が戻ってくると聞いた。ダンブルドアの話では、彼女はドローレス・アンブリッジと折り合いがつかず、このままではそう遠くない将来アズカバンに送られる可能性もあり、彼女にはそれだけの口実を与える前科、血筋がある。故に先手を打たれるよりも先に、ホグワーツを離れるべきだと判断してのことだった。吸魂鬼がヴォルデモートの指揮下に入った今、もし彼女が再びアズカバンに投獄されることになれば、それは奴らが彼女を手に入れたことと同義だ。
あいつの呪いを抑制する薬は、今まで通りスネイプが調合したものをフォークスが運んでくるという。結局、俺はあいつに何もしてやれない。あいつには
スネイプさえいれば。
やめよう。そんなことを言ってもどうにもならない。これからはこの屋敷で、嫌でも彼女と一緒に生活しなければならないのだから。
もうつまらないことを言うのはやめよう。あいつは十年以上あの男と過ごしたんだ。どのみち俺が敵うはずがない。
子供の頃、自分に充てられていた部屋のベッドにどさりと倒れ込む。どうして戻ってきてしまったのだろう。こんな家、二度と戻ってくるか!そう叫んで飛び出したのが、まるで昨日のことのように思い出される。
誰もいない。みんな死んだ。あの碌でなしの親父もお袋も、親の言うことを聞くしか知らなかったレグルスも。
馬鹿だ
あいつはどうしようもない愚か者だった。やっと親元を離れたかと思えば、よりにもよってヴォルデモートの。
(どうして、俺の大切なものはみんな……みんな、あの男に)
みんな、あの男が奪っていったんだ。ジェームズもリリーも、レグルスも
も、みんな。
俺は大切なものを、何ひとつ護れずに。
壁に貼り付けた古い写真をぼんやりと眺め、そっと目を閉じる。ジェームズと二人で撮った写真、ルームメート四人で撮った写真、総勢五人の悪戯仕掛け人で撮ったもの、そしてリリーを含め、六人で撮ったものもある。
どれも外せなかった。たとえ裏切り者のワームテールがそこで永遠に笑っていようとも、将来あのスネイプに抱かれることになるが、こちらを向いていつまでも笑顔で手を振り続けていたとしても。
あの頃が、俺たちにとって最高に輝かしい時間だったという事実だけは変わらないのだから。
(棄てられないから……だから、俺は)
込み上げてくる熱を押し隠すように、すっかり冷えた布団を頭からかぶる。と、ちょうどその時、階下からドン!と大きな破裂音のようなものが響き、またいつものようにクソ喧しいお袋の肖像が喚き始めた。
「いっ……た、たた……」
かなり高い位置から突然何の前触れもなく床へと放り出され、身体中を駆け巡った痛みに思わず顔を顰める。煙突飛行よりもひどいかもしれない。あの粉で初めて未知の国イギリスへと投げ出された時のことを思い出して、ははあと溜め息を吐いた。
這いつくばった床から上半身を起こした時には、既にフォークスの姿はなかった。
(……冷たいの)
そりゃあ、あなたは私のペットではないけれど。
フォークスに放り出されたそこは、地下の厨房だった。が床に身体を打ちつけた音がホールまで響いたのだろう、またいつものようにブラック夫人の肖像が素晴らしい奇声で叫びだす。ああ、めんどくさい。厨房に彼がいなかったのは唯一の救いだった。
重たい身体を引き摺ってようやく立ち上がると、厨房の奥へと続く通路からみすぼらしい布切れを纏った屋敷しもべが盗み見るようにこちらを見ていた。
「戻ってきた。闇の帝王の僕だったという女が戻ってきた。闇の帝王の血筋だというのは本当だろうか」
あのしもべ妖精は夏季休暇にここで何度か見かけたことがあるが、まったく相手にしなかったのでその声を聞いたのは初めてだった。階上から響くシリウスの母親の喚き声を飛び越えるつもりで、鼻で笑って声をあげる。
「よく知っていたわね。それとも会議を盗み聞きでもしていたのかしら。あまりいい趣味とは言えないわね」
すると屋敷しもべは一瞬怯えるように身震いしたが、幾分も屈辱的な面持ちでこう言った。
「盗人がクリーチャーに話しかける。レグルスお坊っちゃまのお部屋を荒らす盗人が馴れ馴れしくクリーチャーに話しかける」
レグルスお坊っちゃま、か。が一歩そちらへと歩み寄ると、やはり大仰に震え上がったクリーチャーはまるで何かに押し戻されたように僅かに後ずさりした。
