は幾度となく、左腕の髑髏が沸騰したように焼けるのを感じた。正確にいえば闇の印ではなく、この一年私を蝕んできた帝王の呪いが。闇の帝王が激しい戦闘を繰り広げている    何十キロと離れた本部にいながらにして、にはそのことが分かった。死ぬ……帝王が直々に現れたのならば、今夜、神秘部で確実に誰かが死ぬ。

(お願い……間に合って。もう誰も……誰も、死なせたくないの)

何もできない杖をきつく握り締め、はただそのことだけを願った。言えた義理ではない。数え切れない無垢な人々を死なせてきた自分が、今更そんな綺麗事を並べる義理などない。けれど。

左腕の痛みが治まるのを感じてから、は厨房の隅に膝を抱えてうずくまった。終わった    『それ』がついに、終わったのだ。そう思うと身体の震えが止まらなくなって、部屋の片隅で小さくなるしかなかった。いっそこのまま、消えてしまえたらいいのに。

やがて、厨房のドアが静かに開いて、一人の男が彼女の前に姿を現した    打ちひしがれた様子のリーマスが、杖をだらりと掴んだまま立っていた。

「リーマス……!」

どっと安堵の波が押し寄せてくる    良かった、リーマスが生きていてくれた!飛ぶように立ち上がり、はすぐさま彼の許まで駆け寄った。彼は髪もぼさぼさで、身体中に生傷が多く刻まれていたが、それでも命に別状はないようだ。

「他のみんなは……ハリーは、あの子は無事なの?」

自分の声が彼には聞こえていないのかと、はふとそんな考えに囚われた。リーマスが虚ろな眼を床に向けたまま、ぴくりとも動かなかったからだ。

「ねえ、リーマス……ムーニー?ねえ、どうしたの    まさか、あの子が……?」
    

久しぶりに呼んだあだ名にすら、彼はにこりともしなかった。ようやく絞り出すようにして呟いた言葉を、震える声で、続けてくる。

「……落ち着いて、聞いてくれ。こんなことを……よりにもよって君に、伝えなければならないなんて……」
「ねえ、一体何があったのよ!私には分かるわ……帝王が、現れたんでしょう?私はあのお方が戦っていたのを知ってるの……全員が無傷だったら奇跡だわ!戦うことを決めたその瞬間から、覚悟はできてる。情けなんて要らない。話して    一体、何があったの?」

彼は驚いたように目を見開いてしばらくを見つめていたが、やがて観念したように肩を落とし、僅かに声を震わせた。

「シリウスが、死んだ」
リーマスが呆気にとられるほど、自分の反応は落ち着いていたと思う。一瞬瞼の奥に火花が散るのを感じたが、言葉を失くしたのはそのほんの数秒だけだった。

    そう……」

ただ、彼の眼を見ることだけはできなかった。厨房のテーブルに向かい合って座り、はきつく重ね合わせた自分の両手を頑なに見つめていた。

「……他の団員たちは?ハリーは?無事だったの?」
「……トンクスが深手を負って、聖マンゴに運ばれる手筈になってる。マッド-アイは魔法の眼をひどく傷めている。でも致命的な怪我を負った者は誰もいない。子供たちはホグワーツでポンフリーが手当てしているはずだ」
「『子供たち』……?ハリーだけじゃなかったの?」
「ああ……ロンやハーマイオニー、ジニー、それにネビルもいたな……ああ、レイブンクローのルーナも一緒だった」

ルーナ?誰のことか分からなかったが、はさほど気にしなかった。大した怪我でないのなら、取り立てて案ずる必要もない。

「……あなたは?手当てしないで……平気なの?」
「ああ、私は大丈夫だよ。とにかく君に……伝えなければと、」

先を濁すように言葉を切ったリーマスに続きを言わせないため、はすぐさま口を開いた。

「それで、予言は?帝王は予言を手に入れることができたの?」
「いや    戦闘中に、割れてしまったそうだ。もう誰も、予言を聞くことはできない。これで……良かったのかも、しれないな」
    そうね」

どうでもいい心地で呟いて、はそっと瞼を閉じた。これで良かった。これで、良かったのだ。予言なんて聞いたところでどうせろくなことにならない。割れてしまったのはかえって良かったのだ    それならば、彼が死んでしまった意義とは?初めから壊してしまえば良かったのだ    初めから何もかも、なかったことにすれば良かったのに!

