崩れてきた天井に押し潰されそうになった身体を引き摺り、リーマスは歩いていた。トンクスが脇から支えてくれたが、彼は無意識のうちにそれを遠ざけてしまっていた。だめだ、だめなんだ。私は、彼女の気持ちには応えられない……。
ようやく医務室にたどり着くと、先に運び込まれていたネビルが手前のベッドに横たわり、ロンとハーマイオニー、ルーナが一番奥のベッドを囲んで立ち竦んでいた。扉の開いた音で三人は振り向き、彼らの肩越しに一人の男が眠っているのが見えた
ビル……。
リーマスもトンクスと一緒にそちらへと向かい、ポンフリーがきつい臭いのする緑色の軟膏を、とても整っていたはずの彼の顔に塗りつけるのを呆然と見つめていた。私のせいだ……私が、私こそがあの男を
グレイバックを抑えなければならなかったのに。
やがて再び医務室のドアが開き、ぼろぼろのハリーとジニーが姿を現した。ハーマイオニーはすぐさま駆け出してハリーをきつく抱き締めた。リーマスもビルのベッドを離れ、覚束ない足取りで彼の許へと近づいた。
「ハリー……大丈夫か?」
「僕は大丈夫……ビルはどうですか?」
誰も答えなかった。ハリーの視線がゆっくりとビルの方を向き、その緑の瞳に衝撃の色を揺らして彼はポンフリーに聞いた。
「呪文か何かで傷を治せないんですか?」
「この傷にはどんな呪文も効きません。知っている呪文はすべて試しましたが、狼人間の噛み傷には治療法がありません」
「でも満月の時に噛まれたわけじゃない」
ロンがまるで念力で治そうとでもするかのように、じっと兄の顔を凝視しながら呟いた。
「グレイバックは変身してなかった。だからビルは絶対に、
その……本物の
?」
ロンが躊躇いがちにこちらを見ていることに気付いて、リーマスは沈んだ声で言った。
「ああ、ビルは本物の狼人間にはならないと思う。だが、まったく汚染されないということではない。これは呪いのかかった傷なんだ。完全には治らないだろう。そして
そして、ビルはこれから何らかの狼的な特徴を持つことになると思う」
「で、でもダンブルドアなら何かうまいやり方を知ってるかもしれない」
言いながら、ロンは自分の思いつきにはっとしたようだった。僅かに表情を明るくして声をあげる。
「ダンブルドアはどこだ?ビルはダンブルドアの命令であの狂った奴らと戦ったんだ。ダンブルドアはビルに借りがある。ビルをこんな状態で放っておけないはずだ
」
「ロン
ダンブルドアは死んだわ」
ぽつりと。ジニーの言った言葉が、静まり返った医務室に水底のような波紋を広げた。目を見開いたリーマスは、反射的に「まさか!」と声を荒げた。そして急いでハリーに視線を移したが、彼は決してジニーの言葉を否定してはくれなかった。
ダンブルドアが、死んだ。
まさか
まさか、そんな。
リーマスはそのままベッド脇の椅子にがっくりと座り込み、両手で顔を覆った。ダンブルドアが死んだ。まさか。そんなこと、あるはずがない。まさか、まさか。それだけをしきりに繰り返し、リーマスは何とかその考えを頭から閉め出そうとした。だが、分かっている。ハリーもジニーも、こんな時にそんな冗談を言うような子じゃない。
ダンブルドアが、死んでしまった。
子供の頃から、ずっとそうだった。あの人は私のすべてだった。幼いあの日、狼男に噛まれて不治の獣となってしまった私に、父は初め、止め処もなく詫び続けた。私のせいだ、私があの狼人間を怒らせたから、だからお前がこうして
。だが、それもやがて、疎ましげな眼差しへと変わっていった。どうしようもなかったからだ。私は永遠に、この獣のサイクルから決して抜け出せやしない。
楽しみにしていた、ホグワーツへの入学も諦めた。狼人間が入学を許可された例はない。そんなことは不可能だ。誰を傷付けるか分からない
私は死ぬまで永遠に、魔法使いの社会にもマグルの社会にも馴染めないだろう。どこへ属することもできない。家族からも見放されて、私は孤独に打ちのめされて死んでゆくのだ。
だが十一歳の夏、焦がれていた一通の手紙が届いた。ホグワーツ魔法魔術学校への入学許可書
まさか!だがホグワーツの校長であるダンブルドアの遣いでやって来たという魔法使いは、予防措置さえ取れば彼が当然の権利である魔法教育を受けられないはずはないと両親を説得した。そして私は、ホグワーツという夢のような日常へのチケットを手に入れた。そこで、生涯の友と呼べる彼らに出逢ったのだ。すべてを与えてくださったのは、紛れもなくあの偉大なる魔法使い
アルバス・ダンブルドアだった。私があの人に仕えない理由が、この世のどこかにあるだろうか?