「確かにあなたのご主人様だった彼の部屋には立ち入ったけど、何も盗んでやいないわよ。私が彼の私物を色々と漁っていることを知っていたのなら止めに入れば良かったんじゃないの?あなたたちにはそれだけの力がある」
ホグワーツの厨房にいたしもべ妖精たちが魔法を使うのを見たことはなかったが、かつてルシウスの屋敷に上がった際、屋敷しもべのドビーの魔力を目の当たりにしたことがあった。これだけの力を持っていながら何故魔法使いの下僕に成り下がっているのかと不思議に思ったほどだ。ちょうどその時、ホールのブラック夫人の叫び声が止んだ。
小刻みに震えながらもじっとこちらから目を逸らさないしもべ妖精を見据え、低めた声で問い掛ける。
「……それとも、そんなに闇の帝王が恐ろしい?だから帝王の血筋かもしれない私には手が出せなかった?」
一歩、また一歩、と屋敷しもべに近づく。青ざめたクリーチャーはその大きな耳を両手で塞いで必死に首を振った。
「クリーチャーは何も知らない!クリーチャーは何も知らない!」
その行動には驚いた。こんなにも感情を顕にして恐怖する屋敷しもべを見たことがなかったのだ。
クリーチャーは何も知らない。何も?
「……あなた、まさかレグルスから何か
」
「知らない!クリーチャーは何も知らない!」
半ば悲鳴のような叫び声をあげて奥へと引っ込んだ屋敷しもべを追いかけようとしたところで、いきなり厨房のドアが開いた。
はっとして振り向くと、姿を見せたのは
伸ばしたというよりはそうなってしまったものをそのまま放置しているといった体の黒髪を無造作にまとめた、中年の男。
シリウスは居心地の悪そうな顔で頭を掻いて、厨房の中へと入ってきた。
「ああ……話は、ダンブルドアから聞いてる。夕食は?」
「……まだ、だけど」
「それじゃあ、何か作る」
言って、先ほどクリーチャーの消えた奥へとそのまま入っていく。は呆然とその後ろ姿を眺め、彼の姿が完全に視界から消えてからようやくぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
彼はトーストと目玉焼き、ベーコンにサラダ、かぼちゃスープといった朝食のような夕食を二人分持って戻ってきた。ありがとう、と呟いて食卓に着くと、彼はのちょうど真向かいに座った。
「……いただきます」
「いただきます」
困憊するほどの、静寂。は決して彼の顔を見ないようにと俯き、ベーコンをナイフとフォークで切り分けることに専念した。夏季休暇中はずっとモリーが食事を作ってくれていたので彼の手料理は初めてかもしれない。
「あ……モリーは、今日はいないの?」
下を向いたまま訊ねると、彼はさほど間を置かず答えた。
「今日は用があって隠れ穴に戻ると」
「……そう」
間が悪い。それとも彼女がわざとそう仕向けたのだろうか。大いにありえる。は胸中でモリーへの恨み言を少し漏らして、静かにフォークを動かした。
目玉焼きは彼女好みの固い焼き加減だった。モリーは大抵子供たちの好きな半熟を作る。だが個人的な好みを言うのも気が引けたので、何も言わずにおとなしく食べていた。
まさか……私の好み、覚えていてくれたんだろうか。
学生時代、食事はリリーやニース、女の子たちと一緒に食べることが多かったが、時折彼らと食卓を共にすることもあった。ホグワーツでは生徒の好みを把握したしもべ妖精たちがそれぞれに合った調理法を実践してくれていたが、食事前に我慢ができなくなってお菓子を食べてしまったというピーターが、半熟の目玉焼きを残して隣の席だったに押し付けようとしたことがあった。その時に「絶対いやだ!」とかなり大袈裟に断ったのを覚えている。
でもまさか、ね。
彼はちょうど半熟の黄身を押し潰してトーストに浸しているところだった。
再び訪れた静寂に、固く口を閉ざす。どうしようもない。あんな形で突き放したのだから。
どうしようもなかったでしょう。寂しかったの。忘れたかったの。私にはセブルスしかいなかった。分かってもらおうなんて思ってない。彼らは互いに憎み合っていた。それを分かれだなんて残酷なことは言わない。きっと互いに、一生理解なんてできない。
