五月のある日、厨房に下りると、シリウスはスネイプが閉心術の訓練を止めたといってひどく憤慨していた。彼を落ち着かせようと必死になっていたリーマスによると、突然暖炉から顔だけを出したハリーがペンシーブで見た父親のことを聞いてきたという。はホグワーツのすべての暖炉が監視されているというのに一体どこからそんな芸当をやってのけたのかそちらの方が気になったが、彼はそのことに激昂したセブルスが閉心術の訓練を止めてしまったということをに語って聞かせた。
「そうだ……私よりも君の言うことの方がセブルスもきっと聞き入れるはずだ。君から彼に守護霊を飛ばしてくれないだろうか。あの子が閉心術を習得するのは他のどんなことよりも大事なんだ」
「それは
分かるけど」
曖昧に返して、は口ごもった。そのセブルスの記憶というのが、OWLの闇の魔術に対する防衛術試験を終えたあの放課後のことだというのだ。自分もその現場に居合わせていたからよく分かる。いや
当時はそれが
本当に意味することには気付いていなかったのだが。あんなものを見られては、セブルスが二度とハリーの顔を見たくないと思っても不思議はなかった。
だが、一体どうしてそんなことが起こってしまったのか。
記憶を保存するのに、ペンシーブを使う必要はない。単に万が一を考えて特別授業の前に記憶を抜いておきたいのならば、瓶詰めにすれば済む話である。それを敢えて憂いの篩に
しかもハリーの目の前でそうしてみせたセブルスの行動には、はどこか意図的なものを感じた。
「……どうかしたのかい?」
黙り込んだに、リーマスが訝しげに声をかける。は食卓に着いて厳しい眼差しでこちらを見ているシリウスを視界に入れないようにして、考えながら口を開いた。
「それは……セブルスも、考え抜いてのことなんじゃないかしら。だって明らかに不自然よ、あの子の前でいちいち記憶を抜き取るのを見せるなんて。まるで僕の記憶を覗いてくださいって言ってるようなものじゃない」
まったく不可解な顔でリーマスは瞬きした。
「……どういうことだい?スネイプが敢えて閉心術の特訓を止めた?」
「あの子にとってそれが本当に必要ならば、彼はそれを途中で投げ出したりしないわ。実際、どれだけ嫌だと思っていてもこれまでずっと訓練を続けてきたわけじゃない。もう半年近くも続けていたのよ、そろそろ教えることが尽きてきたんじゃないかしら」
「でも、それならあの子にそう言えば良いだけの話じゃないか。もう教えることは何もないって。でも、、どうして彼がそんな回りくどいことをしてまで途中で訓練を放棄したように見せる必要があったのさ。それに、閉心術なんてそう簡単に身につけられるものじゃない。成人の魔法使いだって習得できている者はとても少ないんだ」
「分かってるわ、私だってそのうちの一人のつもりよ」
鼻先だけで笑い、わけが分からず眉を顰めているリーマスを尻目にはあとを続けた。
「それを体得した者として言わせてもらえるなら、閉心術というのは他人から教えてもらえることは他の一般的な魔法と比べて少ないの。要は本人の心の問題によるところが大きいから。一旦コツを掴んでしまえば、あとは本人の素質と反復練習のみ。もうあの子には特別授業の必要はないと、セブルスはそう判断したんじゃないかしら」
まだ腑に落ちない様子でじっとこちらを見ているリーマスの後ろから、立ち上がったシリウスが荒々しく声をあげた。
「まだリーマスの質問に全部答えてないぞ。奴は屈辱的な記憶をジェームズの息子に見せることになったんだ。そんなことまでしてどうしてスネイプが訓練を『途中で投げ出した』振りをする必要があったんだ」
「あら
本当に分からないの?」
挑むような彼の口振りに、は冷たく聞き返す。かっと頬を赤くしたシリウスに、平然と告げた。
「帝王は今やあの子の心の中に入り込むことができると知っているのよ?たとえあの子が閉心術を会得したとしても
いつ何時も、最高の開心術士である帝王から意識を遮断できるわけじゃない。もしも帝王があの子の意識を覗きこんだ時、セブルスが必死に閉心術を教える姿が映ったらどうするの?訓練を続けていたことでもし本当にあの子が閉心術を完璧にマスターしたら?今度はセブルスが帝王から疑念を持たれる