ダンブルドアは死んだ。この世からいなくなった。もう私たちを護ってくれるものは跡形もなく消えてなくなってしまった。今度こそ
生き残った、私たちが。
「……どんな風にお亡くなりになったの?」
震える声で、トンクスが聞いた。
「どうして、そんなことになったの?」
顔を上げたハリーは、短い言葉で無表情に言った。
「スネイプが殺した」
声こそあげなかったが、リーマスは手のひらから顔を上げて呆然とハリーを見た。何だって
スネイプが殺した?
「僕はその場にいた。僕は見たんだ。闇の印が上がっていたから、僕たちは天文台の塔に戻った……ダンブルドアは病気で、弱っていたんだ。でも階段を駆け上がってくる足音を聞いた時、ダンブルドアはそれが罠だと分かったんだと思う。ダンブルドアは僕を金縛りにした。僕は何も出来なかった。透明マントを被っていたんだ
そしたらマルフォイが現れて、ダンブルドアを武装解除した」
ハーマイオニーが両手で口を覆い、ロンは小さく呻いた。ルーナは青ざめ、その唇は小刻みに震えていた……。
「次々に死喰い人がやって来た
そして最後にスネイプとが
それで、それで……スネイプとが
スネイプの呪文の方が速くて、スネイプの『アバダ ケダブラ』が
」
ポンフリーはワッと泣き出したが、リーマスはハリーの顔を見つめたまま大きく目を見開いた。今、何て
が、何だって?
「
ハリー」
やっとのことで口を開き、彼はほとんど独白のような声音で聞いた。
「……どういう、ことだ?スネイプが……いや、が?が……ダンブルドアに、『アバダ ケダブラ』を唱えたっていうのか?」
こちらを向いたハリーははっきりと強い眼差しで頷いた。
「そんな!まさか
どうして、が?が
そんなことをするはずが、ない!」
「だけど僕はこの目で見たんだ。があと一瞬スネイプよりも先に呪文を唱えていたら、の『アバダ ケダブラ』がダンブルドアを殺していた」
「まさか……まさか、まさかが……まさか、まさか」
ただそれだけを繰り返し、リーマスは膝の上で握った拳を呆然と見下ろした。まさか、がそんなことをするはずがない。彼女は私たちの許へ戻ってきた。誤解は解けたはずだ。彼女は闇の世界に染まったことを、心から悔いていた……。
「は、ダンブルドアを殺したスネイプに激怒してた。自分が殺すはずだったのにと。二十年、この瞬間を待ち望んでいたのにと」
「……う、嘘だ。そんな……は、死喰い人になったことを心から悔いていた!お母様を殺したのがダンブルドアではなくヴォルデモートだったと知って闇に堕ちたことを心から悔いていた!彼女は戻ってきたんだ……彼女がダンブルドアにすべてを捧げていたことを、私は知っている!」
「リーマス!いい加減にして!ハリーがこんなところで嘘をつくと思うの?はダンブルドアを殺そうとしたのよ
そしてスネイプが彼を殺したの!」
「違う!そんなこと
そんなこと、あるはずがない!」
トンクスの手を振り払い、頭を抱えながらも、リーマスはそれが『真実』であることを知っていた。分かっている。いくらハリーが彼女の過去を知らず、彼女を憎んでいたのだとしても、彼は決してこのような場でそんな嘘をつくような子ではない。分かっている。そんなことは
分かりきっている。
「どっちにしたっては城を出るなというダンブルドアの命令を無視してスネイプと逃走した。自分の血が『あの人』を強大にすると知っていて、『あの人』のところへ向かったの。忘れて、リーマス。あの人はダンブルドアを死なせたのよ」
リーマスは再び顔面を両手で覆い、涙の溢れそうになった目をきつく閉じた。。輝かしい学生時代の記憶を鮮明に思い起こさせる、最後の一人だった。彼女は入学した頃からジェームズたちと親しかった。彼女が五階の窓から吹き飛ばされて入院した時、ジェームズにシリウス、ピーターは心から彼女のことを心配して毎日落ち着きなくそわそわしていた。彼女はやがてシリウスと付き合うようになり、二人は傍から見ていても不安になるくらい、お互いに不器用すぎてすれ違ってばかりだった。
けれどその気持ちだけはまるで宝石のように純粋な輝きを放ち続け、私は二人の交際を心から喜んだ。もちろん二人の親友であったジェームズも。だが今思い起こせば、確かにピーターだけはどこか不貞腐れたような顔であの二人に背を向けていたようにも思う。彼はきっと、もっと以前から彼女のことが好きだったのだ。
