はドラコの意識が回復するまで、彼の眠るベッドの傍らに座っていた。既に窓の外は夜の帳が下りている。ショック状態に陥っていたドラコはポンフリーの安静薬を飲んでようやく眠りについたところだった。
そっと彼の頬に触れると、痩せこけた彼の肌はざらつき、閉じられた瞼の下にはこの薄がりでも分かるほどくっきりと隈が刻まれている。よほど精神的緊張が高まっていたのだろう。こうして休めるきっかけができたことはかえって良かったのかもしれないとはほんの少しだけ安堵した。

ドラコは七階の男子トイレでハリーにセクタムセンプラの呪文を受けて重傷を負った。彼の監視を続けていたセブルスがすぐさま駆けつけて大事には至らなかったが、ただでさえ精神的なストレスが高まっていたドラコは軽いショック状態に陥り、セブルスはに彼のことを任せて早々にハリーを待たせているトイレへ戻っていった。
セクタムセンプラ    学生時代に、セブルスが開発した闇の呪文。どうしてハリーがそんなものを知っていたのか、きっと今まさにセブルスがそれを詰問しているのだろう。だがには、そんなことはどうだって良かった。

悔しかった。彼はこうしてホグワーツにいるのに。私たちの、ダンブルドアの懐にいるというのに。帝王の脅威に怯えてこんなにも疲れ果てて。殺せるはずがないのだ。この子に    ダンブルドアが殺せるはずがない。けれど、そうしなければドラコが、彼の愛する家族が。この子は父親を尊敬していた。母親を慕っていた。父を救うことができたのなら、私もまたきっとそれを実行しようとしただろう。

    ドラコの様子は」

やがて医務室に戻ってきたセブルスは、いつもと同じ調子で聞いてきた。

「今はポンフリーの水薬を飲んで休んでるわ」
「そうか」

足音を立てずに傍にやって来たセブルスは何も言わずにドラコの顔を覗き込んだ。ドラコは一瞬口の中で呻いたが、夢を見ているらしい。しばらく目覚める気配はなかった。
は脇の小さなテーブルにあったタオルを手に取って、彼の額に滲んだ汗を拭ってやる。

「……ポッターは?」

彼はしばらく黙っていたが、やがて小声で「罰則だ」と呟いた。

「今学期一杯。土曜の十時に研究室」
「土曜の十時?ああ……次の土曜はクィディッチの最終戦だったわね。それで、呪文は?」
「何がだ」
「あの呪文よ。あなたの。どうしてあの子が知っていたの?」

答える気はないらしい。セブルスは無言のままマントを翻した。

「戻るぞ」
「先に戻って。私はこの子が目を覚ますまでここにいる」

ぴたりと足を止め、セブルスが振り向いた。

「……余計なことを喋るなよ」
「分かってる」

セブルスはさっさと医務室を立ち去った。は今の間にまたドラコの顔に浮かんだ汗を丁寧にタオルで拭いていく。そして時折彼がうなされる姿を歯痒い思いで見つめていた。
汗を拭いたはずのタオルにはうっすらと血の跡も滲んでいた。セブルスが呪文で拭き取ったはずだが、まだ微かに残っているようだ。はそのまま、そっと彼のブロンドの髪を撫でた。本当に、父親にそっくり。

ルシウスに親しみを覚えたことは、正直なところ一度もない。子供の頃からそうだった    絶対に、信用できない。スリザリンの監督生、物知り顔でに近づいてきて、死喰い人の彼はあの冷ややかな笑顔で彼女を出迎えた。ナルシッサもまたそうだ。けれどは、彼らの息子であるドラコをこんなにも愛しく思う自分に気付かないわけにはいかなかった。

初めは、単なる計画の一つだった。帝王はいつか必ず戻ってくると、ダンブルドアはそう言った。だから来るべきその日のために、ルシウスらとの繋がりは保つべきだと考えた。だからこの子に近づいた。マルフォイ家を尊重していると、そのことを内外に示すためだけに。
だが、ドラコはルシウスの息子と思えぬほどに素直で純粋な子供だった。与えれば与えるほどに、求めれば求めるほどに。ドラコは必死に応えようとしてくれた。それがたまらなく愛しかった。この子を気遣うのに、さほどの意図を要さなくなってしまった。

死ねば良いなどと、言えるはずがない。この子がいつまでも笑っていられるように、私は力を尽くしたいと思った。ただそれだけだった。
心配しなくても良いと。あなたの家族は私が護ると、そう、言えたらいいのに。