彼は闇の陣営に潜入できなくなる。だから切りのいいところで訓練を放棄したように見せかける必要があったのよ。もしもあの子の記憶を覗かれても大丈夫なように。あとはあの子の努力次第ね」
リーマスはどちらともつかない顔で頭を抱えたが、シリウスはフンを鼻を鳴らして椅子の上に座り直した。
「都合の良い解釈だな。全部お前の好意的な見方に過ぎない
どっちにしたって奴はダンブルドアの命令を無視して訓練を止めた。俺が奴に一言言ってやる」
「あなたの言うことを彼が聞くとでも?それに、セブルスのことはあなたより私の方がよく知ってる」
売り言葉に買い言葉
ではなかったが、彼の神経を逆撫ですると知っていて、素っ気無く言いやる。きつく唇を引き結んで眉根を寄せたシリウスから視線を外し、は言った。
「ダンブルドアなら私と同じことを言うでしょうね。そもそも、そう仕向けたのもひょっとしたら彼自身かもしれない」
怒鳴りつけようとしたのだろう
怒りに頬を染めたシリウスが口を開く。だが思い直したように口を噤むと、「勝手に言ってろ」と毒づいてさっさと厨房を出て行った。
ふたり残された空間で、深々と嘆息したリーマスが小さく頭を振る。
「……あんな風に彼の気に障る言い方をする必要はないじゃないか。君がセブルスを擁護したい気持ちは分からなくもないが」
「擁護?勘違いしないで。私は自分の経験に基づいてあくまで公正な意見を言ってみただけ」
「……公正、ね」
リーマスは胡散臭そうに繰り返してから、「とにかく一度、セブルスに守護霊を飛ばしてみてくれ」と言って去っていった。は既に何の跡形もない暖炉を一瞥し、物憂げに杖を取り出す。
「エクスペクト・パトローナム」
杖先から噴き出したのは、天井へと立ち昇らんばかりの滑らかな銀の一筋。はそれに向け、セブルスへの言葉を託した。閉心術の特別授業を止めてしまったのは、正当な理由があったからでしょう?
さほど間を置かずに戻ってきたセブルスの守護霊は果たして彼女の想像通りの答えを呈してくれたが
「二度と俺の部屋で奴の面を見たくないと思っただけだ」
はそれ以上の追及を避けた。分かりきっている。彼が言葉で真実を示さないことは、疾うの昔に分かりきっている。
それに、何度も繰り返してセブルスの守護霊を見るのは辛かった。それを創り出す彼もまた、とてももどかしい思いをしているのだろうと思う。それに比べると私の守護霊はなんと単純なものかと、自嘲気味に笑った。
軽くかざした杖から飛び出した銀色のそれが、自分の周りを取り囲むようにして渦巻く。厨房の椅子に一人で腰掛けたは、それに身体を預けるようにしてそっと目を閉じた。
母さん。
必ず、この手で終わらせてみせるから。
だからこれからもずっと、私の傍で。
あれ以来、シリウスとはまた冷戦状態が続いていた。けれど、以前ほどは気にならなかった。あの程度の諍いはどうということもない。この先もきっと繰り返されるのだ。この戦いを終えるまで、そんなものはいちいち気にしてなどいられない。
六月の末、そろそろ学期末試験だと考えた。最も忙しい時期に、結局私は彼の補助すらできなかった。私がいなくとも彼は子供たちに十分な演習をさせられただろか。早いもので、まだまだ子供だと思っていたあの子たちももう五年生だ。ドラコは監督生の仕事も健気にこなしてくれていた。試験対策は万全だったろうか。今はあの子のことが気掛かりだった。
そしてその日は訪れた。久しぶりに、ダンブルドアが本部に立ち寄るという情報を得た、その夕暮れのこと。
はここのところ本部を留守にすることの多いモリーの代わりに、団員たちの食事を作ることが多かった。疑心暗鬼のマッド-アイはの作った物など食えるものかといって有り合わせの食材を漁っていたが。前回も騎士団にいたメンバーや、教え子のトンクスなども最初は躊躇っていたが、リーマスやシリウス、シャックボルトやアップルガースが進んで彼女の手料理を食べるようにしたので、やがて文句も言わずにそれらを口にするようになった。
そしてその日も、は本部に居合わせたトンクス、シャックボルト、リーマス、そしてシリウスのために大鍋にシチューを作っていた。マッド-アイ・ムーディは倉庫から引っ張り出してきた缶詰を既にいくつか開けてしまっていた。
「それで
どうだ、ここのところ、グレイバックの動きは」
問われたリーマスは、ほとんど空になったシチュー皿にスプーンを立てながらシャックボルトに向き直った。
