は読んでいた本を閉じて徐に立ち上がった。彼の言わんとすることを本能的に悟ったからかもしれない。何も言わずに部屋から立ち去ろうとした彼女を、シリウスは厳しい口調で呼び止めた。
「待て」
は大袈裟に息を吐いて足を止めた。彼の横を通り抜けて扉に掛けた右手をそっと握り締め、振り返る。
「なに」
「もう一度
もう一度だけ、話そう。俺はお前を」
「ねえ」
相手の言葉を遮って、は気楽に
あくまでそうと装って、声をあげた。
「
もう、やめにしない?私たち、どうしたってもう子供の頃には戻れないの」
それは本心だった。彼を想う気持ちは、今も確かにここにある。けれど。
シリウスは意表を突かれたように息を呑んだ。
「私がこの手を汚したのは紛れもない事実で、あなたも私もそのことを忘れることはない。私がジェームズとリリーを死なせたという思いはいつまでも私たちの中で燻り続ける。そして私は
決してセブルスの傍を離れない」
ぴくりと、微かに彼の眉が上下した。分かっていた
そのことに彼が最も反応するであろうことは分かりきっていた。
「帝王を打ち倒すその日まで、私はセブルスの傍を離れない。私たちは、一蓮托生
私と彼とは、私たちにしか理解できない重い罪を負っている。だから私は、決してセブルスとは離れられない」
離れてはいけないのだと思う。私たちは、最低の償いを済ませるまで
決して、離れてしまってはいけない。
「だからもしも、もしも私とあなたが縒りを戻しても
またすぐに、同じことの繰り返しになる。あなたを愛してるわ、シリウス。でも私は、セブルスを棄てられない。そしてあなたは、決してセブルスを認めない。私たちはもう、二度とあの頃には戻れないの」
あなたを愛してる。その言葉に唖然とした様子のシリウスだったが、すぐに思い直したように激しい口調で言ってきた。
「そんな……勝手な!俺の気持ちは、どうなるんだ……お前のことが、好きだ。愛してると言ってくれてるお前を……もう、抱き締めることもできないのか。何で……どうして、スネイプなんだ!奴はお前を闇の世界に引きずり込んだ!あいつが、俺たちからお前を奪っていったっていうのに!」
「
ごめんなさい」
目線を落とし、は呟いた。彼の瞳が涙に揺らぐのを見ていられなかった。
「だけどそれは、結果論なの。もう学生時代には戻れない。もしもセブルスがあの時私に声を掛けていなければとか、もしもあの時私にダンブルドアを問い質す勇気さえあればとか。愚かで臆病だった私を振り返っても、もうそんなものは何の役にも立たない。現実を
これからを見るしかないの。必ず帝王を打ち倒す
それだけが、今の私にとって最大の使命だから」
だから。言って、はようやく顔を上げた。
「
散々待たせておいて、言えた義理ではないけれど。でも、私にはこうするより他にないから」
そして抱えた本を脇に下ろし、ずっとポケットに仕舞い込んでいたそれをそっと取り出して彼の前に示す。シリウスは怪訝そうに眉を顰めた。
「もしも、帝王を完全に打ち倒したその時も、私がまだこの世にいれば」
は小振りのムーンストーンが嵌めこまれたその指輪を、静かにシリウスの手のひらに握らせた。
久しぶりに触れた彼の手は、とても冷たかった。けれどほんの少しだけ、汗ばんでいた。
「その時は、私からあなたにプロポーズさせてほしいの」
目を丸くして固まったシリウスに、微かに笑いかける。だがそれはあまりにも、儚い笑顔だった。
「
好きよ、シリウス。セブルスとはまったく別の意味で、私はあなたからもきっと永遠に離れられない」
こんなこと、言うつもりはなかったのに。気付いた時にはぽろぽろと、その言葉は自然と口から溢れ出ていた。
「だからあなたが今でも私を好きでいてくれるのは、とても嬉しいし、ありがたいと思ってる。でも今は、距離を置いてほしいの。私はいずれ……きっと、帝王のところへ戻らなければいけなくなる。彼を倒すまで、私はセブルスとそのことだけに専念していたい」
彼は厳しい顔付きで、さほど間を置かずに言ってきた。
「……馬鹿な!何を言ってるんだ。お前の血は、奴を『無敵の存在』にするんだろう