「……ん」

小さく唸って、ドラコが布団の中で身じろぎした。そして暗がりの中、ゆっくりとその瞼を開く。

「気分はどう?ドラコ」

そっと問い掛けると、反射的に身体を強張らせたドラコはを避けるようにして起き上がろうとした。だが胸元に痛みが走ったようで、顔を顰めたまますぐにまたベッドの上に倒れ込む。

「ドラコ、無理しない方がいいわ。あんな怪我をしたんだもの、校医も今夜はここに泊まるべきだと」
「僕のことは……放っておいてもらえませんか。僕は忙しいんです、こんなことをしてる場合じゃ……」
「戻って何をしようというの?とにかく今の身体では無理よ。どんな計画を進めているかは知らないけれど、迅速に事を進めるのと無茶をするのとはまったく違うのよ」
「放っといてくださいよ!僕は……急がなきゃいけないんだ。こうしている間にも、母上は……母上は……」

声を荒げ、自分のその言葉に怯えたようにドラコは両腕を抱えて身震いした。は瞬時に杖を取り出し、ドラコはそれを見てぎょっとしたが、彼女はそれを振って部屋に防音の魔法をかけただけだった。
懐に杖を戻し、は椅子の上で身を屈める。

「ドラコ……マートルに聞いたわ。あなた、ずっと悩んでいたんでしょう?話してくれれば、私は    私たちは、あなたの手助けができる。一緒にやりましょう、ドラコ。私はあなたを助けたいの」

ドラコはその眼に涙を浮かべたが、真っ赤になって激しく首を振った。

「僕がやらなきゃいけないんだ……あの方は僕にご命令になった。僕がやらなきゃ、僕が殺される。あなたの援助を受けても構わないなんて、言われてない」
「そうでしょうね。だけど私は、あなたの援助をしてはいけないというご命令は受けていない」

ドラコの瞳に一瞬希望の光が閃いたが、彼はすぐにそれを撥ねつけた。

「屁理屈だ。あなたはあの方に会ってないだけじゃないか!あの方が何を禁じられてるかなんて分かるはずない。これは僕の    僕の家族の問題なんだ!」

は黙ってドラコを見つめた。彼は挑戦的な瞳から、次第に不安げな子供そのものの目付きへと変わっていく。やがて彼はまた泣き出しそうな顔をして、苛立たしげに声を張り上げた。

「そんな眼で見るな!僕は……僕は……」
「ドラコ。私はあなたが羨ましかった    とても」

続け様に何やら叫ぼうとしていたらしいドラコが面食らったように動きを止めた。被せるようにして、続ける。

「私は子供の頃に家族を失くしたから。母は私がまだ赤ん坊の時に命を落とした。父が死んだのは私が卒業した後だけれど、私は幼い頃からあの人の前ではなかなか素直になれなかったの」

彼は明らかにまごつきながらも、口を挟まずにじっとを見つめていた。

「だからご両親が健在で、彼らのことをとても慕っているあなたのことが羨ましかった。ナルシッサが赤ん坊の時どれほどあなたを可愛がっていたか、覚えてるわ。私はあなたの家族が、これからも健やかに保たれることを心から望んでいる」

だからね、と言って、は微かに笑んだ。

「だから、私はあなたを助けたい。ルシウスが監獄から出るにも喜んで手を貸すわ。シシーのことだって決して死なせやしない」

とうとうドラコは大粒の涙を零し、枕に顔を埋めてしゃくり上げた。

「む……無理だ、そんなのできっこない!あなたに何ができるんだ……ホグワーツで教えることしか知らないくせに!あの方に逆らえるもんか……僕は殺される!」
「殺させないと言ったでしょう」

今度は強い口調で言いやり、は無理にドラコの手を引き寄せた。必要以上に力強く握っていた彼の拳は熱く、汗ばんでいた。

「私は近いうちにこの城を離れることにした。必ずあの方の許へ戻る」
「まさか……そんな。だってあなたは、ずっと……」
「決めたのよ。あの方は私の、最後の血縁だから。私にはあの方しかいないの」

恐怖と当惑に震え、目を見開いたドラコに微笑みかける。はまるで自分自身に言い聞かせるように、最後の言葉を発した。

「すべてを打ち明けてくれる必要はない。だけど、いつでも声をかけて。あなたに手を貸す準備はできている。但し、後でこの薬を飲んでおくことね。それから、今夜だけはここで大人しくしていること。オーケー?」

