はその日、ホグワーツに戻っていた。屋敷の所有者であるシリウスが死んでしまった以上、たとえ幾重に護りの魔法を施していたとしても、グリモールド・プレイスを引き続き本部として使用するのは危険だったからだ。
もっとも、魔法省の数多くの役人が帝王の姿を目撃し、ファッジがダンブルドアの正しさを認めてアンブリッジをホグワーツから除籍した今、彼女が本部に留まる理由もなかったわけだが。

「帝王は    非常に、お怒りだ」

漆黒のマントを肩から外しながら部屋に入ってきたセブルスは、ゆっくりと、噛み締めるように言った。身震いこそしなかったが、彼のその様子から帝王の激昂ぶりが伝わってくるようだ。は読んでいた新聞から顔を上げ、細めた眼でセブルスを見た。

「……でしょうね。予言は聞けなかった、おまけに十人もの死喰い人を失って    まあ、吸魂鬼がいない今、アズカバンから出てくるのは容易でしょうけど?でもあのお方の不興を買うには十分すぎる要素よね。一年もかけてこのザマなんて。あまりにお粗末だわ」
「それに    一体いつになれば、お前を連れて戻るのかと。帝王は    非常に、苛立っておられる」
「………」

それには答えず、は再び予言者新聞へと視線を戻した。『名前を呼んではいけないあの人、復活す!』
    ほとんどすべてのページをこの大見出しに割きながら、シリウスのことは一行も書かれていない。ダンブルドアの説明で彼の無実は証明されたようだが、世間にそのことを釈明するには十四年前の事件にまで遡らねばならず、おまけにその根源ワームテールは姿を眩ませたままなので証明のしようがないといった理由から、彼のことは公にされない手筈となったそうだ。

「ねえ」

視線だけは記事の上に這わせたまま、呼びかける。どさりとベッドに座り込んだセブルスが静かにこちらを向くのが分かった。

    あなたはどう思う?私の血を……帝王が、手に入れることになったら一体何が起こるのか」
「馬鹿なことを考えるな」

苛立った様子でセブルスが吐き棄てた。

「何のためにこの一年、お前が戻れない理由を取り繕ってきたと思っている。一年も面倒な薬を作らせ続けてきて、俺のいたいけな努力を無駄にする気か」

少しばかりおどけた台詞を言ってのける余裕があるということは、彼の心はまだ大丈夫なのだろう。いや、駄目になってしまいそうなのは、私だけか……。

「でも、『無敵の存在』だなんて随分曖昧な言葉じゃない?それにその予言の後、あのトレローニーの予言が為されたのよ。『帝王を打ち倒す力を持った者が生まれる』……むしろそちらの方が現実味があるわ。それなら、私が帝王のところへ戻ったって    
「やめろ。どのみち俺が決めることじゃない。ダンブルドアはお前が帝王の許へ戻ることを最も恐れている    騎士団に従うつもりがあるのなら、つまらないことを考えている間に採点でも済ませたらどうだ」

何も言わずに新聞を閉じたに、続け様にセブルスが言い放つ。

「自棄を起こすな。奴は二度と戻らん」

怒る気にもなれず、は軽く鼻を鳴らした。適当に畳んだ新聞をソファの上に放り出し、嘆息混じりに告げる。

「大きなお世話。今更そんなことを混同するほど私は馬鹿じゃないの」

そして物憂げに立ち上がり、顎を引き上げてセブルスの暗い眼を見下ろした。

    『あの時』、あなたも泣かなかった。だから私も誓ったの。涙を流すのは、すべてを終えてからにしようと。それまでは、何があっても振り返らないと」
「……俺は    

何かを言いかけたセブルスの言葉を遮るようにして、は部屋を出た。彼にそれ以上、言わせてはいけないと思った。何も語らなくていい。私はそれを望んでいない。
だから    あなたを信じる私を、信じて。

石畳のひんやりした廊下を歩いていると、向こうからやって来たプラチナブロンドの髪の青年に気付いた。青白い顔にもどかしげな色を滲ませて、の姿を認めると彼ははっと目を見開く。ああ……ルシウスもまた、アズカバンに投獄された一人だった。

    ドラコ……元気にしていた?」

言って、ゆっくりと歩み寄ると、ドラコはさっと表情を険しくして反射的に後ずさった。こんな反抗的な態度をとられたのは初めてで、は図らずもショックを受けた。休職扱いで半年前にホグワーツを去った時も、いつものように慕うような眼差しを向けてくれていたのに。

