「……今、何と」
聞こえなかったわけではない。聞こえなかった振りをしたかったわけでもない。どのみち聞き返せば、この老人は同じことを繰り返すだろう。どうにもできない。この老人の決定は
決して、どうすることも、できない。
は身体の前で重ね合わせた両手をきつく握り締め、押し寄せる絶望感に軽い目眩を覚えた。
その日、は夕食前に校長室へと呼び出された。ダンブルドアと一対一で顔を合わせるのは久し振りだ。何か不吉なものを感じてはガーゴイル像の許へと急いだ。
真実薬に中和剤を入れることに失敗したに、セブルスは非難がましい眼差しをくれたが特に口煩く言ってくることはなかった。どのみち飲まされるとすればハリーだろうから、半ばどうでも良いとでも思っているのかもしれない。とんでもない。彼が真実薬を服用することになれば騎士団の秘密が漏れてしまう可能性が大いにある。何とかしてアンブリッジの部屋に潜り込まねばとは焦っていた。
「ダンブルドア校長、です。失礼します」
ノックを二つしてからドアを開けると、ダンブルドアは机の向こうに座って早く扉を閉めるようにと手振りで示した。慌ててドアを閉め、彼の許へと歩み寄る。
「何か御用でしょうか」
早々に問い掛けると、ダンブルドアはまるで世間話のような軽い口振りで言ってきた。
「うむ、先にセブルスに伝えようかとも思ったのじゃが、直接君に言った方が手間が省けるじゃろうと思うての。クィリナスの考案でセブルスが作っておるという例の薬の件じゃ」
「は……はあ。校長がわざわざ余所から材料を入手してくださっていると伺いました。お心遣い、感謝します」
「そのことは良いのじゃが」
言って、ダンブルドアは僅かにこちらから視線を外した。
「実は、その肝心の吸血鬼の牙がこれからしばらくは入手できなくなりそうなのじゃ」
思ってもいなかったことを聞いて、は目を瞬いた。
吸血鬼の牙が入手できない?それじゃあ、例の薬が
。
「ど、どうしてですか?あの……貴重な材料であることは知っています。図々しいことは重々承知です。ですが、それを提供してくれる吸血鬼さえいれば、牙は定期的に生え変わってきます。これまで半年近くもそれを提供してくれていた吸血鬼がいるのなら、どうして
」
「うむ、それがのう。わしの古い友人じゃった吸血鬼のエーリャンが、ここのところ牙を提供してくれるのを渋っておってのう。なかなか割りの良いレートで買い取ってくれる店舗を見つけたらしい。彼としてはそちらと取り引きする方が当然嬉しいというわけじゃ。新たに提供してくれる吸血鬼を見つけるまでは
」
「で、でも
」
は躊躇ったが、意を決してそれを口にした。
「あの薬がなければ私はこの城にはいられません。呪いの痛みがどんどん強くなってくるのが分かるんです
あの薬があるから、私は自分を保っていられる。ここで今までのように働くことができるんです。お金が必要ならできるだけのものは出します。お願いです、その吸血鬼と交渉を続けてください」
ダンブルドアは目を細め、仰ぐように視線を上げて何かを考え込んでいた。
そんな彼の様子を見て、ふと思い当たった。まさか
。
「
先生。嘘も方便ということですか」
ダンブルドアは少しだけ驚いたようにこちらを向いたが、すぐにまた真顔に戻ってじっとの顔を見据えた。深い、吸い込まれそうなほど青い瞳。私はきっと、一生この眼から離れられない。
「そんなに私にあの屋敷へ戻って欲しいのですか。申し上げたはずです、私はセブルス・スネイプ教授を補助するという仕事を放棄するつもりはありません。そのための薬です、私からそれを取り上げるおつもりですか」
ダンブルドアは終始無言のまま、ずっとから目を逸らさなかった。ずるい。そんな眼で見つめられたら、ノーと言えなくなってしまうというのに。セブルスもまたこの瞳に弱いのだということをはよく知っていた。
だが負けじとこちらもきつく口を噤んでいると、ようやく小さく息を吐いたダンブルドアが言った。
「……なにも、永久的にというわけではない。アンブリッジ先生がこの城におる限りは、じゃ。気付いておろう?彼女は随分と君のことを注視しておる」
「それは……でも私がいなくなれば、あの女は確信を持つことになります。私がアズカバンを脱獄した彼らを集めて一斉蜂起を企んでいると。そんなことになればまた厄介な
」
「厄介事は既に起こっておる。それに魔法省は、決して君のことを公にすることはない」