お前が奴らの手に渡るなんて、絶望的だ。馬鹿なことを言うな
だからお前は、ダンブルドアにここにいるようにと」
「それは、分かってるの。でも……いつかは必ず、戻らなければならなくなる。自分だけの責だなんて、傲慢な考えかもしれないけど、でも」
は彼の手を離し、押し殺した声であとを続けた。
「
これは、帝王と私の闘いでもあるの。最強の闇の魔法使いと呼ばれたあの人と……そして、彼の最後の血筋である、私との」
それは以前から考えていたことだった。私はあのお方の、最後の身内だ。母は父を引き戻すために闇の陣営に足を踏み入れた。母は志半ばで死んでしまった。私こそが彼女の遺志を継いで、最後の『家族』をこの手で。
何かを言おうとして口を開いたシリウスを、は右手をかざして遮った。
「もう、何も言わないで。私のことを思っていてくれるのなら、黙って距離を置いてほしいの。平和な世界で、また出逢う時のために」
自分で言いながら、まるで別れの台詞だと思った。今日も、明日もこれからもずっと、同じ屋根の下で生活していくというのに。後から思い返せば、なんだかおかしかった。
けれどこの時は、他に言うべき言葉が見つからなかった。
自分の手のひらに置かれたシルバーリングを見つめ、しばらく口を閉ざしていたシリウスがやがて顔を上げる。
「
信じて、待っていていいんだな」
信じる。ああ、なんて残酷な言葉なんだろう。私はセブルスの言葉を信じた。結果が、この様だ。いや、彼の言葉に嘘はなかった。彼はそれを『真実』だとして私に語ったのだから。そんな彼に
少なくともあの時ばかりは、罪はない。臆病な私こそに咎があった。
は目を細め、囁くように告げた。
「それは、あなたの自由よ」
信じろだなんて。今更そんなこと、言えるはずがないでしょう。
彼は今にも泣き出しそうな顔で笑った。けれど握らされたその指輪を、黙ってローブのポケットに仕舞い込んだ。
あれ以来、彼はもう個人的なことは何も言ってこなかった。厨房や階段で顔を合わせても、差し障りのない挨拶や言葉を交わしたり、騎士団の情報を共有したり。それは本当に、今までは考えられないような穏やかな関係だった。時折心の中を冷たい風が吹きぬけるような、そんな感覚に襲われることもあったが、自分で自分を誤魔化した。これでいいんだ。帝王を倒した後のことなんて。その時にまた、考えればいい。
呪いの痛みを抑える薬は、週に一度フォークスが運んできてくれた。今までのようにセブルスの調合した
例の、吸血鬼の牙の薬。はそれを、苦々しい思いで服用した。
ダンブルドアがホグワーツから逃走したという知らせが届いたのは、三月の終わりだった。とうとうハリーの闇の魔術に対する防衛術グループが摘発され、彼らがそのグループに『ダンブルドア軍団』という名称をつけていたことから魔法省の追及を受けて逃走したと。ハリーたちの迂闊さと無謀さに腸が煮えくり返る思いがしたが、ダンブルドアはきっと子供たちがその罪を問われるなら自分が、と判断したのだろう。彼は一度だけ、グリモールド・プレイスを訪れた。
「校長!」
その時、本部にはとモリー、ジョーンズ、そしてシリウスとリーマスの五人が居合わせた。ダンブルドアは平生と何ら変わりない顔付きで、に向けて静かに言った。
「大丈夫、君の薬は今まで通りフォークスが運んでくれる。君は何も心配しなくて良い」
「そんなことはどうでも良いのです!それより校長、これから一体どうなさるおつもりですか
」
「そのことも心配無用じゃ。ファッジはわしをホグワーツから追い出したことを、すぐに後悔することになる。なに、ホグワーツはミネルバやセブルスたちがきちんと護ってくれるじゃろうて」
それは……その通りだろうが。
不安げに見つめる騎士団員たちを見渡し、ダンブルドアは穏やかに言った。
「とにかくわしのことは、心配要らぬ。みなもこれまで通り、任務を続けておくれ」
「アルバス
あなたは一体、どこへ」
間髪容れずに訊ねたジョーンズに、彼は気楽な口調で答えた。
「ちと、調べたいことがあってのう」
言って立ち去りかけたダンブルドアを、は慌てて呼び止めた。
「校長!
