彼女は月明かりに照らされた細い路地裏を歩いていた。もうすぐ満月、か。日に日に獣らしく衝動に興奮してゆくグレイバックの姿を見るのは腸を抉られるほどの不快感を煽った。だが彼女は与えられた任務を全うするため、目的の郊外へと急いだ。通りの次の角まで突き進み、そこを右に折れてから背の高い生垣に身を隠す。そしてそれを追うようにすぐさまこちらの通りへと折れてきた人影に杖を突きつけて、彼女は押し殺した声で呟いた。

    こそこそせずに堂々と顔を見せればいいんじゃない?闇祓いかと思ったわ」

ちっと舌打ちして、黒いフードを被ったその人影は彼女の杖を避けるように身体を傾けた。彼女もすぐさまそこから杖を離し、大袈裟に肩を竦めてみせる。

「あの方のご命令    では、ないわね。あなたは謹慎処分を受けているはず。いいのかしら?こんなところを無断で歩き回っていて」
「だ……黙れ!お前を一人で行かせられるものか!」
「そう、心配してくれるのね。うれしい」

まったく抑揚のない口調で言うと、ベラトリクスはフードの下から覗く頬を屈辱に赤く染めて声を荒げた。

「ふざけるな……!お前のことなど信じられるか!あの方を信用させるために、一体どんな緻密な作り話をした?」
「あのお方があなたにお話しにならないということは、あなたはそれを知る必要がないということでしょう?」

ますます頬を紅潮させたベラトリクスは次の台詞を飲んで唇を噛んだが、すぐに不気味な微笑を浮かべてフンと鼻を鳴らしてみせた。

「スネイプと言うことは同じだな。長年寝床を共にすると性格まで似てくるか?え?」

はまったく動じることなく、余裕の笑みで目を細めた。

「そうかもね。少なくともあなたたちの寝室よりはうちの研究室の方がより色気があったんじゃないかしら?知ってるわよ。あなたたちの家って新婚当初から寝室は別だったんですってね?」

ベラトリクスは今度こそ真っ赤になって怒りのままに杖を振り上げた。は右手の杖を振って、吹き飛んできたその衝撃波を軽くいなした。

「うちの家のことは関係ないだろう!何様のつもりだ、え?」
「だったら私がセブルスと何をしようが、あなたにも無関係だと思うけど?」
「ああ、そうだな、そうだろうな!お前がスネイプと寝ようが血を裏切る『親愛なるシリウス』と寝ようが知ったことじゃないな!ああ、そうだろうとも!」

ベラトリクスが言い終えるよりも先に、は突き出した杖を相手の喉元に押し当てた。ベラトリクスはしばし息を呑んで固くなったが、すぐにニヤリと笑って舌先で不快な音を鳴らした。

「どうした。懐かしい男の名を聞いて動揺したか?え?」

は杖先を彼女の喉に突きつけたまま、声を低めて呟いた。

    言葉には気を付けることね。今は私の方がより自由度が高い    つまり私の一言の方があの方にとってあなたの訴えよりも重いのだということを忘れないでほしいわ」
「なっ……んだと!」

恫喝の声をあげたベラトリクスを、杖を首筋に突き立てる心地で黙らせてからひっそりと告げる。

「シリウス・ブラックにとどめを刺したからといって、あまり天狗にならない方が良いわよ。あんな男は単なる小うるさい蝿の一つに過ぎない。現にあなたは帝王の罰を受けて未だに行動を制限されている    二度とあの男の名を口にしてほしくないわね。耳障りだわ」

そして杖先を軽く振ってベラトリクスの身体を後方に吹き飛ばした。彼女は仰向けに地面に倒れ、半分ほど脱げたフードの下から憎悪に歪んだ青白い顔が現れる。は乱れたローブの袖を正し、何事もなかったかのように口を開いた。

「私についてきたいのなら無駄口を叩かないことね。まあ、心優しい私は決してあなたの行動をあの方に言いつけたりはしないけれど」
「……お前に何ができるって?せいぜい小間使いが関の山だろうに!」

上半身を起こして唇を歪めながら、吐き捨てるようにベラトリクスが怒鳴りつける。は僅かに目を細め、緩慢に腕を組んでベラトリクスを見下ろした。

「……知らないわけじゃないわよね?私の血をあの方は長年欲していたと」

だがそれこそが、ベラトリクスの待ち望んでいた話題だったらしい。月明かりの下に醜い嘲笑を晒し、彼女は興奮に息巻いて叫んだ。

「そういう話だったな!だが、どうだ?お前は戻ってきた    それにも関わらず、あのお方は何も仰らない!もはや用無しということではないのか?予言など、でたらめだったんだ!お前など、すぐにでも    
「あなた    本当に、何も知らないのね」

