「が……」
「……が戻ってきた……」
「が……」
頭上のシャンデリアから微かに漏れ出す光の下で、低めた声がさざめき合う。それらもやがて、一人の男がその広間へと姿を現すとぴたりと凪のように止んだ。男は上座に用意された壮麗な肘掛け椅子へと腰掛け、そのすぐ後ろから続いて部屋の中に入ってきた女は彼の傍らで足を止める。広間の密やかなざわめきが再び静かに広まったが、男が話し始めるとあっという間に霧散していった。
「いい夜だ とても」
男は無感動にそう呟いて、肘掛けに載せた右手を軽く上へとかざした。
「、ここへ」
男が言うと、女は厳かに一礼して示された椅子に腰掛けた。闇の帝王の右隣 何人かの死喰い人は妬ましげに舌打ちしたが、何も言わせないうちに帝王は次の言葉を発した。
「全員、気付いていることと思うが。我々は遂に、長年求め続けてきたを手に入れた。この俺の血を継ぐ
愛しい孫娘だ」
誰かが嘲るように喉を鳴らしたが、帝王ももまったく気にしなかった。
「はアルバス・ダンブルドアの消えたホグワーツを去り、我々の許へと戻ってきた」
「差し出がましいようですが、我が君。が本当に我々の側に戻ってきたという確かな証拠がお有りですか?はもう二十年近くも、ホグワーツというダンブルドアの城に留まっていました。そして帝王がお戻りになられた後も、決して我々の前に姿を見せませんでした。はダンブルドアの忠実な犬 そう見るのが妥当だと思われませんか?」
その通りだという声がいくつもあがり、沸き立った長テーブルの上を通って闇の帝王の視線が発言者を捉えた。
「お前たちがそう考えるのも致し方あるまい。だが、この会合の前には既に一仕事を終えている そうだな、ルシウス?」
テーブルの中ほどに座っていた一人の男が、びくりと身を強張らせて上座を見た。
「……その通りです、我が君」
「は既にカロウたちを連れてアズカバンの解放という大仕事をやってのけた。それでは不満か?トラバーズ」
先ほど発言した男はしばし怯んだが、思い切ったように続けて口を開いた。
「しかしそれだけでは が本当に我々の側だという証明にはなりえません。帝王の血筋だという立場を利用した、ダンブルドアの手先という可能性も 」
「先生はダンブルドアを殺そうとした」
トラバーズの言葉を遮ったのは、ルシウスの隣にいた、息子のドラコだった。テーブルを囲むほとんどすべての視線がそちらを向き、ドラコは自分の発言に恐怖したように身を縮めて俯き、その傍らに座った母親のナルシッサは小刻みに震えながらも息子の肩を抱いて宥めた。
愉しげに喉を鳴らしながら、帝王が言う。
「良い、ドラコ。言いたいことがあるのなら言ってやれ」
だがドラコはすっかり萎縮してしまい、自分の膝の上で握った拳を頑なに見下ろして口を閉ざした。何人かの死喰い人たちがくつくつと笑う。
それまで静かにそのやり取りを聞いていたは、ようやくひっそりと口を開いた。
「いいのよ、ドラコ。庇おうとしてくれたのね、ありがとう」
ぱっと顔を上げたドラコは薄明かりの下、青ざめた頬を僅かに紅潮させる。そして勢いづいたように、先ほどの発言を再開した。
「先生は、ダンブルドアを殺そうとした。僕ができなかったから……だから先生が殺そうとしたんだ。結果的にダンブルドアを殺したのはスネイプだったけど……でも確かに先生だって、ダンブルドアを殺そうとしてた。あと少しだった。先生がダンブルドア側の人間なら、そんなことするはずがない」
「生憎だが、その坊主の言う通り。俺も確かに見た は、ダンブルドアに『アバダ ケダブラ』を。その時の奴の眼は、本気だった」
上座に近いところに座った大柄な男が、ゆっくりと呟く。広まりゆくざわめきが落ち着くのを待って、帝王はさも愉快そうに言いやった。
「他に何か、言いたいことのある者は?」