傍らの小さなテーブルに置かれたグラスを示すと、ドラコは従順にこくりと頷いた。

「宜しい。それじゃあ、また、明日の授業で。あ、くどいようだけど無理はしないように」

言って彼女は、静かに医務室を後にした。やはりそうだ。もう、決して後戻りはできない。

    心を決めるしか、ない。
は五階の奥にある魔女の胸像に立ち寄った。その裏にある隠された穴から持ち出したものを地下室に持ち帰り、自室のベッドに腰掛けてぼんやりと眺める。布団の上にはたくさんの思い出の品々が散乱していた。
普段は目に触れないもの、けれども捨て去るにはあまりにも大切なものばかりを棚の奥底などに仕舞い込んでいた。それらをすべて引っ張り出してきて眺めていた。もう二度と、ここへは戻ってこられないかもしれないから。

学生時代の写真がほんの数枚。古い手紙はスピナーズ・エンドにすべて置きっ放しになっていた。ひょっとしたらセブルスが処分してしまったかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。あの家へも、二度と帰らないかもしれないのだから。
何人かの卒業したスリザリン生たちからの手紙。大きな行事の際に撮った教職員の集合写真。マルフォイ家からの季節のカード。クィリナスの遺品。

ここニ、三年のうちに何度かもらったリーマスからの手紙もある。昔と変わらない、優しい言葉。私がどれだけ救われてきたことか。
だけど私は、今まさに彼らの信頼を裏切ろうとしている。

それらを小さめの箱に納め、はまだベッドに残っている品に手を伸ばした。二十年も昔の贈り物でありながら、新品同然の羽根ペン。もともと質の良いものだった。
そして私が魔法をかけて押し花にした、しおり。真冬に咲いた    薔薇の花。

しばらくその二つをぼんやりと見つめ、箱の中に仕舞った後、は最後に残った一つの封筒を取り上げた。中の手紙は開かなかった。ただ手紙と一緒に入っていた、小さな銀色のそれを摘み上げる。

はその指輪を右の薬指に嵌めようとして    結局はそれを、断念した。やめにしようと言ったのは自分だった。そう、お仕舞いにしよう。私は二度と、戻らない。
彼の遺書の入った封筒にムーンストーンの指輪を戻し、はそれもまた箱の中に置いた。思い出の詰まった、一箱。すべての思い出を仕舞い込んだ、一箱。

閉じてしまおう。永遠に。

理解してもらおうなんて思ってない。分かってほしいとは言わない。

これだけ共にいたはずの私でさえ、セブルスのことを何も知らなかった。

行こう。立ち去ろう。振り向かないで。私の愛したシリウスは、もう永遠に戻らない。

殺せというのなら。私は涙を呑んであなたをこの手にかける。

あの時唱えられなかった呪文を、母のためではなく    今度は、あなた自身のために。

「私はあなたを    殺します」

振り向いたダンブルドアは、眉一つ動かさずに口を開いた。

「わしは、セブルスに頼んだのじゃ。君はわしが死んだ後も、ずっとこの城に    
「従えません」

ははっきりと拒絶の言葉を発した。

「……君が奴の手に渡れば、一体何が起こるかと考えたことがあるかね?」
「考えました。考え抜きました。でもどれも推測に過ぎません。私はそんな曖昧なものを憂うより、自分の意思で動く道を選びます」

彼は考えた後、ゆっくりと、噛み締めるように言った。

「……では君は、シリウスの最期の言葉を聞き入れぬと?」

は胸を締め付けるそれを理性だけで抑えつけ、明瞭に声をあげた。

    彼は、自分の記した手紙の中にある矛盾に気付くべきでした。『誰もが命を懸けている』んです。彼も、ジェームズもリリーも、そうして死んでいきました」

そこで初めて、ダンブルドアの青い瞳が揺らいだように見えた。

「それならば、私もまたこの命を懸けるべきです。母もそうして死にました。あなたはそれをご存知のはずです」

ダンブルドアは答えなかった。何も言わずに、静かに瞼を閉じた。

ようやくその目を開いた老人は、あまりにも穏やかな眼差しで、こう言った。

「……すまぬ。

身体中を電流が駆け巡るようだった。脳天を叩き潰された心地だった。いっそ、本当にそうされたのならば。
ダンブルドアのそれは、決して謝罪の言葉などではない。

私たちの『絶対』であり続けたはずの彼が、こんなにも衰えてしまったのか。
はそれ以上、ダンブルドアの顔を見ていられなかった。逃げるように森を立ち去り、急いで部屋へと戻る。

シリウスが死んだ夜よりも、ジェームズとリリーが亡くなった翌日よりも。父の遺体を確認した日暮れよりも。
は自分という存在を支えていたあらゆるものが崩れゆくのを感じ、今まで生きたどんな一日よりも、激しく声をあげて、泣いた。