冷ややかに。失望を滲ませて呟くと、ベラトリクスは地面に尻をついたままカッと頬を染めてますます声を大きくした。

「何だって?私が何を知らないと言うんだ!私は    私は、お前がダンブルドアの懐でぬくぬくと生きている間も、ずっとあのお方を    
「あの方はハリー・ポッターを迎え撃つその前夜に私の血をお取りになることを決められた」

ベラトリクスは口を開いたまま硬直し、衝撃に固まった顔で呆然とを見上げていた。

「ダンブルドアが消えた今、あのお方の障害となり得るのはハリー・ポッターただ一人。『選ばれし者』……馬鹿馬鹿しい。でもポッターは凡庸でありながら、ほんの少しの幸運と自分より少しばかり優れた友人の力によって今まで何度もあのお方の計画を挫いてきた。私の血を取り入れて、より強力になった上で……『無礼のないよう』準備を整え、ポッターにとどめを刺すと。それがあの方の計画よ。祝福された晩に……この私の血によって、あのお方は『無敵の存在』となられる……全員知らされているものとばかり思っていたわ。宴を催すおつもりだと聞いたから。驚いたわね」

ショックのあまり、ベラトリクスは口も利けないでいるようだった。一筋の涙を零しながら、ようやく意識を取り戻して震える声を張り上げる。

「まさか、そんな……いい加減なことを言うな!私は……あのお方は、私を!」
「『私を』    なあに?遠い昔、あの方があなたを右腕とされていたことは覚えてるわよ。でもそれは、あくまで過去の話。魔法省での大失態……それについ先日、あなたの身内がとてもおめでたい門出を迎えられたわね?そのことについても、あのお方は非常に『喜んで』いらっしゃる」
「な……何の話だ!」

自分が涙を流していることには気付いていないのだろう。ただ激しい怒りと憎しみを浮かべてこちらを睨み付けるベラトリクスに、は意地悪く笑んでみせた。

「あなたの姪っ子が結婚したそうじゃないの。おめでとう。心からお祝いを言わせてもらうわ。『ニンファドーラ・トンクス・ルーピン』……なかなか素敵な名前じゃない。さぞかしこれからも素晴らしい活躍を見せてくれるでしょうね」

今度こそ徹底的に打ちのめされた顔で、ベラトリクスは涙の跡も拭わないまま大声で喚いた。

「あんな奴は姪でも何でもない!    お前    それ以上ふざけたことばかり言うと    
「なあに?『親愛なるシリウス』と同じように、殺してみる?」

ベラトリクスは勢いに任せて今にもこちらへと飛びかかってきそうだったが、すんでのところで思い止まったらしく、地面に座り込んだまま屈辱にまた涙を零した。

「できないわよね。私もそう簡単には死なない。とにかく今は、グレイバックに会いに行かなければ」

言って彼女は、ようやく踵を返して目的地に向けて歩き出した。

「ついてきたいのなら、遅れないようにね」

振り返らずに、告げる。ベラトリクスは答えなかったが、潜めた足音が少し離れた後ろからついてくるのは分かった。被ったフードをさらに目深に下ろし、通りを抜けて人気のない川辺に出る。そこでようやく、は姿くらましした。

ポンと音を立てて、姿を現した場所。

マグル街の外れにある森に向かう小道の途上で、追いついてきたベラトリクスを引き連れては狼人間たちの潜む暗闇へと足を進めた。
    ただいま戻りました、帝王」

薄暗い部屋の中、人々の熱気にむせ返りそうになる。そこには血や汗の饐えた臭いが充満し、だがそれらを愉しんでいる連中がいるのは確かだった。そして彼が跪いたその目の前の椅子に腰掛けた男の姿も、それを決して不快に思っているわけではないということは一目瞭然だった。

何しろ今宵は    偉大なる魔法使いにして最悪の敵、アルバス・ダンブルドアの消えた最上の夜。

「セブルス、御苦労だったな」

一番に労いの言葉を受け、立ち上がったセブルスは厳かに一礼して一歩後ろへと引いた。はドラコの傍らにぴたりとくっついたまま、僅かに目線を下げて静かに帝王の言葉を待つ。
次に闇の帝王が声をかけたのは、まだダンブルドアを殺し損ねた杖を握り締めたまま小刻みに震えるドラコだった。

    ドラコ」

ドラコはぎょっとして飛び上がり、落としそうになった杖を何とか手の中で握り直した。

「ドラコ    しくじったな」

低く、ゆっくりと告げたその声にドラコはまったく口が利けなくなってただ激しく震えるばかりだった。は見えないように彼の後ろで少しだけその背中を撫で、すぐに手を離した。
窓から差し込む月明かりを受けてきらりと閃いた帝王の紅い瞳が、ドラコを捉えて僅かに細くなる。彼は、笑っていた。

    まあ、そんなことはもういい。カロウたちをホグワーツに招き入れることには成功した。そのことは、評価してやる」

ドラコは驚いた様子で帝王を見たが、すぐにまた固まって動けなくなった。が一度だけ背中を弾いて促すと、ようやく深々と頭を下げて「み、身に余る光栄です!」と声をあげる。後ろの死喰い人が何人か小さく嘲笑を漏らした。