「……お父様のことは、とても残念だわ。でもドラコ、あまり気を落とさないで    
「どうやって気を落とすなと仰るんですか!」

激しい口調で捲くし立て、ドラコは挑むような眼でを睨んだ。

「父上があんなことになってしまったのに……どうして気を落とさずにいられるんですか!あなたはダンブルドアなんかに護られて、いつまでも安全なところに囲われているだけじゃないですか!どうして助けてくださらなかったんですか!あなたならそれができたはずなのに    どうして、どうして父上たちを助けに行ってくださらなかったんですか!」
「ドラコ    落ち着きなさい」

こんなところでは、まずい。ひとまず彼の腕を引いて魔法薬学の教室へと連れて行き、扉を閉めたは教室中に防音の魔法をかけてドラコを近くの椅子に座らせた。

「取り乱してしまうのは分かるわ……でも落ち着きなさい。あんなところで誰かに聞かれでもしたら」
「そうしたらダンブルドアの庇護を失うことになるので困りますか?」

ドラコははっきりと挑戦的な目付きでを見上げた。一瞬顔を顰めるが、頭を振って小さく嘆息する。

「……あなたは一体、どこまで知ってるの?」

するとドラコは、正直に答えようとしたのだろう    だがすぐに思い直したように口を噤み、苛立った口調でこう言った。

「先生が以前僕に教えてくださったんですよ。何かを為そうとするなら、緻密な計画が必要になると。そのためには、自分の内だけに留めておかなければならないことがあると」

そんなことを言い返されるとは思っていなかった。半ば感心して、半ばうんざりして微かに笑いかける。

「そう……私の言葉があなたの只中に刻み込まれているようで、嬉しいわ。そうね、どんなに近い人間にもすべてを曝すのはやめた方がいいわね」
「僕は……僕は、あなたが思っている以上にあなたのことを知っていますよ。ベラトリクス伯母様が教えてくれたんだ
    あなたがどうして僕たちのところに戻ってこないのかも」

私がどうして彼らのところに戻らないか?ベラトリクスはそれを甥にどう語って聞かせたのか    

「……ベラトリクスがあなたに私のことを何と話したかは知らないけど、でも仕方のないことなのよ。私は常に、騎士団の    ダンブルドアの監視下にある」
「あなたのすぐ傍にいるのはスネイプ先生じゃないですか。どうしてそこを抜け出してあのお方のところに戻らないんですか    ベラトリクス伯母様が言っていました。あなたの力をもってすればダンブルドアの下から抜け出すことなど容易いはずだと」
「それは    あなたの伯母様が私の能力を買い被っているのよ。ありがたいことにね。もしくはダンブルドアの力を過小評価しているか。それにね、ドラコ。私たちには騎士団の情報を得るスパイが必要なの。分かるわよね?私が安易にダンブルドアの許を去れば、セブルスが騎士団にいられなくなる」
「そんなもの    あのお方があなたを手に入れれば何の障害にもならないじゃないですか!だってあなたは    

言いかけて、明らかに喋り過ぎたことに気付いたのだろう。慌てて口を噤んで俯いたドラコに、は今度ははっきりと大きく溜め息を吐いた。

「……そう。そこまで知っているの。それなのに、あなたが『我々の現状』を理解してくれないのは残念だわ」

ドラコは当惑と屈辱の入り混じった眼でじっとのことを見つめた。どうやら彼女がその先を続けるのを待っているらしい。

「『それ』を私から聞いたなんて知ったら、伯母様が何て言うかしらね?」
「な……別に、僕は何も……ええ、よく分かりますよ……ええ……」

ぶつぶつと独り言のように呟き、不貞腐れた顔でドラコは立ち上がった。なんとか彼の肩に手を添えて    彼は一度その手を払い除けようとした    教室から送り出し、頭を抱える。
まずいな    そろそろ言い訳も尽きていている。いつまで、私のことをセブルスが繕えるか……。

やはり戻るしかない。は心を決め、静かに教室のドアを閉めた。
「校長。お話があります」

ホグワーツは既にその一年を終えていた。生徒たちもすべて帰路につき、訪れた校長室で、ダンブルドアは彼女を待っていた。ゆったりと、優雅な物腰で椅子から立ち上がる。彼のその深い瞳からは何も読みよることはできなかった。ただ、この老人が自分の来訪を待ち侘びていた    そのことだけは、確信が持てた。