彼があまりに強い調子でそう言うので、は不審に思って訊き返した。
「なぜそう言い切れますか。アンブリッジは私と国民のためにそうしていると言いましたが、そんなものは方便です。そんな重大な事実を隠していたことへのバッシングが怖いから
ですが私がかつての死喰い人を集めて蜂起したとなれば話は別です。帝王復活から世間の目を逸らす恰好の餌にも」
「いずれにせよ、君の存在は彼女にとっては刺激が強すぎる。少しの間だけ
距離を置いてもらいたいのじゃ」
あまりに呆気なく話を戻されて、は唖然としてダンブルドアを見つめた。止めを刺すように、老人は続ける。
「
君の存在が、この城により複雑な混乱をもたらしておる」
信じられない思いで、はぼんやりと廊下を歩いていた。あの薬が完成して以来、まさか再びあの屋敷に送り返されることになろうとは夢にも思っていなかった。もう新学期が始まって半年だ。どうして今更。
だが自分の存在がアンブリッジを刺激して、次から次へと新しい教育令が発令されていくことには気付いていた。それをダンブルドアの口から、あんなにもはっきりと聞かされることになろうとは。
甘かったのだろうか、私は。ただ自分の償いのためだけに、この城中を混乱に陥れた。子供たちを、何の関係もない教員たちを巻き込んだ。
アンブリッジに噛み付くシニストラのことを思い出し、はうんざりと嘆息した。どこにいても、結局は私は。
だがこのまま立ち去るわけにはいかない。ポケットから中身の入ったガラス瓶を取り出し、は足早に階段を駆け下りた。
「
フレッド・ウィーズリー、本日の調合のことで話があるの。残りなさい」
ぎくりとして、フレッドは思わず開いた口元を引き攣らせた。おかしい。今日の調合は完璧だったはず。それなのに何がどうしてどうなってあんな盛大な爆発を遂げてくれたのか。
それに、たとえどんなにお粗末な調合をしたってスネイプやはレポート課題を増やすだけで、決して補習や居残りを課すような連中じゃないのに。おかしい、今日は絶対に何かがおかしい!
ジョージやリーは憐れむような眼差しでこちらを一瞥したが、すっかり出来上がった自分の若返り薬を意気揚々と試験管に入れた。ちくしょう、何で俺だけ!
フレッドは完成寸前でなぜか無残に爆発してしまった自分の大鍋の底をヘラで軽く削ぎ、付着したそれに気付いてあっと声をあげた。
「先生!これ、僕の大鍋にこんなものが入ってました!これ、絶対誰かがわざと入れたんですって!なあ、ジョージ、俺の若返り薬は完璧だったよな!」
だが魔法薬学助教授は他の生徒たちの試験管を受け取りながら、無慈悲にもこんなことを言ってのけた。
「あなたがそんなことを言うなんて笑えるわね。大方誰かの大鍋に入れようとしていたのを誤って自分の鍋に入れてしまったんでしょう。いいからとにかく残りなさい」
それを聞いたスリザリンの連中は隠しもせずに冷やかし笑いをし、グリフィンドール生までも小さく噴き出して大鍋を片付け始めた。お、俺がそんなヘマをやらかすとでも思うか!屈辱だ、これ以上の屈辱はない!
みんながすっかり帰ってしまうと、教室には俺とだけが残った。ああ……息が詰まる。なんだってこんな、こんな陰気な蛇女と!俺の調合は完璧だった!
は提出された試験管を箱の中できちんと揃えてから、取り出した杖を振って教室の扉を閉めた。な、なんだよ、そんなに改まって。まさか……騎士団の何かだろうか。いや、そんなことは関係ないはずだ。
はやたらと神妙な面持ちで、内緒話でもするかのように声を低めて囁いた。
「心配しなくて宜しい。あなたの若返り薬が完璧だったのは私も見ていたから」
「はあ、それはどうも……て、は?」
いきなり不可解なことを言われて、思わずポカンと口を開けてしまう。それなら、どうしてあんなことを……一体何が言いたいんだ。
「だからあなたの成績には相応のものをつけておくわ。それよりもあなたに
正確に言えばあなたたちに、お願いがあるの」
「は?あの……仰っている意味が、分からないんですけど」
するとは大袈裟に溜め息を吐き、面倒臭そうにじとりとフレッドを見た。
「意外と物分りが悪いのね。あなたの大鍋に鉄くずを入れたのは私よ」
「はあ、それはどうも
て、はあ?」
今度こそ徹底的に打ちのめされた思いで、声を荒げる。が
俺の完璧すぎる出来映えの若返り薬に、あのゴミを投げ入れた?