    さて」

帝王は明らかに、声の調子を変えた。その場にいた全員    といってもたかだか五、六人程度だが    が、風向きの変化に気付いた。

「俺の目に狂いがなければ、お前たちが連れ戻ったのは    、だな?」
「その通りです、帝王」

答えたのは、セブルスだった。平生と何ら変わらぬ口調で、告げる。

「大変遅くなりましたが    を、お連れしました」
「まったくだ、セブルス。俺がどれだけ待たされたと思っている?」

だが先ほどとは打って変わって、帝王の口調はどこか愉しげだった。満足そうに薄い口元を歪め、肘掛けに載せていた左腕をそっとこちらへと伸ばしてくる。顔付きこそ今ではかなり人間離れしたものに変わっていたが、その優雅な手振りはあの頃のままだった。

    来い」

は躊躇うことなくそれに従った。分かりきっていた。この瞬間が、訪れることは。
帝王の少し手前で静かに足を止めると、彼はまだ手を上げたままもう少し傍に寄るようにと身振りで示した。軽く頭を下げ、それこそ目と鼻の先まで歩み寄って立ち止まる。

は決して闇の帝王から目を逸らさなかった。しばし無言のまま、互いの視線が相手を捉える。今や蛇そのものとなった彼の紅い瞳は満足げに笑み、その左手を掴んでを引き寄せた。
椅子に腰掛けた帝王の顔に身体を屈めて近づく形になり、ほとんどキスのような距離を隔てて二人はまた見つめ合った。背後で死喰い人たちが息を呑むのが気配で知れる。だが自身はいたって落ち着いた心地でじっと帝王の眼を覗き込んでいた。

    なるほど」

ニヤリと笑んで、帝王はの腕を放した。

「……お聞きになられないのですね。私がなぜ、こんなにも戻るのが遅れてしまったのかと」

何とはなしに、訊ねる。帝王は愉快そうに肩を揺らして低く笑った。

「言い訳でも用意してきたのか?聞くことなど何もない。すべてセブルスから聞いている」

それに、といって、彼は椅子の上で僅かにこちらに身を乗り出した。

「忘れたか?俺は最高の開心術士だ    目を見ればすべてが分かる。そうだろう?」
「……愚問でした。申し訳ありません」

は目を閉じて彼の前に跪いた。もう一度その彼女の左手を取り、帝王はローブの袖を捲り上げてゆく。やがて現れた髑髏を見て、彼は心底満足そうに舌なめずりした。

「痛んだろう……俺だけの呪いをかけた。他の誰にも解けるはずがない」
「はい、帝王の呪文は完璧でした。ですが、どうしようもなかったのです。私の居場所には常に騎士団員が張りついていましたし、部屋にかけられた呪文は私が不審な動きを見せれば直ちにあの男を呼び戻してしまうものでした。どうしても、この二年あの城から抜け出すことができなかったのです」
「聞いている。だがそれも、今に終わる……」

言って、帝王は取り出した杖をそっと彼女の髑髏の上にかざした。触れることなく、だが確かにその上で何度か円を描きながら小さく呪文を唱える。
すると、一瞬焼けるような痛みが走ったもののそれはすぐに消え去り、は二年前のあの夜以来延々と苦しめられてきた呪いの痛みから、この瞬間にようやく解放された。そう、あっという間に。

「あ……りがとう、ございます。お心遣い、感謝いたします」

は帝王の左腕を取り、かつてそうしていたように、その袖を少し捲り上げて彼の髑髏に口付けた。身近な女死喰い人だけに許された儀礼の一つだった。

深々と一礼し、僅かに後ろに下がってまた跪いたを見下ろして、椅子の上に座りなおした闇の帝王は静かに囁いた。

、お前に最初の仕事をやろう。他の死喰い人を四人使っても良い。お前の好きにしろ」
「何なりと仰せください」

跪いて床を頭を下げたまま、帝王の指示を待つ。彼は声の調子をそのままに、あとを続けた。

「ドラコはよくやった    約束は守ってやろう。ルシウスたちを迎えに行ってやれ」

は驚いて顔を上げたが、帝王は顔色一つ変えずにこちらを見下ろしている。訝しげに瞬きした彼女に、彼は声をあげて笑った。

「お前はアズカバンへ行ったことがあるのだろう    やれるな?」
「は……はい、仰せのままに」

目線を下げたままゆっくりと立ち上がり、はセブルスたちの位置まで戻った。ドラコは未だに青ざめて激しい恐怖に打ち震えていた。

「それから、お前に関する予言のことだが」

彼女が元の位置につくのを確認してから、闇の帝王はこう、締め括った。

「近いうちに、宣言通り俺はお前の血をもらう。だが、まだだ    最も相応しい夜に、最も相応しい形で、この俺は生まれ変わる    、お前と共に、な」