに磔の呪いをかけて、ようやく気持ちを落ち着かせたらしい帝王は、興奮気味に息を吐きながら囁いた。

「もういい……先手を打たれたものは仕方がない。ならば今すぐに、スネイプを連れて来い」
「……ス、ネイプ……ですか。なぜ……彼は、今まさに……城で……ホグワーツの人間と……戦って……」

帝王はますます険悪に目を細め、地面に仰向けに倒れたままのを見下ろした。しまった……怒り狂った帝王に、質問はご法度だ……。

「……も、申し訳、ありません。分かりました……すぐに、スネイプを……」
「ああ、いいだろう。、知りたいのなら教えてやる」

言って帝王は、無造作に彼女の髪を掴んで軽く引き寄せた。後頭部に走った痛みに、思わず顔を歪める。彼はもう片方の手で掴んだダンブルドアの杖    『古の杖』を掲げた。

「俺はとうとう手に入れたと思った。焦がれていた最高の杖……死をも克服するという、『古の杖』だ」
「……はい。そしてあなたは……それを、手に入れられた」
「だが、。それは決して万全ではなかったのだ」

意味が分からず瞬いた彼女に、帝王はさほど間を置かずにあとを続けた。

「伝説には続きがあった……『古の杖』、それはただ手に入れるだけでは真の主人にはなれない。万全ではないのだ……どこかで俺を、拒絶しようとする」
「……どうすれば、良いのですか」

帝王の深い眼差しが、意地悪く彼女を覗き込んだ。

「『古の杖』はその主人が戦闘によって命を落とした場合にのみ次の所有者へと引き継がれる。前回の所有者を倒した人間だけが、新たな杖の主人となりえるのだ」

瞬間、の胸に言い様のない冷気が流れ込んだ。まさか    まさか、そんな    そんな。
目を見開いて硬直した彼女を見て、闇の帝王は冷たく笑った。

「さすがは俺の血筋だ。物分りが良い」

そして乱暴に彼女の髪を離し、今度はその顎を掴んだ。

「俺がこの杖の真の主人となるには、ダンブルドアを殺したスネイプを殺るしかない。幸運に感謝するんだな。もしもお前があの男を殺していたならば、俺はお前をこの手にかけねばならなかった」
「そんな……我が君、それだけは!お願いです、どうか、それだけは……!」

涙を零して懇願するに、帝王は彼女の襟首をきつく掴み上げて唸った。息が……、苦しい……。

    分かっていたぞ。お前がスネイプに執着していたことは」

そしてそのままの勢いでの上半身を引き上げ、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。

「だが俺はこれまであの男を生かした。感謝してもらっても良いくらいだ」

溢れ出た涙で視界がぼやける。それでも、帝王の瞳が決して冗談を言っているわけでないないことなど、一目瞭然だった。

「この場で選べ。俺を取るか、スネイプを取るか」

そんなこと。選択の余地なんて、ない。
瞼を伏せ、零れ落ちる涙が収まるのを待ってから、は噛み締めるように告げた。

「……分かりました。スネイプを、呼んでまいります」

にやりと笑んで、帝王はようやく彼女のローブを離した。
セブルス、セブルス、セブルス……。

校庭の隅から城へと戻るの足取りは例え様もないほど重かった。セブルス。セブルス。嘘だ。信じられない。思えばこの生涯、最も長く共に時を過ごした同志だった。一年目のホグワーツ特急。キングズ・クロス駅のホームで唐突に声をかけられた。邪魔だ。そう、彼は開口一番そんな失礼なことを吐いてのけた。何よ、あんたの邪魔になるようなところに立ってるつもりなんかかけらもないんだけど。僕の進路上にいる。はっきり言って、邪魔だ。はっきり言いすぎだ、この馬鹿。礼儀ってものを知らずに育ったのかこの野郎。そういえば、私は彼の入学前の生い立ちを何一つ知らない。

どうして何も、訊かなかったのだろう。どうしてもっと、突っ込んだ話をしなかったのだろう。今になって分かった。私にとって彼は、同じ罪を背負った同胞というだけではない。

私はセブルスのことが、大好きだった。

もちろん、シリウスに対する気持ちとは違う。愛を誓ったのは生涯で彼ひとり。けれども私は、確かにセブルスのこともまた愛していた。そうでなければ、こんなにも長い時間を共に生きてこられたはずがない。共に負った使命。そして二人で、歩もうと決めた。すべてを終わらせる、その日まで。

それなのに。それなのに。彼は私を置いて、一人で旅立とうとしている。いやだ、そんなの、いやだ。お願い。置いていかないで。たとえ他の誰が先に逝ってしまっても、あなただけは。私を見捨てないと誓って。

城の戦闘は再開されていた。何とか光線の間を潜り抜け、セブルスを探す。お願い、見つからないで。どこかへ消えてしまっていて。だが、分かっている。彼は決して逃げ出さないし、私は彼を連れて帝王のところへ戻る。選択肢などない。そうするより、他に道はない。覚悟は決めたはずだった。

、貴様!」

彼女に気付いた騎士団のポドモアが失神術を仕掛けてきたが、は渾身の力を振り絞って全身から噴き出さんばかりの旋風を放った。

邪魔を    するな!