きつく握り締めた拳が小刻みに震えていることに気付いて、は慌てて手のひらを解いた。こちらを気遣うように見据えているリーマスに挑むような眼差しを向ける。

「そんな目で見ないでよ。私は    何とも、ないから。誰もに心構えはあった。私だって、覚悟していた」

それでも彼は、憐憫の色を打ち消さなかった。

「……誰がやったのかと、聞かないんだね」
「聞いてどうなるの。彼はもう戻らないんでしょう」
「ああ……そうだね。もう、どうにもならない。あいつは行ってしまったんだ    神秘部の《死の間》、ベールの向こうにね……」

《死の間》    そこにはためくという、『狭間』のベール。
も、その話は聞いたことがあった。もっともそれは、あの暗黒時代    帝王の口からだったが。不死の力を渇望していた闇の帝王は、神秘部に勤めるルックウッドを通して《死の間》の秘密を探ろうとしていた時期があった。結局それを解明することはできず、ベールの向こうにあるのは生死の『狭間』だという確信を得るに止まったわけだが。そのベールを通過した者は、決して『こちら側』には戻れない。

生でも、また死でもない、そういった世界にシリウスは落ちていった。

正確に言えば、彼はまだ『死んで』しまったわけではない。だがこちらの世界には戻ってこられない    生きていないのならばそれは、すなわち私たちの認識において『死』という結論になるのだろう。

彼は、死んでしまった。一番大切なことを何も伝えられなかった。覚悟は決めていたはずなのに    いや違う、それはこの自分自身の命が絶たれてしまうことだった!どうして、どうして彼が死ななければならなかった!

そう思った途端、堰を切ったように涙が溢れ出た。我慢していたわけではない。涙を流すなんて思ってもいなかった。違う、どうして    どうしていつも、私ではなく誰かが死にゆくのを見送らなければならない。あの夜も感じたことだった    これが、これこそが私の犯した罪への咎だというのか。無垢な人々が次々と死んでいくのが!無実の罪で十二年もあの冷たい監獄に縛られた彼が、やっと彼らの息子と幸せになろうとしていた矢先に!

どうして!どうして私ではなく彼だったのか!いやだ、もうこれ以上    私はジェームズに、一体何と言えばいいの?

「ベラトリクスだ    トンクスをやったのも、彼女だ。彼女はブラック家の血を乱した彼らを到底許せなかったんだろう」

聞きたくないと言ったのに。は視線だけを上げてリーマスを睨み付けた。ああ、そうだろう。ベラトリクスならば当然そう考えるだろう。視界を霞める涙をローブの袖で乱暴に拭い、は両手で大きく顔を覆った。
涙を隠すためではない。彼に取り繕ってみせたところでそんなことは無意味だ。リーマスはすべて、分かっている。

    復讐したいと、そう、思わないのか?」

彼は突然、そんなことを言った。ゆっくりと、正面から彼の暗い瞳を見る。その真意を読み取ろうとすれば容易だろう。だがは、敢えてそうしなかった。

「復讐したいと、そう思うのなら。私は私を殺さなければならなくなる」

言って、徐に立ち上がる。テーブルに置いた杖を取り、はそれを冗談じみた仕草で自分の喉元に軽く突きつけた。リーマスが顔を顰める。
肩を竦めて、は杖を脇に下ろした。

「だから私は、そんな理由では動かないわよ。下手にベラトリクスに手を出せば、私の監視を任されているセブルスが向こう側にいられなくなるしね」
「……君の監視?」
「それはそうでしょう。私は、帝王が今最も欲している『駒』の一つなんだから。セブルスが帝王に託されている最重要任務は、いつか私をあの方のところへ連れ戻すこと」

涙は既に頬の上で乾いてしまっていた。そう、泣いている暇はない。帝王はまだ、自由にこの広大な国に放たれているのだから。

「心残りだったでしょう。でも彼は戦って死んだ。名付け子のために命を懸けた。彼らしい最期だったと思わない?」

リーマスに背中を向け、まるで自分にでも言い聞かせるように言った。そう、彼は戦って死んだのだ。少なくとも、こんなところに閉じ込もったまま誰かが死んだと聞かされるよりは幸せだったろう。そう    思いたい。そう思わなければ。誰もが浮かばれない。

何秒かの沈黙を挟み、突然弾けたように立ち上がったリーマスが声を荒げた。

「どうして!どうして    どうしてなんだ!シリウスが死んだんだぞ!君が愛した唯一の男じゃなかったのか!卒業してから君がスネイプとどうやって暮らしていたかなんて私は知らない    でも君は彼を愛さなかった。君が愛したのはただシリウス一人だけだったはずだ。それなのに    どうしてそうやって気丈に振る舞おうとするんだ!泣いてもいいんだよ、……もっと素直に自分を曝けても構わないんだ。そうやっていつだって自分を押し殺そうとして    そんなことじゃ、君はいつか駄目になる。ご両親の仇を討つことも、何もできないうちに君は崩れ去る!抑えているからだ    自分を封じているからだ!」

は振り向かなかった。そして再び涙を流すこともなかった。それは遠い昔、自分がセブルスに放ったものとまったく同じ言葉だった。

「私は悔しいよ    たまらなく悔しい、悲しい、ベラトリクスを殺してやりたい    ジェームズとリリーを殺したヴォルデモートも、二人を売ってシリウスをアズカバンに追い込んだワームテールも!私は奴らを殺したい!『そんな理由で』?復讐……それはそんなにもつまらない考えか?」