「な、何でそんなことを……先生が、そ、そんな横暴、許されると思ってるんですか!いくらなんでもひどすぎます、何の権利があって
」
「だからあなたの成績にはそれなりの評価をつけておくと言ったでしょう。ごめんなさい。でもあなたと授業科目に無関係な話をするにはこれしか方法がなかったの」
ま、まったく意味が分からない。確かに教員が給料をもらっている科目以外のことを生徒に教えるのは教育令第ウン条で禁止されていたはずだが
そこまでしてが俺に頼みたいことって。青天の霹靂とはまさにこのことだ。
続いてが口にした『お願い』は、またさらにフレッドを文字通り引っ繰り返らせるには十分だった。
下準備は整った。もちろんセブルスには黙っている。
は今夜、フォークスの導きでホグワーツを離れることになっていた。ダンブルドアによると、身体の不調がぶり返したので休職することにした、ということにするらしい。セブルスは「お前がいなくなれば余計な心労を抱えずに済む」と軽く言ってのけるし、マクゴナガルもあなたは本部で身体を休めるべきだと言った。
どうせ、そういうことなのだろう。この城では、誰も私を必要とはしていない。
最後の安らぎを求めるつもりで、はハグリッドの小屋を訪ねた。
「今夜出るんだってな。それがええ。お前さんは呪いのこともある、こんなとこで無理しとって、そんでもしものことがあったら」
はそれには答えず、出された紅茶に口をつけてから先ほど庭で摘んできた草の根を選り分けているハグリッドを見た。
「ところであなたはどうしたの?その傷……なんだかどんどんひどくなっていってるようだけど」
ぎくりと滑稽なまでに大きく反応して、ハグリッドは椅子の上で慌ててこちらに背を向けた。そんなことをしても彼の身体中を覆う生傷は至るところから覗いているというのに。
「まさかまた危なげな生物を飼っているのなら……止めておきなさい。今、敵はホグワーツ内部にもいるのよ。あの女はあなたを停職にする口実を決して逃さないわ」
だが振り向いたハグリッドは痛々しい顔でにこりと笑い、大丈夫だと若干弱々しい口調で言った。
「じゃあまたね、ファング」
元気よくじゃれてくるボアハウンド犬の頭をくしゃくしゃに撫で、は祈った。再び平和なこの空の下で、大切な人たちに出逢えることを。
「な、今、何て……」
「聞こえなかった?上階で、ほんの五分でいいの。時間稼ぎとなるような騒ぎを起こして欲しいと言ったのよ」
の唐突の『頼み事』に、フレッド・ウィーズリーは間の抜けた表情で固まった。こうして見るとやはり末の弟にそっくりだ。そんなことはどうだっていいが。
は硬直したまま動かないウィーズリーに向けて、言い聞かせるようにあとを続けた。
「これは私のためじゃなく、あなたたちのためだと思って聞いて欲しいの。私は近いうちにこの城を離れなければならない。でもその前に、しなければならないことがある。アンブリッジ『先生』の部屋でね。そのためには、ほんの五分でいい。彼女を部屋から引き離しておく必要があるの」
ウィーズリーは皿のように見開いた眼でじっとこちらを凝視している。はさらに言った。
「私がもう少し若ければ、こんなことを頼まなくても済むんだけれど
あなたたち双子の能力を買って、こうしてお願いしているのよ。それにここのところ随分おとなしくしているようだから、身体が鈍っているんじゃない?」
まるで天地が引っ繰り返ったかのような顔をして動かないウィーズリーに不敵に微笑みかける。ようやく口を開いたウィーズリーは、上擦った声で呆けたように言った。
「そ、そんなこと……先生が、生徒に規則を破れっていうんですか?それに、後で先生がその僕たちを罰しないって保証がどこにあるんですか?」
「あなたたちの能力を買っていると言ったでしょう。捕まらないだけの技量があなたたちにはある。それを信用していると言っているの。それから、そんなに私が信じられないというのなら」
言って、は教卓の中から抜き出した羊皮紙の端を小さく切り取った。それを左手で軽くかざし、取り出した杖を羊皮紙の中心に当てる。
まさか、と目を瞬いたウィーズリーの前で、は二、三語の短い呪文を唱えた。
するとボッと音を立てて羊皮紙から蛇のように立ち昇った青白い炎が、天井を焦がすようにして燃え上がった。あとにの手元に残ったのは、何事もなかったかのように綺麗なままの羊皮紙の切れ端。