気付いてあげられたら、未来は変わったろうか。ピーターがヴォルデモートにジェームズとリリーを売ることもなく、シリウスが投獄されることもなかったかもしれない。そして彼女が、スネイプの口車に乗ることも。
「モリーとアーサーがここに来ます」
顔のいたるところを擦り剥き、ぼろぼろになったローブを引き摺ったマクゴナガルがその沈黙を破って医務室に入ってきた。
「ハリー、何が起こったのですか?ハグリッドが言うには、あなたがちょうど
ちょうどその時、ダンブルドア校長と一緒だったということですが。ハグリッドの話では、スネイプ先生が何かに関わって
」
「スネイプがダンブルドアを殺しました」
一瞬ハリーの顔を見つめた後、マクゴナガルの身体がぐらりと傾いた。既にショックから立ち直っていたポンフリーが走り出て、どこからともなく椅子を取り出し彼女の下に押し込んだ。
「スネイプ」
椅子に腰を落としながら、マクゴナガルが弱々しく繰り返した。
「私たち全員が怪しんでいました……しかし、ダンブルドアは信じていた……いつも……スネイプが……信じられません……」
「スネイプは熟達した閉心術士だ」
リーマスは顔を上げ、声に憎悪を滲ませながら言いやった。
「そのことはずっと分かっていた」
「ですがダンブルドアは、スネイプは誓って私たちの味方だと……スネイプを信用するに足る鉄壁の理由があると、ダンブルドアは常々そう仄めかしていました……スネイプの悔恨は、絶対に本物だと。スネイプを疑う言葉は、一切聞こうとなさらなかった」
言いながらタータンチェックのハンカチで目尻を拭ったマクゴナガルは、はっと顔を上げてリーマスを見た。
「!は
一体どこに?彼女はスネイプと一緒に塔に向かっていました
下りてきた時も、確かにスネイプとマルフォイを追って!まさか彼女が、ここを出ていったなんてことは
」
「その『まさか』です、先生」
トンクスは冷ややかに言って、脇の拳を握り締めた。マクゴナガルはハンカチを掴んだまま、呆けたようにポカンと口を開けた。
「はスネイプたちと一緒に逃走しました。ダンブルドアを殺そうとしたんです。あいつは死喰い人でした。今宵ようやく、愛しいご主人様の許へと戻ったんです」
「ま……まさか!まさか、が!そんな、リーマス、まさか……彼女はダンブルドアから、『あの人』の許へ戻るようにと命令を受けたのですか?まさか、そのような」
「ミネルバ」
言って、リーマスは自分でも驚くほど落ち着いた口調で、告げた。
「彼女は二十年分の『思い』を込めて、ダンブルドアを殺そうとした。ハリーがはっきりとそれを見ている。あと一瞬だけ速ければ、彼女の呪文がダンブルドアを殺していた」
「……そんな、どうして!どうして、が!彼女にはよく分かっているはずです、を殺したのは、ダンブルドアではなく『あの人』だったと!それを悔いて
それを悔やんで、我々のところへ戻ってきたというのに!」
「それすらも『演技』だったのかもしれない。彼女は、ヴォルデモートの血を引く強力な魔女だ。スネイプと同等かそれ以上に優れた閉心術士なんだろう。彼女を引き戻すには
我々の力だけでは、非力だったのかもしれない」
マクゴナガルは息を呑んで、途切れ途切れの嗚咽を漏らした。その瞳にははっきりと悔恨の色が見える。リーマスはそこから目を逸らし、そっと窓際へと移動した。誰も、一言も喋らなかった。不死鳥の、あまりにも儚げな歌声が聞こえてくる。
君は私を、先の見えない孤独という闇から救い出してくれた。
けれど、分かるだろう?私にとってもまた、ダンブルドアがこの世のすべてだったということを。
君には君の信念があったであろうことを私は知っている。今夜の出来事もまた、何か計り知れない事情があったのだろう。
けれども私は、決して、君を許すことはできない。
ダンブルドアは、私のすべてだった。
だから次に出会うことがあれば、その時はきっと
。
「…………」
胸元で握り締めた杖を見つめ、やがてリーマスはガラス越しに澄んだ夜空を見上げた。恐ろしいまでに美しい不死鳥の調べは、まだ人々の耳に届いていた。
There is nothing to say
言うことなんて、何もないよ