答えは、広間の扉が開くと同時にしめやかに響いた。
「一つだけ、宜しいですか?」
そして一人の長身の女が悠然と広間に姿を現す。誰もが一斉にそちらを向き、帝王は驚くでもなく怒るでもなく、ただ可笑しそうに唇を歪めながら言いやった。
「遅いぞ、アイビス」
「申し訳ありません。会議が少し長引きまして 」
帝王はそのことにはさほど構わず、一つだけ空いていた自分の左隣の椅子を示し、アイビスと呼ばれた女を誘った。アイビスは小さく一礼し、優雅に長テーブルを回ってその空席へと腰を落ち着ける。口にこそ出さなかったが目を見開いて唖然とするに、帝王は喉の奥で笑ってみせた。
「驚いたか?そうだろう、話は聞いている。お前はアイビスと同時期にグリフィンドール寮にいたそうだな?」
「……はい」
「我が君、私は在学当時から彼女には特別な何かがあると確信しておりました。今ここでこうして彼女と再会できましたことを、至極光栄に存じています」
用意してきたような台詞をさらりと言ってのけたアイビスに、帝王は声を立てて笑う。そして芝居がかった仕草で両手を挙げてみせた。
「実に喜ばしいことだ。この限られた我々家族の中に、『愛すべき』グリフィンドール寮の申し子が三人も。そうだろう、ワームテール?お前は子供の頃からを好いていたのだろう?無理もない、は俺の孫だ 当然、美しい。どうだ、ここでこうして再び出逢えた感動は」
半数ほどの死喰い人は堪えもせずに嘲笑い、下座に座っているずんぐりした小柄な男は目に見えて震え上がって何も言えずに縮こまる。広間のざわめきが次第に収まるのを待って、帝王の左隣のアイビスは静かに口を開いた。
「我が君、私はグリフィンドール寮であったことを決して恥じてはおりません」
闇の帝王は口元から笑みを消し、しばらく何も言わずにじっとアイビスの眼差しを捉えていたが、やがて愉しげに目を細めて低く笑った。
「そうだろう お前は、その通りだろうな。、お前はどうだ?」
帝王の紅い瞳が、ゆっくりとを振り返る。彼女は瞬き一つせずにそれを真っ直ぐ見返していたが、数秒ほどの沈黙を挟んだ後、躊躇うことなく告げた。
「私も プライア先輩と、まったく同意見です」
帝王はさらに瞼を下ろして満足げに笑い、再びその顔をアイビスへと向けた。
「アイビス。先ほど何か、言いかけていたな?」
「はい、我が君。こちらへと向かう途上、面白いものを見つけました。きっと帝王も気に入られることと確信いたします」
「ほう?何を見せてくれる?」
アイビスが取り出した杖を一振りすると、虚空に突然細長い何かが現れてゆっくりと旋回を始めた。シャンデリアの明かりが逆光になり『それ』はテーブルに暗い影を落としていたが、やがてはそれが一人の女であることに気付いた。気を失っている。
「先日帝王がお話しになっていた魔女です。予言者新聞の本部に立ち寄る仕事がありまして、その際に遭遇いたしました」
そしてアイビスは、帝王の鼻先を飛び越えてその冷ややかな眼差しをへと向けた。
「この女はホグワーツに身を置いて十年と聞きます。が本当に騎士団側の人間でないのなら、彼女を始末することなど容易いでしょう」
「なるほど な」
帝王は囁くようにそう言って、膝の上の杖を取った。彼がそれを小さく動かすと、びくりと反応して宙に浮いた女が目を覚ます。彼女はしばらく自分の置かれた状況が分からず呆然としていたが、やがて眼下のに気付くと弾けたように声をあげた。
「!これは一体……あなた、どうして……一体、今までどこに 」
「知らぬ者のために説明してやろう」
女の言葉を遮って、帝王がはっきりと口を開く。その間にどこからともなくやって来た一匹の大きな蛇が、アイビスの足元を通って彼の肩へと這い登った。
「アイビスが連れて戻ったのは、先日予言者新聞を賑わせた 『今こそ結束を』……そう、ホグワーツで子供たちにマグルのあれこれをお教えだった、バーベッジ教授だ」