はそれを、呆然と立ち尽くすウィーズリーの手に押し付けた。
「魔法使いの家系に育ったあなたならそれが何か分かるでしょう。私は後になってあなたたちを決して咎めない。だから、何も聞かずに
五分でいい、アンブリッジを部屋から引き離してちょうだい。どんな手を使っても構わないから
もちろん、あなたたちの道徳心を信用してのことよ。私は教師としてあなたにこんなことを頼んでいるわけじゃない。『騎士団員』の一人としてお願いしているの」
『騎士団員の一人として』。その言葉が効いたらしい。ウィーズリーはの作った魔法の契約書をしばらくじっと見つめた後、渋面で「分かりました」と呟いた。
今日がその、約束の日。
ウィーズリーには夕食前の六時を指定しておいた。アンブリッジの部屋は二階。騒ぎは八階で起こすつもりだという。保証できる時間は、十分。
(十分だわ)
ハグリッドの小屋を出たのはちょうど六時十分前。このまま戻ればいい時間になるだろう。あの双子がアンブリッジを部屋から引き離しているうちに、真実薬を見つけ出して中和しておく。それがこの城を去る前に私にできる、唯一の仕事だった。そのままフォークスに掴まってホグワーツを離れる。
騒ぎを起こさせるだけ起こさせておいて自分は逃げるだなんて。無責任にも程があるが、だがあの二人なら。私の心配など要るまい。彼らはあの悪戯仕掛け人にも匹敵する、強力な悪戯坊主なのだから。私はそう信じている。
正面玄関に足を踏み入れたちょうどその時、城中を揺るがすような
ドーン!という爆破音が響き渡った。
「な、何!」
辺りにいた生徒たちが突然のことに悲鳴をあげる。吹き抜けになった階段の上方から、花火の燃え滓のようなものがぱらぱらと降ってきた。
やった
本当に、あの二人がやったのだ!
は双子の騒ぎによって生じた喧騒に乗じてそのまま階段を駆け上がった。上へ上へと向かうごとに、騒ぎの正体が何なのかに気付く。全身が緑と金色の花火でできたドラゴンが何匹も、階段を行ったり来たりしながら火の粉を撒き散らし、バンバンと大きな音を立てているのが見えた。
「フィルチ!これは一体どういうことなの!」
「わ、分かりませんアンブリッジ先生!」
慌てふためいたアンブリッジとその後ろに金魚の糞のようにくっついたフィルチが階段を駆け上がっていく。は双子の所業に心底感服しながら、難なくアンブリッジの部屋に飛び込んだ。
部屋は先日お茶に誘われた時とほとんど何も変わっていなかった。ただ大慌てで出て行ったのだろう、机の上には魔法省の物と思しき書類の山が散らかっていた。本当ならばそれらもゆっくりと見てやりたかったが、今は時間がない。十分だ
十分以内に、真実薬の瓶を見つけなければいけない。
目的のものを探している間にも、部屋の外では花火の破裂音が引っ切り無しに続いていた。まだ大丈夫だ。あの双子は、本当にやってくれる。
探し始めると、見慣れた真実薬の瓶は思いの外すぐに見つかった。奥の棚の引き出しの中
無造作に、ぽんと。のコーヒーによほど多くを使ったのか、既に中身は半分ほど減っていた。
帝王ですら三滴で十分だというのに!どれだけもったいないことをしてくれたのか。
どのみちこれから中和薬で駄目にしてしまうのだから、どちらでも大差ないかもしれないが。真実薬は成熟するのに最低一ヶ月を要する。最も複雑な薬のうちの一つだった。
ポケットから取り出した中和剤を加えて、五回ほど混ぜる。これで十分だろう。たとえハリーの口に入っても、何の効果もないはずだ。
これでもう、この城に用はない。あの屋敷に戻って、調べ直そう
そして今度ダンブルドアに会ったら、そのことを確認してみよう。
ゆっくりと立ち上がったその時、花火の音が止んでいることに気付いた。時計を確認して、はっと息を呑む。十分が過ぎた
まさか、終わったのか。
「まったく、一体誰が、あんな悪ふざけを……」
アンブリッジの声が次第に近づいてくる。まずい!
慌てて立ち上がり、扉へと向かおうとしたの視界を、突然紅の何かが掠め通った。そこに
不死鳥のフォークスがふわりと降り立つ。
「犯人が分かったら、ただでは済ませないわよ
」
アンブリッジが毒づくと同時に、部屋のドアが開く。
その時には既に、フォークスの金色の尾に掴まったは炎とともにホグワーツから消えていた。