少し……お話が、あります」
「?何かね」
「……ここでは、少し。お手数ですが、私の部屋まで来ていただけますか」
彼は不思議そうに軽く首を傾げたが、おとなしくの後についてきた。部屋に戻り、慎重にドアを閉めてダンブルドアをベッドの隅に座らせる。は準備してあったその古びた本を手に取った。
そしてその時、彼の瞳が僅かに見開かれるのを見た。
「
先生。ずっと、考えていたんです。帝王は一度、確かに死にました。死んだはずです。彼は撥ね返った死の呪文を浴びた
生きていられたはずが、ありません」
もう、ダンブルドアの青い瞳は普段の落ち着いたものに戻っていた。
「けれど彼は、生きて戻ってきた。あなたは確信していましたね
あのお方が、必ず戻ってくると」
ダンブルドアは何も言わなかった。そしてその眼から、何かを読み取ることもできない。
「私、調べました。帝王にどんな秘密があったのか。ホグワーツの蔵書もすべて漁りましたし、闇の魔術に精通していたはずのブラック家の屋敷にある本も、すべて目を通しました」
一気に捲くし立て、はその本を彼の前に差し出した。
「
見つけました。最後の、可能性を。そしてそれはあの当時の帝王の行動を、あらゆる面から裏付けるものでもあった」
ダンブルドアは口を閉ざしたままだった。彼の目の前でページを捲り、該当の項目をかざしてみせる。
「
ホークラックス」
身震いし、ゆっくりと、噛み締めるように言ったの言葉にも、ダンブルドアは眉一つ動かさなかった。意図的にそうしているのだろうということは察しがついた。
「魂を分断し、その一部を自分の肉体以外の物に宿す……大量の殺人を要します。あのマグルの大虐殺は、ただ帝王がその快楽のためだけに行っていた行為ではなかった
すべてはあのお方が長年焦がれて止まなかった、不死の力を手に入れるために!」
今や激しく捲くし立てるに、ダンブルドアは沈黙を保った。そしてそのことが、彼がすべてを知っていたのだということを物語っていた。
愕然としながら、ようやく声をあげる。
「……ご存知だったんですね。あなたがそのことに気付かないはずがない
どうして、どうして何も言ってくださらないんですか?セブルスはこのことを知っているんですか
」
「すまぬが、。そのことは話したくない」
この部屋に来てから初めて口を開いたダンブルドアは、ひっそりとそう呟いた。開いた本を掴んだまま、思わず身体を後ろに引く。そのまま再び黙り込んだダンブルドアに、は畳み掛けるように言った。
「とても……おぞましい魔法です。あなたが口を閉ざしたくなるお気持ちも分かります。でも、私、思ったんです。先生、もしも本当に闇の帝王が魂を分断し、そして分断されたその魂から蘇ったのだとしたら」
背筋にぞっと悪寒が走るのを誤魔化すように頭を振って、は明瞭に続けた。
「だとしたら、先生、帝王の魂は不完全です。たとえ今は完全な肉体を手に入れたのだとしても
結局のところ、分断されたうちの一つが呪いを受けて死んでしまった以上、帝王の魂は永遠に不完全なままです。あの予言は、そんなことまでは予測していなかったはず
たとえ私の血を取り入れてあのお方がより力を得ることになったとしても、帝王がいわゆる『完全体』になることはありません。もはや私の血など問題ではないんです
必ず、帝王は倒せます。先生、私をセブルスと一緒に帝王のところへ行かせてください」
「
ならぬ」
今度の答えは迅速だった。厳しい眼差しをしたダンブルドアが、顔を上げて諭すように告げる。
「予言は、奴自身の血筋の人間の血を手に入れれば、あやつは『無敵』の存在となるというものじゃ。確かに奴の魂は、今や不完全……じゃが、その『無敵』という言葉の正確な意味が分からぬ以上、安易に君を奴らの手に渡すわけにはいかぬ。君はここで、おとなしくしておるのじゃ」
「……でも!」
ようやく見つけられたと思ったのに。こんなところを飛び出して、少しでも騎士団のために動けることを期待したのに。
「もう……たまらないんです。嫌なんです、こんなところでじっとしているのは。セブルスがたった一人で戦っているというのに、私だけがこんなところで護られているという事実が」
立ち上がったダンブルドアは、俯いたの肩をそっと叩いた。
「分かっておくれ。君が憎くてそうしておるのではない。セブルスのことなら、心配は要らぬ。彼が柔な人間ではないということは、君が一番よく知っておるはずじゃ」
それを一番よく知っているのは、あなたではないのか。
涙の滲んだ眼で思わず睨み付けると、そこでようやくダンブルドアは小さく微笑んでみせた。どうして、どうしてこんな時にそうして笑っていられるのか。穏やかなこの老人にとても腹が立った。とても苛立たしく思い
そしてとても、哀しかった。
もう一度の肩を叩いて、ダンブルドアは風のように去っていった。ここで私にできることは
すべて、終わってしまった。