それはこれまで放ってきた他のどんな魔法よりも強力だった。優に半径十メートルほどは激しい突風が吹き荒れて敵味方の区別なく人々を吹き飛ばす。その中にセブルスがいないことを願いながら、彼女は上階へと足を進めた。もっとも、すぐ傍の階段は先ほどの呪文で崩れ落ちてしまっていたので、自らに高度な浮遊の呪文をかけて少しずつ上へと移動していく。
しばらく闇雲に走り続け、はとうとう探していた人物を見つけた。

「セブルス!」

彼は騎士団のジョーンズにシャックボルト、そしての見覚えのない魔女を相手にたった一人で戦っていた。さすがに苦戦を強いられていたようだが、の登場に不意を衝かれて騎士団員たちが一瞬動きを止めた途端、とセブルスはほとんど同時に呪文を放ってシャックボルトたちを吹き飛ばした。

「セブルス!早く!」

彼は僅かに不可解な顔をしたが、黙って彼女のあとについてきた。そのすぐ後ろを、持ち直したジョーンズたちが追ってくる。馬鹿な。この城は、私たちの庭だ

は突き進んだ先の角を曲がり、その脇にある隠された小部屋へとセブルスを連れて飛び込んだ。外を複数の足音が通り過ぎ、それらが完全に遠ざかったのを確認してから小さく息をつく。

「……どうした」

ひっそりと、彼がそう訊いた。セブルス。それだけのことでまた泣き出しそうになり、は膝を抱えて蹲ったままきつく目を閉じた。

「こんなところで油を売っている暇はないぞ。連中が動いている」
    セブルス」

押し殺した声で、彼の名を呼んだ。セブルス。セブルス。本当は永遠に、ずっとこうしていたかった。当たり前のように彼の名を呼んで。当たり前のように彼が返事をしてくれる。それが、当たり前の日常だった。

「……どうした」

静かに。セブルスが繰り返した。ああ、やめて。私にそれを、言わせないで。

「セブルス……セブルス、」

言えなかった。何も。そんなこと、私にどうやって。

「言うことが何もないのなら、俺は行くぞ。こんなところで遊んでいる暇はない」
    待……、って!」

立ち上がりかけたセブルスのマントをすんでのところで掴み、は声をあげた。やめて、行かないで。私を置いて……いかないで。
物憂げに溜め息を漏らし、セブルスは再び腰を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。

「……何なんだ。一刻も無駄にはできん。こうしている間にも、命を落としている子供たちがいるんだ」

分かっている。分かっている。私たちは、ダンブルドアと誓った。必ず、子供たちを護ると。けれど。

「セブルス……逃げよう。どこか、どこか遠いところ……帝王の手の届かないような、どこか遠い国へ。私、もう……耐えられない……」

堰を切ったように涙が溢れ出た。もう、何もかも棄てて逃げ出したい。セブルスを失うくらいなら。ダンブルドアとの約束が何だ。この国が帝王の手に落ちようが知ったことか。私には、セブルスがいなければ。

「ふざけるな」

冷え切った軽蔑を滲ませて、セブルスは吐き棄てた。

「逃げたければ一人で逃げろ。三年前、お前はカルカロフに言ったな。私はこの城を決して離れない、逃げたければ自分ひとりで逃げろと。その言葉、そっくりお前に返す」
「待って、セブルス!お願い、話を聞いて!」

彼女の腕を振り払い部屋を出て行こうとしたセブルスを何とか引き止めて、はようやく震える声を絞り出した。

「あの方が!あの方が……あなたを、殺そうとしてる」

ドアノブに手をかけたセブルスはぴたりと動きを止め、彼女が拘束した手の中で一度だけ小さく身震いした。

「帝王はあなたを殺すつもりでいる……ダンブルドアの杖、あの杖の真の主人となるには前の持ち主を倒さなければならないの。あなたはダンブルドアを殺したわ……だから今、あの杖の所有権はあなたにあるの。そのあなたを殺さなければ、あの方は決して『古の杖』の真の主人にはなれない。私はあなたを連れ戻るようにというご命令を受けてここへ来た。あなたを……帝王に、殺させるために!」

彼はこちらに背を向けたまま、しばらく黙り込んでいた。は彼の左腕を掴んだその手が震えるのを止めることができなかった。いや、いやだ。私はあなたを失いたくない。帝王を打ち倒すなんて、もう、そんなことはどうだっていいの……。

ようやくひっそりと口を開いたセブルスは、平生とまったく声の調子を変えずに訊いてきた。

    あの方はどこにいらっしゃる」
「……セブルス!あなた、まさか、本気で    
「仕方あるまい。帝王のご命令は、絶対だ。そうだろう」
「でも……いやよ、私はいや!あなたを失うくらいなら、私が……!」
「何がより良い道かを考えろ」

はっきりと苛立った口調で、セブルスが振り向いた。この暗がりの中では彼がどんな表情を浮かべているのか、それを見ることはできない。だが、感じることはできた。きっと、大きく外れてはいまい。

「ここで逆らってお前が殺されたところで得られるものは何一つないだろう!どのみちあの方は俺を殺そうとする。それよりお前がご命令に従って俺を差し出せば、お前はその先も帝王の許にいられる。どちらがより有益かなど議論するまでもなかろう!」
「い……いや、いやよ、そんなの!帝王が何よ、ハリーが何よ……私は、あなたを失ってまでそんなことを遂げたいわけじゃない!もういや……セブルスが死んだら、その先私は心を閉ざす自信なんてない!」

先ほどよりも力を入れて彼女の手を突き放し、セブルスは今度こそ隠し部屋のドアを開けた。

「もういい。俺が自分で探す」
「ま    待って、セブルス!」

縋りつくようにして彼のマントを掴み、は嗚咽混じりに言いやった。

「……分かった。行く……あの方のところへ、私があなたを連れて行く」

神様。どうして、どうしてこんなことに。
私は一体いつになれば、死ぬことを許されるのですか。