「お伝えしたいことがあります」
「おう、そうか。わしも是非とも君に会いたいと思っておったところじゃ。お掛け」

神秘部で文字通りの死闘が繰り広げられて以来、ダンブルドアと顔を合わせたことはなかった。もっとぞくりとするものを感じるかと思ったが、彼の様子があまりにも平生と変わらなかったので、はもしかしたらすべてが夢だったのではないかと少なからず思ってしまった。馬鹿馬鹿しい    事実をなかったものとすることほど、現実から遠ざかる術はないのに。

示された丸椅子に浅く腰を下ろし、は机を挟んでダンブルドアと向き合った。

「さて    まずは君の話から、聞かせてもらおうかのう」
「お気付きのはずです。校長、私は帝王の許へ戻ります」

無機質な沈黙が場を制した。しばらく二人とも、互いを見つめ合ったまま何も言わなかった。次にダンブルドアが口を開くまで、歴代校長の誰かが額縁の中でわざとらしく咳払いした以外は何の音も聞こえなかった。

    ならぬと、わしはそう言わなかったかのう?」
「それは確かに伺いました。そして今まで私はずっと、あなたのほとんどすべての命令を受け入れていました。でも、もうこれ以上は耐えられません」

再び流れた沈黙は、先ほどよりも長く続いた。ダンブルドアは身じろぎ一つせず、真っ直ぐにを見ている。だが同時にそれはどこか遠くのことまでもを見つめているようで、は不思議な気持ちでその眼差しを捉えていた。

やがて、ぽつりと言った老人の言葉は彼女の心をきつく揺さぶった。

    シリウスのことかね」
「………」
「彼のことがあって、君はそうして過敏に    
    関係ありません。彼のことは……何も、関係ありません!」

思わず声を荒げ、だが構わずには言葉を続けた。

「彼のことは……リーマスから、聞きました。確かに、驚きました……驚きましたけど、でも呪いの痛みで帝王が現れたことは分かっていましたし……誰が死んでも、不思議ではない状況だったはずです。私は彼の死について、そのことでどうこう言うつもりはありません。そのことはもういいんです。私はただ、もうこれ以上帝王や死喰い人たちを誤魔化せないと思ったから、だから    
    『もういい』わけがあるまい?君は彼のことを愛しておった。彼は君の最も愛した、誠実な男じゃった」

また    彼と同じことを言う。もう、そんなもの……うんざりだ!

ダンブルドアは僅かに眼を細め、その瞳に初めて悲しみの表情を見せた。

「……すまなんだ。わしは……わしがあの子に、予言のことを話しておくべきじゃった。奴があの子を神秘部に誘い出す可能性があると、そのことをあの子に伝えておくべきだったのじゃ。さすれば、シリウスは……」
「やめてください。そんなこと……謝る相手を違えています」

あの時もそうだった。真実を話すべきだったと、この老人は涙を流して詫びた。あれからあなたは、何一つ変わっていないじゃないか。

「そんなことは……もう、いいんです。私はこの命を賭しても帝王の許へ戻ります。たとえ刺し違えても、必ずあのお方の息の根を止めてみせます。私に、そうさせてください    お願いです、行かせてください。私に」

彼は何かを考え込むようにして黙したが、やがて机の引き出しからそっと封筒を一つ取り出した。
まだ新しい    だが同時に、どこか萎びているような。

「……これは?」
「君に宛てられた手紙じゃ    言うなれば、遺書、じゃな」
「……え?」

遺書。今、ダンブルドアは遺書といったか。
呆然とその封筒を見つめていると、ダンブルドアが机の上でそれを少しだけこちらへと滑らせた。

「昨日、グリモールド・プレイスを訪ねた時に見つけてのう。もしものことを考えて、用意していたようじゃ。申し訳ないが……屋敷の所有権に関する問題もある。先に読ませてもろうた。君と    そしてハリーとに、一通ずつ」

息が詰まるかと思った。遺書。イショ。いつの間に、そんなものを。だが、こんな時代だ。用意しておくべきなのかもしれない。けれど自分には    遺したい何かも、伝えたい相手も思い当たらなかった。もう、シリウスは逝ってしまった。

「……彼は、何と?」
「これは、君に宛てられた手紙じゃ。君自身で確かめると良い」

金縛りにでも遭ったかのようにしばらくは身動きが取れなかったが、はそれをぎこちない動作で手に取った。手紙    死を覚悟した彼が、あの子と私だけに残した、手紙。あんな不器用なシリウスに、手紙など書けるのか。そんなことを考えている自分に、心底嫌気が差した。
すべてを読み終えた後、は膝の上に置いたその羊皮紙から恨めしげに顔を上げた。溢れ出しそうな涙を瞼の裏に留めて、気丈に言葉を紡ごうと口を開く。それでも、声が震えるのをどうしても止められなかった。