「……!セブルス!ここは……」
「バーベッジ教授はマグルが我々といかに違わないかということをお教えだった……ああ、その通り。我々魔法使いが、魔法とその知識を盗まんとするそういった輩を受け入れなければならないと。勇敢にも先日、予言者新聞にてそのような説を唱えられた」
「……!」
「 黙れ」
あっという間に声の調子を変え、帝王が低く唸った。この場において初めて、彼が怒りを顕にした瞬間だった。
帝王の燃え盛る眼が、はっきりとを捉える。
「、お前のことでとにかく煩い連中がいる。そいつらを黙らせるいい機会だ。あの男の下で共に働いていた、この女を殺せ」
バーベッジは小さく悲鳴をあげ、死喰い人の何人かは嘲るように床に唾を吐いた。
「……セブルス……助けて…………!」
「黙れと言ったはずだ」
そしてもう一度帝王が杖を振ると、猿ぐつわでも咬まされたようにバーベッジは黙り込んだ。
「、殺れ」
テーブルの周りの死喰い人たちが、ニヤニヤと笑いながらその様子を眺める。絶望的な眼差しでと、そしてその隣のスネイプを見下ろしたバーベッジを見据え、は懐から杖を取り出しながらゆっくりと立ち上がった。
バーベッジの瞳が恐怖に見開かれ、その瞼から大粒の涙が零れ落ちる。帝王の肩に首を載せた蛇がけしかけるようにシャーシャーと音を出し、帝王の唇には静かな笑みが広がった。
「 馬鹿ね、あなたも」
杖先を左手の上に這わせながら、彼女は頭上でゆっくりと旋回を繰り返す女へと無感動に呟いた。
「おとなしく一人の魔女として生きていれば、こんなことにはならなかったものを」
バーベッジを見上げたままなかなか動かない彼女に痺れを切らせたように、死喰い人の一人が声をあげる。
「、穢れた血を擁護する女などさっさと殺ってしまえ。それとも、そんな女ひとり殺せないのか?」
「まあ 良い。十年も共に仕事をしていれば、多少の情はあろう。は俺に似て、とても慈悲深い女だからな」
再び何人かの死喰い人がくつくつと笑った。はまったく動じることなく、自分のペースでひっそりと言葉を紡ぐ。
「馬鹿な人。どれだけ足掻いても、時代を変えることなんてできやしないのに」
苛立ったように蛇が呼吸のような音を鳴らしたが、彼女は無視した。
「流れに身を任せていれば良かったのに。それを このザマよ。授かった命を無駄にしたわね」
「、御託はいい。早く殺れ」
「黙りなさい、ドロホフ。誰のお陰で自由の身になれたと思ってるの?」
ドロホフはカッとなって身を乗り出しかけたが、帝王が声を立てて笑ったので思い止まって椅子の上に身体を戻した。
「何の為に同僚がいるのかと、そう聞いたわね」
言って彼女は、とうとう杖を上げた。口の中で悶えるバーベッジの顔が、恐怖に引き攣って硬直する。
「『先輩』として、教えてあげる。そんなものはね、考える価値すらもないのよ」
そしてそのための、呪文を唱えた。
「アバダ ケダブラ」
瞬間、薄暗い広間一面に緑色の光が弾け散った。虚空でバーベッジの身体が大きく跳ね、音を立てて落下した彼女が長テーブルを軋ませて弾む。何人かの死喰い人は後ろに身体を反らし、ドラコは小さな悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。
声をあげて笑った帝王が、肩の上の蛇をそっと撫でる。そして到底人のものとは思えぬ声で、シャーシャーと囁いた。
それに応えるようにして、蛇が彼の肩からテーブルへと滑り落ちる。今やぴくりとも動かないバーベッジに近づくよりも先に、それはまるでの方を振り向くようにして首をもたげた。
彼女もまた荒い呼吸のような音を発してその蛇を鋭く睨み付けたが、その場にいた全員 もちろん、『帝王を除く』面々、だ は、当然その言葉の意味を理解することもなかった。