「ああ……相変わらずさ。次の満月が待ちきれなくてうずうずしてる。場所の移動はまだない」
そうか、と言ってシャックボルトが神妙な顔付きを手のひらの奥に隠したちょうどその時、は素早く守護霊の気配を感じて顔を上げた
セブルスの。誰もがそれに気付いて手を止め、その銀色のシルエットを見上げた。
『ブラックはそこにいるか』
「
どうしたんだ、一体」
彼の伝言を聞いたリーマスが低く声をあげる。わけが分からずに首を振り、同じく不可解な顔をしたシリウスを一瞥してからは立ち上がってセブルスに折り返し守護霊を送った。だがそれに対する彼からの返信はない。
「……ホグワーツで、何かあったんだろうか」
さっぱり状況が理解できず、はリーマスと顔を合わせて口を閉ざした。今度は自分が守護霊を送ろうかと言い出したトンクスに、もう少し反応を待とうとリーマスが告げる。
次にセブルスから守護霊が送られてきたのは、それからさらに十分ほど経った後だった。
『ポッターが消えた。ブラックが帝王に囚われているという夢を信じ込んで神秘部に向かった
すぐに追え、手遅れになる前に』
まさか、そんな。あの子はとうとう帝王の罠に。
反射的に椅子から立ち上がったシリウスは厳しい眼差しでを睨み付けてから、怒鳴り声をあげた。
「だから
だから言ったんだ!奴は閉心術の訓練を止めるべきじゃなかった!」
「シリウス、今はそんなことを言っている場合じゃない
行かないと。今すぐ、神秘部に!」
慌てた様子で立ち上がった団員たちと同じように腰を上げたを見て、リーマスは刺すようにはっきりとこう言った。
「君はもちろん残るんだ
シリウス、君も」
「ふざけるな!ハリーの身が危ないんだ
どうしてこんな時まで、こんなところでじっとしていなきゃいけない!」
声を荒げるシリウスに、リーマスもまた激しい口調で切り返した。
「分かってるのか!君の首には何千というガリオンが懸かってるんだ
その君が魔法省に乗り込むだなんて、それこそどんなに危険なことか分からないのか!」
「俺のことなんてどうだっていい!」
叫び、シリウスは反論の声を大きくした。
「ハリーはヴォルデモートの罠に嵌まって神秘部に向かった
俺が捕まっていると信じて、俺を助けるために!それなのに、どうしてその俺がこんなところでじっとしていられるんだ!俺はジェームズたちからあの子のことを任されたんだ
俺が、ハリーを助けに行かなければいけないんだ!
俺がそうしなければいけないんだ!」
興奮のあまり、彼の声は震えていた。リーマスははっと息を呑み、呆然とシリウスを見据える。
既に杖を取り出して立ち上がっているシャックボルトが、いつもの深い声で
だがどこか焦りの色を滲ませて、言った。
「一刻を争う。リーマス、彼を止めることはできないだろう。それに彼はハリーの後見人として、そうする義務がある」
リーマスはしばらくシリウスを見つめたまま黙り込んでいたが、やがて諦めたように息を吐いて、分かったと呟いた。
でも、と言って、リーマスの眼がを向く。
「でも、君は残るんだ。君だけは
絶対に行ってはいけない」
絶対に。その言葉がぐさりと胸を抉り、は目を細めた。行ってはいけない。君だけは、絶対に。
「リーマスの言う通りだ、。君は奴らの前に姿を見せてはいけない
君はここに残って、後で来るダンブルドアにこのことを伝えてくれ。頼む
」
「キングズリー、早く行こう。こうしてる間にも、ハリーが!」
シャックボルトの言葉を遮るように、トンクスが声を荒げる。苛々と舌打ちしたマッド-アイを一瞥して、シャックボルトとリーマスは顔を見合わせた。
「じゃあ、出発しよう。、後のことは頼んだよ」
「……分かった。
気を、つけて」
こうして死闘に挑みゆく仲間たちを、見送ることしか。
歯痒い思いで、は彼らを本部から送り出した。箒で飛び立つ少し前、シリウスは何か言いたげな面持ちで振り向いたが、結局は口を閉ざしたまま飛び去っていった。
なに、と、もう一度だけ聞いておけば良かった。
やがて本部へと現れたダンブルドアに、は罠に落ちたハリーと、そして彼を救い出すために神秘部に向かった団員たちのことを告げた。厳しい顔をして小さく頷いた老人は、まるで旋風のように、あっという間に本部を出て行った。必ず、ハリーたちを無事に連れて戻るといって。