そこでようやくは彼の方を向いた。驚いた    彼がこんなにも、はっきりとした殺意を表すのは    少なくとも彼女が知る中では、初めてのことだった。彼はその言葉通り、傷だらけのその顔に激しい憎悪を浮かべている。見開かれた瞳から、溢れんばかりの涙が零れていた。
は静かに    あくまで落ち着いた素振りで、小さく首を振った。

「……悲しくないなんて言うつもりはない。私はそれほど強くない。あなたの言うように、私は彼を愛していた。でもね、リーマス。嘆くことに意味がないとは言わない。そうすることができる人は帝王にはない強さを得られる。だけど私は、いつか帝王の許へ戻る……そうした時、感情を制御できなければ私はあのお方の前で何もできない。感情をコントロールできずに悲しい思い出に浸って、易々と挑発される臆病者を帝王は必ず見破る。私はまだ、涙を流すわけにはいかないの」
「な    何を……君は、決して奴らのところには」
「もう私の血なんて問題じゃないのよ、リーマス。セブルスだっていつまでも私のことで帝王を誤魔化せるわけじゃない。いつか戻らないと    セブルスまで、帝王の下にいられなくなる。私たちには向こうの動きを探る人間が必要なのに、私のせいでそれを駄目にしてしまうわけにいかないの」
「い……意味が分からないよ!君の血はヴォルデモートを強くするんだろう、だったら    

その時、突然背後でバタン!と大きな音がしてたちは飛び上がった。振り向いくとそこでは、奥に続く通路から顔だけを覗かせたクリーチャーが足元に転がったビール瓶を大慌てで持ち上げていた。

    聞いたでしょう。あなたの最後のご主人様が、従姉妹のベラトリクス・ブラック・レストレンジに殺されたと」

冷ややかに言いやると、意に反してしもべ妖精は腹を抱えて声高に笑い出した。

「いい気味だ!ブラックの名を汚す恩知らずな卑劣漢が    ベラトリクス様の手にかかった!なんとまあ    女主人様が、それをお遂げになった!奥様がお知りになったら、どんなに喜ばれたことか    あの男には最後まで泣かされ続けていた、お可哀相な奥様」
    それ以上言ってみろ。私は今、最高に気分が良くないのでね」

脅しを利かせた声でリーマスは低く唸ったが、クリーチャーは甲高い笑い声を休めずにその切れ切れにようやく言葉を発した。

「汚らわしい狼人間!クリーチャーに命令などできない!クリーチャーは誇らしい、ああ、女主人様はブラック家の傷んだ枝を剪定なさった!奥様もさぞお喜びに    
    リーマス、待って」

かなり険悪に顔を歪めたリーマスが杖を構えたので、は右手を挙げて彼を制止してから未だに笑い続けるしもべ妖精を見据えた。女主人様    どうしてこの屋敷に縛られているはずのクリーチャーが、ベラトリクスを知っているのか。

「……あなたがどうしてベラトリクスを知っているの?ベラトリクスがここに来られるはずがないわ    呪縛されているはずのあなたが、ここを出てベラトリクスのところへ向かった?それともナルシッサのところなの?」
「まさか!しもべ妖精が束縛を解いて屋敷を離れられるはずがない    
「それじゃあどうしてこのしもべがベラトリクスを知ってるの!おかしいじゃない!」
「クリーチャーに答える義務などない!汚らわしい混血め    ナルシッサ様の目は欺けても、クリーチャーは知っているぞ!帝王の血筋といってもお前は所詮混血だ!ブラックの名には到底及ばない    

さも愉快そうに激しく捲くし立てるクリーチャーに、杖を構えたは一歩、また一歩と近づいていった。身の危険を感じたらしいしもべ妖精が、ようやくびくりと肩を強張らせて後ずさる。は杖をそちらに向け、呟いた。

「どうやらここ最近のうちに『親愛なるシシー』に会ったことは間違いないようね。聞かせてもらおうかしら    あなたがどうやってそんな芸当をやってのけたのか」
「ク、クリーチャーに答える義務はない!クリーチャーは    クリーチャーは、決して!決して!」
    そう。せっかく自発的に答えるチャンスをあげたのに、生かしてくれないのは残念だわ」

姿くらましをされるかと思ったが、このしもべ妖精はブラック家の屋敷に呪縛されている。命令がなければ外には出られない    はずだ。理論上は。ブラック家の最後の一人が死んでしまった以上、その魔法がどう働いているかは分からないが。
だがそれ以前に、クリーチャーはそんなことをすることすら忘れているらしかった。帝王の血筋だというだけでこんなにも怯えてくれるのなら、悪くない。好都合だった。

杖先をしもべ妖精の心臓へと向けて、はっきりと唱える。

    レジリメンス」