「あ……あなたは、いつもそう。あなたは、卑怯です」

こんなことを言う資格なんてない。それは、分かっている。けれどその老人は、あっさりと彼女の発言を肯定した。

「そう    その通りじゃ。わしはいつだって、最悪の逃げ口上を探しておる」
「私が……私が、こんなものを読んで……抗えないのを知っていて……」

ダンブルドアは瞬きをしなかった。後になってそれは、自分と同じように涙をこらえているせいかもしれないと気付いた。だがその時ばかりは、他に何も考えられなかった。

「その手紙を見つけた時、わしが安堵を覚えなかったなどと偽るつもりはない。それを読めば君が、この城に留まってくれると確信してわしはその手紙を持ってきた」
「私は……私は、こんなもの……!」

絞り出した声で囁くように怒鳴りつけ、握った手紙を床に叩き付けるために振りかざした。だが、所詮    そんなことは、できるはずがないのだ。そのままその拳を力なく膝に下ろし、は荒くなった息を整えようと精一杯の酸素を吸い込んだ。だめだ、もう    抑え、られない。

たまらずに溢れ出した涙を隠すように両手で目元を押さえ、なんとか嗚咽だけは我慢した。だがどれだけ抑えようとしても、次から次へとすべてが洪水のように湧き出してくる。彼の笑顔も、不貞腐れた顔も、本気で怒ってくれたあの時の叫びも。

    愛しているといって、抱きとめてくれた日。

もう振り返らないと、心に決めたのに。

「わしの言うことを、聞いてくれるかのう。これは『命令』ではない    この老い耄れの、『願い』なのじゃ」

だからあなたは、卑怯だといったのだ。あらゆるものを美しい言葉で飾ろうとする。
涙で霞んだ視界をしっかりと見開き、はもう一度ダンブルドアを見た。




答えは疾うに、決まっていた。

俺はいつか死ぬかもしれない。ヴォルデモートとの戦いに挑むと決めた時点で、誰もが命を懸けている。ジェームズとリリーはそうして死んでいった。俺もまた、覚悟を決めた。


一度は死んだはずの命    もう一度お前に会えて、良かった。支えてやれなくてすまなかった。もっとお前の話を聞いてやれなくてすまなかった。思い返せば、お前のことは知らないことばかりだ。どうしてもっと話をしなかったのだろうと、今になって悔やまれる。だが、振り返らないとお前は言った。だから俺も、前を向くことにした。平和な世界で、もう一度またお前の笑顔を見たいと思うから。
だが、これを読んでいるということは俺はもう死んでしまったんだろう。死ぬとどこへ行くのか    俺は二人が死んだ時、一度だけそれを考えた。俺はまだ生きている。分かるはずがない。

それでも一つだけ確かなのは、もうお前の声が聞けないということなんだろう。俺はお前が俺の名前を呼んでくれるのが、子供の頃から大好きだった。
俺が死んでも、きっとお前は立ち止まらない。ヴォルデモートを打ち倒すその日まで、お前はきっと戦い続けるだろう。ジェームズとリリー、そしてお前のご両親のためにも。


だが、お前のその手は本当に最後の手段にしてほしい。この一年、本部から出られなかった俺にもお前の気持ちは痛いほど分かる。だがお前は、予言された『ヴォルデモートの血縁』だ。俺が案じているのは、お前の血を手に入れた奴が強大になることだけじゃない    血を採られた後のお前のことが、気掛かりでならないんだ。

奴は娘だからといってお前の母親を愛おしむこともなかった。単なる『駒』として死なせた。どうしてもそのことが忘れられない。だからどうか、少なくともダンブルドアがあの予言の真意を解明するまでは待っていてほしい。お前には、生きて幸せになってほしいと願っているからだ。
お前はそんな資格などないと、それを拒むだろう。だがいつか、自分を赦してやってくれないか。お前は十分に背負ってきたはずだ    もう下ろしてやっても、いいだろう。俺はお前に、幸せを掴んでもらいたい。
そして最後にもう一つだけ、頼みたいことがある。俺の死体は、ジェームズたちの近くに埋めてくれないか。お邪魔虫だとあいつは怒るかもしれないが    俺も一人は、やはり寂しい。

そして最後にもう一度だけ、俺の名前を呼んでほしい。お前の声で、シリウスと聞かせてくれ。俺はお前の声を聞きながら、静かに眠りにつきたかった。
願わくはこの手紙が、お前の手に渡らずに済むように。



、お前に出逢えて、本当に良かった。ありがとう。心からの、愛と感謝を込めて。
シリウスより