すべてをさっさと食べ終えてしまうと、はシリウスを待たずに早々に椅子から腰を上げた。彼はまだトーストをかじっている。自分の皿を重ねて持ち上げ、は去り際にやっと口を開いた。
「明日の朝食は私が作るから。あるものを適当に使っても構わないわよね?」
彼は少し驚いたようだった。目を何度か瞬きながら、口の中のものを飲み下して言ってくる。
「あ、ああ……でもお前、料理なんてできるのか」
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。僅かに顔を顰めながら、言葉を返す。
「人並みにはできるつもりでいるけど。そんなに嫌ならご自分でどうぞ」
「いや、悪かった、その……ホグワーツは全部屋敷しもべが作ってくれるだろう、だから」
確かにホグワーツの食事は朝から晩まで何でも厨房のしもべ妖精が作ってくれていた。けれど。
「夏季休暇には大抵家に戻るし、ホグワーツに勤める前はほとんど毎日自炊していたわ。私だって料理くらい覚えるのよ」
言ってしまってから、はばつの悪い思いで脇を向いた。ホグワーツに勤める前
死喰い人時代。騎士団の任務と、帝王からの任務。それらをこなした後、セブルスと二人で戻ったスピナーズ・エンドで。大抵は交互に簡単な食事を作っていた。といってもセブルスは本当に適当な一品物ばかりで、栄養バランスを考えるのはいつもの役割だったが。ここ何年かは、あの家にも戻っていない。
彼が何も言わないので、はそのまま食器を片付け、足早に厨房を後にした。夏季休暇中に使っていた部屋に戻ると、ホグワーツの自室に準備していた荷物が無造作に置かれていた。
良かった
彼女がモリーの作った半熟の目玉焼きを食べる時、少しだけ顔を顰めることには気付いていた。それで思い出したのだ。ああ、そうだ。確か彼女は、半熟の黄身が苦手だった。
ジェームズが話してくれたことがある。彼女は子供の頃、お父さんに連れられて行った動物園で衝撃的な場面を目撃してしまい、以来どうしても生だとか半熟だとかの黄身が食べられなくなってしまったのだと。それを嫌そうな顔をしながらも何とか食べるようになったのは、彼女が大人になったということだろうか。それとも自分の知らないうちにそれを克服したか。
だから今日は、意識して目玉焼きを固めに焼いてみた。程よい半熟焼きを作るよりも楽なので助かった。そして彼女は嫌そうな顔ひとつせずにそれを綺麗に食べてくれた。
素直に嬉しかった。だがそれを伝えるのは押し付けがましい。何も言えない。俺はまた何ひとつ、彼女に伝えられずにいる。
アズカバンから脱出し、彼女に再会して十数年前の真実を聞いて以来、ずっと葛藤してきたことだった。あの時俺は、どういった結論を導き出した。彼女の犯した罪は憎い。彼女の手が奪い去ったものを思い返すだけで身体中に震えがほとばしるほど憎々しい。だがそれらをひっくるめてもなお、彼女のことを求めていると知ったのではなかったか。
彼女がスネイプと関係しているということは十数年前のあの頃から察していたことだった。騎士団で再会した彼女もまたそれを否定しなかった。俺はそれを知っていたはずだ。知っていてもなお、彼女と共にいたいと決めてあの指輪を渡したのではなかったか。俺の気持ちは今でも変わらないと。
だが、実際に彼女がスネイプと二人で部屋にいるところを見ると居ても立ってもいられなくなった。ましてや、彼女は
今はもうスネイプとは何もないと断言した彼女が
奴の、前で。
たまらなかった。噴き出す嫉妬と憤怒を抑えられなかった。何もないと言ったじゃないか。何もない男の前で、お前は裸になるのか。冗談じゃない
それならもう、勝手にしろ。
けれど、どれだけ忘れようとしても、捨て去ろうとしても。そんなことは所詮、不可能なのだ。十数年も棄てられずにいたものを、そう簡単に忘れてしまえるはずがない。
いや、正確にいえばそんなものではない。俺はもうあの頃からずっと、彼女にすべてを支配されていた。
あのジェームズをあんなにも容易く虜にした彼女から、ずっと目が離せなかった。
考えるだけで涙が出てくる。どこで道を誤ったのだろう。あんなにも幸せな毎日を、みんなと一緒に築いていたはずなのに。
それともあれは、ホグワーツという鉄壁に護られた束の間の楽園に過ぎなかったのか。
(……楽園……)
だとすれば。
彼女は今、幸せなのだろうか。